第3話 森の小さな宿屋にて

 糸より細い雨の痕跡こんせきが、今日も窓を静かに落ちる。

 宿の二階。レイオスが戸を閉めて振り返ると、そこにはフィーア姫が外を眺めて立っていた。

 その横顔が、ほの明るい昼の光に一層白く照らし出されている。あおひとみじやくとして、憂いを含んで。森の中で剣を握った折りの猛々しさは、微塵も感じられなかった。

 窓辺に佇んだ彼女の姿が、一瞬全くの別人に見えた気がして。レイオスは不思議そうに何度か瞬いた。

 彼に気付いて、フィーアは顔を上げて振り向く。

 心なしか、彼女の眉は案じの形に曲げられていた。だが、そのひとみには彼女が常に纏っている覇気の様なモノが戻っていた。

 ──何だかさっきは、姫様じゃないみたいだった。

 レイオスは安堵したように、ふっと息をついた。

「どうだ? 父上の容体は?」

「……大丈夫。目を覚ましたよ。……姫様は本当に強いね。女の人じゃないみたいだ。どうやったらそんなに強くなれるの?」

「常に鍛錬を詰むことだ」

 レイオスはキラキラとひとみを輝かせて、フィーアを見上げる。

「うん! すっごく強くて……昔話の英雄様みたいだった!」

「そうか」

 自分に尊敬と羨望の眼差しを向けてくる少年に、フィーアは珍しくはっきりと分かる穏やかな表情で微笑んだ。




 予定を一日オーバーして、一行は小さな町へ辿り着いた。

 衛士である天法士てんほうしの応急処置で、レイオスの父はどうにか命を取り留める。

 だが、彼はそのまま三日間眠り続け、つい今しがた意識を取り戻したのだった。

「……でも、起き上がれるようになるまでまだしばらくかかるって……」

 切り傷などと違って、骨折や打撲傷は天法てんほうを使っても直りにくい。それに加え、天法による治療には高額な料金が必要だった。

 それは決して、森先案内の一家が気安く払える額ではない。

 寂しげにうつむいたレイオスの顔。では。

「……ここでお別れだね」

 一家の長である父親が動けないのであれば、アラルガント一家はしばらくの間、森先案内を続けることは出来ない。

 フィーアの一行が、ヴァローナへ向かう旅にそう長い時間を割ける訳もない。

 衛士たちは、すでに別の森先案内を探し始めていた。

「……そうだな」

 フィーアはそっとレイオスの側に寄った。見下ろした肩が微かに震えている。

 小さな肩。幼かった頃、自分の肩もこんなに小さかったのかと、ふと思う。

「……レイオス。お前の父上は、本当に勇敢ゆうかんだな」

 フィーアの一言にぱっと上げたレイオスの顔は、今にも泣き出しそうで、なのに笑っていた。

「……うんっ!」

 短い答えではあったけれど、それでも十分すぎる程にその声には父への尊敬と愛情が詰まっている。

 軽い羨望せんぼうを覚えて、フィーアはそれ以上の言葉に詰まった。



 フィーアが物心ついて初めて父王に会ったのは、今のレイオス少年より少し幼い十の歳だった。

 上の兄王子とフィーアの実母だった正妃せいひは、病弱な女性で。

 フィーアが三才になる頃に正妃は病に倒れ、まもなく亡くなる。

 初めてまともに父王の顔を見たのは母の葬儀の席で。幼いフィーアは父王をおそれた。

 立派なおひげの大人に一瞥いちべつされて、フィーアは兄上さまの後ろに慌てて隠れる。その時は父王と言葉を交わすことも無かった。

 それから数年後。玉座に着いた父王をあおぎ見た十の夏。

 山に囲まれた国の夏は暑くて。それでも、背筋は不思議と冷たくて。

 その時感じたのは、ただ畏敬いけいの念。そうとしか呼びようのない怖れ。

 自分はこの人の娘なのだと、喜びよりも畏怖いふまさった。



「……ごめんね。姫様。最後まで案内できなくて……」

 レイオスの寂しげな声に、追憶の情景がかき消える。王太子となった今でも、父王に対する畏敬の念は変わらない。ただ、性質は少しだけ変わった。

 ──私は、兄上様に代わって父上様のような王になれるのか。

 責任と憧れと不安と。父王の顔を思い出す度に、フィーアの胸中に複雑な感情がよぎる。

 それを振り払って、姫君は薄く笑んだ。

「……気に病むことはない。お前たち一家は本当によくやってくれた。礼を言わねばな」

 フィーアは優しく、小さな森の民の頭を撫でてやった。



「代わりの森先案内が見つかりました」

 練習用の長剣を手にしたフィーアに、衛士長はそう報告した。ディルの手にも同じような長剣が握られている。

「そうか」

 霧雨の中、練習試合はフィーアの一勝一敗で終わった。

「出発は?」

「明日の朝です」

「解った。アラルガントの者たちにここまでの報酬を払ってやれ。ロイムのうろこを少し付けてな」

 森の大王・ロイムの堅い鱗や大きな牙は、防具や武器の素材として重宝される。なかなか高値を付けることもあった。

 ロイムを倒した衛士たちは、森の民に命じて死骸からそれらを一部ぎ取っていたのだった。

「ああ、一番手は森の民でしたからな。彼らにも権利はある」

「そうだ。それに、あの容態ではしばらく森先案内をすることは難しいだろう。それでは家族が飢える。見舞金だ」

「全く姫様はお優しいですなぁ。解りました。鱗を付けて報酬を渡します」

 ディルは待機していた部下に命じて、霧雨に濡れた顔を拭うための布を用意させる。

「姫様、稽古はこの位にしましょうや。何だか指先が冷たくなって来ましたし」

「ああ。そうだな。少しはだ寒いな。こんな時はニクスの蒸し風呂が恋しい」


 ニクスの風俗では、湯を張った風呂に入ることはまず無い。狭い木室に、熱い湯の入った桶や熱した岩石などを置いて、蒸気を発生させる蒸し風呂が一般的だ。


「……ヴァローナにも蒸し風呂が有れば良いが」


 ヴァローナとは、古い言葉で『湖』を意味すると言う。

 学問と湖沼の国。これからフィーアが訪れる国。二年間学びを得る国。それがヴァローナで有った。

 フィーアが生国ニクスを離れるのは、今回が初めてで。今は、新たな出会いや知識を求める探究心よりも、本国を離れる寂しさの方が勝っている。


 ヴァローナでは、どの様な出来事が自分を待っているのだろう。

 どの様な人々に出会うことになるのだろう。

 それが己に何をもたらすのか。

 不安と希望、その二つの狭間でフィーアは揺れていた。



 その夜、遅くなってフィーアの部屋をたずねた者たちがある。

 小柄な二つの影。レイオスとその母、アラルガントの者たちだった。

 粗末だが、この町で一番上等な宿屋の部屋。寝台を椅子代わりに、訪問を受けたフィーアは、夜半だというのにまだ平服をきっちりと着こんでいた。

「なに用だ?」

 二人の衛士に見下ろされ、すっかり緊張しきった母。その横で、レイオスは何時になく神妙な顔をしている。

「……あの……あの……お願いがございます!」

 耐え切れずに母は平伏した。フィーアを仰ぎ見ることも恐れ多いとばかり、縮こまって震える声をしぼり出す。

「……お願いでございます! 姫様! どうぞこの子を……どうぞこの子をお供の隊列の隅にお加えくださいませっ!」

 事前に話し合ってきたのだろう。母の横でレイオスは静かな顔をしてひざまずいた。

「俺……僕からもお願いです。ヴァローナに着くまででいいんです。お願いします……!」

「何故? 報酬は渡したはずだ。顔を上げよ。アラルガントの者。理由がわからねば返答のしようも無い」

 フィーアの静かな声に母は顔を上げる。その眸には零れ落ちそうなほど涙をためて。

 言葉が喉につかえるのか、母はすすり泣くばかりで。見かねたレイオスが膝立ちに進み出る。

「……僕が説明します。僕たち一家は森先案内が仕事です。でも、父さんが倒れて、しばらくは金を稼ぐあてがありません。姫様が報酬をくれたけど……それだけじゃ、足りません。だから、少しでも働ける者は働こうってことになって……俺、まだ力仕事とか無理だから……だから、皆で、相談して……姫様にお願いしようって……せめて、森を出れば街やなんかで仕事にありつけるかもしれないって」

 今にも泣き伏してしまいそうな母をかばうように、レイオスは精一杯胸を張る。への字に結んだ口。小さな肩は微かに震えていた。

 ──口減らし、か……

 気丈にも真っ直ぐな眸でこちらを見つめてくるレイオス少年に、フィーアは幾ばくかの哀れみを感じる。

 末息子を送り出すことは、一族にとっても苦しい決断に違いなかった。彼らはこの小さな腕白坊主を、ことのほか可愛がっていたのだから。

「……お前はそれでよいのか? レイオス」

「……うん。俺、皆に迷惑かけられない。だから……」

「お前たちはそれでよいのか?」

 何処か苛立ちを隠しきれない、フィーアの声音。母はむち打たれたように身を震わせて縮こまる。

「もちろん姫様に迷惑かけませんっ。荷物運びとか、飯炊きとか、俺に出来ることなら何でもやりますっ……だから……お願いしますっ」

 レイオスが、床に額をこすりつける勢いで平伏する。明るく素直で素朴な森の子。

 家族の者に無条件に愛され、屈託くつたくなく生きてきた。

 そんな風に思っていた。

 だが、森の民の生活は過酷だ。深い森は人々に恵みを下す一方で、容赦なく命を奪ってゆく。

 魔獣は手ごわく、その何倍も木々は手ごわくて、街道沿いでなければ畑を作って定住することもままならない。

 王宮で生まれ育ったフィーアには推し量る事のできない苦しみを、彼らは負っているのかもしれなかった。

「……解った」

 そう口にしたのは同情心であった。フィーアは静かに頷く。

「お前を我が衛士隊の一員に迎えよう。たった今からお前は衛士見習いだ。私の馬車にめろ」

「……! 姫様!」

「ありがとうございますっ」

 母と子の声が重なる。喜び合う二人の前で、フィーアは自問する。

 きっと兄上様でもこうしたはずだ、と。

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