第8話 離宮の夢

 ──夢を、見た。

 懐かしい離宮の廊下を走る、夢。

 夏の陽射しがひどく眩しい。窓の装飾も、怖い顔の肖像画も、色彩は何もかも鮮やかで。それなのに暑さは感じない。

 だからこれが夢だと理解した。

 走っているのは、追いかけているからだ。

 何処までも伸びる終わりの無い廊下を、見覚えのある背中を。

 ける早さでなびく金の髪は一度も振り返らない。それでも、解る。

 ああ、あの後ろ姿は、兄上さまだ。

 まだ十にもならない兄上さまを、夢の中の小さなフィーアは追いかける。

 始めは、駆けていること自体が楽しかった。ただ無心に、飛ぶように走る事が出来た。兄上さまと一緒なら。どこまでも走っていける気がした。

 ──兄上さま、待って、まって、兄上さま……!

 もつれる足がもどかしい。小さな肺がもどかしい。次第に駆けることが苦しくて。

 追いかけても追いかけても。兄上さまは立ち止まってくれない。

 ──ああ、まって! おいていかないで、兄上さま……!

 どんなに追い着こうとしても。きっともう叶うことは無い。解っているのに。立ち止まることは出来なくて。

 走り続ける内に、フィーアは大きくよろけた。離宮の床にいつくばると思った瞬間、誰かがフィーアを抱き留めた。

 ──兄上、さま……?

 見上げたフィーアに微笑みかけるのは。

 黒く長い美しい髪。白皙はくせきの頬に穏やかな緑のひとみ

 ──アルフォンス、様……?

 ヴァローナ国王、アルフォンスは微笑みを絶やさぬまま立ち上がる。

『フィーア。可愛い私の妹。けして人に心を許してはいけないよ。お前を守れるのはお前自身だけだ』

 アルフォンスの顔で、兄上さまの声で、『それ』はフィーアの眸を射竦いすくめるように見つめる。

 ──お前は誰だ……?

 兄上さまでもアルフォンスでもない。直感で解った。

 フィーアが『それ』をにらみ返すと『それ』はにぃと妖しい笑みを浮かべた。

 夢が暗転する。離宮の景色がぼろぼろと崩れ去る。

 暗黒に飲まれた夢の中で、フィーアは見る。地底で待ち構える赤い眸。蠢く無数のかいなと気配。形は見えない。でも、そこにちたらもう二度と這い上がれない。そんな予感がする、奈落の底。

 近づいては駄目だ。触れてはいけない。

 純粋な恐怖に突き動かされて、フィーアは藻掻もがく。

 光の欠片も掴むことは出来ず、彼女はのたうち回って夢の底に落下していった。


「……!」

 酷い夢を見ていた気がする。目を覚ました途端にそれは霧散してしまう。寝汗にまみれてフィーアは寝台の上で身を起こした。

 天蓋付きの寝台は見慣れぬ形で、一瞬ここが何処だか解らなくなる。

 部屋の中はまだ薄暗い。フィーアは寝台を抜け出して、窓のカーテンを開け放った。

 眼下に中庭が見える。暁の空はようやくうつすらと明るくなり始めたところで、密やかに咲く花々の色はまだ解らない。

 ここはヴァローナの王城。湖の中に立つ水中城。

 ──ああ、私は……ヴァローナの王城に着いたのだ。

 フィーアはそう納得して、アルコーブの奥にある寝室の窓を開けた。春の早朝、まだ少しばかり冷たい風が吹き込んで、気分が鎮まってきた。

 もう一度寝台に戻るのは勿体ないような、そんな朝の清冽せいれつな大気。おぞましい夢の残滓ざんしを振り払うように、フィーアは大きく伸びをする。

 果実酒を過ごした所為せいだ。悪夢を見たのは。そんな風に自分を納得させて、フィーアは窓辺に設えられた長椅子に腰掛けた。

 まだ侍従たちが起きてくる気配は無い。今はそれが有り難い。

 フィーアは背中を丸めて、膝を抱え込む。小さなため息を漏らして、陽が昇ってくるのを待った。


 昨晩はデザートを楽しみ、食後のカファを喫してからフィーアは晩餐の席を辞した。

 王弟パトリックとその妻は気さくに振る舞っていたが、油断は出来ない。

 国王であるアルフォンスも、ただ優しいだけの人物では無かろう。

 誰に与し、誰を切り捨て、誰に賭けるか。

 フィーアが下す決断が、いつかニクス国の行く末を定める。

 そう思うと、フィーアは背筋が薄ら寒くなるのを感じずにいられない。いつでも背筋を正し、耳目を開き、出来ることの全てをする。

 覚悟はとうに決まっている。それでも、間違いを怖れる心は捨てられない。

 客間に戻ったフィーアは疲れ果てて、寝台に寝転んだ。

 侍従長が苦笑を浮かべて着替えをうながす。フィーアはのろのろと起き上がってどうにか正装を脱いで、とこについたのだった。


「……あらまあ。姫様、おはようございます。もうお目覚めでございましたか?」

 夜明けを迎えて一刻(約一時間)も経たぬ頃、侍従長が薪入れを抱えて寝室に入ってきた。暖炉に火を入れるためだ。

 春の盛りとは言えまだまだ早朝ははだ寒い。大切な姫様が心地よく目覚められるようにと、侍従長の配慮だった。

 フィーアは膝から顔を上げて、侍従長に微笑んだ。

「おはよう、マゲンタロート。早く目が覚めたから……朝焼けを見ていた」

「いかがでございましたか? 異国の朝焼けは」

「美しかった。城の向こうから太陽が昇って、薄暗い中庭が、新鮮な陽の光で塗りつぶされていくんだ。花も木も何もかもが新しく光の中に生まれてくるような……そんな美しさだった。朝の光はヴァローナでも変わらないな」

「そんなに美しいのでしたら、わたくしも見てみたいものです。姫様は詩人でいらっしゃいますね」

 侍従長は、窓辺のフィーアの隣に立った。すでに陽は昇りきっている。朝焼けの鮮度は落ちてしまったような気がする。フィーアが長椅子から立ち上がると、侍従長は窓を閉めて振り返った。

「姫様、こんなに冷たい風に当たられては身体に毒でございますよ。いま暖炉をつけますからよく暖まって下さいませ」


 暖炉のそばでフィーアが身体を暖める間に、侍従長が着替えを用意する。朝用の平服に着替えて身支度を調ととのえると、朝食の準備は終わっていた。慣れない様子でレイオスが給仕として側に控えている。

「朝食はヴァローナ風か?」

 フィーアが侍従長に訊ねると、侍従長は微笑みを浮かべて一礼する。

「いいえ。ニクス風に作らせてございます。パンもニクス風にいたしました。焼きたてでございますよ」

 居間のテーブルに並べられた、朝食に十二分な量のハムや腸詰め、それから銀のスタンドの上には殻付きゆで卵。焼きたてでほんのりと温かい黒いパンには、食欲をそそるカラントスグリフラゴイチゴのジャムが添えられている。よく冷えたナランハオレンジの果汁はガラスのピッチャーでレイオスが捧げ持ち、熱々のカファコーヒーはカップに注がれる時を待ちわびていた。

「レイオス。お前、朝食は?」

「まだです。姫様」

 窮屈きゆうくつな給仕のお仕着せは、レイオスには少し大きい。初めての給仕に緊張を隠せない森の子に、フィーアは笑みを向ける。

「それなら手伝ってくれ。私一人ではこんなに食べきれない」

 確かに並べられた朝食の量は、フィーア一人には多すぎるくらいで。フィーアの言葉で、レイオスは表情を輝かせた。

「え、いいの?! ……じゃなくていいんですか?!」

「ああ、かまわん。侍従長、こいつの分も卵と食器を用意してくれ」

「姫様、この子を甘やかすのも大概たいがいになさいませ!」

 侍従長は、鋭い視線を素直な森の子に向ける。レイオスが身をすくめると、和毛にこげに覆われた獣の耳がしゅんと垂れてしまった。

「良いでは無いか。飯を食うなら一人より二人だ。なんならお前も一緒にどうだ?」

「姫様、お戯れを!」

「戯れでは無い。私は本気だ。そうだ。ディルも呼んでやろう。カファが飲めるなら喜んでやって来……」

「かしこまりました、姫様。その子の分の朝食を用意させます。ですから衛士長をお呼びになるのはお止め下さいませ!」

 日頃から、フィーアとディルが親しげにしていることを侍従長は快く思っていないようで。彼女は、二人が同席すること自体を避けようとする。フィーアもそれをよくよく承知していて、揶揄からかうような言葉を使う。

 フィーアにとって、ディルは同門の兄弟子であり、友人のような者であり、練習相手。それ以上でもそれ以下でもないのに。

 侍従長は渋々レイオスの席を用意させる。森の子はちょこんと、装飾の見事な椅子に腰掛けた。

「侍従長にテーブルマナーを教わっているのだろう? どれだけ出来るようになったのか見せてごらん」

「はい。姫様!」

 レイオスは緊張を隠せぬまま、フォークとナイフをぎこちなく使いながら食事を開始する。

 フィーアは優雅だが素早く、朝食を口に運ぶ。冷たいままのハムと腸詰めがほのかに温かいパンに良く合う。

 このジャムは舌馴染みがある。おそらく本国から運んできた物だ。美味い。

 絞りたてのナランハ・ジュースで全てを流し込み、フィーアは四半刻(約十五分)も経たないうちに朝食を終えてしまう。

「……ひ、姫様、食べるの、早い……」

 カトラリーに手こずっているレイオスを尻目に、最後にミルクを入れたカファの香りを楽しんで、フィーアは息をついた。

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