13.瀉血


 Gloamの日本支社。二人はその地下18階の建造物に正面から侵入していた。その地上一階ロビーはリミナルスペースのミーム画像として上がっていても良いほど整然としていた。タユタによって攪拌された吸血鬼の死体が散らばっていなければ。タユタは衛兵を倒してエレベーターに乗り、地下の最下階に向かった。列車にあった資料からその研究区画が貨物が運び込まれる目的地だとわかっていたから。


 エレベーターの中で流子は黙って俯いていた。怖かったからではない。吸血鬼の思考様式というものについて、思い返していたから。なぜかそれが必要な気がしたから。タユタに直接聞く必要はなかった。もう聞くべきことは聞いているし、ログを巻き戻せば書いてある。あとはそれを読解するだけだった。

 タユタは流子がいることを忘れているかのように反転フラップ式階数計を凝視していたが、心配したような様子になった。

「ごめんね。大丈夫。怖くないからね」

「違うの。考え事をしているだけ」

 前のように、狼狽するタユタを流子が慰めなければいけない状況かもしれない。疲れ切った彼女に血を与えるべきかも。それでも戦闘のための吸血は何か事務的なものになりそうで嫌だった。

 ここまでくる際、首都の交通管制による自動運転車の群れに紛れて移動するGEVの中でパックを飲んでいたから空腹については大丈夫だと思う。


 流子が2時間前にアップロードした動画は、検閲されることなく無事公開され続けている。そして、拡散されている。しかし、決定的な犯罪行為だという証拠にはなっていない。機械がどの程度人間から情報を読み取っているかが映像からではわからないからだ。被験者も、違法ではない学生の治験アルバイトだった。

 タユタは積み荷を発見してすぐ、やり取りされているデータ、ネムノキの疑似神経系にロードされたデータを記録して、造血植物研究所に送って、解析させた。

 それは人格の完全なコピーではなかった。これが議論を呼んだ。経路計算に必要な機能は維持されており、エピソード記憶と類似した部位が活性化していたものの、自己認識が出来るかは不明だった。それがいわゆる哲学的ゾンビであるのか、脳機能の一部が欠損したが苦しむ能力がある人間の哀れな魂であるのかがわからなかったのだ。

 Gloam広報は声明を出した。「我々は違法なマインドアップロードはしていない。これはサイドロードと呼ばれる全く別種の技術で、脳の自己認識とは関係のない低次の機能のみを抽出するものである。これは、植物の中に人間の意識を閉じ込める非道な実験ではない。今回は不本意な形で流出してしまったが、いずれこの合法的な技術を活用したサービスを提供する予定である」

 その迅速な対応から、反論は事前に考えられたものだと思われた。


 地下研究区画の中心部〈陵墓〉は広大な部屋で、林立する数十本の赤い支柱だけが二人を見下ろしていた。支柱はガラス張りの水槽で、その上半分は〈蛭木〉の樹枝だった。樹冠は絡み合って、ガウディがもっとも陰鬱なカタコンベを設計したらこうであろうという感じだった。光合成のための光源は人工的なものだった。

 その歩廊にレスタトは立っていた。

「待っていた。我が娘よ」

 その続柄に対する感動的な表現をタユタは無視して質問した。

「このたくさんの水槽は障害物?あなたの脊髄を少しばかり両断されにくくするための?」

「そう思ってもいいが、出来れば巻き込まないようにしてもらえるとありがたい。その疑似神経系の形状は夢内広告中にマップされた人間たちの脳の神経回路を反映している。睡眠中の彼らの脳に入り込んだ算素が極微のMRIとなって、侵襲的(invasive)ではないが浸潤的(infiltrative)な方法でスキャンされたコネクトームの位相的形状を再現している」

「やはり、夢内広告はそのためにあったのね。あれは、各部の脳領域を余すところなく活性化するための刺激のアソートパック。脳という彫像に様々な方向から光を当てるための」

 なぜライバル社の造血植物があるのかという疑問には、レスタトの次の言葉が答えた。

「君はこの商品開発の苦労を理解してくれると思っていたよ。Transcend社もこの計画に賛同して、クロスライセンス契約を受け入れてくれた。近日中にその共同発表が可能だ。まさか君は私の演説を信じて、私が彼らと競合していると思っていたのか?確かに私はそう言ったが、それは対外的に有効な、お互いに使える殺し文句に過ぎない。〝我々を弱体化させると、あなたの敵を利することになる〟という。そのいわゆる〝敵〟と我々がカルテルを結んでいれば、永久に批判をかわし続けることができる」

「あなたの脊椎がこの刃を躱すことが出来た場合に限って?」

 タユタは文字通り問答無用という風に距離を詰めていった。その手には通り道で解体した吸血鬼から生成された日本刀のような形の刀剣が握られていた。

 レスタトも持っていた鞘から鍔のない剣を抜いた。最も吸血鬼について正しく考証された映画『ブレイド』で描写されたように、吸血鬼は出自に関わらず最終的には原始的な武器での決闘で争いの決着をつけようとする。レスタトはその理由を説明し始めた。

「刀は良いものだ。肉を切り裂く、それ以外に用途の解釈のしようがない。物質が、機能によって所有されている。逆ではない。私が肉体に拘る理由もそこにある」レスタトは刀身を、魅せられたように矯めつ眇めつして言った。「私はマインドアップロードというものに興味を感じない。私はこの不死の肉体を手放すつもりはない。物理世界に、自分専用のハードウェアを持っているというのは、心を落ち着かせるものだ。機能が一義的であること。自分という精神を走らせるためだけに存在している計算機、それ以外の機能を持たせられないデバイス、それが肉体というものだ。それはとても贅沢なことなのだよ。網膜書架に対する紙の本のようなものだ」

 その比喩は流子にはわかる気がする。それ以外のものを示さない、それ以外のものとして解釈される余地のない、そんなあり方。流子が小説を、凪沙がキャンベルとかいう分厚い教科書を買っていたのを思い出す。だからこそ人間の精神も、精神以外の機能として解釈されるべきではないと思う。たとえば算素採掘ソフトウェアとか。だからレスタトの所業は悪なのだ。

「どこかの巨大な計算機に、自身が所有していないハードウェアに凡百の下等な知性と同居する。私は自分がそのような住民になると考えただけで閉所恐怖と屈辱を感じる。それは主権の概念に反する。その作業領域は、私の精神を実行しているときもあれば、タンパク質フォールディングを計算しているときもある、という運用方法など、耐えられるだろうか?私は私の計算素子を物理的に所有したい。私はプラットフォームの単なる利用者ではなく、所有者でなくてはならない。検索システムもその一例だ。

 算素による計算ネットワークへのマインドアップロードは太古から計画されていた。人間の血の中で生きる、精神だけの存在になること。肉体を持つことを倦み、そのように物理宇宙から退隠していった同胞もいる。私はその後を追わない」

 レスタトの行動原理は所有に対する存在論的な拘りなのだった。

 話もそこそこに、タユタは敵に切りかかっていった。タユタ側から言うことは特に無いようだった。レスタトは後退しながら捌いていった。タユタの何度目かの大振りな攻撃で近くの水槽が割れ、赤い液体が噴出した。

 レスタトは何度も斬撃を受けているが、その場で治癒するため、防御を気にしないようだった。異常な再生速度を頼りに重い反撃を与えるチャンスを誘うスタイルのようだ。

 レスタトが水槽を盾にしながら戦うが、タユタはそれを意に介さず、内容物ごと破壊しながら追い詰めていった。

 水槽表面のガラスに、いつのまにか映像が表示され始めた。それは樹々が見ている夢を不鮮明だが解読したものに見えた。その内容は、夢内広告をさらに無目的にしたような、終わりない悪夢に思えた。

 剣戟の途中にレスタトは言った。

「言い忘れていたが、これらの〈蛭木〉の精神は三階の言及システム、つまり自己認識を持っている。つまり自分が存在し、苦痛を感じることを理解している。

 そしてこの中には、そこにいるお前の眷属の精神の千の細片も、千の架空の個人の中に分散して存在している」

 タユタの動きが止まった。水槽を傷つけることを躊躇するように。

 もちろん、流子も睡眠中にスキャンされていたのだった。植物に閉じ込められたソフトウェア囚人に、流子自身と全く同じ人格は無いが、細切れにされた個性が他の死体の個性と組み合わせられたフランケンシュタインの怪物として、永久の悪夢に閉じ込められているのだという。流子はそんなものは気にしないでほしいと言おうとしたが、その前にレスタトの刃がタユタの胸部を貫いていた。

「そう、お前はこの形態の精神も守ろうとする。お前は構成要素によって知性を分けないから」

 レスタトは十本ほどの刃を床に広がる血溜まりから生成した。それらはタユタを目指して伸長して、串刺しにされたタユタは赤黒い交差する剣山に磔になってしまった。カート・ウィマー監督が言うヒーロー像のように苦戦することなく敵を下してきた彼女が、初めて絶体絶命の窮地に陥ったのだった。

 流子は崩れ落ちるように膝をついてしまった。自分がさっきからこのように弱々しく振る舞うとは思っていなかったが、ある意味合理的でもあった。考えさせてほしいことがあるのだ。流子はうつむいて、ぶつぶつと呟きだしたが、傍からは発狂してしまったように見えるだろう。

「お前は自分の偽善と矛盾に気付いていたのか?嗜血主義のシステムを使って、大量の消費者から算素を巻き上げ、自己を肥大化させ、そのシステム自体と戦おうとするとは。まるでシステムに寄生し、搾取するように。お前は嗜血主義の体現者、嗜血主義そのものだった。お前は畢竟、私の期待した通りに育ったのだ」

 レスタトは無抵抗なタユタを憐れむように続けた。

「お前は私の代行者になれるはずだった。だが、お前は私の目的の邪魔をした。嗜血主義に二階の言及システム、つまり意識を持たせるという私の夢を」

「なぜ……」タユタは吐血しながら問いを返した。「なぜ皆、一定以上複雑なシステムを見ると、こぞって押しかけて意識を持たせようとするの?計算機に始まって、あらゆる有機組織、経済システム、進化、宇宙の泡状構造……。それはそのシステムを、より一層私達の手に負えなくするだけ。言及システムは下位のシステムを完全に理解するわけですらないから。それどころか、見えないのに。システムは独我論的に他のシステムのことが見えない。人間が自分の身体のことを理解して制御できるわけではないように。そのようにして嗜血主義を下位システムとして誕生した超知性は、私達と全く同様に嗜血主義の扱い方に戸惑うでしょう」

「最初はそうだろう。だがそれが身体の扱いに習熟するまで時間はかからないだろう」レスタトは言った。

 流子は蹲って、頭を抱えた。絶望からではなく、考えることに集中したかったからだ。吸血鬼の思考様式。それが理解できれば。なぜもっと早く決心しなかったのだろう?

 システムには入出力がない。だから、内部の攪乱しか情報として受け取らない。攪乱。擾乱。攪拌。苦痛のような形でしか。

 色彩は光の行為であり、受苦である。出力であり入力であるとは言わなかった。

 表象の表象、意識の意識、自己認識の自己認識。

 下位のシステムに依存し、下位のシステムが消えてしまえば運命を共にする、滅びやすい、寄生するような、憑依するようなあり方。自己言及する閉域。

 流子は胃の内容物を吐いた。目に映るすべてが赤方偏移していくように感じる。それは無限の入れ子構造に遠ざかっていく。カルテジアン・シンドロームが治癒するのではなく、それが無限後退まで進行していく。

「これは全世界に中継すべきだ」レスタトは思いついたように言った。「人々は見たいのではないか?環境正義という、どんな相対主義者にも価値を貶められない、もっとも反駁しがたい正論で、自身の暴力衝動を正当化してきたお前が断罪されるところを」

 そこまで言って、レスタトは少しふらついてから肩を落とした。疲れたようだった。致命傷を再生し、遠隔地に刃を発生させるという離れ業は、流石に大量の算素を消耗するようだ。そして、蹲って首筋を見せている流子に近づいてきた。中継をする前に補給するために、手頃な人間の血を吸おうという気になったようだった。

 その牙が首筋に突き立てられようとしたとき、流子はその下あごを掴んで、算素資源の強奪と変性を開始した。流子は頭痛がし、視界が赤く霞んだ。すぐにそれは耐え難いものになって、流子はよろめきながら数歩、敵と距離を置いた。手の中には、何かよくわからない骨の塊のようなものが握られているだけだった。吸血鬼に変異したばかりの流子には、上手く元素が錬成できなかったようだった。あるいは、一瞬変異に近い状態になっただけで、障壁の向こうを少し垣間見ただけなのかもしれない。

 レスタトは損傷した下顎を異常な速度で再生しながら向かってくる。今度は吸血のためではなく、切り刻むために。

 流子は骨の塊を両手で握りしめてさらにまともな拳銃にしようと念じたが、そもそも拳銃の仕組みを理解していなかった。しかし力を込めた拍子にその物体の一部がスライドし、ばねで元の位置に戻った。カチリとかみ合わさる音がした。まとわりついた肉片を避けてみると、それは骨で出来た拳銃だった。それはクローネンバーグ監督の映画『eXistenZ』に登場した、有機物で出来ているが故に金属探知機に引っかからない暗器、Gristle Gunだった。その映画内では、チャイニーズレストランで出された奇形の両生類の軟骨を組み立てて装弾までするシーンが執拗なほど克明に描写されていたから、流子は内部構造を覚えていたのだった。たしかにこれはクローネンバーグ的事態だ。流子は躊躇なくレスタトに向けて発砲した。その悪夢にしか登場しない武器は弾丸として人間の歯を撃ち出すのだった。火薬という軽元素はしっかり錬成されており、それは全弾を撃ち尽くすまで火器として機能した。

 レスタトは胸部にそのすべての射撃を受けながら、数歩後ずさった。こんな冗談のような侮辱的な兵器で攻撃を受けたのは千年間で初めてで、何かの見間違いではないかという風に、傷跡から摘出した自身の犬歯をまじまじと見つめた。その彼を背後から衝撃が襲った。続いて不吉なエンジン音が響き、鳩尾からエッジが無限軌道によって回転する刃が現れた。その刃が遡上し、頭部に達してそれを縦に両断するまでは一瞬だった。タユタは頭上に血飛沫を散華させながら空転するチェーンソーをしばらく掲げていたが、重そうに地面に下ろした。

「この武器は咬錆の排出が多いから使いたくなかったのだけれど」

 タユタは残念そうに言った。

「たしかに多そう」流子は同意した。

「でも流子の武器がオーガニックな構成でよかった。そのおかげで全体の排出量は抑えられたと思う」

 相変わらず、どこまでが本気あるいは冗談なのかわからない。吸血鬼の思考とはこういうものなのだろうか?

 合理性だけで動く機械のようにも、本能のままの獣のようにもなることが出来、かつ苦痛を自分から切り離せるので死を恐れない。それで今までの彼らの行動は説明できるが、流子もそうなってしまったのだろうか?そんな実感はない。

 しかし、環境や制度を相手にするというのはこういうことなのだと思う。人間に共感し、理解する能力が最終的には役に立たない。それらの能力を無理やり流用するために、環境や制度を擬人化するのは、それらを〝より手に負えない物にするだけ〟。だから、擬人化でもない、機械のような記述でもない、何かの言葉が必要なのだった。



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