テイク・オフ

 練習走行が終わり、コースを走っていたライダーたちが次々とピットインをする。

 消耗したガソリンを補給し、摩耗したタイヤを交換。その他、メカニックやライダーが気付いた部分を可能な限りチェックし、来る本番に備えるのだ。

 その間、ギリギリまで走っていたライダーたちは、ほんの僅かな休息を取る事が出来る。


「千迅、調子はどうなの?」


 今回のレースは「タッグレース」であり、2人1組となって行う試合形式でもある。

 紅音も当然、パートナーである千迅の体調が気になる処であった。……いや、彼女が気にしていたのは、千迅の身体などではなく。


「うん、絶好調だよ!」


「……あなたの調子は聞くまでもないわよ。私が聞いているのは、マシンの方よ」


 千迅が駆るバイクの方に気が行っていたのであった。

 春夏秋冬、季節に左右されず元気な千迅が、暑いからと言って調子を崩すとは考えられない。

 また、この暑さにやられたと言うのなら、彼女がいくら大丈夫と主張しようともその表情や態度で周囲の者にはまる分かりなのだ。

 それよりも紅音が気にするのは、やはりバイクの状態であろう。こればっかりは、気合や根性でどうにかなるものでもないのだ。


「マシンも、問題ないよ! さすが、このみちゃんだよねぇ。この極端なコースにも、丁度良い感じのセッティングにしてくれたよ」


 そんな千迅の答えを聞いて、紅音も頷いて応じていたのだった。

 このみの腕前は、改めて千迅に言われるまでもなく紅音も了解している。そして千迅の返答には、紅音も全面的に同意だったのだ。

 完璧なセッティング……とは程遠い。いや、そんなセッティングなど、この世には存在しないかも知れない。

 同じマシンを使っても、その日の状態で表情がガラリと変わる。

 そして同じコースだったとしても、季節や天気によってセッティングは微妙に変化するのだ。だからセッティングとは、どれだけベストに近いベターに持っていくかの問題だろう。

 そしてこのみは、今回に措いても正しく「ベター」なセッティングを施してくれたのだ。

 それを考えれば、とりあえずハード面での準備は完全だと言って良かった。


「それじゃあ、とりあえず作戦を伝えるわ。……勝つ為のね」


 木陰に腰を下ろした2人は、今回のレースについての打ち合わせを始めたのだった。




 そして1時間後。

 強く太陽が照り付ける中で、練習試合1戦目のレースがスタートしようとしていた。人数の都合上、練習試合は午前と午後の2回に分けられて行われる。

 そして1戦目には各校の実力上位者が参加する事になっていた。……もっとも、次回全日本スプリントレース参加予定者を除いて……なのだが。


『良い、千迅。最初は、私の話した通りの作戦で行くわよ?』


 それでも、実際にレースへと臨む者たちにしてみれば、参加者の面子など関係ない。

 たとえ本田千晶が出場していようが、またはその千晶が体調不良であったとしても、彼女たちが望むのは真っ先にチェッカーフラッグを受ける……ただそれだけなのだから。

 それに何よりも千晶や帆乃夏、雅が参加しないと言っても、タッグレースを専門とする各校のエース級は参加している。


『う―――ん……』


 気合がこもり真剣極まりない紅音の言葉に対して、千迅の返事はどうにも気の抜けたものだった。それは、イエスともノーとも取れる曖昧なものでもあり。


『ちょっと、千迅。分かってるの!? どんな相手が出てきているのか分からないけど、当面の〝敵〟は木下先輩と山田先輩のペアなんだからね?』


 紅音の気分を逆撫でするものだったのだ。


『わ……分かってるって、紅音ちゃん』


 さすがにレース直前になってパートナーと喧嘩など愚の骨頂である。それに先ほどの打ち合わせで、一度はのだ。

 事ここに至って渋っても、誰が我儘を言っているのかは分かる話である。


『……頼んだわよ』


 その呟きを最後に、紅音との交信は途絶えた。いや、2人のインカムは常に繋がっているのだから、これは紅音が黙り込んだと言うべきだろう。


(う―――ん……。紅音ちゃんの言ってる事も分かるんだけどさ。でもなぁ……)


 反論こそしなかったが、紅音の話した作戦というのはどうにも千迅の「性分」に合わなかったのだった。

 だから千迅は、頭では理解出来ていても納得出来ずに、紅音へも生返事しか返せなかったのだ。


『それではみんな、スタート5分前よ。ギリギリまで作戦の打ち合わせも良いけど、スタート直前の集中コンセントレーションは大事よ? ……各自、備えるように』

 そしてそんな紅音の苛立ちや千迅の葛藤を打ち払う様に、インカムから涼やかな声が聞こえて来た。

 言うまでもなくそれは、今回の練習試合において総監督として指揮を執る本田千晶の声だった。

 不思議なもので、彼女の声は良い感じに各自の入れ込み過ぎている気持ちをリフレッシュしてくれていた。


『美樹、香澄。あなたたちはエースライダー、エースチームなんだから。その意味を理解しているわね?』


『はいっ!』


『はぁい』


 そして先ほどの台詞とは真逆の言葉を、千晶は2人の2年生ライダーに投げ掛けた。

 それを受けた木島美樹と山田香澄からは、気負いのない何とも力の籠った返答が告げられたのだった。


 木島美樹と山田香澄は、いまだ2年生ながら第一自動二輪倶楽部において「タッグレース」のエースライダーチームを任されている実力者だ。

 スプリントライダーとしの実力は平凡なものでしかないが、タッグレースにおいてはその息の合ったライドで上級生を抑えて認められている。

 全国的にタッグレースの大きな大会が少ない事を考えれば、このレースはエキシビジョンであっても彼女たちにとっては数少ない対校戦と言って良く、気合が入らない筈も無かったのだった。


『向こうには3年生の工藤さんと岩崎さんも出場しているわ。……分かるわね?』


 工藤、岩崎とは、第一宗麟高校側のタッグレース代表選手である。

 1年生がその名を知らなくとも、他の上級生は嫌でも知っている名前であり、今後はタッグレースにおいて翔紅学園の強敵となる事に疑いのない選手たちだった。

 さらに千晶は、彼女たちを煽る様な台詞を口にした。しかしこれは、他の部員からすれば首を傾げる言でもあったのだ。

 スタート前のレーサーにライバルの存在を教えては、無駄に力んでしまうだけであり、そんな愚を千晶が侵すとは思えなかった……のだが。


『はい! 知っています』


『今後の為にも、勝ちますよぉ』


 2人から返ってきた声は、気合が籠っているが入れ込み過ぎているものではなかったのだった。

 それどころか、良い感じに緊張もほぐれている。


『それから、コースに出てしまえば先輩後輩なんて関係ないわ。互いに事故を起こさない様であれば、抜きにかかって良いですからね?』


 そして、改めて全員へと向けて檄を飛ばしたのだった。

 そんな千晶の声に、インカムからは全員の元気が良い返答が齎される。


「さてさて……。何人がそれを実践出来るか……よね?」


 千晶の言葉を隣で聞いていた美里が、ワクワクといった表情で眼下に居並ぶライダーたちへと目を向ける。

 学年や立場に関係なく真剣勝負を仕掛けて良いと許可を出されたとて、1年生の殆どが250CCレーサーをサーキットで直に走らせるのは初めてと言って良い。

 普通に考えれば下級生が上級生にまともな勝負など挑めるわけは無く、美里の台詞はその事を含ませているのだが。


「ふふふ……そうね。もっとも……」


は間違いなく……か?」


 千晶が美里の問いに答えようとして、その台詞を美里は先んじて口にし、それに対して千晶は気分を害した素振りも見せずに頷いて見せた。


(……言われなくとも)


(うぅ―――っ! 楽しくなりそうだよぉ!)


 そして千晶と美里の言う2人……千迅と紅音は、それぞれ心の中で気合を高めていたのだった。

 相手が他校ならばともかく、同校の上級生ともなれば抜きに掛かるにしても委縮してしまう。なまじ知人であるだけに、それは仕方がないだろう。

 ただし日常とレースを混同していては、今後の芽に期待出来ないのだが割り切って……と言えるほどに、人の心は強くもない。

 そして千晶がこの練習試合を受けた理由とは、遅かれ早かれ確認しようとしていた事を実践する為に他ならなかった。

 例え同じ高校の知人であっても……。いや、どれだけの大親友であったとしても、サーキットの中では互いに牙を剥き戦いあう。

 それくらいの気持ちを持っていなければ、とても戦って行ける様な世界ではないのだ。


 そして、いよいよスタートシグナルが赤く点る。決戦はそう……数秒後だ。

 スターティンググリッドに並んだマシンが、一斉に咆哮を上げる。

 鎖につながれた猛獣が、餌を目の前にしてそれを引き千切らんが如くの雰囲気が周囲一帯に満ちてゆく。

 レッドシグナルが消え、グリーンシグナルの点灯。

 さらに声高に叫び狂う爆音エグゾースト・ノート

 誰もかれもが、スタートダッシュを決めるつもり満々だ。

 2つ目のシグナル。そして……。


 ―――3つ目のシグナルが点灯する。


 同時に、そこに並んだ少女たちの駆る自動二輪車モンスターは弾かれた様に飛び出していった。

 そして今、翔紅学園と第一宗麟高校の女子生徒達による練習試合レースが切って落とされたのであった。

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