第6章「もちろん君にも大きなメリットがあるよ」うう

 絵が警察署を出た時には、もう太陽が真上を通り越していた。

 正面玄関を出るなり、長時間座って凝り固まった腰を思いっきり伸ばす。

 血の巡りが良くなって身体が楽になったところで雑用を済ませると、教えられた病院に向かうために小さな紙片を取り出す。

 メモには香箱大学附属病院と書かれていた。

 到着した病院は最初に公園のベンチで見た、あの純白の大学病院だった。

 今日も冬の日差しをめいっぱい浴びて聳え立つ姿は、清潔そのものと言っていいだろう。

 受付で入院患者の病室がどこか尋ね、教えてもらった部屋に向かうために階段へ向かう。

 登ろうとしたところで、降りてきた看護師と思われる男性二人とぶつかりそうになったので会釈をして階段を登っていく。

 目的の部屋は三階にある階段から一番遠い病室だ。

 公衆電話のある廊下を通り、火災報知器の横の名札を見ると、他にも何人か入院しているようだ。

 ノックをしてからスライドドアを開け、カーテンで仕切られたベッドの一つに声をかける。

「絵です」

「どうぞ」

 ベッドの上で起き上がった香織は太腿に包帯を巻いている以外は元気そうだ。

「怪我はどうです」

 絵は近くにあった椅子に座る。

「昨日は色々あって意識が朦朧としていたけれど、治療してもらって朝ご飯もらったら、とても調子がいいわ」

「それはよかった」

「シラタマ達はどうしてる?」

 夜が明けてから確認しに行ったひなたぼっこは、爆発で二階は限界をとどめておらず、生じた火災によって香織が集めていた本は全て消失してしまっていた。

 不幸中の幸いだったのは付近の建物に及んだ被害だ。窓ガラスが割れるか、炎による煤が付いたくらいで人的被害もなかった。

 住む場所、特にシラタマとワラビがゆっくりできる場所をどうするかと言う問題があったが、隣の猫カフェの店主の厚意で泊めてもらっている。

「ワラビはいつも通りマイペースに過ごしていました」

「退院したら、お礼言わないと」

 香織は枕元に置かれた三毛猫の置物を優しく撫でる。

 キナコの骨壷を真っ先に守ってくれたのは、誰あろうワラビだった。

 ひなたぼっこから脱出した時、キナコの骨壷を回収しようと、香織は炎上するひなたぼっこに飛び込もうとしていた。その時ワラビが囁き声のような鳴き声をあげる。

 両前足で大切そうに抱えていたのが、三毛猫の置物だったのだ。

「あなたの描いてくれたキナコが燃えてしまったのが残念」

「また描きますよ」

「じゃあまたお願いね。それでシラタマも元気だった?」

「元気でしたよ。昨日大立ち回りをしたからか、ご飯を沢山食べたそうです。あと沢山の猫に囲まれて、どうしたらいいのか困っている様子でした」

 香織はその光景を想像したのか、口に手を当てて微笑む。

「まぁ。ちょっと嫉妬しちゃうな」

「彼の気持ちは変わりませんよ」

 窓の外を指さす。

「あら、まさか」

 香織は足の怪我に気をつけながら窓の外を覗くと、駐車場近くの街路樹の影にいたシラタマガ窓を見上げている。

 香織が手を振ると、シラタマは耳をパタパタさせて喜びを表現していた。

「絵の方はどうだったの? 事情聴取」

「細かいこと根掘り葉掘り聞かれて、全部に答えたのに、僕が宇宙人だって全然信じてくれませんでしたよ」


 大学病院の地下、人気のない廊下を二人の男が進む。

 ファイルを持った若い看護師が歩きながら説明する。

「昨日のガス爆発の現場で収容した遺体。死因は火災による全身火傷だそうです」

 中年の医師は若い看護師の足の早さに辟易しながら質問する。

「ん? 昨日のガス爆発って商店街で起きたやつだろ? ニュースで死者の事は言ってなかったが」

「ええ。人間の遺体じゃないですよ」

「動物だったら動物病院だし。一体何が安置されているんだ」

「警察の友人から聞いたのですが、宇宙からやってきた生物兵器とか」

「じゃあ私達が司法解剖する遺体は、エイリアンという事なんだな」

 医師が響かせる靴音に唾を飲み込む音が混ざった。

「そんな恐れなくて大丈夫ですよ。診断書にもありますが、全身は炭化し、十二時間経った今も起き上がる気配はなし。万一の場合に備えて警察官もいるんで安全ですよ。それに宇宙人を解剖できるなんてゾクゾクしませんか」

 看護師の興奮した様子だけは医師には共感できそうになかった。

 遺体安置室前の角を曲がった途端、医師は違和感に気づく。

「あれ、警察官いないじゃないか」

「おかしいですね。さっきここに来るって伝えたら「待ってます」と言ってたんですけどね」

 看護師は「トイレにでも行ったんでしょう」と言って遺体安置室の扉を開ける。

「あれ? 電気つかない。こんな時に蛍光灯切れたのかな」

 看護師は手探りで壁に設置された非常灯を手に取った。

「おい。まず電灯を変えてもらったほうがいいんじゃないか」

 医師は子供のように身を縮こませていた。

「じゃあ先生が電話してくださいよ。僕は遺体を確認しておきますから」

 医師が電話をしている間に、看護師は遺体を照らす。

 当たり前だが、中央に置かれたベッドの上の遺体は布に包まれたまま動き出した気配はない。

 異常なしと思ったが、非常灯の光が布の所々で反射することに気づく。

「キラキラしてる––うわっ」

 近づいたところで、靴底が何かを踏み砕いた。

 照らすと床に無数に落ちたガラス片。どうやらこれが光を反射していたものの正体だった。

 看護師はしゃがみこんで、ガラス片を一つ手に取る。

 それは窓ガラスより透明感がなく、白く濁っていて蛍光灯によく似ていた。

 まさかと思って天井を照らすと、天井の蛍光灯が何かの力を加えられたように砕けている。

 生物兵器、エイリアン、いなくなった警察官。

 その言葉が看護師の頭をジェットコースターのように駆けめぐった。

 立ち上がり、冷や汗を吹き飛ばすほどの勢いで部屋を出ようとしたところで、後ろから何かに首を掴まれる。

 割り箸を二つに折ったような音が首の中で聞こえて倒れ込んだ。

 全く同じ格好でベッドの下にいた警官と目が合い、電話をしていた医師が、牛のような野太い悲鳴を上げていたが、看護師にはもう何も感じる事は出来なかった。


 血のように赤い夕陽が病室にいる絵と香織を染めあげる。

「僕もそろそろ母星に帰ろうと思います」

「帰るって母星に?」

「ええ。僕を狙うマオウは倒れました。だから星に帰って色々と整理しようと思います」

「そう。絵が良ければいつまでもいてくれていいのよ」

「ありがとうございます。転送装置のエネルギーチャージに時間がかかるので、数日は滞在するつもりです」

 遠くでお茶でもこぼしたのか、微かな悲鳴が聞こえた。

「その間はどこに」

「とりあえず野宿でもしようかと……」

「待った」

 香織が言葉を遮る。

「泊まるところがないならそう言って」

「しかし、これ以上迷惑をかけるわけには」

「絵。私とあなたは友人なの。助けが欲しい時は素直に助けてって言ってよ」

 膝の上に置いた手を香織が温めるように包み込み、次の言葉を持つように目を覗き込まれる。

「二、三日でいいので、泊まれるところはありませんか」

 香織の口角が緩く持ち上がる。

「あるわ。じゃあ、ちょっと手伝ってくれる」

 香織が立ち上がろうとする。

「どこ行くんですか」

「公衆電話よ。二、三日なら泊めてくれる人に心当たりがあるの」

 立ち上がった香織に肩を貸して病室のドアを開けると、はっきりと悲鳴が聞こえてきた。

「何、下の階から……また!」

 悲鳴は止まず、何度も何度も火のついた導火線のように連鎖していく。

 階段から悲鳴をあげて、女性看護師が登ってきた。

 女性は勢い余って転んで倒れると、口から血を流しながら廊下中に聞こえるように叫んだ。

「皆さん逃げてください。化け物が登って––––きゃあっ!」

 絵だけでなく、声を聞いて病室から出てきた入院患者達全員が階段から伸びた黒い手を目撃する。

 足首を掴まれた看護師は悲鳴をあげながら階段に消えていく。

 スイカが打ち付けられる音が数回して止んだ。

 時が止まったように動けない絵達の前に音もなく現れたのは、二メートルはあるマリオネットだ。

 膝下まである真っ白なブーツを履いている以外は素肌を晒している。

 カーボンで塗りつぶしたようなムラのある黒い素肌の見た目は骨と皮であるが、女性看護師を片手で引っ張った膂力を考えると却って薄気味悪さを増長させる。

「マオウ……」

「あれがマオウ? 昨日と全然姿が違うわ」

「姿は違いますが、体色と情け容赦ないところを見てまず間違いないです」

 マリオネットの姿と化したマオウは肩から下を振り子のように揺らしながら、絵の方へ近づいてくる。

 途中、すくんで動けない患者がいれば、頭を掴んで窓の外に投げ飛ばす。

 それを見て悲鳴が上がるが、足が言うことを聞かないのか、誰も動こうとしない。

 絵はあたりを見回し目に入った火災報知器のボタンを力一杯押し込んだ。

 三階だけでなく病院全体で鳴る非常ベルは思わず耳を覆いたくなるほどだ。

 だが、その音のおかげで立ちすくんでいた人達の足が痙攣するように動き出した。

「みんな逃げて!」

 香織の発破が足を覆っていた氷を完全に砕いた。

 溶けた氷が海に落ちるように、患者達は我先と逃げ出す。

 階段の遺体を気にする様子もなく降りていくものもいれば、エレベーターのボタンを壊れるほどの勢いで押し続ける者もいた。

 マオウに廊下を塞がれた患者達は病室に飛び込んで扉を固く閉めて立て篭もる。

 絵は香織がいた病室に戻って窓に駆け寄る。

 下を見ると、駐車場を駆け抜けたり、車で逃げようとする人達でごった返していた。

 街路樹のそばにいたシラタマの姿がない。

 人々の荒波を見回しても白猫の姿は見つけられなかった。

 後ろからドアが倒れる音に続き、絵の横を板のような何かが通り過ぎていく。

 マオウが投げた病室のドアが窓を破壊する。

 ガラス片や壊れた窓枠に襲われる前に、香織に引っ張られ事なきを得た。

 逃げ場のなくなった二人はベッドに飛び込んだ格好のまま息を潜める。

 仕切りのカーテンが目眩しになってくれているが、それも時間稼ぎにしかならない。

 マオウがカーテンを一つ一つ開けて確かめていく音が鼓膜を震わせる。

 絵の心臓は激しく躍動して口から飛び出してきそうだ。無意識にポケットに手が伸びる。

 その不安を鎮めてくれたのは香織だった。

 彼女は背中に手を回し、静かに笑みを浮かべたまま、絵の唇に指を当てる。

 心臓の鼓動は落ち着いてきたが、カーテンを捲るマオウが次第に近づいてくるのは避けられようのない事実だった。

 香織が消え入りそうに囁く。

「大丈夫」

 絵は微かに動く唇に目を奪われていた。

「あの子が来る」

 ベッドを仕切るカーテンにマオウの影が映り込む。

 影の手が伸び指が折り曲がっていく。

 カーテンの布を掴み力が込められる寸前、突然マオウの動きが止まった。

 影絵が重力に逆らうように持ち上がり、頭から天井に激突する。

 マオウの体には見覚えのある緑のストールが巻き付いていた。

 二人が急いでベッドから脱すると、シラタマが病室の入り口にいた。

 シラタマはストールでマオウを拘束したまま、早く逃げてと手振りで廊下の方に誘導している。

 病室から出ようとすると、天井に突き刺さったマオウがストールから逃れようと身を捻る。

 シラタマはストールを動かし、床に叩きつけるとダメ押しとばかりに壁に叩きつけてやっとマオウは動かなくなった。

 シラタマが香織の太ももの辺りを見て、眉を下げる。

 見ると包帯に血が滲んでいた。

「私の事より、今は病院から脱出しましょう」

 言い終わらないうちに、シラタマが目の前から吹っ飛ぶ。

 マオウは立ち上がったシラタマの腹を殴り、首の後ろを殴り、膝蹴りを側頭部にお見舞いする。

 壁に激突したシラタマに、マオウが掴みかかる。

 シラタマはストールをエックスの形に広げて攻撃を防御すると、翼を広げるように動かしてマオウを押し退ける。

「ここは任せて逃げますよ」

「分かったわ。シラタマ負けないでね」

 シラタマはマオウと戦いながら、香織の方を見て頷き、そして絵に一瞬だけ目配せする。

 絵は頷くと、三階で止まっていたエレベーターに乗り込んだ。


 シラタマは香織達がエレベーターに乗り込んだのを確認する。

 防御一辺倒だったが、もう遠慮はしない。

 殴りかかってきたマオウの腕にストールを巻き付け、円盤投げをするように振り回して投げ飛ばす。

 病室のベッドを破壊しながら転がるマオウを追撃する。

 ストールの鉄球で押し潰し、刃に変形させてマオウを切り裂いた。

 致命傷のはずだが、潰れた上半身も二つに分かれた胴もすぐに再生してしまった。

 重力を無視したような動きでマオウが迫る。ただ振り回しているだけの両手だが、早くて避けにくく、当たれば重く痛い。

 腕の届かない距離に離れようとしても、見えない糸に繋がれているようにピッタリと張り付いてくる。

 両手で頭を掴まれ、のっぺらぼうの頭に頭突きされた。

 頭を固定され避けることもできずに、啄木鳥のような頭突きの連打を浴びた。

 殆ど見えない状態でストールを動かし、触れた部分に巻きついて力一杯引っ張った。

 後頭部から倒れたマオウは、大の字で固まっていたので、その間に距離をとる。

 マオウが足のブーツに手を添えながら起き上がって来たので、ストールの鉄拳をお見舞いした。

 壁を突き破ったマオウを追いかけて隣の病室に入ると、悲鳴が室内に響き渡る。

 ベッドに逃げ遅れた十代後半の少女が目をつけられないように小さくなってこちらを見ていた。

 先に動いたのはマオウだ。少女の頭を鷲掴みにしてしまう。

 マオウは、悲鳴をあげる肉の盾をシラタマに投げつけた。

 涙を流し口を大きく開けた少女はシラタマを飛び越え、このままでは窓から外に落ちてしまう。

 素早くストールでラッピングするように保護するも、マオウに背中を見せる格好になってしまう。

 強風で木の幹がへし折れるような音が背中から聞こえ、先ほどまでいた病室に吹き飛ぶ。

 シラタマは壁に激突しながらも、少女を無事だったベッドに優しくかつ素早く放った。

 大きくへこんだ壁の中で辛うじて頭を動かすと、マオウが頭を先にしてロケットのように飛んできた。

 避けれないと判断し、咄嗟にストールの盾を作り出すも、衝撃を感じない。

 盾が視界を遮ってしまったことで、マオウの動きが分からないことに気づき、ストールを元に戻す。

 それを見計らっていたかのように、マオウが視界を覆い尽くした。

 アッパーカットを喰らい、左右の肘打ちの連打が胸部を襲う。

 マオウはシラタマの頭を掴んだまま引きずり、窓の外を見ていた。

 香織達を探していることに気づいたシラタマは手から逃れようとするが、マオウに先手を打たれ壁に叩きつけられてから膝蹴りを喰らってしまう。

 外を見ていたマオウは、もう一度シラタマの頭を掴むと輪投げでもするように軽い動作で窓の外に投げ捨てた。


 病院を脱出した絵と香織は、駐車場を進んでいた。

 香織の足を気遣いながら、車の間を抜けていくので思ったより時間がかかっている。

 後ろの方で何か大きなものが落ちる音が聞こえて振り返ると、シラタマが車のルーフを突き破っていた。

 三階の窓からマオウが余裕を見せつけるようにゆっくりと降りてくる。

 車の上に落ちたシラタマには目もくれず、むき卵のような顔を絵の方に向けていた。

 したくもない睨めっこを終わらせてくれたのは香織の一言。

「あれで逃げましょう」

「あれって」

 香織が指差したのは、一台のカブトムシのような軽自動車。

 持ち主は徒歩で逃げたのか、運転席のドアが空きっぱなしになっている。

 エンジンがかかっているからすぐに発進できるだろうが、一つ問題があった。

「僕は運転できません」

「私が免許持ってるから」

 香織は運転席に座る。

「でも足を怪我してるのに」

「左足だし、この車オートマだから問題なし! 早くシートベルトして!」

 自らもシートベルトを閉めた香織は、ギアをドライブに入れ、アクセルを思いっきり踏み込む。

 急発進し、前に駐車している車にぶつかりそうになった。

「えっとバックするには、あっこれね」

 軽自動車を後退させ、フェンスを破壊しながら車道に出た。

 マオウは病院から猛スピードで離れていく車を認めると、地を這うような姿勢で追跡を始める。

 軽自動車は横転しそうな勢いで、亀の歩みのような車を追い抜いていく。

「どいてどいて。ごめんなさい。どいてー!」

 相手に聞こえてないのは分かっているはずなのに、香織は声を上げながら車を進ませる。

 絵はシートベルトを強く握り締めながら尋ねた。

「何処行くんですか」

「警察署で保護してもらいましょう」

「保護よりも逮捕されそうですけれど」

 軽自動車がガードレールを擦り、サイドミラーが後方にすっ飛んでいく。

「笑わせないで」

 香織は涙目になりながらハンドルを操作していた。

 けたたましいサイレンが聞こえ、反対車線を見ると、二台のパトカーが迫ってくる。

 一瞬こちらの交通違反を取り締まりに来たのかと冷や汗が出たが、通り過ぎてしまった。

 恐らく病院の方へ向かったのだろう。

 軽自動車の前はありがたいことに車の壁が開き、スピードを出しやすくなっていた。

 香織はハンドルを両手で固定し、アクセルを床まで踏み込みながら、上の方に何度か視線を投げていた。

「前見ないと危ないですよ」

「この車カーナビがないから標識見ないと警察署の道が分からないの」

 またサイレンが聞こえてきた。今度は後ろから次第に大きくなっていることから、近づいているのが分かる。

 振り向くと、一台のパトカーが追いかけてきていた。

「前の軽自動車止まりなさい」

 パトカーから発せられる警告はどう考えても今乗っている車に向けられている。

「止まらないわよ」

 香織の命令にカブトムシの心臓は激しく鼓動する。

 タイヤをすり減らしながら前を進む車を避けていく。

 しかしパトカーはどんどんと距離を詰めてくる。車の性能差が大きすぎた。

 また警告が発せられる。

 軽自動車のお尻を照らす赤い回転灯が不意に途絶え、同時にカブトムシのエンジン音以外の音が消える。

 香織と顔を見合わせると、ルーフの窓から差し込んでいた夕陽が影に覆われた。

 進む先にパトカーが頭を下にして落下してきたので、香織は急ハンドルを切ってそれを避ける。

 軽自動車が片側に全体重をかけたので、タイヤが悲鳴をあげ今にも限界を迎えそうだった。

 振り返ると、マオウが片手にパトカーを持ったまま宙を滑っているのが見える。

「あいつが追ってきてます!」

「後ろを見てて」

 アクセルを全開にするも、前は完全に停車している車で塞がれていた。

 香織はアクセルペダルから足を離さずにハンドルを切った。

 カブトムシが飛び込んだのは反対車線。

 自慢の角で相手を蹴散らすように、迫るヘッドライトを回避する。

 マオウが持っていたパトカーを投げつける。

 パトカーの砲弾は軽自動車の真後ろに着弾。

 爆発するようにアスファルトが盛り上がり、後輪が浮き上がった。

 絵が悲鳴をあげる中、香織は冷静に状況を見極めて、アクセルを踏み込む。

 着地したタイヤが道路を噛み、猛加速で迫る魔の手から逃れる。

 交差点に差し掛かったところで、突然の爆発音と、下から持ち上げられるような衝撃。

 舌を噛みそうになったので口を閉じ、横回転するカブトムシが落ち着くのを待つ。

 完全に停止したのは、交差点の真ん中だった。

「香織さん。聞こえますか香織さん!」

 香織は頭をぶつけたのか額から血を流している。

「……絵。何が起きたの?」

「生きてますね。車から脱出しますよ」

 ホイールが焦げた臭いに包まれた車内から出ようとドアノブを捻るが開かない。

 肩をぶつけて開けようとすると、外側からドアがこじ開けられた。

 助かったと思ったのも束の間、夕陽に照らせたマオウが手を伸ばしてくる。

 逃げることもできずに外に放り出された。

 立ち上がる前にマオウに首を掴まれて、無理矢理立たされる。

「香織さんは、彼女だけは見逃してくれ」

 マオウは顔のない頭を全損した車に向けると、手中にある獲物を手放す。

 影に覆われたことに気づき、咳き込ながら見上げると、マオウがカブトムシを持ち上げていた。

 中には香織が残ったまま。

 マオウが自分に何をしようとしているのか分かっていても、どうすることも出来ない。

 死から救ってくれたのは、ストールの鉄拳。

 吹き飛んだ手から軽自動車が離れ、くるくると回転する。

 車内に向けてストールが伸びて香織を回収し、それを見届けていると身体にストールが巻きつき、後ろに引っ張られた。

 助けてくれたシラタマも無傷ではない。

 金属質のボディは所々へこみ、フェイスシールドにはヒビが入っている。

 息するのも苦しいのか、肩が上下するたびに肋骨のあたりを抑えている。

 それでも視線は真っ直ぐ、倒れたマオウに定められていた。

 交差点を囲むように車が停まっていて、さながら古代ローマのコロシアムのようだ。

 その中心で相対するのは、純白のヒーローと闇より濃いマリオネット。

 マリオネットの不規則な動きにシラタマは対応できるようになっていた。

 敵の得意な間合いに入らないように注意しながらストールを操る。

 丸めたストールを雨のように降らして近づかせない。

 隙間を縫って近寄られたら、鋭いストールの刃で両肩を両断する。

 後退したマオウは両肩から下を失っても焦る様子を見せない。

 何故なら肩の切断面から新しい腕が生えたからだ。

「シラタマ。中途半端な攻撃は戦いが長引くだけだ。回復が間に合わないほど攻撃を繰り返せば勝てる」

 絵の助言を受けたシラタマはストールを自分の腕に巻きつけていく。

 血流が止まりそうなほどキツく巻き上げたそれは、先端を細く尖らした鉛筆のようになっていた。

 ストールはドリルのように回転を始める。

それは絶望という岩盤さえも容易く穴を開けられそうだ。

 シラタマが自分から攻める。

 マオウの攻撃を避けるでも受け止めるでもなく、ドリルとなった両腕をぶつけていく。

 マオウの腕は鉛筆削りに入った鉛筆のように細かく散っていくが、自らの再生能力を頼りに攻撃の手を緩めることはなかった。

 シラタマは殴られながらも、両手を振りまわし、マオウの腕だけでなく身体に穴を開けていく。

 ドリルが振るわれるたびに黒い粉塵が風に乗って舞っていた。

 シラタマの顔面に拳が炸裂し受け身も取れずに転がり意識が薄れるが、それ以上追い討ちしてこない。

 マオウは上半身の半分が失われている。今も再生しようとしているが、何かに止められているように体が元に戻らないようだ。

 起き上がったシラタマを見て、再生することを諦めたようで、片手一本で殴りかかってくる。

 シラタマの両手とマオウの片手が正面衝突を繰り返す。

 マオウは残った腕が抉れてもすぐに再生し、攻勢を緩めない。

 シラタマも防御を捨て、何度殴られても一歩も退かず、むしろ少しずつでも前に進んでいく。

 先に動きが止まったのはマオウの方だった。

 もう何百回目の腕の再生を終わらせた時には、のっぺらぼうの頭は既になく、上半身は糸のように細くほぼ下半身しか残っていない。

 シラタマが腕を破壊すると、再生は行われず、黒い身体は砂鉄のような粉となり、風によって散っていく。

 唯一残った一足のブーツは地面に落ちて動く気配はなかった。

「終わったの……」

 絵の腕の中で意識を覚醒した香織が弱々しく呟く。

「終わりました。シラタマが倒してくれたんです」

 満身創痍のシラタマが変身を解除する。

 猫の姿に戻っても怪我が酷いのか、身体を蛇行させながら香織の腕の中に倒れるように飛び込んだ。

「頑張ったね。ありがとうシラタマ」

 横になった香織がシラタマを撫でる事に夢中になっている間、絵は小さな物音を聞き逃さなかった。

 白いブーツが動いている。

 透明人間が履いているように一人でに立ち上がると、吐き口から黒い粉が吹き出し、次第に人の形を取っていく。

 完全に再生したマオウが近づいてくる。

 しかし立ち向かえる者はいない。

 シラタマは瀕死で戦う事はできそうになかった。

 ポケットに手を入れると、香織が両手を広げた。

 マオウが香織に向けて拳を振り上げる。

 自分の頭を潰される事が分かっているはずなのに、香織はそこから退こうとはしなかった。

 突然スイッチを切られたように、マオウの動きが停止する。

 氷にヒビが入るようにブーツに亀裂が走っていき、その度にマオウの体が痙攣していく。

 ブーツが完全に砕け散ると同時に、マオウの体は完全に消失した。

 香織はまた蘇るのではと不安げに砕けたブーツを見ていたが、完全に日が落ちても復活する兆しすらなかった。










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