第17話 人生で初めての出来事

「いたぞ!」

 男たちの声がすぐ近くで聞こえた。


 路地を出たところで壁に体をつけて身を潜めていたエマは、路地裏から男が体を出した瞬間、頭上で構えていた棒を思い切り振り下ろした。

 それが男の肩にぶつかって割れる大きな音とともにエマの手に強い衝撃が伝わった。

 エマの振り下ろした棒は、男の肩に当たると、派手に砕けちった。


 殴られた男は、獣のような呻き声をあげる。

 そしてそのまま体制を崩して…その場に倒れ込んだ。


「死んだの?」

 パトリシアが呟いた。

 エマの手にしている棒はとても細い。これが当たっても死ぬことはないはずだ。

「気絶しただけです」

 その言葉にパトリシアがホッと息をついた。


 だけど、次の瞬間、路地裏から他の男たちが飛び出してきた。咄嗟に体を翻したけれど、エマの肩が掴まれた。

 逃げようと身を捩ったけれど、乱暴に体を壁に押し付けられて、背中に痛みが走った。

「やってくれるじゃないか」

 リーダー格の男が私を睨みつけた。エマの右手首を掴むと、それを捻り上げた。

「つっ…た!」

「随分楽しませてくれたな」

 男はエマの腕を上に持ち上げると頭の上で固定した。吊り上げられるような体制のエマの顎を、空いている手で掴んだ。

「もう容赦しない」

 エマを怒りを込めて睨みつける男の視線に、背筋が冷たくなる。


 頭に浮かんだのは、殺されるかも、ということだった。


 とてつもなく怖くなって、エマは逃げようともがいた。

「離して!」

 腕や顔を掴まれる手が気持ち悪くて、体を捩る。


 だけど男の力には叶わない。動いてもびくともしなかった。

 男と目があって、その目がぎらりと光った気がした。


 怖い。


 男の顔がエマに向かって降りてくるから、思わず顔を逸らそうとして、だけどそれより早く顎にかけられた手が、エマの顔をグッと持ち上げた。


「あんた、面倒な女だな」

 目の前に男の顔が迫った。男の吐く息が顔にかかって、その酒臭い匂いにエマはくらりとする。

 男は唇を赤い舌で舐めて、鋭い目でエマをじっと舐めるように見つめてニヤリと笑った。

「でも、気の強い女は嫌いじゃないけどね」

 ゾッとして逃げようとして、でも体の拘束は取れなかった。


「もう逃げられない。諦めろ」


 気がついたら男の顔が自分の顔のすぐ目の前にあった。



 咄嗟に目を瞑った。



 エマはその時、何も考えられなくて、ただ、頭の中に浮かんだ顔があって

 その人に向かって……助けを求めた。


 助けて!



 その直後、エマの頬に空気が歪むような鋭い感覚が走った。


 それに思わず顔を上げた。




 その時、夕焼けの空に、一筋の光の柱が立った。

 それはまるで空を切り裂くように光った。


 そして、エマと男がいる場所の、すぐ近く———丸い広場の中心にある大木の上に落ちた。

 途端に地面を揺るがすような地響きがして、すぐ後に大きな雷鳴が響いた。

 男が顔を上げた。

「かみな……り?」

 エマも思わず顔を空へ上げた。

 その拍子に、エマの顎を掴んでいた男が手を緩めた。


 その隙に急いで右手を引き抜いたら、男が手を伸ばして今度は前髪を掴まれた。強く握られて、髪が引っ張られる。あまりの痛みに涙が浮かんだ。

「やめて…離して!」


 エマの頬にぽつりと水の雫が落ちた。



 さっきまで夕陽が広がっていた空は一気に曇り、大粒の雨が落ちてきた。その雨はあっという間に道路を灰色に変える。

 その激しい雨で一瞬、視界が曇った。

 また光が遠くの空で光って、大きな雷の音がした。


 あり得ないくらいの嵐に呆然としていると、背後から低い声がした。



「手を離しなよ」


 その声に、空を見上げていた顔を戻す。



 その声のした方を見て、エマの目は丸くなった。


 だって、路地裏から出てこっちへ歩いてきたのは、見間違えるはずのない人だった。

「……ルーク」


 ルークは真っ直ぐにこっちに向かって歩いてくる。

 エマの腕を掴んだままの男に向かって、苛立ったように舌打ちした。

「早くその手を離せよ」

 こっちを見つめる目が、とても鋭い。

 今まで見たことがないほど、その目が据わっていて、ルークの全身から怒りが伝わってきた。


「聞いてた?離せって言ったんだけど」


 ルークはエマの目の前にいる男が手を離す気配がないのを見て、男を睨みつけた。

 すると、さっきと同じ、エマの頬を空気が歪むような気配がした。


 次の瞬間、さっき折れてそのまま道路に転がっていた棒が弾け飛んで、そのまま炎をあげて燃え出した。

 いつも冷静なルークがこんなに感情を爆発させているのを初めてみた。



 歩いてくるルークに、他の男が襲い掛かる。ルークは手にしていた剣を抜くと、そのまま男を振り向きざまに切った。男はうめき声を上げて倒れた。

 だけど、ルークは振り返ることなく、人を斬ったと思えないくらい、体制も顔色も一つも変えずに歩いてくる。

 別の男が近寄ると、本当になんのためらいなく、剣を振るった。



 男がエマの顎を掴む手の力が緩んだ。

 エマが両手でその体を突き飛ばすと、体のバランスを崩した男の体にルークが当て身を喰らわせた。

 その腕が男のお腹に入ると、男は目を見開いて呻き声を上げた。


 ルークよりも大きなその男の体が折れると、どさっと大きな音と共に地面に崩れ落ちた。



 そこで初めて、ルークはエマに向き直った。

 いつも輝いている金髪が、今は雨に濡れていた。

 そして前髪の下から覗く目ははっきりと怒りを浮かべていた。


 その目が本当に怒っているから、エマは何を言っていいのかわからなくなる。

 この人をこんなに怒らせたのは自分だと、エマも自覚している。



「なに…しているんだよ」


 ルークの青い瞳が冷たくエマを見つめる。

「どれだけ心配したと思っているんだよ」

 とても冷静に言われて、エマは泣きそうになる。


 いつもみたいに馬鹿にしたり、からかってくれたら、エマだって言い返せる。

 だけどこんな風に言われたら、何も言えなくなる。

 ルークがとても辛そうな顔をするから。

 だから、エマも苦しくなる。

 さっきよりもずっと、ずっと、苦しくなる。



「君…足、怪我してる」

 気がついたらルークがエマの足を見ていた。靴がないし、足も痛めて腫れているし、傷だらけでとても貴族の足と思えなかった。それをルークに見られた恥ずかしさで顔を俯かせた。


 こんな情けない姿を見られたくない。

 もう今更なのに、足をドレスの中に入れて隠した。


「こんなの、痛くないし」

 いつものように強く言い返した。



 そこにルークの腕が伸びてきて、エマの肩を掴んだ。

 見上げた先のルークの顔はまるでルーク自身が怪我したように、苦しそうだった。


 それを見たらエマの目に涙が浮かんできた。

 緊張が切れたのかもしれない。

 助かった安心感が、こんなふうにエマを涙脆くするのかもしれない。


 こんな時でも、エマはルークの前で泣くなんて、そんなの絶対に嫌だった。



 だけどそれはルークには伝わらなかった。

「もう…大丈夫だから」

 エマの顔を見て、そうしてもう一度、確かめるように言った。

「大丈夫だから…無理しなくていい」

 ルークと視線があうと、エマをじっと見つめて力強く、頷いた。



 エマの頬を涙が伝った。


 手で涙を拭いながら、顔を上げたエマはルークの顔を見つめた。

「もう、会えなくなるかと思った」

 ルークが苦しそうに顔を歪めた。

「……エマ!」

 ルークが持っていた剣を放り出して、そのまま腕を伸ばしてエマを抱きしめた。

 剣は道に転がって、ガランと大きな音を立てた。



「遅くなって……ごめん」

 そんな声とともに力強い腕がエマを包むと、右手をエマの後頭部に添えて、そっと頭を撫でた。

「ここに、いるから」

 その悔しいけど懐かしい感覚に、また涙が浮かんだ。



 ルークは本当に性格が悪いと思う。

 こんな時にんなことをされたら、絶対に泣き止めなくなる。


 わかっているのに、この人はエマの頭を優しく撫で続ける。

 だから、エマは泣き止むことができない。


 そしてもっと悔しいのは

 わかっているのに、泣いてしまう自分だ。


 これではまるで自分がルークに会いたかったみたいだ。

 ルークが助けてくれたことを、喜んでいるみたいだ。



 エマはルークの背に手を回すと、その背を両手で叩いた。

「もう…だめかと思った」

「ごめん」

「死ぬかと思った」

「大丈夫。簡単に死なせないから」


 エマは少し躊躇って、それから頭をルークの肩に押し付けた。

「本当は少しだけ、怖かった」

 ルークはエマの頭を撫でると、大きな息を吐いた。

「僕も心臓が止まるかと思った」

 エマがルークの背に添えた手に力を込めたら、ルークの腕の力も強くなった。

「本当に、よかった」

 その声が少し震えていて、エマはそれにも泣きそうになる。


 降り止まない雨が体を濡らし続けて、寒くて思わず体を振るわせた。エマはルークの背中を軽く叩いた。

「雨…ルークだよね?止めて」

 ルークの黒いローブをぎゅっと握りしめた。

「これ、ルークの魔力だよね」


 さっきの雷も、燃えた棒も、この雨も、ルークの魔力の暴走だと思った。

 魔力の強い人間が、激しい感情に晒されると魔力が暴走して異変が起きることがある。

 だから魔力の強い子供が生まれると、何気なく怒ったり泣いたりした拍子に家の中で竜巻が起きたり、小さな火事が起きたりする。


 それと同じ。

 全部、ルークの魔力だ。


 頭の上でルークが首を振った気配がした。

「今は無理」

「でも」

 と、ルークがグッとエマの体を引き寄せた。

「今は…できない。ごめん」

 コテんとエマの肩に頭を乗せて、ルークは息を吐いた。

「そんな余裕、ない」

 エマの肩に頭をぐりぐり押し付ける。

「すごく、心配したんだ」

 そうしてもう一度、大きく息を吐いた。


「間に合って…よかった」


 ルークの本当に安心したような声を聞いて、エマは小さくつぶやいた。


「ごめんなさい」




 返事はなかった。


 ルーク・ヘイルズに謝ったのは人生で初めてだった。

 そんなことが人生で起きるなんて思わなかった。


 馬鹿にされるかと思ったのに、

 ルークはそれを馬鹿にすることも、からかうこともなかった。

 返事の代わりにただずっと、エマを抱きしめてくれた。


 その腕がとても優しくエマを包むから


 ここなら、もう、大丈夫。

 エマはそう実感した。


 安心したら、急に体から力が抜けていくのがわかった。


「え?…エマ?」

 ルークが体を離してエマの顔を覗き込む。

 エマは体の力が抜けるのを感じて、目の前のルークのローブを握りしめた。

「エマ?おい!」


 いつになく焦ったルークの声がどこか遠くに聞こえた。


 そうしてエマは……

 そのままルークの腕の中で意識を失った。



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