第5話 甘くて苦いチョコレートの話

 毎日のように顔を突き合わせていたら、お互いの好みや趣味について知っているだろうと思われるかもしれないけれど、エマはルークの好きなものについて何一つ知らない。


 そしてそれは、ルークも同じだと思う。


 好きな食べ物も、好きな音楽も、好きな本も作家も

 それから好きな異性のタイプも知らない。


 エマとルークはお互いのことを何も知らなかった。




 7年生の時。年に1回行われる一番大きな試験が終わった時だった。

 エマが勉強を教えていた男子学生が、成績が上がったとエマに報告とお礼にきた。


 図書館でガリ勉をしていたエマは、彼に声をかけられて顔を上げた。

「成績上がってよかったわね。また頑張ろうね」

 その学生−−−ピーターはポケットを探って何かを取り出した。

 ポケットからでてきたそれがチョコレートだとわかってエマは顔を綻ばせた。


 チョコレートはエマの大好きなおかしだ。

 ちょうどその時季節は冬で、この国ではここ数年で冬にチョコレートを送り合うのが流行っていた。


 送る相手は主に好きな人、恋人で、自分の気持ちを伝えるためにプレゼントすることが多い。

 好きな相手に、気持ちを込めてチョコレートを送るのだ。

 


 ついでに言えば、勉強してルークに勝つことしか考えていないエマはその習慣について知らなかった。

 試験に出ないような最近の流行に、エマはとても疎いのだ。



 エマはそれを深く考えずに受け取った。

「わあ。ありがとう。私ね、チョコレートが大好きなの」

「そう?よかった」

 ピーターは顔を赤くして照れた。

「それでね、エマ。今度よければ一緒に出かけない?」

「え?どこに?」

「うーんと、エマは行きたいところはある?」

 少し考えて、エマは返事した。

「今は本屋に行きたいわ。新しい参考書が欲しいの」

「ほ、本屋?ええと、そうだね。エマが……」


 だけどそこに後ろから声がかかった。

「それ、何の話?」

 振り返れば、優等生の仮面を被ったルークがいて、思わずエマはため息をついた。

「あなたにいう必要ないけど」

 そこでルークはチラッとピーターを見て、それからエマの手の中にあるチョコレートの箱を見て目を丸くして、だけどすぐにそれをいつもの笑顔に変えた。

「ええと、ピーター、君のことを先生が呼んでいたよ」

「えっ。本当?」

「そうだね。急いでいたみたいだから、早く職員室に行ったほうがいいかもよ」

 ルークがいうとピーターは走ってその場を走り去った。


 エマはその後ろ姿を見送っていると、近くから視線を感じた。

「なによ」

「新しい参考書なら僕が貸してあげるよ」

「あなたからなんて絶対に借りないわ…って聞いてたんじゃない」

「聞こえただけだよ」

「あなたになんて借りるはずないでしょう!」

「そう…?それで勉強したら僕に勝てるかもしれないけど、いいの?敵の手の内は見ておいて損はないんじゃない?」

 ニヤッと笑ったルークに、エマは悔しくなる。


 だけど僅かに残った理性でその言葉を思い返す。


 そうだ。ライバルが何を見て勉強しているかを知るのは重要なことだと、自分で自分に言い聞かせる。


「そ、そんなにいうなら見てあげてもいいわよ」

 ルークは嬉しそうに笑った。

「そんなにいうなら今度持ってきてあげるね」

 なんだか言い負けた気がして、思わず心の中で舌打ちした。


 ルークは黙ってエマの隣に座ると机に置かれたチョコレートの箱を手にする。まじまじとそれを見るのに、エマは何だか居心地が悪くなってルークに声を掛ける。

「な、なによ」

「チョコレート、好きなんだ」

「悪い?」

「いや、初めて聞いたから」

 エマはルークの手からその箱を奪い取った。これは国でも人気のチョコレートで、手頃な値段でとても美味しい

 ルークはエマをじっと見つめた。


「どうしてピーターがエマにチョコレートを渡したか、わかる?」

「………は?」

「このチョコレートの意味、わかる?」


 エマは思い切り混乱した。

 この目の前の優等生は頭がいいくせに、どうしてそんな馬鹿なことを聞くのだろう。


 眉を寄せながらエマは答えた。

「勉強を教えたから、そのお礼ってことじゃないの?」

「本当?」

「それ以外、何があるのよ」

 ルークはフーンと考え込むような顔をした。

「な、何よ」


 だけど次の瞬間、ルークは胡散臭いほどキラキラした笑顔を見せた。

「まあ、そうだね。それ以上の意味はないだろうね」

「……さっきから言っているじゃない」

「彼も可哀想な人だね。同情するよ」

「え?どういうこと?」

 ルークはそういうと肩をすくめて立ち上がった。

「それより、こんなところで僕と話していてもいいの?そんなことだと次の試験も僕に勝てないよ」

 それを聞いてハッとした。


 確かに何をしているんだ、私は。

 エマは慌てて勉強に戻った。



 それから数日後、図書館で勉強していたエマの元にルークがやってきた。

「はい。約束の本」

 そう言って分厚い参考書を差し出した。

「あ、ありがとう」

 覚えていると思わなくて驚きながらエマはそれを受け取る。分厚い本はかなり高価なもので、自分では買えなかったと思った。

「せいぜいこれで勉強してよ」

「そんな余裕があるのも今のうちよ。次こそは私が勝ってみせるわ」

「楽しみにしてるよ」


 エマとルークがいつものように言い合いを始めると、そこに一人の男子学生が通りがかった。エマは彼に向かって手を振って声をかける。

「あ、ピーター!」

 ピーターは辺りを見回して、手を振っているエマを見て、それから隣にいるルークを見て、遠くから見てもはっきりとわかるくらい顔をこわばらせた。

「ピーター、この間話途中で終わってしまったわよね。何の話だったかしら?」

 ピーターはエマと、それから隣にいるルークを交互に見て、これ以上ないくらい嫌な顔をした。その顔に少なからずエマは傷ついた。

「そ、それはもう、いいんだ」

「え?」

 ルークはエマに顔を向けながら、チラリチラリと隣のルークを見ている。

「もう本当にいいんだ。忘れて。エマ」

「そうだ。次の試験勉強はいつから始める?」

 それを聞いてピーターはあからさまに顔を強ばらせた。

「いや。これからは自分で頑張るよ。今までありがとう」

「え?ピーター?」

「じゃあ。邪魔してごめん」

「ちょっと、ピーター!」

 だけどピーターは走って逃げるようにいなくなってしまった。


「何、あれ」

「勉強は自分で頑張るっていうんだから、いいじゃないか」

「……変なの」


 エマはそこではた、と気がついた。

 ルークが当然のように自分の隣に座っていることに。

 それにその距離がちょっと近い気がする。


 エマはルークへ目を向けた。

「ちょっと、離れてよ」

「どうして?」

「なんか…落ち着かない」

 じっと睨むように見つめると、ルークは肩をすくめた。

「はいはい。用が済んだら早く帰って」

 エマがそういうと、観念したように立ち上がる。そっと隣から手が伸びて肩を叩かれた。


「エマ」


 なに?

 反射的に手の方向へ顔を向けると、目の前に小さな箱が差し出された。


 ルークがその箱を開けると、中にはチョコレートが2個入っていた。

 黒く光るチョコレートはとてもいい匂いがした。


「わあ」


 だから思わずエマはそれを見て歓声をあげてしまった。


 隣のルークからの視線に気がついて、慌てて平静を装う。

「ど、どうしたの。これ」

「これはね。僕の家に余っているチョコレートがたくさんあるらしくて、昨日もらったんだ。ね。

 ルークはそう言って視線を逸らせた。

「だから君にあげるよ。好きなんだろう。チョコレート」

 エマはじっとルークを見上げた。


 嫌なやつからの申し出とは言っても、エマは大好きなチョコレートをどうしても食べたかった。だってとても美味しそうだったから。


「……いいの?」

「いいよ」

 思わず浮かんだ笑顔を堪えながら、エマは手を伸ばして一粒指でとって口に含んだ。


 それは口に入るとあっという間に溶けて……口の中いっぱいに、甘さが広がった。


 今まで食べたチョコレートの中で、一番美味しかった。


「すごい、美味しい」


 エマはその美味しさに感動して、つい相手がルークであることを忘れて満面の笑顔を向けた。

「おいしい!すごい!」

 ルークはそれを見て不自然に目を逸らせた。

「そ、そう」

「すごい。美味しい。今までで一番美味しい」

 ルークはそのままじっと手の中にあるチョコレートを見て、さっと手を伸ばすと残った一つを手にして、

 それを迷うことなく、自分の口に放り込んだ。


 エマが驚きながら見上げると、ルークは自分の指についたチョコレートをペロリと舐めた。

 そして苦い顔をする。


「あま……」


 その顔がちょっと格好良く見えて、エマは文句を言うのを忘れてしまった。

 だけど、すぐに我にかえった。


「な、何するのよ」

「何?」

「私にくれたんじゃなかったの?勝手に食べないでよ」

「え、全部あげるとは言ってない」

「それはそうだけど……全部私にくれたと思うじゃない!」

「君があまりにも美味しそうに食べるから食べたくなった。…でもこれ、甘すぎ」

 エマは思い切りイラっとして大きな声を出した。

「私は食べていいなんて言ってない!」

「そもそも僕は全部あげるなんて言ってない。二つあったら普通は一つずつだと思うだろう?」

「そうとは限らないわよ!」

「勘違いがひどいな。一緒に食べようって意味だと思わないの?」

 それにエマはぴたりと体を止めた。


 私と、ルークがチョコレートを仲良く分け合うなんて…考えたこともない。

 咄嗟に勘違いしたのは自分かもしれないと思って謝ろうとした。

 だけどそこでルークがわざとらしいため息をついたから、忘れてしまった。

「全く、食いしん坊は困るな」

 エマは怒って顔を他所の方向へ向けた。

「信じられない!もう!」

 そう言うとルークは肩をすくめて体を翻した。

「じゃあ、また明日」

 エマは思わず声を張り上げた。

「しばらく来なくていい」

「はいはい」

 そうして今度こそ、ルークはそこを立ち去った。


 その後ろ姿を見ていて、エマはチョコレートのお礼を言うのを忘れていたことに気がついた。


 今までで一番、美味しかったのに。

 明日会ったら、悔しいけど、本当に悔しいけど……ありがとうと言わなければ。


 そう思った。


 だけど、結局、翌日もルークにからかわれたエマは思い切りルークに言い返してしまって……結局ありがとうが言えないままになってしまった。




 その時のチョコレートは王都で一番美味しいと言われているショコラティエの、中でも一番人気のあるチョコレートで。

 ついでに言えば買うのはとても大変で、一粒でエマの持つ参考書が買えるくらい高価なチョコレートなのだけれど……。


 ルークに勝つために勉強しかしていないエマは、そんなことを知るはずもなかった。










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