第2話 狐太郎

 蔵前から隅田川の川向こう一帯、本所や業平という場所は江戸時代から続く地名を名乗ってはいても、今の世にその時の面影を残すものはあまりない。半世紀ほど前に焼け野原になった後は、無計画に立て巡らされた無味乾燥で冷たいコンクリートの雑居ビルや住宅、マンションが立ち並ぶだけの、現代の下町にありがちな何も特徴のない風景をただ平然とさらしているだけの街になってしまった。

  その街の一角、大き目の通りから一つ入った路地に近い道を進んだところに和洋折衷と思しきの洋館が立っていた。建物全体はかなりくたびれた様子ではあるが、二階の部屋に灯る明かりがまだまだ現役ということを主張しているように思えなくもない。

 夜もかなり更けた頃。がたん、という音がして明かりが灯った二階の部屋の天窓が開き、すぐに閉じた。もし特別なその力を持っている者ならば、そこに大きな犬らしき生き物が入ったところを見ることが出来たかもしれない。

「ああ、早かったわねコタロー(狐太郎)」

 フローリングの床にじかに座り込み、かなり年代物と思われる書物を幾つも積み上げ、広げた中からその声が聞こえた。

「たいして遠くはなかったからな。あの娘、曳舟だったぜ」

「そう、それじゃ近いわね」

 積み上げられた本の間から持ち上がった顔は、大きな黒い瞳に長い睫毛を持つ妙に整い過ぎたという感じがする若い女性のものだった。おまけに肌が薄気味悪いほど白い。漆黒の黒髪を床にまで垂らしているということは、かなりの長髪とみてよく、華奢な手足と体つきはあまり人間らしい雰囲気がしないといってよかった。

 その瞳がコタローと呼んだ生き物の姿をとらえた。一見してイヌ科のなりをしているが、良く見れば耳はさらに立ち、目は鋭くきつく、尻尾は太い。そう彼は俗に言うキツネと呼ばれる生き物の姿かたちをしているのである。

「それで、大体のところはわかったの」

「そうせかすなよ麻里子。近所とはいえ、それなりに手間だってかかったんだしな。何か飲ませろよ」

 コタローは麻里子と呼んだその女性を少しにらみつけた。

「はいはい…」

麻里子は立ち上がり、すぐ横においてあるローテーブルの上に用意したウイスキー瓶と皿を手にしコタローの前に皿を置く。しゃがんで左手に持っていた瓶からその皿に酒を注ぐと何ともスモーキーな香りが部屋の中に漂う。

「おっ、いいねぇ」

 機嫌を直したコタローはすぐさま皿の酒をぴちゃぴちゃと舐めだした。

「まったく、洋酒を嗜むキツネなんて未だに信じられないわ。しかもシングルモルトウイスキーですって」

「くーたまらん。ん?何か言ったか」

美味そうに舐めているコタローには聞こえていないらしい。

「それで、どうだったの」と麻里子は話を急かす。

「んーそうだな、名前は綾川志野(あやかわしの)。都立蔵前総合高校の2年生。曳舟在住、両親と姉の四人暮らしだが、親父は単身赴任でインドだ。醒めているようで意外に熱い性格みたいだぞ、お節介ででしゃばりなのもな。お前みたいに」

コタローはそう答えて麻里子を見上げるが、当の本人は鉄仮面である。

「勉強は出来るみたいだな、部活は陸上部で幅跳びやってるらしい。特に学校で浮いていたり、虐められている様子もないみたいだ。むしろ人望がある感じだな、で巷のアイドルぽい容姿も手伝ってかとてもモテル」

「あら、才色兼備の優等生なの?」と皮肉っぽく麻里子は言った。

「さあね、あの年頃の娘ってんなら、普通の部類みたいだぞ。品行方正なのは大人の前だけ、それなりに遊んだりもしているみたいだし」

 皿から頭を持ち上げたコタローが麻里子と視線を合わせて答えた。

「まあ、確かに今時の娘は何を考えているんだか分からないしね、例えば燐の時代とは明らかに違うといえばそうだしねぇ…」

「お前が言いたいのは、そういう娘のどこを青龍が見初めたってことだろ」

 その通りなのだが、麻里子は答えない。そもそも一般に魑魅魍魎、あやかし、物の怪、妖怪などと呼ばれている連中の考えることなど一千年かけてもよく分かっていないのに、どうして青龍が志野という娘に目をつけた理由が分かるというのだろう。

「若い小娘が好みなんじゃないのか?あのドスケベな龍は。昇天して三百年くらい経つんだっけか」

 赤ら顔でニヤケたコタローが薄笑いを浮かべて言った。もはやただの酔っ払いらしい。何となく呂律が回っていなくもない。

「どんな理由があるのか知らないけど、青龍、いやあいつの名前は蒼牙だっけか、が復活したという事実だけは間違いないわ。忘れるはずもない、あの覇力の感触は間違いなく奴だった。何百年経ってもそれはわかる」

「血相変えてすっ飛んでいったもんなあ、お前」

 何がおかしいのかコタローはクククと笑う。

「ところがさ、出かけて行ったらあの化け蟹がお出ましでしょ。まさか今日この日に涙の再会なんて思ってもみなかったわ。あの蟹に釣られて青龍が出てきたのか、青龍の存在が化け蟹を呼んだのか、それとも…」

「そいつはわかんねぇけど、青龍は志野って娘と覇力が合ったから、その力のでかさに惹かれたから出てきたんじゃないのかよ。」

「んーそうだねぇ、そこは確かに間違いないと思うけどねぇ、ちょっと唐突過ぎてもう一つ理解しがたいところがるのだけど」

 麻里子はそう答え、思案顔で床にうず高く積まれた古書の山に視線を落とす。そのうちの一山からかなり古い本を一冊引き抜き、ぱらぱらとページをめくる。

「ああ、築地の化け蟹騒ぎの時に散華した青龍は…そう、そうか、この近所にある龍天神社に封じられたんだった」

 一人合点した麻里子はその本をさらにめくり記述のある場所を探す。何故そのことを忘れていたのかはわからないが、元禄時代も終わりの頃、化け蟹と戦って散った青い龍のことがそこにはあった。塚が置かれたとあるが、誰がそれをやったのか、そういう記憶はどうしても出てこない。

「んじゃ、何かよ。今日の今日まで青龍はてめえの覇力に同調できる輩を探しながら、復活する時を待っていたのとでも言うのかよ、ええ?」

 ギラリと目を光らせコタローが唸る。

「かもしれない、そして綾川志野の覇力がきっかけになったのは違いないわ」

「四神瑞獣を納得させることの出来る覇力ってか。けっ、格の違うキズキビトとモウリョウさまは何事もすることが違っていらっしゃるってな」

 ひどいゲップをしてコタローは悪態を吐く。よほど気に食わないらしい。

「散華した青龍は己の覇力が再び満ちるのを待ちながら、次に契れる相手を探していた。そこに綾川志野なる青龍のお目に留まるだけのキズキビト候補が現れた。ならばこの機を逃すことはないと。ま、そんなこところかしら」

 麻里子はローテーブル上のグラスにウイスキーを注ぎ一口飲み込んだ。大きくため息をつく。

「でもまだ綾川志野は青龍と契ったわけじゃない。そういう意味では立場は危険ね」

「そりゃまあ、今ごろいろんな物が見えすぎて、震えているかもな」と言い、またコタローはククと笑う。

 そうかもしれないと麻里子も思った。現界とは異なる異界。常世の住人の姿がいきなり見えるようになったら、驚かない人などいないだろし、どうしてそんなことになったのか訳も分からず、布団を被って震えているのが普通の神経だろう。

 麻里子はコタローを見つめた。

「な、何だよ今日はもうおしまいだからな、もう寝るからな」

 麻里子が次に何を言うのか悟ったコタローは先手を打った。

「そう言わずに、志野をしばらく見張ってくれない」

 とダメもとで麻里子は聞いてみる。

「嫌なこったー。自分で折神でも放てばいいだろ」

 酔っ払ったこともあって?コタローは鼻息が荒い。すっと立ち上がり窓に近づく。

「たくもう、毎度毎度のことだが俺様を何だと思ってやがる。パシリじゃねーんだぞ」

 捨てゼリフのようにそう言い放ってコタローは窓をすり抜けて出て行った。それまで妙に騒がしかった部屋の中の空気がふっと軽くなる。

「ま、そうだけどそんなもんじゃん…」

 苦笑しつつ麻里子はまた、グラスにウイスキーを注ぎ一口飲む。

 ざっと調べたところでは、こんな感じが限度だろう。後は本人と面と向かって話をしてみるしか印象を知る手はないと麻里子は思った。コタローが言う通りの娘ならば見込みはありそうだが、意外と違っていることもある。

「その辺は明日からのお楽しみだねぇ…」

 グラスのウイスキーを飲み干した麻里子は、独り言にしては少々大きめな声でそう言った。

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