第42話 二人の世界

 それは遠くで一度光ったのを最後に消えた。


 呆然とそれが消えたあたりを見つめていたエマは、息をするのも忘れていた。

 少しして隣から声がした。


「思ったより遠くまで行きましたね」


 エマは信じられない思いでロビンを振り返った。


「何をするの?」

「別に。答えが遅かったので」

 悪びれもせずに言い返したロビンを思わず睨んだ。


「最初に、あれは帰るときに返してくれるって約束したはずですよね?どうしてこんなことするの?」

 エマはロビンに詰め寄ると、ロビンは顔色ひとつ変えずにエマを見下ろした。

 見下ろして、笑った。


 憐れむように。


 その形のいい唇が意地悪く歪む。


「約束なんてした覚え、ありませんけれど」

「そんな……!」

「それに」

 ロビンはエマを見て笑った。

「あなたは随分人がいいんですね。人が約束を守る保証なんて、どこにもありませんよ」

 大きく息を吐いてエマを見た。


「約束をしたら、相手が絶対にそれを守ってくれる。そんな風に思っているなんて、あなたは随分幸せな人ですね」

 チラリとエマを見て、また笑った。


「それとも、あなたの周りはルーク様も含めて、皆さんあなたにとてもお優しいんですかね」


 その思い切り馬鹿にした言い方に、瞬間、エマの頭の中が沸騰する。

 許せない。本当に許せない。


 エマは一歩、ロビンに近づいて、グッとロビンを睨みつけた。

 その時のエマは、今までにこんなに怒ったことはないと思うくらい、怒っていた。



「それは、あなたが……あなたとレイチェル様がそうだったってことですか?」

「え?」

 ロビンが眉を寄せる。


 エマはじっと睨みつけながら、小さく笑った。


「あなたとレイチェル様は、約束を守ってもらえない場所で生きてきたってことですか?」


 わざと可愛くない言い方をした。

 それくらい頭に来ていたから。


 これはエマの憶測だけど、でもきっと真実だ。

 この人たちは、約束なんて存在しない世界で、裏切られて生きてきたのだ。


 その証拠にそれを聞いた瞬間、ロビンの顔色が変わった。

 一気に目が鋭くなって、そのまま腕が伸びるとエマの胸元を握って縛り上げた。女性相手とは思えない力で首を絞められて、息が苦しくなる。


 目を怒りに染めながらロビンは笑った。

「本当に、可愛くない人ですよね。あいつも皇太子もこんな女のどこがいいのか……理解に苦しむ」

 息が苦しいけれど、エマは笑って言い返した。

「約束を破るような人に言われたくないです」

 ロビンがエマの襟元をさらに強く締め上げると、息が詰まった。

 だけど、それは無視してロビンがエマの体を廊下の壁に押し付けた。


 背中が壁に押し当てられて、痛みが出る。

「本当に、趣味が悪い」

 そう言い捨てたロビンの目に見えるのがただ怒りだけで、エマは怖くなる。


 本当に殺されるかもしれない。

 そう思うような目だった。


 グッとロビンが手に力を込めると、呼吸ができなくなった。

「く…る……」

 エマの口から言葉にならない声が漏れると、ロビンがパッと手を放した。


 あまりの苦しさにエマはその場にしゃがみ込んで咳き込む。

 ようやく肺に酸素が入ってきて、ぼうっとしていた頭がはっきりしてきた。

 それでもまだ苦しくて、肩で大きく呼吸をしていると、エマの足元にロビンが立った。


 咳をしながら顔を上げる。ロビンは無表情でエマを見下ろしていた。

 その目がとても、とても冷たかった。


「余計なことばかり言うから、お仕置きですよ」

「これも……」

 エマはじっとロビンを見つめた。

「これも、昔あなたたちがされたお仕置きのひとつですか?」


 ロビンは舌打ちすると、もういちどエマの目の前に顔を下ろして、睨みつけた。


「それ以上言うなら、本当にしゃべれないようにしますよ」


 エマの喉に片手をかける。ほんの僅かに力を込めるだけにして、エマを見つめる。


 これは脅しだ。

 いつでもできるっていう、エマへの脅しだ。


「あなたみたいな人は、大嫌いだ」


 そう言い捨てると、ロビンは体を翻して去っていった。



 *******



「あのさ、いい加減、もうやめてくれない?」


 ルークの声が聞こえた。



 聞こえているけれど、エマはそれを無視して手にしている箒を持ち直して、また庭の芝生を掃き始めた。

 これがもう長い時間、続いている。夕方になって、火が翳り始めてきた。

「もう暗くなってきたし、こんな中で何が見えるって言うわけ?」

 それも無視してエマは手を動かし続けた。

 背中にルークの大きなため息が聞こえた。


 ロビンがいなくなってから、エマは王宮の庭をずっと履き続けている。

 正確には、ただ掃いているのではない。

 箒を使って、芝生を履いて、落ちているはずのものを探している。


 エマが掃いているのは、あのときロビンが投げた髪飾りが落ちたと思われる場所で、そこをあの後からずっと掃いている。

 髪飾りを探すために。


 すごい勢いで走ってやってきて、芝生の中を探し始めたエマを最初に見たのは、まだ若い庭師だった。彼はエマを見て驚いてそれを止めようとして、反対にエマに持っていた箒を奪われてしまった。庭師は焦って上司に報告し、次に庭師の棟梁が女官長を呼び、止めきれなかった女官長がパトリシアに連絡した。


 慌ててパトリシアが止めにきたけどエマはやめなかった。

 そしてパトリシアも困り果てて……ルークを呼んだ。


 それからしばらくしてルークがやってきた。

 そのときにはエマのドレスは泥だらけで、手も埃や泥で汚れていて、髪の毛もぐちゃぐちゃでひどい有様だった。

 だけどエマはそんなのどうでもよくて、ひたすら箒で芝生を履き続けている。

 ルークは横で、そんなエマをじっと見ている。


「あの髪飾りがここにあるかもしれないって言っても、遠くから見た場所と実際に落ちた場所って違うから。しかもこんな暗くなって……もうこれから見つけるのは無理だって。明日にしよう」

 ルークのため息が聞こえた。


 それでも手を動かし続けていると、エマの肩が掴まれた。

 その力の強さにエマは箒を動かす手を止める。

「もう、やめなって。みんなが迷惑しているだろ」

 顔を上げたら、遠巻きにエマを見ている女官や庭師が見えた。みんな心配そうにこっちを見ている。


「大体さ、君、あれをもらったとき、そこまで嬉しそうでもなかったじゃない。だから僕もいらないのかと思ったくらいなのにさ」

「違う!」

 エマは思わず言い返した。


 箒の柄をぎゅっと握りしめた。

「別にそこまで大事でもなかったでしょ?」

「そんなことない」


 エマは大きく首を振った。

「だって、あれは……ルークがくれた物だから」

「あのさ、落ち着いて考えてよ。確かにあの髪飾りは僕がプレゼントしたけど、いま君が着てるドレスだって、靴だって僕が準備しているのだから、同じでしょ?だったら別に髪飾り1個くらい、いいでしょう?」

 はああ、とため息をつくと肩をすくめた。

 エマは首を振った。

「違う」


 そのエマの勢いにルークは驚いて、それから眉根を寄せる。

「何それ?何が違うって言うわけ?」

「だってあれは二人で一緒に買いに行って、ルークが選んでくれたもので……」

 言いながら、エマの目に涙が浮かんだ。

「そんな風に二人で出かけたのも、買い物したのも初めてで」


 涙が浮かんでくる自分に、エマも戸惑う。

 ルークと買い物に行って、髪飾りを買ったことを、自分がこんなに大切に思っているなんて思わなかった。


 だけど話していたら気持ちが昂って、思わずポロッと涙がこぼれたとき、ルークが驚いたようにエマの顔を覗き込んだ。


「君、泣いているの?」

 エマは咄嗟に顔を逸らせた。

「泣いてないし」

「いや、思い切り泣いているよね」

 ルークはそっと指を伸ばして、その涙を拭った。

 そんなことをされたから、また涙が浮かんでくる。


「だって……」

 エマは唇を噛み締めた。

 これ以上泣くのが恥ずかしくて、なんとか堪えようとする。


「あれは……他の物とは違う。特別な気がしたから」


 初めて二人で買いに行った。ルークがエマのために選んでくれた。

 そんなたくさんの些細なことが、エマにはものすごく大切だった。

 またポロッと涙がこぼれて、頬を伝った。

 そうしたら、止まらなくなった。


「だから、大切にしたかった」

 涙が溢れてきて、どんどん頬を伝う。



 ポンとエマの頭の上にルークの手が載った。

「エマ」

 背をかがめて、ルークがエマの顔を覗き込む。

 青い瞳が宥めるようにエマを見た。


 とても、とても優しく、名前を呼んだ。



「欲しいなら、また選んであげるし、また買ってあげる」

「……うん」

「僕はセンスがいいからね。君に似合うものをちゃんと選んであげるから任せておきなよ」

「うん」

「エマが僕と一緒に出かけたいなら、いくらでも一緒に出かける。エマの希望を最優先にする」


 持っていた箒をエマの手から奪うと、ルークはそれを近くにいた庭師に渡した。その後でエマへ向き直る。


「とりあえず、もう帰ろう。君の帰りが遅いと、うちの親も心配する。家に帰ったら、ひとまず紅茶を飲んで温まろう。それから……今日のデザートには、君の好きなレモンのパイを作ってもらおうか」

 そうやっていつもエマが家で好んでしていることを言って、誘ってくる。

 エマは首を振った。

「でも……今日中に見つけたい」

「もう夜になるから無理だよ。許可をもらっておくから……明日ロキを連れてこようか。あいつは君の匂いに敏感だからきっとすぐに見つけるよ」

 エマを安心させるようにルークが笑う。


「だから、帰ろう」


 久しぶりに見たような気がするルークの笑顔に、エマの涙が溢れてくる。

 涙を見られないように俯くと、困ったようにルークが笑った。

 エマの後頭部に手を当てて、そっと自分の肩にあてた。

 手を伸ばしてエマの手に触れようとするから、エマは慌ててそれを避けた。


 それにルークがとても嫌な顔をする。

「何で避けるの?」

「だって、いまの私の手、ものすごく汚い」

 エマは自分の両手を握りしめた。

 泥だらけで、恥ずかしいほど汚れている。


 だけどそれにルークはムッとしたような顔をして、強引にエマの手を握った。


「汚くないから、気にしなくていい」


 そういうとエマの手を引いて歩き出した。

 その後ろを下向きながらエマは歩いていく。女官の横を通りながら、つい恥ずかしくて顔を逸らした。

 冷静になってみれば自分は汚れていて、顔もないた後でぐしゃぐしゃで

 それが、王宮の人気を集めるルークと手を繋いで歩いているなんて、恥ずかしい。


 誰にも見られたくないと思っていると、急にルークが立ち止まった。

「どうしたの?」

 ルークは振り返ると、さっと自分のローブを脱いでエマの頭の上から被せた。

 急に視界が黒くなってエマは慌てる。

「え?」

 驚いているエマを、ルークはさっと横抱きにした。

「え?どうしたの?」


 慌てるエマの耳元で囁く。

「ちゃんと僕につかまってて」

「え?」

「それから、僕がいいって言うまで、絶対に顔を出さないで」


 とても真剣な口調で言うと、ローブに包んだエマを横抱きにして大きな足取りで歩きはじめた。


 だけど少しして、足を止めた。

 何事だろうと様子を伺っていると、声が聞こえた。


「え?エマに何かあったの?」


 心配するような声は皇太子のものだった。


 こちらに駆け寄ってくる気配がして、ルークがエマを支える腕に力がこもる。

 なぜだかエマの心臓の鼓動が早くなった。

「エマ、怪我しているの?」

 そんな声とともにローブに手がかかった気配がしたら、ルークが体の向きを変えてそれが捲られるのを阻止した。


「エマは今泥だらけでひどい顔しています」

「え?」

「人前に出せるような顔ではないです」


 堂々と言い切るルークにエマはギョッとする。

 確かに今は見られるような顔ではないのは事実だけど、言い過ぎではないだろうか。

 声を出そうとして、止める。

 とりあえずひどい言われようだと言うことはわかった。


 ローブの外では皇太子も驚いてルークに詰め寄っている。

「泥だらけ?どうして?」

「探し物をしていたので」

「怪我したわけではないんだよね」

「違います。でも今日は連れて帰ります」

 そうしてルークが頭を下げた気配がした。


「え?エマは?そこにいるのは、本当にエマなんだよね」

「エマです。でも今日は帰ります」


 皇太子の言葉を切るようにして、ルークはそこから歩き始めた。

 迷いの一切感じられない歩きで進んでいって、そして馬車に乗り込んだ気配がした。


 それから馬車が走り出してようやく、エマの頭からローブを取った。


「な、何するのよ」


 思わず文句を言うと、ルークがホッとしたように息を吐いた。

「エマが途中で顔を出すんじゃないかと思った」

「そんなことできる空気じゃなかったじゃない!」

 思わずルークを睨みつけると、それでもルークは嬉しそうに笑った。


「エマが初めて僕の言うことを聞いてくれたね」


 本当にホッとしたように息を吐いて、

 そうしてエマを抱きしめた。


 それにものすごく安心したくせに、つい言い返してしまうのは、もう癖のような物なのかもしれない。


「まるで普段はいうことを聞かないダメな人みたいじゃない」

「僕の言うこと、聞かないよね」

「そんなこと……」


 全部言う前に、ルークがもう一度エマを抱きしめた。


「あんな顔のエマを、僕以外の誰にも見せたくないに決まってるだろ」


 それにエマは驚く。


「あんな顔って?」

 そんなにひどい顔だったのかと思いながら尋ねると、ルークは少し考えて、笑った。



「僕のために泣いてる顔なんて、他の人に見せられない」

「僕のためって……」

「そうだろ?」


 当たり前のような顔をするルークに、エマはいつものように言い返そうとして……


 だけどそれが事実であることを理解して


 思い切り恥ずかしくなって、もう一度自分で頭からローブを被った。





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