第1話 白の剣姫

 針葉樹の青い葉先から、もう三日の間降り止まぬ雨のしたたりが滑り落ちる。

 雨が多いと聞いてはいたものの、いささか辟易へきえきして誰とは無くちらりと旅の空を見る。

 樹海の背高い木々に遮られ、切れ切れに見下ろす灰鼠はいねず色の夕景。それが、さらに憂鬱ゆううつを募らせて。


 そんな気鬱きうつを吹き飛ばすように。鋭い一撃が雨の雫を振り払う。

「ふっ!!」

 踏み込んだのは小柄な人影。肩口で短く切り揃えた金の髪が、その剣撃の狭間に揺れる。

 鬼気を宿す澄んだ空色のひとみ。薄紅の唇は引き結ばれて。

 それは、少女。その成熟しきっていない、若鹿のような肢体したいを、上等の生地であることが隠せない旅装が包んでいた。

 少女の幅広剣を受けて、一歩身を引いたのはまだ年若い男だ。上腕に衛士の証である階級章をつけた男は、少女の一撃をかろうじて避けた。そのまま右手に持った剣で、下から少女の剣をすくい上げようと腕を振り上げる。

 それを予期していたように。少女は最小限の手数で男の剣を受け流す。きんっと、鋼同士が触れあう澄んだ音が樹海に木霊する。

 少女の攻め手は、雨の中でも正確無比。対して、男は防戦一方だ。

 少女が、何度も鋭い突きを繰り出す。巧みに急所を避けた攻撃。少女には男の命を奪ってしまう意図はないようで。得物こそ真剣であるが、少女には練習試合の気安さがあるようだ。

「……う、あっ!!」

 男が情けない声を上げた。泥濘ぬかるみに足を取られた。少女はその隙を見逃さない。

 膝をついた男の喉元に、少女の幅広剣が突きつけられる。勝負は決した。

「こ、降参です……姫様!」

 こうべを垂れる衛士の前で、姫様と呼ばれた少女は雨に濡れて額に張り付く髪をかき上げる。

「ご苦労だった。雨の中、練習に付き合わせて悪かった」

「いえ、姫様の練習相手に選んでいただけるなんて……感激です!」

 この年若い衛士は、この旅が決まって初めて衛士になった者だった。少女の対戦相手を務めるのも、今日が初めてだ。

 ――衛士たちを鍛え直す必要があるようだな。

 少女は心の中でそう呟いて、幅広剣を鞘に収める。

「姫様、フィーア様! いけません! こんな雨の中、剣の練習なんて……!」

 身体を拭く布を手にして、傘を差した年嵩の侍従長が案じ顔で近寄って来た。

 そんな彼女に向かって、姫様――フィーアは静かな表情で告げた。

「もう終わったぞ。侍従長」




 フィーア姫。正式な名をア・レイナ・フィー=リーア・アルブム。愛称をフィーア。通り名を『白の剣姫』。

 彼女こそは、大陸の北方に位置する強国・ニクスの姫君。それも王太子であった。


 ニクスは、枯れる事無き豊かな貴金属鉱脈と鉄鉱脈を有する、軍事大国である。

 建国の頃より代々、アルブム王家によって統治されて来たこの国は、現在、フィーアの父によって治められていた。


 武門をとうとぶ。上から下まで、ニクスにはそんな気風がある。

 幼少の頃から剣技を好み、天才とうたわれ、「王家には三人の『王子』が居る」と陰口叩かれて来たのがフィーアだった。


 ニクスの慣例に従えば、王太子は十六の年から成人までの二年の間、学問の国へと留学する。フィーアはその旅の途中にあった。

 表向きは広く学問をおさめ見聞を深めるため、とされている。

 王族・貴族の子息が多く留学する学園都市で学ぶことは、王太子としての外交における第一歩なのだ。

 それはもちろん、フィーアも承知している。王太子として、役目を全うしようというつもりもある。

 だが。彼女はこの慣習に、いまだ意義を見いだせていない。

 何かを学ぶなら、ニクスにもすぐれた教育機関がある。

 それに、剣術の師匠である騎士団長、エリュース・スムナと二年も離れなければならないことも、彼女にとっては大きな不満の種だ。


 侍従長に促され、フィーアは馬車の中で濡れた服を着替えた。乾いた布で髪を拭われ、そのまま温かいマントを着せられる。

「姫様がお風邪を召されては、大変でございます!」

「お前は心配性だな、侍従長」

 口を尖らせてお小言をくれる侍従長に、フィーアはどこか悪戯っぽく微笑む。

 侍従長は、早くに亡くなった正妃の変わりにフィーアを育てた、祖母のような人物だ。彼女が、孫同然のフィーアを案ずるのは無理も無い。

「姫様。姫様は王太子でいらっしゃる前に、十六歳の姫君なのですよ! ご自分のお身体を大切になさってくださいませ!」

「自分のことは……自分が一番解っている」

 雨に濡れた程度で風邪など引くものか。そんな柔な鍛錬はしていない。

 そう反論しようとして、フィーアは口をつぐんだ。侍従長は、いつまでもフィーアを『小さな姫様』扱いしようとしてくる。いま反駁すれば、侍従長にますます言い募られてしまうだろう。それも厄介だ。

「この国は本国と違って雨ばかり降る。このままだと、身体が鈍ってしまう」

「だからと言って、雨の中で練習試合などしなくても……」

「馬車に乗って移動しているだけでは、退屈だ。少しくらいは大目に見てくれ」

「姫様!」

 フィーアは一ヶ月前、国を出る際に肩口で短く切り揃えたばかりの金の髪に軽く触れた。

 ニクスの風俗では、女性は滅多に髪を切らない。

 長く長く伸ばして、美しい形に結い上げる。喪に服す女性が髪を切ることもあるが、それとて彼女の様に短く切ってしまう事はまれだ。


 ──フィーア。フィーア。

『はい。兄上さま!』

 ああ、思い出の中でわたしの名を呼ぶのは、王太子になられたばかりの上の兄上さま。

 ──フィーア、学問をおろそかにしてはいけないよ。愚かな王族など、民にとっては害悪なのだからね。

『はい。兄上さま!』

 兄上さまは博識で、フィーアの知らないことを何でも知っている。

 ──フィーア、剣術の稽古も良いが、無茶はいけないよ。怪我をしないようにね。

 兄上さまは優しくて、フィーアのことをいつも気にかけて下さる。

 ──フィーア、かわいい我が妹。お菓子これを持って行きなさい。みんなには内緒だ。

『はい。兄上さま』

 兄上さまはお忙しい父上に代わって、フィーアのことをかわいがってくださる。

 わたしは兄上さまの事が、大好きだった・・・




 兄王子の最期は、伝聞でしか無い。随分と苦しんで亡くなったと聞く。

 結局、フィーアは兄王子の遺体を見ることもかなわなかった。

 フィーアが十二歳になった年の夏、国中を恐るべき疫病が席捲せつけんしたのだ。

 早い者で一週間、多くは二週間以内に疫病は死者と生者をより分けた。

 疫病は、凄まじい早さで国の全土に広まった。抵抗力の無い、老人や子供たちが多く犠牲ぎせいになった。

 やがて、被害は健康だった者へもおよび、その災いは王宮をもかすめ、王太子を含めた二人の王子が、死の王の国に召される。

 二人の他に直系の男子はなく、王もまた病の床にし、王子たち同様その生命も危ぶまれた。

 大臣達は密かに、死んだ王太子の代理を立てる事をささやきあった。

 選ばれたのは、残された娘たちの中で最年長だったフィーア姫だった。



 兄たちの喪に服す際に切ってから、髪を長く伸ばすことを止めた。男のように短く髪を切り揃え、その髪に合わせるように彼女がまとった衣服も女性のそれでは無く、一般的な男性の旅装だった。


 心優しい女王なんて要らない。気高く、そしてひたすらに強い王。それは民が彼女が望んだこと。

 私は兄上様の変わりに過ぎない。本来ならこの馬車に乗っていたのは、兄上様なのだから。

 だからこそ、より一層フィーアは努力しなくてはならない。兄上様の名を汚さぬように。


 感傷に似た一呼吸。

 フィーアは車中で意気いきを整え、追憶ついおくを追い払う。

「……!?」

 不意に、がたんと小さく揺れて馬車が止まった。

 外の様子を窺おうと、フィーアは扉ののぞき窓を開けた。外はまだ深い森の中で、町についた様子はない。

 すでに辺りには夜のとばりが降りている。珍しく雨は止んでいた。双子の月がこずえの間にひっそりと息づいている。

 外の様子が少し騒がしい。松明を持った衛士が、幾人も隊列の前方に向かっている。彼女の乗った馬車の周りは、その松明の光で明るく照らし出されていた。

 丁度、馬車の傍らを森の民の少年が一人、通りかかった。

「何事だ?」

 フィーアは少年を呼び止めてたずねる。

 それに、森の民のレイオス少年は柔らかな茶色い毛で覆われた耳をぴんと尖らせて、明るい声で答えた。

「倒木だよ! フィーア姫様! こーんなおっきい木がこの先の道を塞いでるんだ」

 大げさな手振りで、懸命に説明しようとする少年の猫類に似たきらきらと光るひとみは、辺りの明るさに合わせて拡縮かくしゆくする。


 森の民は体に獣の特徴を持った亜人種で、彼らは一般的には獣人と呼ばれている。

 彼らは鋭い知覚と敏捷性に恵まれ、フィーアに同行する一家のように、深い森を案内する森先案内を生業とする者も居る。

 森の民の多くは、よそ者に対して寡黙で拒絶的な態度を取る。

 だが、少年の好奇心と明るさは、そんな種族の習慣をものともしなかった。

 彼と居ると何故だろう、穏やかな気分になれる。

 フィーアは自問する。例えば血の繋がった弟が居たなら、こんな心地なのだろうか、と。


「……それで斧、か?」

 少年が携えた小振りな手斧に目を遣ってフィーアが尋ねると、彼は胸を張って、そうだよと答えた。

「こいつで木を切って道を空けるんだ」

「お前も行くのか?」

「これも仕事のうちだからね」

「感心だな」

 微かに笑んで頷いたフィーアに向かって、少年はにっと歯を出して嬉しそうに笑み返す。

 まだ十二の子供らしく、くるくるとよく表情が動く。それが、見ていて楽しい。

 この少年、レイオスとその家族、アラルガント一家が、森先案内としてフィーア一行に合流してから半月程になる。

 その間に、姫君と一番多く言葉を交わしていたのがこのレイオス少年だった。

「……おっと、さっさやっつけちまわないと。親父がさあ、何か臭いって言ってるんだ」

 珍しく深刻顔を作って、レイオスは一際明るく照らされた前方を見る。

「臭い?」

「うーん、匂いって言うか、何て言うかー、何か嫌な感じがするんだってさ。親父の勘はよく当たるから、さっさと片付けて街にはいっちまったほうがいい」

 一瞬大人びた、不安げな表情をレイオスは見せる。父や母や、年長の兄弟たちに守られてはいたものの、彼とて苛酷な森の恐ろしさを知らぬ者ではなかった。幼くとも、彼は幾度か修羅場を乗り越えて生きてきたのだ。

 恐れを振り払おうとするように軽く頭を振って、レイオスは車中のフィーアを見上げた。

「でもさ、何があったって俺たちアラルガント一家がついてんだから、姫様は大馬車に乗った気でいてよね!」

 にっこりと笑み、子供特有の落ち着きの無い挙動で、明るく「じゃあねー」と言い置いて、レイオスは駆けていった。


 小さな背中を見送って、フィーアは愛用の幅広剣ブロードソードつかんで馬車を滑り出る。

「前方を見てくる」

 侍従長にそう言い置いて、フィーアがふと辺りを見渡すと、鬱蒼うつそうとした森はいよいよ暗い。そこかしこに鳥か、獣かそれとももっと得体の知れないモノの息吹が満ちているようで少し薄寒い。

 ──嫌な感じ、か……

 この森に入ってから、ずっと微かな不安を感じていた。

 それは、生まれて初めて生国しようごく以外の国の土を踏む事への、気後れのようなものだと思っていたけれど。

 たった今感じている薄ら寒さは、それとは少し違う気がする。

 フィーアはきびすを返し、心なしか光の届かぬ影を避けて、衛士達が集まる隊の前方に向かった。

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