第22話 ニューロダイバーシティ

「お父さんはどこだい?」


 お婆ちゃんは、食事の残りを食べ終わると、再び思い出したように、今日何度となく聞いたフレーズを口にする。

 分からなくていい、とはいったものの、時間はナニカを解決してくれるわけでもない。

 健康、最期、自分らしさ、様々なことを総合的にちょっとずつ考え話していく必要があるんだろう。

 どんなに準備したって、どんなに向き合ったって、きっと分からない、それでいいのかもしれないけれど……


「そろそろご飯の時間かね?」

「お袋さん、今食べたばっかりじゃないか」

「……そうかい」


 お婆ちゃんのことを知ろうとすればするほど、なんだか分からなくなってくる。

 新渡さんになら、身近な人になら分かるものなのかと僕は勝手に思い込んでしまっていたが、それは僕の都合のいい思い込みだった。

 新渡さんだって分からない、悩んでいる、向き合おうとしている。

 知れば知るほど無知だと悟る。知恵を欲すれば欲するほど無知だと気付くんだ。分かれば分かるほど分からなくなってくるんだ。


「それでご飯はどこにあるんだい?」

「お袋さん、だから今食べたばかりなんだよ? ほらここに空の茶碗が置いてあるだろう」

「……そうかい」


 お婆ちゃんは、不思議そうに疑うようにお茶碗を見ている。

 頭ごなしに結果だけ伝えても伝わらない。理解するプロセスが大事なのかもしれない。じゃないと、見えている世界が、聞いてきた世界が、嘘であろうが真実であろうが、きっとまたお婆ちゃんは彷徨い続けるんだろう。

 プロセスを抜かしてアウトカムだけ求めようとしたって、伝えようとしたって、そんなのは中身がない、安心なんてきっと存在しないんだと思う。


「お袋さん……これを見てくれよ」


 新渡さんは、スマホをお婆ちゃんに見えやすくするように持っている。


「なんだい? これは」


 お婆ちゃんは、顔を顰めてスマホを覗き込む。


「親父さんの葬儀の時の写真だよ……お袋さんも写ってるだろ?」

「……そうかい。お父さんはね。単身、北海道からここに来たのよ。私たちの頃では珍しかった。この辺も田んぼだらけよ。お父さんは、下宿しながら弟子入りして会社を起こしたのよ」

「あぁ……親父さんは本当すごい人だよ」

「お父さんは、仕事一筋だったからね。どこかいくとかなんてほとんどなかったのよ。でも市長さんに表彰されたりね。表彰状もいっぱいあったのよ」


 お婆ちゃんは、今回は手を上げずに冷静に悲しげに写真を見つめながら喋っている。

 分かっているのか、目を背けようとしているのか、また他のことと混ざり合ってしまっているのか、それはわからないがお婆ちゃんは、お爺ちゃんとの記憶をとても鮮明にはっきりと話してくれている。

 本人にとっては自分の認識してる世界が全て、いくら事実を伝えようとしても、嘘を言われてるんだと思われてしまうかも知れない。

 お婆ちゃんは、記憶が薄れていくのを自覚しながら、事実か嘘か分からない中で安心を求め彷徨っている。


「これは、ゴダイの時の葬儀の写真だよ……」

「そうかい、そうだったかね……ゴダイはね、お父さんの会社を一段と大きくしてくれたの。一緒に汗流してね。バイク乗り回してたあの子が大したものよ……」

「あぁ、バイクは俺も一緒に乗り回してたからな。あの時はヤンチャだった。悪ぶるのをかっこいいと思ってたからな」

「ゴダイが会社に入るって言った時のお父さんの嬉しそうな顔、そうだよ、登次が会社に来るようになった時も同じような顔をしてたものさ」


 お婆ちゃんは力なく静かに言葉を発している。なんだか折り畳まれた皺が際立って見えてくる。

 まるで、挟んでいた栞を見つけたかのような、折り畳まれていた思い出をめくりながら読んでいるかのような、そんな感じを受ける。

 お婆ちゃんの見ている虚構を、一緒に嘘で塗り固めてあげることは安心にはつながらないだろう。

 お婆ちゃんにわかる、理解できる、伝わる言葉で、五感で、気持ちで、様々に表現しながら少しずつ対話を繰り返していくことが安心につながるのではないだろうか。

 記憶は定着しなくても、感情は残っていってくれるのかもしれない。


「……そうか、親父さんは嬉しそうにしてくれてたのか。親父さんもゴダイも俺の尊敬する人たちだ。お袋さん、俺はきちんと向き合おうと思うよ。認知症だからもう会話は成り立たない、自分では決めれないとは決めつけない。勉強もする。専門家ともきちんと相談する。それで少しずつ決めていきたい、考えていきたいと思う。お袋さんも自分も納得する道を」

「……難しいことはよくわからないよ、歳はとりたくないねぇ」


 お爺ちゃんの最期の言葉によってか、2人の人生会議によってか、新渡さんの目はとても真っ直ぐだ。

 過去の記憶は徐々に萎縮していき、今感じている、見えている現在の記憶も定着しにくくなっている中で、お婆ちゃんは、常に瞬間瞬間を新鮮に一生懸命に困惑して生きている。

 自分独りではきっと心細い、限られた記憶にすがり、事実と虚構の区別のない世界を彷徨っていることはとても残酷だろう。

 そこにはきっと、記憶をつなぐ、想起させる、かけらを埋めるトリガーとなるキーパーソンが必要なんだと僕は思う。


「お婆ちゃん、分からなくても大丈夫だと思うよ」


 リコは、鈴を静かに鳴らしながらお婆ちゃんに優しく声をかける。

 目が悪い人には眼鏡を、足を失った人には義足を、大衆に最適化してきた世界では大衆を大衆たらしめるために適応させていく道具が蔓延っている。

 認知症の人を大衆化させるためには何が必要か。

 多様性が注目される中、マイノリティは個性なのか、マジョリティは健常なのか、目の前にいる認知症のお婆ちゃんは、その人生のプロセスを知らない人たちからしたらどう映るのだろう。

 お婆ちゃんは、分からなくていい、分からないながらにお婆ちゃんを慕う人達と曖昧な虚構を組み立てていけばいい、そこには分からなくていい看取りがあるのだと僕は思う。


「お袋さん、まだ親父さんを探すかい?」

「分からないよ、もう私は、最期を待つだけだからね」


 お婆ちゃんは、ブラックジョークを言いながら、ヒャッヒャと笑い出している。

 多要素の中から健康の、生き方の、自分らしさの最適解を見つけられればいいのか、見つけられなかったとしてもいいのかもしれない。

 僕らは、何でもかんでも、白黒つけ過ぎようとしているのかもしれない。分からなくてもいい、

 決めつけようとするのは、僕らのエゴなのかもしれない。分からないなぁと笑い合えるくらいがちょうどいい。


「あぁ……分からなくていいよ、一緒に話そう」

「……ホンカイ。あんたに任せるよ」


 儚く悲しげで、歴史と重みを漂わせているそんなお婆ちゃんの表情は、なんだか見ていると安心してホッとする。

 お婆ちゃんも、きっと少しは安心してくれているんじゃないだろうか。

 僕には、お婆ちゃんの皺に畳みこまれている顔は、笑ってないけど笑っているように見えた。笑ってるか分からない笑顔、そんな笑顔もあるんじゃないかと。

 健康観とか死生観のようなものは曖昧なままでいい。分からないながらに行動できる余白を保っておければいいのかもしれない。


「お婆ちゃん、そろそろ帰るね」

「そうか、今日は色々とありがとうな」

「もう帰るのかい、私も帰ろうかねぇ」


 お婆ちゃんは、また違う時間軸に飛んでいってしまっていそうだ。それはお爺ちゃんがいる頃なのか、ゴダイさんがいる頃なのか、はたまた別の時間軸なのか。

 お婆ちゃんは、大切な何かを探し続けているのかもしれないし、大切な何かに会いにいくための準備をし続けているのかもしれない。曖昧なものには都合のいい物語を添えた方がきっといいんだろう。

 僕は、お婆ちゃんの言葉を大切にしたい。ミサンガをさすりながら覚悟を心の中で誓った。

 

 そして、僕らはお婆ちゃんの家を出た。


「……お婆ちゃんの表情は、なんだかスッキリしてるように見えたね。あの表情が続くなら、お爺ちゃんを探す回数も減っていってくれるんじゃないかな」

「お爺ちゃんを探して彷徨い続けて、お婆ちゃんはきっとナニカを見つけられたのかもしれない」


 分からない、だから補い合い、話し合う。きっとそれが多様で複雑に入り組んだ世界の歩き方なのかも知れない。

 笑顔だって、楽しくあるべき、幸せであるべき、と自分の中で凝り固まったナニカに引っ張られすぎてしまっているのかも知れない。

 笑顔だって多様だ、リコの笑顔は、きっと僕の知らない笑顔、分からない中で彼女の笑顔を引き出していかなきゃいけないんだ。

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