第13話 色即是空

「マ……マンタ君!」


 この寒空の下、おそらく急いでいたんだろう。

 お母さんは、上着も羽織らずにいる細身の身体で、震えながら玄関から駆け寄り、部屋の入り口に立っていたマンタを強く抱きしめ、服を握りしめている。

 その冷たい体での抱擁とは裏腹に、マンタにとってはとても温かく包まれるように、優しさと安心感で溢れていたのだろう。

 マンタの目からは今日1番の大粒の涙が溢れ始めている。


「ママ……ごめんなさい。ボク、こわくなって、でも……もうダイジョブになった」


 マンタは、泣きながら振り絞った声を吐き出し、心配そうな顔をしながら、お母さんを恐る恐るみつめている。

 お母さんも、涙を浮かべながら、心配そうな顔のマンタを見て優しく微笑んでいる。


「ううん、ママの方こそごめんなさい。私も怖かったの。急に色んなことを理解しようとしなきゃいけなくて、なんであなたのことを忘れてしまってるのか、私はどんな母親だったのか、本当にごめんなさい、ダメなママで……」

「マドカさんは悪くないよ、パパの方こそ、頼りなかった、こんな時こそ、一番しっかり支えてやらなきゃいけなかったのに……」


 お父さんも、抱き合う2人にかぶさり手を添えている。

 1週間前の井ノ瀬さんたちと、今の井ノ瀬さんたちを見比べても、外見上は何も変わらなくみえるのだろう。

 でも、きっと外見以外のものは様々なことが変わっている。それでも、井ノ瀬さんたちは、変わらずに家族のままなんだ。

 家族はやっぱりいいもんだ。僕は、ミサンガの辺りをぽりぽりかきながら感懐を重ねた。


    ◇


「ママ……ボクのことイヤじゃない?」


 リビングに戻りお母さんにも僕らのことを話しはじめた。

 塀の上でのマンタの話をしてる時に、マンタは思い立ったように顔を上げ、手を口元で動かしながらもお母さんの顔を見て真剣に問いかけている。


「そんな! 嫌いだなんて、むしろ嬉しかったの……ううん、正直混乱してたかもしれない。状況についていけなかった。私達の子になってくれたマンタ君、忘れちゃってるけど頑張ってくれてた私、それまで支えてくれてたパパ、みんなありがとうって言いたい、だからこそ思い出せない、忘れてしまっている自分が1番許せないの……マンタ君にあの日会った時も……本当に母親失格よ」

「マドカさんは、マンタのためにデザイナーもやめた。むしろ、マンタのために自分の時間を全て使おうとしてたんじゃないかってくらいに……記憶がなくなったってその事実は無くならない。なくなるはずがない。母親失格だなんて……そんなことはありえないよ!」


 お母さんは、涙を浮かべる。マンタの目からもこぼれ落ちる涙、お父さんは2人の涙を指で拭き取ってあげている。

 家族は、1人では成り立たないと思う。井ノ瀬さんたちでいうなら、お父さん、お母さん、マンタが揃って成り立つものだろう。

 お母さんの記憶がなくなったって、マンタとお父さんがそれを望むなら、それを信じるなら、それはお母さんであり家族なんだ。


「忘れても……見えてなくても……そこにある。そこにはないけど、そこにある」

「リコねえちゃんなんていったの?」


 マンタの気持ちもわかる。

 元々僕は妄想族ではあるけど、リコといると何故か色々考え込んでしまう自分がいる。

 見えるものと見えないもの。形あるものと形のないもの。

 確かに、記憶を無くそうが僕にとってリコはリコだ。三鹿野さんたちに再び会った時たとえ忘れられてたとしても、それは悲しいけど、僕の中では変わらぬものだ。

 リコが笑ったら、笑えたら、リコの中も変わるだろうし、僕の中も変わるだろう。


「ごめんね。私もよくわからないの。マンタ君も、お母さんも、お父さんも。みんな素晴らしい人。悲しいこともあったかもしれないけど、とても羨ましい家族だなぁと思って。私も昔を思い出していたの」

「ボクがワルイことしてなかったら、ママおっきいこえださなくてよかったし、アタマもいたくならなかったかもしれないのに……」


 昔……か。

 お母さんが記憶をなくした時のことはもはやわからない。マンタは、前を向こうとはしてても、自分のせいでママは記憶をなくしてしまってるんだと思い込んでしまっている。

 マンタのせいかどうかはあまり意味のないことだ。それよりも悲しいことだからこそ、少しでもプラスに、ポジティブに明るく捉えられるようになれればいいと思うのに。


「お母さんは、きっと、マンタ君を助けようとして頭を打ったんじゃ……」

「ママはボクのとこきて、アタマおさえていたよ?」

「そうだよ! だからマンタのために、マンタを助けようとお母さんは体を張って記憶がなくなった……いや、きっと大事な記憶であり大切な思い出だから、傷つかないように奥底にしまいこみすぎて、今は取り出そうとするのに時間がかかっちゃってるんじゃないかな」

「……そうなの? じゃあ、ママのオムネからとってあげないと!」


 マンタの突然の発言に、お母さんは、右耳の上辺りを押さえ眉を顰めながら笑顔を覗かせる。

 マンタから見えるお胸にはいろんな物が詰まっているらしい。

 リコのより豊満な思い出の詰まったお母さんのお胸は、希望も夢も愛情もいろんな虚構が都合良く詰まっているんだろう。

 胸の中にしまってあるものは、マンタからしたら、見るたびに触れるたびに色々なものが詰まっている、色々なものを感じているのかもしれない。


「お前は、本当お母さんの胸……大好きだなぁ」

「パパはうるさい!」


 お父さんも、拍子抜けしたのか、笑顔が見え始めている。

 マンタも、いつもの調子が戻ってきているのかもしれない。

 子供は、空気を一瞬で変える力を持っているもんだ。

 悪い空気を変えるのは、問題を解決するのは、一家の大黒柱である必要もない。誰だっていい。

 僕らは、学校、家、友達、仕事など、姿形は変えずとも、場面場面で役割、キャラ、他人からの評価は変わってくる。

 親には見せない顔を友達にはする。友達には見せない顔を恋人には見せるんだ。

 僕らは何にでもなれ、何者でもない。

 お母さんも、母であり、妻であり、女性であり、誰かの子でもある。マンタの目から見た時、それは母なんだ。本人がどう思っても、マンタが目を逸らそうとしても。


「そうなの……まだおっぱい離れできてなかったのね、私が甘えさせすぎてたのかなぁ」

「だってふかふかなんだもん!」


 誰だって、健全な男子ならおっぱい離れはしたくないものだ。

 そう思いながら、マンタのコロコロ変わる表情から見えてきた笑顔に安堵する。

 忘れられた物語がふとした偶然から想起される。このような偶然の積み重ねがマドレーヌ効果のように段々と思い出の穴埋めや掘り起こしにつながっていくのかもしれない。


「私の胸にきちんと詰まってるといいんだけど。私にマンタ君との大事な記憶は今はまだ戻ってないの、でも大切な存在なのはわかってる……わかってるつもり。ずっと望んできた、辛いことも頑張ってきた、マンタ君が私の夢だったから。私はまだ温もりも成長も繋がりも今はまだわからない、忘れてしまってる。だから確認していきたいの。ママに時間を……くれないかな?」


 お母さんは、マンタの手を握りしゃべっている。

 お父さんの話からしても、井ノ瀬さんたちにとって、子供は願い続けた、できる苦労は全てしてきた、やっと授かれた夢であり、宝なんだろう。

 記憶を無くすことにポジティブな意味なんて持ちたくないだろうが、これも縁と思うのならば、きっとこの家族は無常であり普遍なんだ。


「マンタ君はお母さんと日記を書いていたって……もしかしたら、今みたいに一緒に思い出を話してくことで、思い出したり補完したりできるんじゃないかな」


 リコは、お胸の話にはポカンとしていたが、思い出したようにお母さんに語りかけている。

 僕は日記なんて書いたことがないけど、毎日書いているものなら、それは家族の記憶の、思い出のための備忘録に、外付けハードディスクのようなものにもなるのかもしれない。

 リコの無垢なお胸も、これから色々詰まっていくんだろうか。言い得も知れないなんとも不思議な気分に覆われるものだ。


「日記……そんなの私書いたことないけど、書いてたのかな……私?」

「うーん……わからないな」

「ママとイッチョにかいてるんだよ、ボクがえをかくの!」


 そう言って、マンタは部屋の奥へ走っていき、笑顔で戻ってきながら可愛らしいノートのようなものを持ってきた。


「ほら!」

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