5-2「学校に行きたくない」

 放物線と直線の交点は方程式を書いて求めます。数学教師の高い声が教室の空気を鋭く揺らし、それが合図だったみたいに、生徒たちが一斉にノートを取り始める。僕は膝の上に置いていたスマートフォンに手に取ると、暗証番号を打ち込み、チャットアプリのアイコンへ指を伸ばした。


 紬とのトーク画面には、相変わらず『大丈夫?』の吹きだしが悲しげに転がっているだけだった。返信を待っている間に秋の心地よい風は失われ、教室の外に見える木々もいつの間にか葉を落とし始めている。送信日時が、どんどん遠くなっていく。


 教室へ戻ったあと、昼食を片手に急いで屋上を目指した。相変わらずこの季節に着る服は悩ましい。セーターを着るには少し暑いし、ワイシャツだけで過ごすには肌寒い。もし神様という存在に会うことがあれば、なぜもっと季節を明確にしなかったのかぎっちり問い詰めてやるつもりだった。


 屋上で待っていても紬が現われるわけではないし、放課後の図書室を覗いてみても本を片手に難しい顔をしている彼女を見つけられるわけではなかった。


 この一ヶ月で充分思い知ったはずなのに、もしかしたら今日は、なんてまた足を運んでしまっているからどうしようもなかった。あと何回溜息を吐けば紬をこの目に映すことができるのか、まったくわからなかった。


「詩摘」


 放課後の身体が押し固められたようになる時間帯、階段を降っている途中に、背後から龍介の声がした。声を出すのが億劫だったため、振り返り、頭を傾けることで反応を示す。


「ちょっといいか」


 何か紬のことで進展でもあったのだろうか。僕に返信が来ないことはともかく、一ヶ月も学校に来ないなんて普通じゃない。彼は一度周囲を見回したあと、重苦しい顔で口を開いた。


「瀬川のことなんだけど。学校に行きたくないって言っているみたいなんだ」

「え。……え?」


 予想外だった。自殺志願者が学校に行きたくないと言うのは不自然ではないように感じるが、それでも、家に居場所がない紬が、数少ない逃げ場所である学校を拒否するとはどうしても考えられなかった。


「いや、龍介、それ……」

「ああ。母親がそう言っていただけで、本人の言葉じゃない可能性が高い。前触れもなく登校を拒否するとは思えない。瀬川と仲がいいヤツらにも訊いたが、どうして来ないのか不思議がってた」

「通告しよう。児童相談所に。明らかにおかしいよ、学校に一ヶ月も来ないなんて」


 龍介は「ああ」とも「いや」とも取れる返事をした。こんな状態になってもまだ通告を悩んでいるようだった。目が合って、龍介のほうから逸らす。横隔膜の辺りがヒリヒリする。


「なんで迷ってるんだよ」

「瀬川の今後の人生を考えろ。俺ら教員も慎重にやってるんだよ」

「今後? 今後よくなるなら今死にたくなるほど苦しんでもいいのかよ! 今すぐ助けだすべきじゃないの?」

「誰がそんなこと言った? 事実を歪めて解釈するな」

「結果そうなってるだろっ。もういい。紬の家に行く。無理矢理にでも連れだしてくる」


 はあ。龍介の呆れたみたいな溜息が聞こえて、余計に苛立ちが募っていく。大人を頼ろうとした自分が間違いだった。紬の言ったとおりだ。未来のことなんて今はどうでもいい。紬を苦しみから遠ざけることが、最初にやらなければならないことだ。


「お前さあ、もう高校生だろ。現実的に考えられねえの? 犯罪者になる気かよ」


 龍介の視線、それから声色が一段階威圧的になった。言葉を終えてから数秒、周囲から全く音がしなかった。


「紬を救うためなら犯罪者になってもいい」

「馬鹿かよ」

「はあ? 龍介こそ全然解決できてないくせに、何が大人だよ」

「俺だって時間かけてやってんだよ! 嫁に愛想尽かされるくらい時間使って生徒の安全のために行動してんだよ! それだけしても解決できない問題ってこと、そろそろ理解しろよ」


 睨み合いはしばらく続いた。音がしない間、空気は本来以上に冷たい気がする。長い沈黙と冬の廊下は、身体に籠もった熱を冷却するのに充分だった。


「もういい。大人には頼らない。何もしてくれないってわかったから。紬が言ってたとおりだ」


 龍介は僕を止めなかった。代わりに「勝手だが考えて行動しろよ」とだけ言い、僕とは反対方向へ足音を鳴らした。


 紬が外出していないのだとしたら、家を訪ねれば顔を見ることができるかもしれない。僕はとにかく、紬に会いたかった。そして、自分がしてしまったことを謝りたかった。その日の帰り道、彼女の家へ足を運んでみることにした。


 プリントを届けに来ました、体調が悪いのかと思ってお見舞いに来ました。理由は何でもよかった。今は彼女の生きている姿を確認できればそれだけで充分だった。せめて僕が助けだすその瞬間まででも、生きていてくれれば。


 自転車のペダルを踏むたび、身体に風が纏わり付いてくる。いくら力を入れてみても、同じところばかりを進んでいるような気がした。ペダルが空回りしている。あと数メートルというところで信号が点滅しはじめ、横断しようとしたころには車が道路を横切るようになっていた。


 憂鬱な気持ちが生む熱は、たしかな質量を帯びている。何かを試みるたびに熱が生まれ、身体に重さが加わる。もし紬が自殺してしまっていたら、僕が彼女の自殺を止めるために抑えてきたことがすべて無駄になってしまう。紬と刻んできた毎日は、気づけば僕に重さを与えるだけになっていた。


 彼女としたいことがたくさんあった。どうせ死ぬしかないのであれば、もっと紬のしたいようにさせてやればよかった。好きだと伝えればよかった。


 紬にとって、生きることにも死ぬことにも救いはなかった。死んですべてを終わりにするまでの間、できるだけ好きなことに時間を使う。いまならその気持ちを上手く理解してやれるような気がした。生きて救いを求めるより、死んですべてを断ち切ってしまうことのほうがずっと楽だった。


 これだけ考えた結果どうしようもないのだから、もっと早い段階から彼女の自殺に協力してやるべきだったのではないかと思う。あの日紬が言っていたように、僕は最初から自分勝手だった。いままで散々苦しんで、その上で自殺するという選択をしなければならなかった彼女に、最後だけでも笑っていて欲しかった。そのためだったら命を捧げる覚悟があった。


 紬と過ごすことによって、初めて僕は人生に意味を見いだすことができた。両親の死因となった自分を許すことができなかったのに、いつの間にか、紬と一緒に過ごすことそのものが僕の人生になっていた。彼女がいない時間のぶん、価値はなくなっていく一方だった。


 紬が住むマンションの周辺は、ひどく乾いた空気をしていた。きっと、このなかに絶望的な一室があることを誰もわかっていない。いや、わかろうと思えば簡単だ。わかろうとすらしないから悲しい現実は誰にも気づかれず、不幸な少女は狭い部屋のなかですすり泣くことしかできなかった。


 部屋番号を入力してインターホンを押したとき、身体から意識が抜けていくような感覚がした。不安定な足をぐっと踏み込み、なんとか立ち姿勢を保っている。熱の重さぶん、身体が地面に沈み込んでいた。


 呼び出しがタイムアウトになってからもう一度試してみたが、結局、反応が返ってくることはなかった。一〇分程度粘ってみても結果は変わらなかった。このまま通報されても困るので、この日は諦めて帰ることにした。

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