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それからの1週間は、サリンの行方を追うことに多くのリソースが費やされた。
幸い、中国からの経済視察団に国家主席が同行することが発表され、テロ対策に多くの機動隊員を動員する必然性が生まれていた。サリンテロの予測は公にできないものの、一般的なテロ対策として大規模な動員をかけることが可能になっていたのだ。
改めて極秘に実地検証した結果、自動車工場の廃業に関してはほぼ実態が明らかになった。科警研のスタッフが身分を偽り、工場の買取を申し出るという形で調査に入ったのだ。
2日後にエコーに結果が提出された。
ここで塗装を塗り直された消火器は10本前後。サリンの痕跡は皆無――。
それは、心中事件で老人1人がサリンによって死亡している事実に矛盾する。偽装心中の被害男性は、移し替えの際の事故で死亡したというのが現段階での評価だった。
工場では漏洩事故は発生していない。つまり、ボンベの全てがここで改修されたとは言い切れない。他の場所でも塗り替えが行われていたか、あるいは他の〝容器〟に移し替えられた可能性も否定できない。
サリンの量が不明な以上、たとえ消火器の行方が明らかになって全量を回収できたとしても、テロ計画を100パーセント封じたとは言い切れない。逆に回収を〝敵〟に悟られれば、計画を早められたり変更される恐れもある。エコーの誰1人、〝敵〟がここまで時間をかけて準備した計画を簡単に放棄するとは思っていなかった。何よりも、〝敵〟があらゆる場所に工作員を配置していることは疑いようがない。
すでに得られた手がかりを最大限に生かして計画全体を阻止するには、あくまでも極秘裏に捜査を進めるしかなかった。同時に、いつまでも捜査を引き伸ばせるほどの時間の余裕はない。
エコーは、天皇誕生日をデッドラインに定めた。そこまでは秘匿性を保ったままサリンの行方を追うが、その後は〝自作自演テロ攻撃〟を起こしてでも世論の関心を惹起し、公開捜査に踏み切る方針を固めていた。
まさに最後の手段だが、それでも多数の死者を出すよりも得るものは大きい。少なくとも、今後のテロ対策に対する意識は高まるし、何よりも世界に向けて『日本は敢然と戦う』という姿勢を示すことができる。その実績がどれほど国家の立ち位置を左右するかは、国際関係を知る者なら身に染みているのだ。
戦おうとしない国は軽蔑される――。
それが、世界の常識なのだ。
エコーがテロ攻撃の第一目標として予測したのは、やはり『ホテル満月』のネット生放送だった。対抗策は、密かに進められた。
番組企画側やホテルには一切知らせず、客を装って潜入した公安警官たちが全ての消火器に小指の先ほどの大きさの加速度センサーを仕掛けた。ホテルが狙われているなら、従業員に工作員が紛れ込んでいることは間違いない。捜査対象になっていることを悟られるのを警戒して、消火器の検査や回収を申し出ることはできなかったのだ。万一消火器が移動された際には、直ちに報告が上がる手はずだった。
消火器は全て加圧式のABC粉末消火器だと報告されていた。近年主流になりつつある蓄圧式とは違い、消火剤と噴出させるガスを分離している。タンクを二重にして外側には消火剤のみを入れ、ガスは内側の小さなタンクに入れてあるのだ。使用時はハンドルを握ることでガスのタンクを破り、その圧力で消化剤を噴き出させる構造だ。そのため、中の消火剤の交換は簡単になるが、いったんガス容器を破ると途中で止めることはできない。
テロリストにとっては理想的で、逆にターゲットには極めて危険だ。粉末消化剤をサリンに入れ替えることが比較的容易で、中身が有害だと分かったとしても途中で止めることができないからだ。
消火器がすでにサリン入りに交換されているなら、移動の感知は無意味ではある。〝敵〟はおそらく、スプリンクラーを無力化した上で火災を起こすだろう。客や従業員を消火器を使用する状況に追い込めば、彼ら自身の手でサリンガスを撒き散らすことになる。
その危険を阻止するために、エコーは放送開始直前にホテル内で〝模擬火災〟を起こす準備を進めていた。火災発生と同時に宿泊客に化けた警官が、全ての消火器を回収する手はずだった。近くの木更津駐屯地には消防隊に偽装した自衛隊レンジャー部隊、化学防護隊、警視庁と千葉県警のSAT、そして海上保安庁のSST――特殊警備隊の混成部隊が待機していた。
彼らはこの日に備えて数日間、習志野演習場で合同訓練を行なっていた。この訓練もまた、中国経済視察団の保護を名目に実施されたものだ。
ホテル襲撃を想定した準備は現実性を帯びて、全てが緊迫した訓練になっていた。たとえターゲットが別で今回の作戦が空振りに終わっても、その成果は無駄にはならない。いずれにしても、サリンを使ったテロ攻撃が間近に迫っていることは間違いないのだから。
そしてネット放送開始は2時間後の午後8時に迫っていた――。
ホテル周辺には公安に指揮された警察が潜み、〝敵〟が逃亡する隙を塞いでいる。
『ホテル満月』の一室で、マリアがつぶやく。
「なんでわたしが現場に来るのよ。しかも、タケとお泊まりだなんて」
武市がわずかに引きつった笑いを浮かべる。
「俺だってわけ分かんないっすよ。作戦開始までは無線封鎖だっていうから、現場に出るしかないって言われてもね……。でも、ま、姉さんの浴衣姿拝めましたから、俺的にはすでにお釣りもらってますけど」
「バーカ」
そういったマリアは、浴衣の下に体にフィットした陸上競技用のボディースーツを着ている。いざとなれば浴衣を脱ぎ捨て、すぐに化学防護スーツを着込める体勢だ。
昨夜は2人で浴衣姿のカップルを装いながら、館内の消火器の配置をくまなく確認していた。すでに情報はエコーに集約されていたが、担当者は現場を見ておくべきだというのが佐々木の判断だったのだ。
「俺だって、現場になんか来たくなかったっすよ。巻き込まれたら、怖いし。下手すりゃ死んじゃうんですよ。これって、役人がすることですか? 姉さんの相手が必要だからって、俺まで駆り出す必要あるんですかね……」
「御託はいいから。タケ、準備はいいの?」
「はい、姉さん」
「マリアさんと呼べ」
2人はいったんホテルを出て、駐車場の大型バンで待機していた佐々木たちに合流した。電子機器とモニターで埋め尽くされた車の中には、佐々木と黒崎、そしてミサが待機している。
バンに入ったマリアは言った。
「シンイチたちは?」
マリアは彼らの行動予定を知らされていなかった。
今回の作戦は佐々木と黒崎が中心になって立案され、詳細はチーム内でも共有されていない。メンバーは信頼されていたのだが、その下にある役所からの情報漏洩を警戒したためだ。
各役所はジグソーパズルのピースに徹し、出来上がる絵柄は極秘にされている。敵の組織を壊滅させるには、やむを得ない手段だともいえた。
黒崎が答える。
「坂本さんと一緒に本部で待機だ。誰かが留守番をしてないとな」
「彼らが骨を拾ってくれるわけね」
佐々木が苦笑する。
「国交省と商社はとりあえず関連が薄いようだからな」
武市がうなずく。
「初陣でエコー全壊なんて、みっともないですしね」
ミサがキーボードを操作しながら言った。
「縁起でもないこと言わないで!」
武市の口調は、いつもの軽口とは違う。明らかに怯えを隠せていない。
「だって、サリンだぜ……。そもそも、本館の宿泊客は全員警察関係者に入れ替えたんだ。極秘にやってのけるのにシンイチがどれだけ苦労していたか。全部、事故が起きても一般客に被害が及ばないようにするためだ。俺たちだって命が――」
マリアの押し殺した叱責が飛ぶ。
「だったら、すぐに帰りな。官邸に居座ってれば、誰かが身代わりになって守ってくれるから。それから、これからはわたしを大庭さんと呼べ」
武市が言葉を失う。
マリアには、死ぬ覚悟すらできていたのだ。
佐々木が何事もなかったように命じる。
「手順に若干の変更がある。すでにミサがホテルの管理ソフトをハッキングして仕込まれていたバグを発見した。すぐに除去できるだろう。だがこれで、このホテルが標的だったことは確定した。君たちは、『霞ヶ関ニュース』の関係者を誘導してくれ。そして、火災が発生すると同時に行動開始だ。まずは実行犯の確保。全館の消火器を回収して駐車場に運ぶ。その頃には自衛隊の中央特殊武器防護隊が運搬準備を整えている。消火器は全て木更津駐屯地に運んで厚生省も交えて成分分析を開始する」
武市が言った。
「模擬火災は?」
「その点が変更だ。実はNSCから、犯人確保を第一に考えろとの厳命が下っていた。可能な限り首謀者の背後関係を暴き出して、その情報をもとに2日後まで滞在している中国国家主席とサシで裏取引をするのが目的らしい。だから、火災発生直前まで奴らの計画を進行させ、現行犯逮捕で動かぬ証拠を抑える」
「確実に止めることが難しくなるのでは?」
「最悪、犠牲者が発生しても対処できるように、客を入れ替えたんだ。今まで黙っていて申し訳ない。今のタケのように、ホテルに配置した警官たちが動揺すると困るのでな。情報漏れを防ぐためにもやむを得なかった。だがこれは、誰かが指揮を取らなければならない作戦だ。だったら、エコーが担うべきだ」
マリアがつぶやく。
「だから計画の詳細を教えてくれなかったのね……」
名指しされてうつむいた武市も、納得したようだ。
「NSC命令なら、仕方ないけど……」
「それとタケ、お前のスマホにいくつか連絡先を送った。万一私たちとの連絡が妨害されて途絶えるようなら、ホテル内の指揮はタケが受け継げ。我々はこの場から、工作員が逃亡できないように捕獲体制を調整する」
武市が佐々木を見つめ、再び言葉を失う。
マリアが言った。
「よかったな、隊長補佐様」
「けど、急に言われても……」
「馬鹿だな、信頼されてるんじゃない。わたしたちは仕事をするだけ。久々の現場だもの、ワクワクするわ」
彼らは新たな作戦を打ち合わせた後に、車内で放送クルーの服装に着替えてホテルに戻った。
ホテルのロビーでは、すでに5人の『霞ヶ関ニュース』解説者たちが集合して談笑していた。司会の若手落語家が穏やかに間を取り持っている。宿泊客に偽装した警官たちが、偶然遭遇した著名人を眺めるように周囲を囲む。
しかし彼らの目は、同時に周囲の観察を怠っていなかった。そこには、多くのホテル従業員たちも混じっていた。
偽装客の1人は、千葉県警の刑事部長だ。
マリアは関係部門の幹部の顔は頭に入れてあった。近づいてささやく。
「従業員は全員、工作員だと思って行動してください」
刑事部長の表情が険しくなる。
「は? おまえ、何様だ? 私を誰だと思っている? 女ごときに命令される筋合いはないぞ」
「エコー、ですけど」
相手の顔色が変わる。
「その命令は絶対だと言われたが……あんたら、何者なんだ?」
マリアは返事もしなかった。
と、放送スタッフが解説者たちに呼びかける。
「では、『松月の間』に移動します。すでにお酒とお食事が用意されているということなので、宴会の感覚でリラックスしてお願いします」表情を緩めて付け加える。「多少過激な発言をされても、局が責任を負いますので、思う存分やっちゃってください」
そして、数人のホテル側の担当者とともに解説者たちを誘導していく。
マリアと武市は、その後をついていった。
階段で2階に上がると、すぐ目の前が『松月の間』だった。ドアをスライドさせる。そこは8畳ほどのこじんまりとした宴会場だった。
大きめのテーブルに、すでに豪華な食事が用意されている。突き当りがオーシャンビューのベランダで、月明かりに照らされたアクアラインと東京湾の風景が広がっている。
ドアがある廊下側では3人の放送スタッフが、三脚に乗ったカメラ2台の準備を終えていた。ネット放送なので機材はそれだけで充分なのだという。
解説者たちが席に着くと、スタッフが言った。
「放送開始は10分後の予定です。では、スタッフ以外は外に出ていただきます」
そしてマリアたちがホテル関係者を廊下に押し出して、ドアを閉じた。
ホテル側の担当者の男がマリアに話しかける。
「いやー、楽しみですね。毎日録画して、欠かさず見てるんですよ。うちのホテルで特別放送だなんて、感激です!」
言いながら、スマホを取り出す。ユーチューブでの生中継を見るつもりだろう。画面にはすでに、『8時の放送開始までもうしばらくお待ちください』の文字が表示されていた。
マリアたちは周囲を警戒しながら放送開始を待った。襲撃があるなら放送中、それも開始直後だと想定されていたのだ。
そのうちに、画面が変わる。司会者のアップとともに、賑やかな前口上が語られる。カメラが引きになって、5人の解説者が順に紹介されていく。
その時、ドアの向こうで小さな爆発音が轟いた。同時に、スマホの画面が中断する。映像を映したまま、フリーズしてしまったのだ。
マリアがドアをスライドさせる。部屋の中には白煙が充満していた。しかし、スプリンクラーは作動していない。白煙の中に、数人の影がぼんやりと浮かび上がっている。
背後でホテル担当者の叫び声がした。
「どいてください! 火を消します!」
消火器を手にして室内に飛び込もうとしていた。
全て一瞬の出来事だった。
男はまるで、爆発が起き、スプリンクラーが作動せず、消火器で消す以外に方法がないことを〝あらかじめ知っていた〟としか思えないように素早く対処した。その動きに躊躇や困惑は微塵もなかった。
それが決定的だった。
マリアが男に命じる。
「消火器を離せ!」
男がマリアの手に現れていた銃を睨む。
「ばかな!」
そして、室内に向けて消化剤を噴き出させようとする。
同時に小さな銃声が部屋を満たした。マリアが、ずんぐりとしたサプレッサーがついた銃で男の腕を撃ち抜いていた。消火器が床に落ちる。
「どうせピンは抜けないよ。接着剤でがっちり留めたから。あなた、パク・ソジュンね」
男の表情が凍りつく。
その顔と本名は、別班からもたらされたファイルにあったものだった。まさか、自分の素性が知られているとは考えもしていなかったのだろう。北朝鮮側が日本側の情報収集能力を甘く見ていなければ、決して作戦に加わることはなかったはずだ。
武市が握っていたスマホに叫ぶ。
「従業員は全員確保だ!」
まちまちの姿の警官たちが廊下にあふれ、放送スタッフや従業員を捕えていく。中には浴衣姿の警官も混じっている。
消火器を落とした男の制服が引っ張られ、逃れようともがく。胸ポケットからスマホが飛び出して、落ちた。
画面では、〝些細な放送事故〟を詫びる放送が続けられていた。
『あ、放送再開したようですね。何か物音がしましたが、ホテルに問題が起きたのか、機材が不調だったのか……なにぶんにも低予算の番組ですので、申し訳ありませんでした。その代わりと言っては何ですが、今夜はレギュラーコメンテーター陣に歯に衣着せぬ濃密なお話をたっぷりと語っていただきましょう――』
男がぽかんとスマホを見下ろす。その目がまだ煙っている室内に向かう。
テーブルを囲んでいるのは、6体のマネキン人形だった。
武市が言った。
「出演者はベランダ伝いに移動したよ。ホテルご自慢の料理はそっちにも用意してあるんでね。あんた、自分も死ぬ気だったんだろう? 家族が人質に取られているのか?」
男の顔は完全に血の気を失っている。
「何のことだ⁉」
「俺に言わせるのか? 任務は失敗だってことだよ」そして警官に命じる。「外の車に連行してください。プロの工作員ですから、気をつけて」
「了解しました」そして男の腕を抱え、ニヤリと笑う。「私もSATの名を汚すわけにはいきませんから」
武市はスマホを取った。
「隊長、確保成功です。今そっちに連行させます」
佐々木が答える。
『それは無理だ。もう東京湾上だからな』
確かに、背後にはヘリコプターらしい轟音が聞こえていた。
「は? 何やってんですか⁉」
『本命を叩きに行く。ホテルは隊長補佐に任せた』
そして、通話が切れた。
マリアが怪訝そうに武市を見る。
「どうしたの?」
「隊長、海の上だ……」
マリアはいきなり吹き出した。
「やられた……。やっぱりクルーズ船が本物か……」
武市にもようやく理解できたようだ。
「俺たち、目くらましの捨て駒ですか?」
「バカ、同時テロを防いだんだよ。こっちは敵の陽動作戦だとしても、失敗してたらどれだけの人が死ぬか分からないんだから。実際、スパイも潜んでいたんだし、消火器の中身は〝アレ〟だろうね。隊長がわたしたちに隠していたのは、本当は客船の警護だったわけだ。陽動に集中していたように見せかけながら、本丸を隠し通すなんて……やっぱり筋金入りのプロだわ」
「妙なとこで感心しないでよ……」
「さあ、こっちも仕事! ホテルの消火器にだって、まだ〝アレ〟が混じってる可能性はあるんだから。分析を指揮するわよ」
武市が、落ちた消火器を運んでいく警官の後ろ姿を見ながらつぶやく。
「でも、姉さん……銃弾が消火器に当たってたら、どうする気だったんですか?」
「ピストル6段を舐めるんじゃないわよ。それに、マリアさんだから」
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