ドッグファイト
マシンの消耗が著しいのは、先頭を走っていた4人ともが同様だった。それは、トップになるほど顕著に現れてゆく。
同じ様に消耗した同士ならばその差も分かり辛く互いに同じ状態での戦いとなるのだが、これが全く違う条件ともなればその限りではない。
『私もだめねぇ』
22周目。
瀬理華と万理華の攻めを受けた伊織もまた、早々に脱落を告げていた。
無理をする様なレースではないし、何よりも無茶をした先にあるのは翔紅学園2年木島美樹の二の舞である。
美樹が脱落し香澄が大きく後退した今、伊織が無理する必要などどこにも無いのだ。
「……あら?」
木下姉妹に先頭を譲り後退した伊織は、すぐにその事に気付き……いや、その事態に襲われて驚きの籠った声を上げていた。その事は、即座に万理華と瀬理華にも告げられる。
『万理華ぁ、瀬理華ぁ。後ろから翔紅学園の2台が追い上げてるわよぅ。たぶん追いつかれると思うから、上手くやりなさいよねぇ』
指示としてはどうにもいい加減なのだが、内容としてはその通りであった。
木下姉妹と伊織がバトル擬きを演じている間に、千迅と紅音がその距離を一気に縮めていたのだ。そして、脱落した伊織をもあっさりと抜き去っていた。
『ええ!? なんやて!?』
『そんなん、早よゆうてくれんと!』
情報をもたらした雅に向けて非難の言葉を漏らす万理華と瀬理華だが、実際はそれほど困惑してはいなかった。
それどころか、どちらかと言えばその声音は楽しそうであり期待に満ちている。彼女たちも、これまでのバトルでは不満だったのだろう。
レース当初からトップ争いを演じ、中盤にはすでに体もマシンも随分と消耗していた上位陣と違い、中盤でそれらを温存していた木下姉妹。そしてそれは、千迅と紅音も同じであった。
ラップタイムに多少の差があっても、相手のマシンの疲弊や集中力の低下でそれらは埋める事が出来る。終盤に来て、木下姉妹が上位陣へと一気に追いつき抜き去った理由がここにある。
そして、千迅と紅音のマシンも状態としては木下姉妹のそれに近い。特に彼女たちに攻められた時に無理な対抗をしなかった事が、ここに来て大きく影響していたのだった。
『待たせたわね、千迅。……仕掛けて良いわよ』
そして完全に木下姉妹の背後に付いた千迅へと向けて、紅音はようやくGoサインをだしたのだった。
これまで千迅は、先へと進みたくとも……前のライダーに仕掛けたくても、紅音に強く引き止められていたのだ。
『やったぁっ!』
ここまで押さえつけられストレスを溜めまくっていた千迅は、その声を聴いてこれ以上ないと言った喜びの声を上げた。残り周回を考えても、彼女が万理華と瀬理華に仕掛けるのは頃合いだったのだ。
4台はランチングコーナーを立ち上がり、それぞれ最高速度を叩き出して度胸試しカーブへと差し掛かる。
ここではどれだけブレーキングを遅らせる事が出来るかで、その後のホームストレートまでに差が出ると言って良いだろう。
まずは瀬理華が、そして万理華がブレーキングに入ると同時にシフトダウン。次いで千迅が同じ行動を取るのだが、そのタイミングは木下姉妹よりも1秒は遅い。
『こいつ……気ぃ確かか!?』
「いっただきぃっ!」
最初に襲われる形となった万理華が、スルスルと自分のインを抜けてゆく千迅に向けて驚愕の言葉を漏らし、逆に千迅は歓喜の声を上げていた。
万理華にしてみても随分と我慢してのブレーキングなのだが、それでも千迅はさらに遅くブレーキをかけているのだ。
「んんっ!」
『これで回れるんかいな。なんちゅうやっちゃ』
わずかでも万理華より速い速度で旋回する千迅に向けて、彼女は呆れる様な声を出していた。
殆どリズムで乗っている千迅のライディングは、傍から見れば空恐ろしいほどに安定していないのだ。しかし、そんな操縦で攻められて放っておける訳がない。
『瀬理華。元気なんが1匹、そっちに行ったでぇ。アレやるから、頭抑えといてな』
問題なくレースを消化してくれるならば、万理華もそれほど問題視しなかったかも知れないが、千迅のライディングはとても安心して見ていられるものではなかった。
何せ転倒は他者をも巻き込む可能性があり、その結果木下姉妹のどちらかがリタイア……という可能性もあるのだ。
『りょ―――かい』
万理華の案に乗った瀬理華は、後方より猛追の姿勢を見せる千迅の頭を抑えにかかった。
具体的にはブロックラインを駆使して、千迅のマシンの前輪がイン側アウト側のどちらにも瀬理華のマシンより前へ行かない様にするのだ。
「……むぅ」
実は千迅は、この手のあからさまなブロックラインを苦手としていた。守りに徹し巧みに妨害するこのテクニックは、真っ向勝負をこのむ千迅とは相性が悪かったのだ。
そしてホームストレートを抜けて第1コーナーへ。23周目に突入する。
瀬理華の後塵を浴びながら、千迅は自分ではかなり早めのブレーキングを余儀なくされ、彼女のタイミングとは違うリズムでコーナーを回らされていた。
『むぐぐ……』
完全に攻めあぐねている千迅の背後から、今度は万理華が彼女へと仕掛けに入る。
第2コーナーを抜けて通称「シャモジカーブ」と呼ばれる複合カーブへ。そこへ進入するタイミングで、後方の万理華が千迅へと外から並びかけたのだ。それと息を合わせる様に、前方の瀬理華が自分のアウト側に隙を作る。
唯一の脱出口をチラつかせられ、千迅は何ら躊躇する事なく前を行く瀬理華の外側へと付けた。
『……アホや』
『……掛かりおった』
しかしそれは、まさしく木下姉妹が弄した策の完成系であり、ここまで多くのマシンを後方へと追いやった戦法だったのだ。言わば千迅は、双頭の蛇の巣穴へ自ら足を踏み込んだ事になる。
3台のマシンが並走して、第5コーナーから通称「ジグザグコーナー」と呼ばれる連続S字カーブへと差し掛かる。木下姉妹のこの戦法は、コーナーでこそ真価を発揮するのだ。
自分のリズムで回らせてもらえないコーナーというのは、ライダーにとっては恐怖そのものである。
マシンもろとも蛇に絡みつかれて、本当ならば怖い思いをしていて当然だろう。
『こ……こいつ!』
『何考えてんねん!』
左右を抑えられては、本当ならば前後に逃げようと試みる。しかしそれを、万理華と瀬理華の息の合ったコンビネーションが許さない。
窮屈なラインを取らされるライダーは、それから逃れる為に減速し戦線を脱落する。これまでもこれが常であった。
だが千迅は、そんな木下姉妹の旋回スピードに自ら併せる様に減速する素振りを見せなかったのだった。
微妙にタイミングをずらして千迅の動揺を誘おうと計5つのコーナーで様々なトライを試みた木下姉妹だったが、結局千迅を後退させるどころか、彼女の困惑を誘う事も出来なかったのだった。
『……なぁ、万理華』
『……うん。……こいつは』
『……あいつやなぁ』
そんな千迅のライディングを間近で見て、万理華と瀬理華はある事を思い出していた。
それは以前に、VRレースでマッチングしたライダー。木下姉妹の仕掛けにも恐れを見せず、それどころか嬉々として挑んできたライダーに似ていると考えていたのだ。
そしてそれは、間違いではなかった。
『あは……』
千迅は、この状況を楽しんでいた。
これまで抑圧されてきた感情を一気に解放した結果、今の千迅は純粋に走る事が楽しいと、まさに初心者の様な気持ちを抱いていたのだ。そこには、難しい事など何一つ含まれてはいない。
マシンの状況、周囲の気温、路面温度、タイヤの摩耗、コースの状態、ガソリン残量、体調の具合、集中力の維持など。
おおよそライダーにとって重要で常に考えておかなければならない事が、今の千迅には殆ど抜け落ちていたのだ。
いや……千迅の場合は考えられなくなったと言うよりも、それらを感覚で知る様に変わったと言うべきだろうか。
千迅は、包括的にマシンを走らせる事に必要な事を感じていたのだ。今の千迅は、本能で動く獣そのものだった。
本来ならば、それらは二次的な情報として処理すべきである。完全にそんな不確かな情報を頼りにすれば、いずれは足元を掬われてしまうだろう。
だが今回に至っては、鋭敏に研ぎ澄まされた千迅の感覚ほど頼りになる情報はないと言って良かった。
いうなれば五感が異常に鋭くなり第六感すら発動している状況とでも言おうか。
『あはは!』
この状態ともなれば、何をやっても上手くいく……と感じられる。……いや、思い込むのか。
とにかく今の千迅には、出来ない事はないと感じられていた。まさしく「ゾーン」に入り込んだ状態なのだ。
『あっはははは!』
だから今の千迅は、この時間が楽しくて仕方がなかったのだった。
そう……ただ只管に無心で遊ぶ子猫の様に。
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