第17話 燐、激進

 麻里子は事情をいろは組の町会長とご隠居に電話で話し、事後の後始末を頼むとと共に浅草界隈やその周辺に異界やモウリョウが出現していないか調べて欲しい旨を伝え、連絡の段取りについてはそのみ経由で譲之介にも連絡するように話をつけた。相次ぐモウリョウ事件に町会長の声に関してはもはやマジ切れ寸前と言う雰囲気にも聞こえたが、その辺はばっさり無視して話を切り上げた。

 その後で麻里子は燐から志野の母親宛に電話させて、先日の軽井沢合宿の時に意気投合した志野さんとばったり会って家で話しをするうちに、何となくもう少しみたいなことになってしまったので、今夜は外泊を許してくださいみたいな話をさせたとか。

 もちろん志野はその後、許可をもらう電話を直に母へしたのだが、その時聞いた母の燐への褒めっぷりは半端ではなかった。どんな会話がなされたのかは知る由もないが、母の上機嫌とも思える声には何かがありそうで志野は少しだけ身震いした。

「ああ、譲之介、やっぱり浅草界隈はモウリョウの百鬼夜行状態みたいよ。詳しくはいろは組に調べさせているけど蟷螂姉妹と思しき女子高生二人組が、石碑、塚の類を片っ端から大鎌で真っ向両断しているのも前から目撃されているみたい。そんなわけだから、さっさと巨蟹は退治してこっちもよろしくね」

 麻里子はほぼ一方的に譲之介にしゃべりまくると、携帯端末の通話を切って黒いタンクトップの上に着た黒いライダースジャケットの懐にしまう。

「ん、何どうした志野」

 視線に気がついたのか、麻里子は横に向けていた顔を彼女の正面に合わせる。

「あ、いえ、その…」

 志野は想定外に今風な格好の麻里子に少し驚いていた。いくら平安時代生まれと言っても戦いに行くのにまさか着物とは思わなかったが、それにしても普通ぽくはない。

 黒いライダースのボトムには黒い合皮のパンツにショートブーツという、全身これ真っ黒な格好では一見してゴスパンやバンド崩れのお姉ちゃんという風にしか見えないが、妙に似合って見えるのは当人の適性ということなのかもしれない。

「様になってるでしょ、私もさ」

 フフンと笑う麻里子は何となく志野の言いたげな事を察してそう答えた。

 麻里子は右腕にはめた黄色いG‐Shockで時間を確認し零時まで残り三十分ほどなのを確認する。

「さてと、あっちはあっち、こっちはこっちよ志野」

「は、はい」

 月光館の裏側に回る麻里子のあとに志野も早歩きでついていく。ガレージと思しきシャッターを麻里子が上げると、中には青い小さな二人乗りの超小型車が置いてあった。

「わ、小さい車ですねぇ」と感心する志野。

「スマートっていうベンツの超小型車。狭っこい東京だとこういう車のほうが使い勝手いいの」

 麻里子はニヤリと笑ってドアを開錠し、運転席に乗り込む。

 それにしても平安時代生まれの麻里子に車を運転できるのかと志野は思ったが、譲之介も難なく普通にSUVを運転していたわけだし、その辺は適応力の問題なのだろうかと勝手に想像する。

「あの、大丈夫なんですか麻里子さん」

「え?はあ、ああ免許ならちゃんと持っているわよ。てか妙義からでかいベンツのSUV運転してきたでしょうに」

 志野が何を言いたいのか察した麻里子はちょっと口を尖らせ答える。

「で、でしたよねぇ」

 ニガ笑いをしながら志野は助手席に乗り込んだ。

「じゃ、行くわよ」

 麻里子はさくっとアクセルと踏み込むと、青いスマートを上野へ向けて走らせた。

 清澄通りに出て、駒形橋から隅田川を渡る。そのまま浅草通を真っ直ぐ行けばすぐにでも上野駅に突き当たった。零時近くになってきたといっても、まだまだ街が眠り込む時間ではない。タクシーをはじめ車が行きかい、通りの両脇にある歩道には通行人が歩いている。

 志野は隅田川を渡ってすぐに、ピリピリとしたあの感覚を感じた。幾つもの覇力が束になって降りかかってくるのがはっきりと分かる。

 不意にドカッという何かが当たったような音がスマートの屋根から聞こえる。何かと思い志野はサンシェードを開くとそこには一つ目の怪物が恐ろしい形相をこちらに見せて張り付いていた。

「うわあああ、ま、麻里子さん!」

 絶叫した志野はサンシェードを閉じる。

「え、何?」

「や、屋根に怪物がぁ」

 情けない声で叫ぶ志野は自分が少し許せなかったが仕方がない。

「スウウウウウザアアアアクウウ~ハアリョクヲクレヨオオオオ…」

 不気味この上ない声が聞こえ拳で屋根を叩く音がする。

「ああ、もううるさい。お前ら邪魔するなら真っ先に消し飛ばすよ」と麻里子がマジ声で叫ぶなり張り付いていた怪物がドカッと屋根を蹴り飛ばして離れていく。

「い、い、い、今のは一体、何なんですか」

 顔をかなり引きつらせたまま志野は尋ねる。

「ああ、この界隈のどっかの塚に封印されていた奴でしょ。螳螂姉妹が手当たり次第にぶち壊してくれたから続々と復活してきたというところね。ほらそこにもいるよ」

 麻里子が指差す先には通りの歩道を疾走する毛むくじゃらの生き物や、一見して鰐にも似た体躯のモウリョウが徘徊している。

「な、何てことに」

 志野が驚くのは無理もないが、それらのモウリョウどもが歩道を歩く人々の周りで今にも襲わんばかりにうろついているのが気になった。

「放っといていいのですか」

「あーもちろん良くはないけど、復活したてじゃ状況を飲み込めていないだろうし、まだ様子伺いだろうね。どいつか一匹でもマジで人を襲い始めたらたちまち屠殺場になるかもだけど」

 さらっと答える麻里子に志野は驚く。

「それ、マズイんじゃないですか」

「今は手が回らないから仕方がないよ。本命倒せたら後で地道にやります。そん時は志野も協力してね」

 麻里子はそう答えるのが精一杯だった。志野の気持ちは分かるが出来ないことは請け負えない。この界隈がどこもこうなっていることは最初から折り込み済みだった。

 志野は上野駅が近づいて来るに従い、ぴりぴりと覇力が全身に感じてくるのがよく分かった。どこかで一部異界とつながっているのか、あの白い靄が霧のように田原町駅周辺を包み、浅草通りの視界を奪っていた。

「まったく結界も張らずに直に勝負かい」

 稲荷町交差点で信号待ちをするスマートのフロントウインドーから麻里子に見える風景は、この界隈がすべて異界に取り込まれたのではないかと思えるほど変わり果てていた。白い靄が街を包み、地面を徘徊し、夜空を飛び交う怪物と化物。周囲を伺い喰らいがいのある覇力を持つ獲物を物色しているというところだろうか。よくもまあ、こんなに出てくるだけの塚や石碑を破壊してくれたものだと呆れざるを得ない。

「勝鬨橋でもそうでしたし」と志野。

「それも目的のために手段は選ばないってことかい」と話す麻里子の口調は荒い。心底こういう状況を許さないという意思が節々にあふれている。

「とにかく許せないね」

 そう言って麻里子はスマートを発進させる。上野駅を左に折れてJRのガード下をくぐればもうすぐ向こうが不忍池だった。


 月島に向かった譲之介と燐を乗せたベンツのSUVは首都高の深川線を目の前にして通行止めを強いられていた。モウリョウ巨蟹が佃あたりの清澄通りを闊歩しているため、深川署によって道路が封鎖されようとしていたのである。

 前代未聞の怪物出現に一般市民、警察を問わず誰もが事態に仰天し、どう対処したものか考えあぐねていたが、警察はまず住民の避難ということで動いているようだった。

 相生橋を渡ってくる人々は皆一様に固い表情のまま、理解できぬ状況に言葉さえ出てこない有様で黙々と歩いている。

「まずいことになっているようだな」

 前後左右を車に挟まれ。身動きできない状態でハンドルを握ったまま譲之介は呟いた。

「いろは組からのメールには、自衛隊に災害派遣による出動命令が出たとかでないとかありますよ。ネットを一通り見たところでは、まだそういう話はないですけど」

 燐が助手席でタブレット端末を操作しながら答えた。

「さすがにこの状況だと、ニュースになっていてもおかしくなさそうだな」

「まだ、抑えてるみたいですけど、ネットじゃもう周知の事実みたいです。動画も投稿されていますし」

「とにかく、これじゃ近づくことも出来ない。まして奴と戦うなど不可能だ」

 道路にあふれる人々を眺め、譲之介は焦る気持ちを抑えつつ叫ぶ。

「譲之介さん、このままじゃらちが開きません。歩いて非難する人たちを迂回して巨蟹に近づきませんか。路地に入って警察をやり過ごせば何とかなるんじゃないかと」

 燐はそう言うと手にしていたタブレットを後席に置いて車を降りる。

「り、燐殿、それで上手くいくであろうか」

「上野じゃ麻里子さんと志野さんが大変ですよ、こっちを早く何とかしないともっとまずいことになるかもしれません」

 焦る燐の気持ちは彼女を迷うことなく下車させた。

「それは、そうなんだがな…」

 釣られるという感じで譲之介も車を降りる。申し訳ないが回収はいろは組に任せるしかないだろうと考えながら、人混みの中を掻き分けていく燐を見失わないように後を追った。

 パンパンという乾いた音が時々、燐の耳に聞こえた。恐らくは警官らが威嚇のために発砲しているのではないかと見当をつける。効果はあるのかと考えるが分かりかねた。

 人の流れに逆らって歩いているだけに、燐は中々前に進めないことに焦りを感じるが、ここは我慢するしかない。何とか奴の前に出てすぐそこの海洋大学のグラウンドに誘導できれば、そこで結界を張って攻めることが出来るかもしれないと考えていた。

 燐と譲之介が大横川に架かる小さな橋を何とか渡って牡丹町公園まで来た時、ドカンと派手に建物が壊れたような音が聞こえ、大勢の人々の悲鳴がここまで届く。相当な暴れっぷりであたりかまわずという雰囲気が二人にもありありと分かった。

「本当にまずいことになっちゃってますね。逃げ切れていない人も大勢ですし」

「ああ、もう一刻も争えぬ事態らしいな」

 本来、堂々と人前に姿を現すことが稀なモウリョウが、こうしてなりふりかまわず暴れているのは異常事態というしかない。それも我邪に操られてとはいえ、前例のない事態だけに燐や譲之介、いろは組だけでなく、もはや世間すべての人々がどうしていいのかわからないのが本音だろう。

 燐は制服の胸ポケットから山吹色の短冊を三枚引き抜き、それぞれを手の中でくしゃりと丸める」

「折神、山吹鷹」と燐が叫ぶと、三枚の短冊はそれぞれが猛禽類を思わせる鳥の形に変化し開いた手の上で舞う。

「巨蟹の注意をひきつけて、海の方向へ誘いなさい」

 ばっと勢い良く飛び立つ三羽の山吹鷹は一目散に巨蟹へと向かう。

「わずかでしょうけど、これで時間稼ぎが出来れば」

「そうだな、我らも急ごう」

 頷く譲之介は燐に続いて歩く速度を一段と速めた。

 燐は越中島通りに出たところで、雑居ビルの合間から一見してそれと分かる巨大な鋏を振り回す生き物の姿を垣間見た。振り回される両腕の鋏が建物にぶつかるごとに、轟音と共に崩れ瓦礫と化していく。

「あれが、巨蟹…」

 燐がその姿を見るのはこれが初めてだった。確かに見た目そのまま蟹であるが、大きさは麻里子や譲之介が言うように怪獣と呼ぶに相応しいガタイであろう。モウリョウにしてはおぞましい雰囲気はないがこれはこれで十分に迫力はある。

 同時に拳銃の発射音、緊急車両のサイレン。そして大勢の人々の悲鳴と怒号が幾つも重なりあって燐の耳に届く。

「警官隊が応戦しているようだな」と言う

 つぶやく譲之介の視線の先には、距離を置いて応戦する警官たちの姿が見える。

 通りに出れば巨蟹と相対することが出来そうであったが、今、蟹の足をくい止めようとしている警官隊と鉢合わせなることは避けられない。いくらなんでもセーラー服姿の少女がひょっこり出てきたら制止しない警察官はいないだろう。

「最小限度でもいいから結界を張れれば、彩麒を呼んで突入して倒せると思うのですけど、こんなに大勢の人の前では…」

「うむ、出て行ってもていよく追っ払われるのがおちであろうな…」

 巨蟹の上空では山吹鷹が旋回しながら様子を伺っているのが見えた。折神だけでは動きを変えるのは無理ということだろうか。

 あ、いや違う、今は目立つべきなのかなと燐は考え直す。人の目を引きつけるなら、セーラー服姿の自分のほうが適役であろう。

「譲之介さん、私が巨蟹と警官隊の間に割って入りますから、その間隙を突いて、極小域結界を展開してください。結界が完成するまでに彩麒を呼んで一緒に突っ込みます」

「そ、それは少し無謀であろう。一撃で奴を倒せないと返り討ちに合うやも知れん」

 燐の提案に譲之介は不安を隠せない。恐らくは麒麟の韋駄天ぶりを当てにした策であろうが、相手とてむざむざやられはしないだろう。

「麻里子さんの話だと相当に逃げ足が速いみたいですけど、脚の速さなら私の彩麒にかなうわけないです、大丈夫ですよ」

 燐は自信たっぷりに答え、譲之介を見た。もうこれで行くという決心はついていると暗に主張する。

「止めてもやると決めているようだな、燐殿は…」

 半ば諦め、呆れた口調で譲之介は答えた。こうなったらもはや決意は変わらないことは、これまでの付き合いから彼も重々承知していた。

「はい、ここは速攻あるのみです。私が巨蟹と相対したらよろしくです」

 頷く譲之介を見た燐は身を翻すと路地から飛び出し越中島通りに駆け出す。

 突然、道路の真ん中に飛び出してきたセーラー服姿の少女を見て、当然のように警官たちは唖然とした。恐ろしくこの場に似合っていないものが出てきたという理解であろうか。

 巨蟹は巨蟹で、燐からあふれだす恐ろしいほどの覇力の強さに驚いたと言う態度で、しばし動きが止まる。

「山吹鷹、行きなさい!」

 振り上げた左手を巨蟹に向けて振り下ろすと、上空で旋回していた三羽の折神が一斉に突撃する。そこに至って巨蟹は燐を敵だと認知してその目に捉えた。バチバチと大きな鋏を鳴らし動こうしたが、勢いよく突っ込んできた山吹鷹がその顔面に鋭い爪や嘴を立てる。

 顔の前をうろつく山吹鷹を追い払おうと巨蟹は左右に体を揺らし鋏を振り回す。もはや巨蟹の意識は完全にそちらに集中しているようだった。

「今です!」と叫ぶ燐に促され譲之介が通りに出る。

「青短冊、小結界!」

 譲之介は短い口上を叫ぶと手にかざした青い短冊を巨蟹の上空へ向けて投げ飛ばす。ほぼ同時に燐は右手に己の得物「隼風鉾」を手にして天高く矛先を掲げた。

「彩麒、来なさいっ!」

 叫ぶ燐の隼風鉾から放たれた凄まじい覇力は、一条の稲妻となって天に駆け上り夜空に突き刺さる。瞬間、黒い空の一部が引き裂かれるとその破孔から金色の光をまとった麒麟が出現し、一目散に燐へと降下する。

 同じくして巨蟹へ向け地面を蹴った燐のスカートが舞い、横に並んだ麒麟が彼女と一体化する。まるで地面を這うように伸びる光の玉は、巨蟹を中心としたごく限られた空間だけを対象に展開し、包み込んでいく結界の中へ滑るように入り込んでいく。

「行けえええええっ!」

めったなことでは感情を露わにしない燐が、叫び声を上げ右手に構えた隼風鉾を巨蟹の顔面へ向けて投射する。まさに光の槍が燐の右手から放たれ、文字通り光の速さで化物蟹の口に突き刺さる。

 ほぼ同時に譲之介が構成した小結界が完成し、巨蟹がいた辺りは結界により不可視空間となってその場から切り離される。現界の中に強制的に異界を構成するこの式術は、切り離した空間を異界との狭間に強制転移しているようなものであり、取り込んだ場所と対象物は代わらなくそこに存在している。

「な、何が起きたんだ…」

 その場にいた警官の一人がようやく口を開く。セーラー服の少女が突然飛び出してきて、光の玉と化物蟹と一緒に消えるまでせいぜいい一分か二分程度。何が起きたのか理解できないのは当然だった。生唾を飲み込み、額に滴る汗を拭いながら怪物が先ほどまでいた場所を凝視していた時だった。

 バリン、バキバキとガラスが派手に砕け散る音がそこにいた全員の耳に聞こえる。

「ま、まさか、そのような…」

 譲之介が言葉にして叫んだのも無理はない。術者の意図に反して結界は中から突き崩されようとしている。すなわち譲之介の覇力より巨蟹の力が上回るということを意味することになるからだ。結界の完成寸前に燐が投げた得物は間違いなく巨蟹の口角に突き刺さり、その力が巨蟹を粉砕したと思えたにも関わらずである。

「あっ!」と叫ぶ警官の声に譲之介もそちらを向く。

 何もないはずの空間が突然割れてガラスのような破片を道路に撒き散らし、その破口からセーラー服の少女、燐が放り出されてきたのである。

「り、燐殿…」叫ぶ譲之介は思わず走り出す。

 相応の高さまで投げ出された燐だったが、そのまま受身を取って地面を転がりながらも、どうにか上半身を起こし立てひざをつく。その脇に巨蟹が吐き出した燐の得物「隼風鉾」が放物線を描いて舞い戻り、矛先を道路に突き刺しアスファルトを割った。

「こいつ、不死身なの」その身で力を体感した燐は本音を漏らす。

 捨て身の、と言うわけでもないが巨蟹を一撃で倒そうと、かなり際どい攻撃で撃って出たにも拘らず、それをはじき返すだけの覇力を持ちえていたとは、燐にとってはかなりの計算違いだった。固い甲羅に身を包まれた奴ならば、中からの攻撃が正攻法だろうと思ってのことだったのだが。

 燐は夜空を見上げ、彩麒が無事であることを確認する。

「燐殿、無事か」

 切羽詰った顔を抱え、譲之介が走り寄ってきた。

「とりあえず大丈夫です…」ホワイトクリームのセーラー服と紺色のプリーツスカートを叩きながら燐は立ち上がる。もはやその程度では汚れは落ちないであろうほど黒い砂汚れが付着している。

「また。制服だめにしちゃいますね…」と呟く燐。

 そんな燐の呟きを聞けるならば、それほど大事は無いのであろうと譲之介は察する。

「考えている以上の覇力に驚きました。確実に仕留めたと思ったのにです…」

 譲之介に支えられて立ち上がった燐は、さほど前と様子の変わらぬ巨蟹をにらみつけながら言った。

「前に三八で撃ってみたときは手ごたえがあったのだが」

「そこは四神瑞獣の玄武だからと言うことなのではないのですか、譲之介さん」

「いや、たった今ここで結界を破られたとあっては、怪しいものだが…」

 譲之介は口を真一文字に結び、憮然とした顔で巨蟹をにらむ。こちらを威嚇しながら襲い掛かる算段でも思案しているのか、結界を破った後は動こうとはせずその場に沈黙している。これを機会に巨蟹を隅々まで観察する譲之介は、固い甲羅に突き刺さっている矢を見つけた

「あ、いやまてよ、そういうことか…」

 一人合点したらしい譲之介に、燐はどうしたのかと思いながら顔を覗き込む。

「あの背に突き刺さる矢は、月光館の扉に打ち込まれたものと同じ、式術を行う覇魔矢ではないだろうか」

 譲之介が指を示した先、頑丈で堅牢なはずの蟹の甲羅に一本の矢が刺さっている。

「誰かが、いえ我邪が巨蟹を操るために打ち込んだということでしょうか」

「その線が濃厚であろうな、燐殿。それ故に尋常ならざる覇力に取り込まれているということなのだろう」

 だったらさっきの失敗も納得できなくはないと燐は思うが、それは口にしない。どういう経緯であれ、自分と彩麒の覇力が押されたのは事実なのだ。そこが悔しい。

「もう一度、今度は全力で。譲之介さんはあの覇魔矢を三八で打ち砕いて下さい。奴がそこで怯んだ隙に、あいつの懐に飛び込んで真下から突き刺してやります」

燐はそういうと地面に刺さったままの隼風鉾を引き抜いてぐるりと回し、石突きをガツンと道路に打ち当てる。

「また、乱暴な手段だな」と譲之介はため息をつく。

「あの矢の効力を封じない限り、どう仕掛けても結果は同じだと思います」

 燐はそう言って覚悟を決め、さあ、と譲之介に一撃をお願いしようとした時だった。

「き、君たちは一体何者なのかね…」

 それまで傍観していた警察官たちの一人が、巨蟹と怪しげな二人の膠着した状態に気がついて声をかけた。こんな現場に突如として出てきた女子高生と不詳な青年が、理解不能な行動で一同を呆気にとってみせたとあれば、尋ねて当然な立場にあるのは間違いない。

「あ、いえ、その…」

 煤けた顔で答えに詰まる燐はニコリと笑って見せるが、さすがに女子高生相手では立場上、警官も怯まない。この場面で出て行って成功すればともかく、失敗となって居座る状態となれば逃れることが出来ないのはまた当然であろう。

 どうしたものかと燐は譲之介と目を合わせて考えるが、咄嗟には思いつかない。巨蟹を倒すという、そちらに神経を集中させていた故に考えていなかったというのが本音である。

「何か知っているのだろう、どうしてこんなことをするのかね」

 答えに詰まる二人に対し警官がさらに問い正した時だった。

 バチンバチンと両の手の巨鋏を打ち鳴らし、巨蟹がゆっくりと動き出す。

「な…」

 燐が声を出した時、巨蟹が全身から発した光の渦が一瞬にして越中島通りを包み見込む。とても目を開けていられないほどの光量はすぐに収まるが、再び通りを見た誰もが自分の目を疑った。巨蟹ほどの体躯ではないにせよ、相応のガタイを見せる蟹の群れが出現し通りを埋め尽くしていたのである。

「じょ、冗談ですよね」と燐は絶句する。

「屑であろう、恐らくは。清澄通りの時と同じだ!」

 譲之介が答えるや否や、蟹の群れが両手の鋏を振り回し恐ろしいほどの俊足で迫ってきた。あっと今に距離を詰められ、もはやその勢いに飲み込まれる寸前である。

「三八!」

 叫ぶ譲の介は己の得物である小銃を手にして、素早く三連射で迫る屑蟹を撃ち倒す。

 そのすぐ横では燐が隼風鉾を振るって、あっという間に数匹を狩り取る。が、しかし数で勝る屑蟹の群れは、抵抗する二人を置き去りにするようにして警官隊の中に突っ込み圧倒する。

「な、何…」

 譲之介も燐も自身が相手をするだけで精一杯である。十数人はいた警官たちの姿があっという間に見えなくなり、まさに蟹の群れに飲み込まれてしまったのだと我が目を疑う。

「冗談ではないぞ」と怒りの声を上げた譲之介が三八の銃口を巨蟹の顔に向ける。

 パンパンと乾いた銃声が響くと同時に蟹の顔に命中すると、悶絶したような形相を見せ巨蟹は来た道を引き返そうとの体の向きを変えた。

「譲之介さん、巨蟹が逃げるんじゃ」

 叫びながら燐は迫る屑蟹を倒していく。

「逃さん、玄武!」

 ひときわ大きな声を張り上げ、譲之介は自身のモウリョウの名を叫ぶ。瞬間、譲之介の立つアスファルトの道路が轟音を上げ彼を中心にして黒い円を広げていく。そこだけに出来た深い穴の闇から地面を揺らし、巨大な亀の姿を持つモウリョウ玄武が出現する。

「轟砲重撃!」

 叫ぶ譲之介が自身の覇力を高め、そのすべてを得物に注ぎ込む。同時に玄武の覇力が加わって彼自身が眩い光に包まれた。刹那、三八の引き金を引く。

バウンというこれまでの銃声とは明らかに違う、大砲が発射されたような砲声が当たりに響き、譲之介の得物からこれまでとはまるで違う光の巨弾が巨蟹を襲う。その危険を察知してか巨体に似合わぬ軽快な動きで巨蟹は体を捻る。

 と同時にズガンという大きな相手に命中した音が譲之介と燐の耳に届く。

「うぬ…」

 確実に仕留めたと察した譲之介だったが、巨蟹は左の腕を吹き飛ばされ、背中の甲羅に刺さっていた覇魔矢は吹き飛ばしたもの、そこに傷を負わせた程度だった。

「しぶとい奴め…」

 悔しがる譲之介を尻目に巨蟹は撃たれた反動も利用して向きを変え、海洋大の構内を突っ切り晴海運河へ飛び込んだ。ザブンという音がここまで響く。その逃げ足は確かにかなり速い。

 それとほぼ同時、巨蟹が運河に没した瞬間に道路を隙間なく埋め尽くすほど出現していた屑が姿を消す。

 燐は振り返って警官たちがいた場所に顔を向けるが、五、六人ほどはいたはずの彼らの姿が誰一人としていないことに気がつく。

「そ、そんな。屑に襲われたからといって跡形もなく消えるなんて…」

そういう話は聞いたことがあっただろうか、と燐は思う。屑は所詮モウリョウではないので覇力を吸うことないはずである。巻き込まれて負傷することはあるかもしれないが、まったく何も残さずに消えうせるなどありえないことだと思う。

「屑の中に他のモウリョウがまぎれていたのか、あるいは屑といっても我らが知らぬ種類なのか…」つぶやく譲之介も事の成り行きが理解できない。

巨蟹が姿を消したことで、戦場のように混乱していた越中島通りが突然に静まり返る。ざわついた周辺の喧騒は変わらずだがこの場の主役は姿を消し、二人だけが取り残されたような気分がしてならない。

 燐と譲之介はまるで悪い夢でも見ているような騙され方をされた感じだった。

「いけない、あいつまさか上野に…」

 巨蟹はどこへ逃げるのだろうと考えていた燐は、咄嗟にそんな結論に行き着く。

「う、上野、不忍池へか」

「だって、譲之介さん、巨蟹が元々狙ってるのは麻里子さん、それとも青龍?今、二人がそろっているのはそこだし。上野界隈は百鬼夜行状態なら、覇力の流れでどこにいるのか感じることが出来るんじゃないかしら」

 燐は巨蟹の怨み骨髄の相手が麻里子か青龍だというのなら、牙邪の支配から逃れたことで本能的にその居場所へ向かうのではないかと思った。

「うーむ、まあ奴と麻里子殿、そして青龍がからむということであるならば、その通りかもしれないが」

 確かにそう結論することも考えられないことではないと譲之介も思う。

「だったらいけない、私たちもすぐに行かないと…」

 燐は手にした隼風鉾を握り締め、無意識に北の空を凝視していた。


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