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 現れた、というのは正しくないのかもしれない。ずっとソコに存在はしていたんだけど、僕が『認知』したのが今、ってだけの話なのかもしれない。とにかく僕は、中年男性の背後にそびえる『怪異』の姿を、確実にこの目で捉えてしまっている。


 『ソレ』は巨大だった。人の身体よりも三倍ほどの高さを誇る図体を有していた。

 『ソレ』は翼を持ち、鋭利なかぎ爪を持ち、鳥のような姿をしていた。しかし緑色のウロコで覆われている全身は爬虫類のようでもあった。

 『ソレ』には髪の毛があった。立派なくちばしを生やしているものの、吊り上がった三白眼や、くっきりと凸をなしている鼻を見るに、その顔面は動物というより人に近かった。

 ありていに言おうか。僕の眼前に広がる『ソレ』は、バケモノだ。


 恐怖の感情が限界突破している僕が、絶叫をあげるのは必然だった。


「――うわああああああああっ!?」


 情けなくへたりこんでいる僕だったが、いよいよ腰を抜かして立ち上がれなくなる。本能が僕の五体に緊急避難命令を下し、僕は後ろ手をつきながら後ずさりを始める。


 あのバケモノはヤバイ。この世界の常識が一切通じない類の存在だ。絶対に関わり合っちゃいけない類の存在だ。本能的にそう感じた。


 鋭い三白眼を少し広げたバケモノの眼球が、ギョロリと動く。

 バケモノはゆっくりと顔を下げて、徐にくちばしを動かした。


『なんだぁ、クソガキ……、オマエ、オレのコト、ミえるのか? オレのコエ、キこえるのか?』


 バケモノのくちばしと同期するように、中年男性の口も動いた。ノイズの混ざった声が再び僕の耳に――聞こえるというより、頭の中に直接響いてくるような感覚に近い。

 どう、なってるんだ。あの男の意志と、バケモノの意志が、通じている? ……というか。

 あの男の意識が、バケモノに操られているのか?


 バケモノが二本足をゆったりと動かし、僕に近づいてくる。前屈の要領で全身をかがめたバケモノの顔が僕の眼前に広がり、僕はいよいよ手足さえも動かせなくなった。頭を支配していたのは恐怖。そして死の予感。喉が完全に乾いてしまってる僕の口からは、ひゅーひゅーと拙い呼吸音が漏れている。


 バケモノが再びくちばしを開いた。


『ケケケ……、ミエルニンゲンは……、イかしておくワケにはいかねぇなぁ……、カられちゃ、タまんねぇからなぁ。カられるマエに、クっちまわないと、いけねぇよなぁ……ッ!』


 ノイズ声の語気が強くなっていく。鋭い三白眼をカッと見開いたバケモノは、緑色の翼をいっぱいに広げて、地上から二本足を離して、思い切り跳躍した。


 夜月を背にしたバケモノが巨大な翼を左右均等にゆったりと揺らしながら、空の上で飛翔し、停止している。しばらくバケモノはそうしたままだったが、やがて全身を地面に向かって傾けさせ、急降下を開始した。猛スピードでバケモノが僕に近づく。僕は野生動物に捕食される昆虫さながらの気分に陥った。


「グッ……!」


 僕に向かって突進してきたバケモノが、鋭いカギ爪を広げて僕の身体を掴み上げた。


 全身を締め付けられる痛みを感じた僕は呻き声をあげる。僕の五体が支え処を失い、視界に映る景色がめまぐるしく移り変わっていく。空中に投げ出された足が、ブランブランとだらしなく垂れた。バケモノは、二次関数の孤を描くように飛翔を続けて、僕の退路は完全に絶たれる運びとなる。


 バケモノは空中で静止した。僕を掴んだままかぎ爪をゆったりと前に突き出し、バケモノの顔面が僕の目の前に広がる恰好となる。もちろん僕の身体はするどい爪にしっかりと拘束されており、一つも身動きをとることができない。


 巨大な人のカオが、僕の視界の端から端までいっぱいに。


 鋭い三白眼を細めたバケモノが、あんぐりとくちばしを開け放つ。アルコールに似た臭気が僕の鼻を刺激し、あまりの刺激臭に僕はエヅきそうになり、目からはボロボロと涙が溢れ出た。


『ケケケ……、オマエが、ナめたマネするからこうなったんだからなぁ……、オレにタテツいたからこうなったんだからなぁ……、オトナしくしとけばヨかったのに、そうしておけば、クわれるコトなんて、ナかったのになぁ……ッ!』


 ……喰われる?

 僕はこの段になると、もはや一切の思考を脳から手放していた。

 恐怖が限界突破し、感情のブレーカーが落ちていたんだと思う。

 ああ、僕は今、死ぬんだろうな。どうせなら、一思いにさっさとやって欲しい。

 懇願さえ脳裏をよぎる。


 元々、この世界に未練なんてなかったんだ。生命活動を維持するだけの生活に、嫌気すら感じていたんだ。ちょうどいいじゃないか。


 すべてを諦めた僕は目を瞑り、暗がりの世界に逃げ込む。


 このバケモノは一体何なんだろう、とか。何故僕がこんな目に遭わなければならないんだろう、とか。一切の疑問を捨て去った。


 自意識も、感情も、感覚も、記憶も――僕という存在を構築するあらゆる概念を。

 虚無に譲渡する決意をした。


 日本酒を腐らせたように甘ったるく、顔面に粘りつくような臭気が相変わらずキツい。目を瞑っているからわからないけど、僕の頭は今まさに、鋭いくちばしに噛み砕かれ、バケモノの体内に取り込まれようとしているんだと思う。数秒後には、僕の頭は胴体から切り離されているんだと思う。僕はそういう想像をしていた。――して、いたんだけど。

 結論から言うと、そうはならなかった。


 あらゆる五感に急変が生じる。まずは、さきほどまで鼻に纏わりついていた臭気の気配を感じなくなった。全身をギチギチと縛り付けられているような痛みもなくなった。僕の身体は、バケモノのかぎ爪から引き離されたようだ。


『ギィエエエエエエエエエエッッ!?』


 けたたましい絶叫が僕の脳に響いたところで、ようやく僕はパチリと目を開いた。さきほどまで眼前に存在していたバケモノは相変わらず空中を浮遊しており、しかし僕の視界の中でみるみる内に小さくなっていく。僕はバケモノと自身の距離が急速に離れていっているのだと理解した。つまり僕は、空中に身を投げ出されている。


 おそらく数秒くらいの時が流れて、僕は、背中全体を平べったい鉄板をぶつけられたような痛みを覚える「――つっ……」思わずうめき声が出た。僕の全身は背中から地面に落下したらしい。燃えるような痛みを必死に堪えながら、僕は上半身をムクリと起こした。


 視界に、『誰か』の姿が映る。

 距離にして一メートルほど先。『彼女』は僕に背中を向けて凛と立っていた。


 切り揃えられた銀髪のショートヘアが揺らぐ。紺色のセーラー服を纏った彼女の、やや短いスカートから華奢で細い足が伸びている。斜めに伸びた右手には、一本の刀が握られていた。


 彼女がクルリと顔だけをこちらに向けて――僕はギョッと目を丸くする。

 彼女が、真っ白な狐面を被っていたからだ。


 やがて、重力を持った何かが落下する衝突音が連続して二つ、ドサリドサリと僕の耳に届いた。音がする方に目を向けると、僕を捕食しようとしていた例のバケモノの図体が、少し遠くの地面で横たわっており、そのすぐ近くで、僕の全身を拘束していたかぎ爪が転がっている。かぎ爪は、バケモノの身体から切り離されていた。


『イデェェェェェッ!! イデェヨォォォ……、ナンデ、ナンデオレがこんなメに、オレを、ダレだとオモッてやがんだよぉぉぉ……ッ!』バケモノの悲痛な声が歪に響く。


 狐面の彼女は再び正面に、バケモノがいる方に顔を向き直した。彼女がバケモノに向かって言葉を発する。妙に落ち着いた、赤子をあやすようなトーンの声だった。


「高ぶり、侮り、人を見下すその態度。さしずめキミは、『傲慢』の心魔ってトコロかな」


 バケモノがもぞもぞと全身を動かし、無惨にも一本足になってしまった姿のまま体を起こす。細い三白眼は真っ赤に充血していた。ちなみに中年男性は、狂ったように自身の頭をかきむしっている。バケモノと中年男性がほぼ同時、大口を限界まで開け放つ。


『フザけ……、フザけんなよぉぉぉッ……!? もうガマンならねぇ……、クってクってクってクって……、オレをナめるヤツらゼンイン……、ナイゾウごと……、ムサボりクってやるからよぉぉぉぉッ!?』


 バケモノの咆哮が周囲に轟き、僕は全身の毛が逆立つような感覚に陥った。瞬間的に感じ取った生命の危機。『このままだと捕食される』と脳が明確に認識した。でも。


 僕の眼前で凛と立つ、狐面の彼女は相変わらず堂々としている。一つも平静さを失わない様そうで、少し足を開いて腰を落とす。刀を握っている右手をゆっくりと動かし、切っ先が綺麗な半円を描いた。彼女は今度は両掌を使って柄を握りこみ、自身の顔のやや上方で刀を構える。


 狐面の彼女の、淡々とした声が再び。


「成程ね。それがキミのエゴってやつなんだね。でもちょっと、キミのエゴに付き合うことはできないかな。私とて、私の事情があるからね。こんなところで喰われるワケにはいかないんだよ。だから」


 バケモノが緑色の翼を大きく広げる。一本足をバネのように跳ね上げさせて、空高く舞った。バケモノに彼女の声が届いているとは思えない。それでも彼女は言葉をつづけた。


「斬らせてもらうよ。キミは、私の九番目の獲物だ。……安心おし。キミは私に斬られて現世から消失するが、私に斬られるという事実そのものが意味を為す。私の大義の、糧となる」


 遥か上空に飛び上がったバケモノが、先ほどと同様、広げた翼を折り畳み、身体を縮こませながら急降下の体勢をとる。バケモノに狙いを定められた狐面の彼女はというと、ジッと上空を見据えたまま、微動だにしない。


 この段になって僕はようやく理解する。

 さきほど、僕の全身を掴んでいたバケモノのカギ爪を奴の五体から切り離したのは、彼女の所業だ。


 空中から、急転直下の体当たりでバケモノが狐面の彼女に接近する。バケモノのくちばしが彼女の顔面に喰らいつこうとしたその刹那。

 彼女は、短く、鋭く、一切の猶予を与えないような声を。


「御心、頂戴」


 狐面の彼女が、刀を斜め下に斬り下ろす。

 僕が瞬きをする間もなく、バケモノの首から上が無惨に吹き飛んだ。

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