第20話 好きか、嫌いか

 王女が帰った後は、嵐が過ぎ去ったみたいだった。

 あのハンナが片付けをしながら

「なんだか大変な王女様ですね」

 そうしみじみと息を吐いたくらいだから、よっぽどなのだろう。


 午後は部屋で王女疲れを癒すべくゆっくり過ごしていたけれど、夕方近くなるとソワソワし始めたロキが私のドレスの袖を引っ張った。

「お散歩?」

 エマが尋ねると、まるで言葉がわかるみたいに期待した顔で頷くから、散歩に行くことにした。


 ヘイルズ家の庭はとても立派で、いつも綺麗に整えられている。

 庭の緑の中を白い大きな犬がゆったり歩く様は見ていて気持ちが癒される。エマは庭のベンチに座ると外を走り回るロキをぼんやり眺めた。


 とてもではないけれど、今のエマには一緒に走る元気はない。

 だいぶ元気になったけれど、足はまだ腫れているし、痛みがある。

 あのパトリシアのそばで働くのは、自信がない。



 ふと、いつまでここにいていいのだろうかという疑問が、エマの頭に浮かんだ。何も言われていないけれど、ずっとお世話になるわけにもいかない。

 そもそも、ここの主人である、ルークの父親に挨拶もしていないのに、居候しているわけだ。

 あまり褒められたことではない。


 それにいつまでも仕事を休んでいられない。

 だけど、この間ルークが許可しないと仕事は復帰できない、と皇太子に言われたことを思い出す。

 なんの権力なのかわからないけれど、あんまり休んで無職になっても困る。


 一度ルークと話さないといけない、と頭の中でぐるぐる考えていると、ふとさっきのパトリシアの言葉が蘇った。


『あなたの外堀はほとんど埋まっているわ』

 外堀ってなんのことだ、とエマは疑問に思う。


 けれど、これからのことをちゃんと考えた方がいいのは確かだ。

 ルークとのことはパトリシアにあらぬ誤解を与えたけれど、会っていないものは会っていない。

 だからなんとかして一度ルークと会って話し合いを…。


 そんな風に一人でベンチに座って考えていると、庭で走っていたロキが突然吠えた。顔を空に向けて大きく吠えると、走り出した。そしてエマに向かって走ってきて……エマを通り過ぎた。エマは通り過ぎたロキが走る方へ顔を向けて……。


 少し離れたところでロキを撫でる、ルークの姿を見つけた。



 ルークは腰を落としてロキと目線を合わせて、笑顔で優しくロキの首元を撫でていた。ロキは気持ちよさそうに目を瞑っていて、心から気を抜いているのがわかった。

 しばらくしてその手を止めて、ルークはゆっくりとエマに顔を向けた。


 視線が合って、ルークはそっとロキから手を離すと、立ち上がってエマに向かって歩いてきた。

 それに思わずドキッとする。



 会っていなかったのはたった1週間で。

 その顔も体も、何もかも全部、変わるはずがないのに、

 今までのルークとすっかり違って見えて、エマは戸惑った。


 ずっと自分と言い争ってきたルーク・ヘイルズだってわかっているのに、

 その姿を見るだけで、なんだか胸が苦しくなって、見ていられない。

 そのくせ、目が離せないなんて、どうかしている。


 ルークってこんなだっけ?

 そして、私はいつも、この人とどうしていただろうか?

 エマはざわざわする気持ちを落ち着かせようと、深呼吸を繰り返した。



 ルークはエマの目の前まで来ると、少し背をかがめて、その青い瞳でエマを覗き込んだ。

 顔が近づいて、それになぜだかエマの心臓がさらに早く打つようになってしまうから、エマはどうしようもなくて、逃げるように俯いた。


 こんなに気持ちが落ち着かないのは、きっと久しぶりにこの人に会ったせいだ。そう自分に言い聞かせるけれど、それでも気持ちは簡単に落ち着いてくれない。



 ルークはごく自然にエマの隣に座って、ごく自然に声をかけてきた。

「ロキと散歩?」

 まるであんなことが二人の間になかったみたいに、今までと同じだった。

「だいぶ元気になったみたいだね」

 それにどう返事をしたらいいかわからなくて、ただ黙って頷くと、ルークがクスッと笑った。

「何?しゃべれないくらい僕に会えて感激しているの?」

 ちょっとからかうような言い方は、以前のエマだったらバカにしないでと簡単に言い返したはずだ。

 なのに、今はできない。


 ああ、私、おかしい。

 それを実感してエマは本当に混乱する。


 黙ったままのエマが余程おかしかったのか、ルークはじっと見つめてきた。

「……ちょっと、本当にどうしたの?」

 指を伸ばしてエマの前髪をそっと指で払った。


 目にかかった前髪がなくなって、見上げれば青い瞳が目の前だった。

 その目がじっとエマを見つめるから、色々考えていたのにそれが全部どこかに行ってしまった。

 だから、気がついたら予期しない言葉が口からこぼれ落ちていた。


「どうして……」

「え?」

「どうして今まで会いにきてくれなかったの?」


 言ってしまって、すぐにエマは後悔した。


 だって、こんな言葉。

 まるで放っておかれて寂しかったって言っているみたいだ。


 こんなことを言って絶対にからかわれる。そう身構えていたのに、意外にもルークは困った顔をした。

「ああ。ごめん。ちょっと忙しかったから」

「そういえば、王女が言ってたペナルティってなに?」

「うん?.……書類仕事だよ。たくさんの」

 ルークはいつになく歯切れの悪い返事を返した。

「私のせいで、ごめんなさい」

 素直に謝ったら、ルークはまた目を丸くした。


 眉を寄せて下から私の顔を覗き込むようにして、エマを見てくる。

「君、熱のせいでおかしくなったんじゃない?君がこんなに簡単に謝るとか……何かの間違いじゃないの?」

 エマの後ろの背もたれに手をついて、エマに体を寄せると、じっとこっちを見る。

「別人のようにおしとやかだよね。僕はそれでもいいけど、でも、前の威勢のいい君も悪くはな……」

「し、失礼ね。私が礼儀知らずみたいじゃない。私だって謝ることくらいあるわよ」

 あまりの言われっぷりに思わず被せるようにして言い返したら、ルークは嬉しそうに笑った。

「君はそうやっていつも通りにしていればいいよ」


 いつも通りにしてくれないのは、そっちじゃないか。

 だから私だって、言いたいことの半分も言えなくなってしまう。



「でも……私だって、落ち込むわよ」

 エマは俯いたまま、ぽつんと呟いた。



「私はね、このことであなたに何か良くないことが起きていたら嫌だなって。罰則が与えられるのだって、本当はすごく、嫌なの。あなたが他の人から責められたり、悪く言われたりするの、嫌なの」


 口にしたら、悲しい気持ちが膨らんで、なんだか涙が出そうだった。


「あなたは才能もあるけど、でも努力もちゃんとして……1番になるのにふさわしい人だと思う。今回のことであなたに何かあったら……悪いのは私で、あなたじゃないのに、あなたが罰を受けるなんて絶対に嫌。もし出世に響いたりしたら、耐えられない」

 エマは膝の上で両手をぎゅっと握り締める。


「だって、あなたは頭が良くて魔法でもなんでも誰よりも上手で……誰よりもすごい人なんだから」


 話している途中で、隣から伸びてきた手がエマの手の上に重ねられた。

 驚いて右隣のルークへ顔を向けたら、ルークは信じられないという顔で、エマを見ていた。



 青い瞳が、見たことないくらいまあるく見開かれている。

 形のいい唇を開いて何かを言おうとして、そして思い直したように閉じると、

 そして空いている手で自分の口を覆った。


「ちょっと……、ごめん」


 そう言って、エマから視線を逸らせた。

 そのくせエマの手に重ねた手にはぎゅっと力がこもった。

「悪い。ちょっと頭が混乱して……」

 そう言った顔は、はっきりと赤かった。


 ルークはエマへ顔を戻すと、呼吸を整えるように大きく息を吸って口を開いた。



「君。……僕のこと、好きなの?」



「……………は?」



 ルークはエマの手をぎゅっと握ったまま、照れたように笑った。


「いや、だって今の言葉とか、普通に僕のこと好きって言っているようなものだよ。わかってる?」

 今度はエマの目が丸く見開かれた。


 この人は何を言っているの?

 私が、この人を……好き?

 あり得ない。


 私がこの人に恋をするなんて、ない。

 絶対に、ない。

 どう考えても、ありえない。



 だから、全力で否定した。

 咄嗟に手を引こうとしたら、その前にルークの手に力がこもって手は繋がれたままになった。


 エマは頭を混乱させながらも、急いで反論した。

「いや、そんなんじゃないわよ。勘違いしないでよ。わ、私はね……ただ、私のせいであなたの経歴に傷がついたら悪いなって思って……それだけよ」

「落ち着いて考えなよ。君は相変わらず視野が狭いな。もし僕のこと嫌いだったら、そんなこと気にしないよ。僕の経歴に傷がついたら困る、なんて……そんなこと考えるのは、僕のことを好きだからじゃないの?」

「ち、違うって!絶対にちがう!勘違いしないで」



 だけどそこで、ルークがグッとエマに顔を近づけた。


 その青い瞳に自分だけが写っているのがわかって、エマの心臓はこれ以上ないくらい、大きく鳴った。


 本当に、あと少し、顔が近づいたら……。


 きっと二人の唇は簡単に重なるくらい、近い距離だった。



 ルークはエマの頬に手を当てた。

 あの時と同じ、熱い掌が頬を包む。

 エマを現実に引き戻そうかとするように、その手がそっと頬を撫でた。



「ねえ。僕の答え……知りたい?」

「え?」

「君が僕のことが好きだと言ったら、それに僕がどう答えるか……答えを知りたい?」



 心臓が今度こそ、大きく鳴った。


 ルークが、どんな返事をするか。

 それはつまり、ルークがエマをどう思っているのかってことだ。


 ルークが、私のことを

 好きか、嫌いか。


 そんなことを考えたことがなかった。


 その答えを聞きたいような、絶対に聞きたくないような……


 もし、嫌いだといわれたら?

 思わず頭にそんな考えが浮かんで、心臓がグッと掴まれたように苦しくなった。


 その答えには、天国と地獄ほどの違いがあるような気がした。



 ルークはじっとエマを見ていた。

 頬に当てた親指が、エマの目元を優しくなぞる。



 答えを聞くのがとても怖くて

 だけど、目を逸らすことも、その場から逃げることもできなくて……


 エマはずっとルークの青い瞳を見つめていた。




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