第5話 月光の少年

 死を忘れたひとりの少年がいた。



   -1-


 その部屋の中の光景は、敢えて言葉にするなら美しいという言葉が似合うだろう。

 中央の天窓と、南向きの大きな窓から差し込む月光が、部屋全体を薄暗く照らし出している。質素ないくつかの花瓶に生けられた花を除いて、無駄な調度品など無い薄明の空間は、例えるなら月光の箱とでも言うべき密やかで荘厳な雰囲気を放っていた。

 天窓の直下、この部屋にただひとつの家具───大きなベッドがあった。


 ベッドの上には、その大きさと対称的に、小さな影がひとつ。

 少年が枕を背に本を読んでいた。


 美しい部屋。それに相応しい、妖しくも、艶やかさとも儚さともつかない不思議な空気を纏う少年。

 歳の頃は15、16といったところか──まだ幼さの残る相貌でありながら、そのまなこには妖艶な大人びた視線を持ち、口元には冷たい儚さを備えていて、その異様な組み合わせが、彼の持つ神秘的な雰囲気に拍車を掛けていた。


 彼はふと──、月明かりのもと読んでいたハードカバーの本を閉じ、顔を上げる。

そしておもむろに立ち上がると、部屋の南の窓を開けた。夜の少し冷たい風が吹き抜ける。

 月明かりに照らされ、少年の影が背後に伸びた。


「来たか」


 彼は振り向かず告げた。自らの影──いや、影に潜り込んでいる口裂けの狂人に。


「よう、ハニー!会いたかったぜ?」


 三上みかみ 夜重子やえこがそこにいた。

 少年の影からずるりと、まるで起き上がるように現れる。

それから2歩3歩としないうちに、夜重子は仰々しく両手を広げて少年に歩み寄った


「今日は元気そうじゃないか!愛しい薄幸の美少年よう」


「来るなら玄関から来い、夜重子。」


 夜重子の軽口を他所に、少年は優しく儚いその顔に似合わぬ、ぶっきらぼうな調子で言葉を紡ぐ。

 古い美人画のような長い睫毛の下の青い瞳が、夜重子をじっと睨みつけていた。


「それに、そのハニーとかいう馬鹿みたいな呼び方はやめろと言っただろう?僕の名前は光留ミツルだ。名前で呼べよ」


 彼はため息を吐きつつ、ベッドに戻る。


「あー?ミツルのミツ(蜜)でハニーだろうが?

 なんかおかしいか、マイハニー?」


 少年の溜め息などどこ吹く風、とあっけらかんと答える口裂け女。

 その口調にはなんの毒気もなかった。


 少年───光留はフッと苦笑する。


「もういいや、何回目かなこの会話は」


「5年前から、毎日」


 夜重子も目を閉じ、同じように苦笑した。



   -2-


 5年前のあの日、明市 灯あけし ともりと契約を交わした事から、元殺人鬼の口裂け女はこの少年に出会った。


「会わせたい人がいる」との明市からの申し出である。

 彼女は一枚の写真を夜重子に見せた。


「彼は我ら『燈籠郭とうろうかく』にいて、非常に重要な位置にいる御方です。一応、あの方に貴方をお目通しいただき、貴方には自らの使命を改めて自覚してもらおうと思いまして。くれぐれも粗相のないように」


 気の進まないであろう声音で明市はそう告げた。


使命しめぇい?ただ殺すんじゃなかったのか?アタシみてぇなのをよ」


 夜重子が眉根をひそめながら口を尖らせる。


「異能の犯罪者を殺すのは、所謂『治安維持の為』であると同時に、この御方の為でもある、と言っておきましょう」


「ああ?持って回ったような言い方しやがって」


 僅かに身を乗り出す夜重子。


「大体さぁ、そんな大切な御仁をこんな殺人鬼に合わせていいワケ?

 そいつ殺してアタシ逃げちゃうかもしんないよん」


 わざとおどけた様子で舌を出す。


 明市は大きな溜め息を吐いた。事情を知る者特有の『理解ってない』というような首振りを添えて。

 そしてにこりと夜重子に向き直りこう言い放った。


「あの方に無礼を働く事は私が許しません。それに、。どうしても、ね」


 その言葉を聞いて彼女はこれまでにない程の怪訝な表情を浮かべる。何を言っているんだこの女は───言葉はなくとも、その顔から有り有りとその疑問が感じられた。


「死なない少年がいるんですよ、この世には。夜影とはまた違う不思議な力に取り憑かれて」


 明市は夜重子の表情に応えるように口を開く。


「だから、それにぶつけるのが夜影の力って事か」


「いつまで永らえても死なない。どれだけ願っても死ねない。何を失おうとも、どれだけ狂おうとも消えることを許されない、哀しい存在………。

 その疲れ果てた痛ましい存在を、肉体のくびきから解き放つ為、マレビトの遺した影───夜影の力そのものが必要なのです……!」


 徐々に、徐々に声に力が込もっていく。

 信念の込もった、魂から出る哀願のような声だった。使命の為に全てを捧げる人間の祈りに似たそれは、先程までの凛とした姿の彼女からは想像もつかない決死の形相で、眼前の夜重子に迫った。


「だから!貴方に殺してもらう!!夜影共を!必要な血が集まるまで際限なく!!

 マレビトの『影』はこちらが集める、私だってマレビトを殺す、貴方がやるのは私の手から溢れた分。何度でも言う!簡単なハナシだろう!?」


 両手で机を叩き、肩で息をする明市 灯。

 口裂け女は彼女のそんな様子を見て、


「わかったわかった。落ち着けよ、取り敢えずソイツに会ってやるから」


 とやや面を食らったように笑った。



   -3-


 その少年を初めて見た時、夜重子はしばらくその姿に見惚れていた。


(これはこれは……)


 ──────美しい、と柄にもなく思った。

 月明かりに輝くその白い髪。

 少女のように華奢で、陶磁器のように白い頬に幼さを残した、端正な顔。

 いくつかの花が飾られた薄暗い部屋に、儚く今にも消えてしまいそうな、しかしその存在をはっきりと示すように、その少年はいた。

 青い瞳が、彼と対極にあるような黒尽くめの自分夜重子をくっきりと映している。


 いつ以来だろうか。

 憧れにも似たこの感覚は。

 ワクワクする? ドキドキする?

 さまざまな感情が頭を駆け巡る。


 ああ、そうだ。これはアレだ───────。


 口の裂けた自分を鏡に夢見た時。

 その時と同じ感情だ。


 あの顔を裂いてみたい。憧れの口裂け女のように。

 きっと美しい口裂け女になる。


 ────気付けば身体が動いていた。夜重子は振り上げた拳で眼前にあった花瓶を砕き、その欠片で目にも留まらぬ速さでその頬を目掛けて走り出した。


「止めなさい────!!」


 明市の咄嗟の制止など耳には入らなかった。

 自分以外にこの欲望を持ったのは初めてだ。その口を裂きたい、自らの口を裂いた時のように!あの美しい顔こそが尊ぶべき口裂け女に見合う‼︎


 瞬く間に振り抜いた欲望の切先が、少年の口を引き裂いた──────────筈だった。


 少年の身体は一瞬、強烈な光の球体となり、また形を取り戻す。


 元の美しい身体のままで。



 慌てふためき地に頭をつける明市。


「も、申し訳ありません!御光みひかり様!この者は───」


「夜影狩りの為の殺人者、だろう?」


 少年が口を開いた。やや掠れ気味ではあるが、よく通る綺麗な声だった。


「僕のためにすまない」と困ったように笑う。


「なーるほど。こりゃ殺せねぇな」


 ふらりと向き直り、得心したように壺の欠片を撫でる殺人鬼。その目からは先程のギトついた欲の暗光は消えていた。


「面白いじゃん!『死なない』ってのもこの目で見て納得いった。そんで?夜影の力を集めればこの子を殺せるって事でOK?」


「貴様…!御光みひかり様に何という事を……!」


 少年に頭を下げながら、明市は殺意の込もった視線で夜重子を睨む。


「いーじゃんかよ、どうせ死なないんだから。減るもんでもないんでしょ?アンタに限っては」


 夜重子は御光みひかりと呼ばれた少年を見る。


ともり、もういいよ。こういうのはもう慣れてる。

 …うん、そうだ。あんたが言った通り、僕の命はもう減る物じゃなくなった。

 僕の名前は光留みつる。苗字は長い上に仰々しいから好きじゃなくてね、そのまま名前で呼んでくれて良いよ」


 パッと光留の目の前に夜重子の顔。


「な、なに?」


 ぎょッとする光留の顔を、まじまじと凡ゆる角度から舐めるように見つめ続け、その無骨な大きい手でベタベタと触り回る。


「ちょっ……やめっ…!」


「やっぱり良い顔してるなアンタ…。どこからどう見てもアタシ好みだ」


 突然の告白に言葉を無くす少年。青白い頬にほんの少し朱が差す。


「はっはははははははははははは!!

 愛ってのはこういうのなんだなぁ!アタシは、初めてアタシ以外にそれが持てた!」


 高らかに声を上げる夜重子。その痛々しい傷のある口元が、嬉しそうに歪む。

 呆気にとられる面々を他所に、口裂け女は告白を続けた。


「決めたぜ、今からアタシはアンタを愛す!

 愛を教えてくれてありがとうよ!


 感謝するぜ、ハニー?」



 こうして奇天烈な事を口走る口裂け女は、月明かりの差し込む仄暗い一室で少年と出逢ったのだった。

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