残照

 千迅が転倒した様子は、コントロールセンターでコース全体を見ていた千晶と美里の元にも無線で知らせられていた。

 各コーナーには、上級生が不測の事態に備えている。転倒や接触があれば即座に千晶へと連絡し、危険を表す旗を振り後続に知らせる為だ。

 そして今、千迅の転倒したコーナーでは駆けつけた上級生がイエロー・フラッグを振り、部長である千晶に指示を仰いでいる処だった。


「念の為に、救護班を向かわせて。それから、整備班も。安全を確認しながら、走行不能はしれないならマシンの回収をお願い」


 テキパキと指示を送る千晶のヘッドセットには、各部署から了承を伝える声が響き渡っていた。


「あいつ……こけちまったなぁ……」


 一通りの指図が終わり、一段落した千晶に向かって美里が声を掛けて来た。


「そうね。もっとも……あれじゃあ、あの結末は簡単に予測出来ていたんだけどね」


 美里の指摘に千晶は驚くでも残念がる様子も見せず、僅かにホッとした声音で返事した。


「なんだ……この結果まで予想通りだったのか。それなら、もっと事前に注意してやれば良かったのに……どっちにも」


 どちらにも……とは、言うまでもなく帆乃夏と千迅に対してだ。

 帆乃夏には事前にこの展開を知らせておけば、少なくとも千迅の追い上げに動揺し醜態を晒す事は無かった。

 そして千迅には、予め釘を刺してペースを落とすよう伝えておけば、転倒せずに最後まで走り切れたかも知れないのだ。

 勿論……あくまでも「かも知れない」なのだが。

 しかし千晶は意図してそうしなかった様で、美里に向ける笑みに反論を含んだ様子は見受けられなかった。


「帆乃夏には……これが良い刺激になるんじゃないかと思って。あの子はセンスは群を抜いているのに、今一つやる気……違うわね、危機感が足りないと思っていたの」


 美里の方へと振り返りコースへ背を向ける様にしてデスクへ腰を掛ける千晶は、揺らぎの無い瞳を彼女の方へと向けた。

 そんな真摯な……ある意味挑発染みた視線を受けて、美里は頬を赤らめてフリーズを余儀なくされてしまったのだった。


 本田千晶と言う人物は、同性から見ても美しく格好の良い女性だと言える。そんな彼女に、憧憬や好意を抱く同級生も少なくはない。

 ……いや、それは同級生だけには留まらず、下級生……延いては全校生徒の中にもかなり多く存在している。

 ただしそれは、所謂「百合」と言われるものではない。勿論、そんな願望を抱く者も皆無ではないだろうが。

 多くの生徒が「本田千晶」から受ける感情とは、所謂「惚れる」と言われるものだ。

 それは、男性が同じ男に「惚れる」と言うものに酷似している。言い換えれば「忠誠」「信頼」と言った、ある種のカリスマ性だろうか。

 そしてそれは、千晶の側近として長く近くにいる美里も持っている感情であった。

 もっとも、男の場合は見つめられて「照れる」と言う事が無いと考えれば、傍から見ればやはり「同性愛」だと勘ぐられても仕方が無いかも知れない。


「そ……その起爆剤となるのがあの子……一ノ瀬千迅だって言うの?」


 何とか態勢を整えた美里は、懸命に平常心を装った表情を浮かべて千晶に返答した。

 そんな美里を見る千晶の表情は変わらない。僅かに笑みを浮かべた口元と、まるで心の中を見透かす様な視線を湛えている。

 因みに、千晶には読心術などの心得は当然……無い。


「う―――ん……どうかしら? 何となくそんな感じがした……って処かしら? 言うなれば……女の勘ね」


 そして突如表情を変え、年相応に可愛らしく疑問を浮かべた顔となった千晶がそう口にする。

 不思議なもので、たったそれだけの事で美里に掛けられていた呪縛は霧散して消えたのだった。


「女の勘……って。まぁ、『本田千晶の勘』なんだ、それこそ期待出来るって事じゃないかな」


 ある種の安堵の溜息を小さく溢して、美里は彼女に返した。

 ただしそこには、美里自身にも良く分からない……小さな小さな感情が含まれていたのだった。




 駆けつけた救護班の誘導を丁寧に断り、千迅は整備班に運ばれてゆくマシン……先程までの愛機を見つめていた。

 転倒したのは低速コーナーであり、滑る様なこけ方だったのでマシン自体のダメージも酷くない。

 損傷は見る限りで殆ど無く、そのままマシンを起こして再起動させコースへと戻る事も彼女には出来ていた。

 だが千迅はそうしなかった。

 いや……出来なかったのか。

 千迅の中では、先程の転倒によってこの「レース」は終わったのだった。

 もっとも今回のこのコース周回はレースなどではなく、練習プラクティス……いや、レクリエーションに近しいものだ。それを考えれば、千迅のコース復帰辞退はその趣旨に反している。

 ただしその事について、上級生の誰からも文句は言われなかったのだが。

 マシンを先輩たちに任せた千迅は、そのままコースを逆走する方向へと歩き出した。

 ホームストレートにあるコントロールステーションやガレージまでは、まだ随分と距離がある。

 本当ならば、コース外周の専用コースを走るカートに乗って移動する方が効率も良いのだが、千迅はあえてそうしなかった。

 既に同級生たちは全員、千迅の前を通り過ぎて行った。もう、このコースを走っているマシンは1台も無い筈である。

 それを知っているのかどうなのか、千迅は辿る様にコース上を歩いた。


 随分と時間が経ち、ゴールし終えた紅音を始めとする同級生たちは千迅の到着を待っていた。

 本当ならばそんな義務も無いのだろうが、上級生たちが怒声を上げる事も無く待機していては先に帰る事も儘ならない。

 何とも居心地の悪い空気の中、紅音たちは千迅の姿が見えるのを待ち続けたのだった。


「あっ! ごっめ―――んっ!」


 ピットロードで待ち構える紅音たち、そして上級生たちを目にした千迅は、然して悪びれた様子もなくそう声を出すと彼女達の元へと駆けて来た。


「ばかっ! 皆を待たせて何やってんのよ、千迅っ! 先輩たちまで待っていただいたんですからね!」


 そして合流するや開口一番、紅音は大声で千迅を怒鳴りつけたのだった。

 その剣幕に、千迅は軽やかだった足に急制動を掛けて一瞬のうちに縮こまってしまった。


「い……いや、あのね紅音ちゃん。コースが綺麗で、これがさっきまで走ってたコースか―――……って考えながら歩いてたら……つい……」


 それでも何とか言い訳をしようと試みる千迅だったが。


「なっ・にっ・がっ! つい……よっ! あなたってば中等部からそうっ! もう私達は最上級生じゃないんだから、少しは自覚しなさいっ!」


 紅音の剣幕は、千迅の一言や千言でどうにかなるものでは無かった。

 完全に抑え込まれ、このままでは消え去ってしまうのではないかと言う程に小さくなる千迅を助けたのは、やはりと言おうか部長の千晶だった。


「まぁまぁ、速水さん。今日はそこまでにしてあげて? 初めてで浮かれる子がいるのは、何もこの子だけ……今年だけって訳じゃないんだし……ね、美里?」


 紅音を宥めに入った千晶は、最後には美里に話を振って疑問形で話を終えた。

 そしてそれを受けた美里は頬を赤らめ、どこか居心地が悪そうにしているのだった。

 新入生一同には何の話だか当然分からない事なのだが、上級生の中には失笑を洩らす者もいる処からそれなりに有名な話なのかも知れない。


「そ……そう言う事だ! 部長が今回は不問としているのでこれ以上は何も言わないが、今後は団体行動、そして規律ある行動を求められる! 皆、心する様に!」


 そんな美里は小さく咳払いをすると、紅音たちに向かってそう訓告したのだった。

 どうにも格好の付かない状況となったのだが、まさか新入生がその場の雰囲気を壊す訳にもいかない。


「は……はいっ!」


 紅音たちは表情だけでも引き締め、元気よく返事を返したのだった。


「それじゃあ、どうにか締まったみたいだし、今日はこれまでとします。この後整備班はマシンのメンテナンスを。新入部員で整備に興味のある方は見学しても結構です」


「それでは、解散!」


 千晶がそう締め括り美里が号令をかけ、怒涛の新入生歓迎エキシビジョンレースは終了したのだった。


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