第4話 長月:嵐の夜と、親友と02

 そばめしに、お湯を入れるだけで出来るコンソメスープをつけて。それを綺麗に平らげ、過ごす午後。食器を片した後時計を見て、龍一の「あ」という声に、宗一は雑誌から視線を上げた。そして自分でも時計を見て、ああ、と小さく頷く。もうそんな時間だったか。

「花ちゃん迎えに行ってくる。何か買い物ある?」

「ん」

 龍一の役割の一つに、自分達の住処である家の主である花の迎えがある。勿論、本人が言ってきたわけではない。彼女は現在ここ鎌倉でも一際の賑わいを見せる小町通りから、少し外れた小さな道にあるカフェのスタッフとして働いている。本来の花の仕事は『祖父の不在時、家を守るべく住む』ことであって、生活費も相応に出されているのだが、本人はぬくぬくとその揺りかごの中に大人しく収まっているような性分ではなかったらしい。そして、それ自体は何ら問題はなかった。

 問題はその帰り道だ。夕方、夜になっていくに従い、賑やかな通りから外れた辺りは意外と街灯も少なく、自分達の住む一帯は住宅地ではあるが、その背面には緩い曲線を描く山とそれを覆う鬱蒼とした木々で、闇は一層深みを増す。夏場は海や観光を楽しむ外部からの来訪者は増えるし、不審者の報せも小学校が近辺にあるのもあり耳に入ってくる。

 花自身は大丈夫大丈夫、と笑うが、宗一達は夕方に終わる彼女の迎えを買って出ることにしたのだ。この家の本来の主である爺様とて、溺愛する孫娘にはそうしただろう。二人からしたら、花は家の主代理であると共に、自分達の境遇を知った上での理解者でもあったし、お預かりしている娘さんでもあった。そして何よりも、縁もゆかりもない、当然血の繋がりだってないが、ひとつ屋根の下で暮らす『家族』でもあるのだ。過保護の大義名分は充分すぎるほどに、ある。

 と、言うわけで。夕方の買い物をこなす側が花を迎えに行くのである。勿論仕事後に一服したいというのもあるだろうから、待ち合わせ時間は其の都度花と決めることとなる。今日は夕方五時半頃にという話になったらしい。

 身支度をした龍一に、ぽん、と買い物費用の入った財布代わりのポーチを投げ渡す。中には買い物リストメモが入っていて、その日の特売品で必要なものをざっと書いてあるのだが、万一売り切れていても花がいれば何とか探し出すか類似品を買ってくるに違いない。

「あと雨が降る言うてるし、傘……とああ、合羽持っていき。台風が近づいてるらしいで」

「ニュースで言ってたよねえ。風も強くなってきたし、今日の夜には降り出すかもね」

 肩に掛けたトートバックに二人分の合羽と、折りたたみ傘、財布などなど放り込んでから、龍一は玄関に向かう。そこで室内に、割れた音の呼び鈴が響いた。はぁい、という声とがらがらという引き戸の音。そして、ああ! という驚きの声にひょい、と廊下へ顔だけ覗かせた。


「ああ、どうもどうも。近くまで来たもので」


 眼鏡をくい、と上げながら柔らかに微笑む男の姿に、あからさまに眉間に皺を寄せた宗一は「随分な態度じゃないですか?」とショックを受けたような表情で言われることとなった。

 斎藤茂吉。

 立場的に言えば、お試し転生をしている自分達の『保護者』というところだろうか。もしくは『支援者』『後援者』と表現するべきかもしれない。自分達の『正体』が花に知られた頃合いに斎藤は彼女に接触した。それは彼女と自分達に起こるであろうトラブルを少しでも回避しよう、という働きかけに他ならない。結果として彼の丁寧なフォローと、花の懐の深さに救われた形とはなった。だから、斎藤には頭が上がらない、とは思っている。決して口に出す気はないが。

 花に自分達の事情が割れた今、外でひそひそ会うこともなくなったとなったや否や、斎藤は度々こうやって訪問してくるようになった。まあ、楽は楽だが。

「おう、斎藤。どないしてん」

「家庭訪問ですよ」

 笑みを崩さぬまま、そう返す斎藤の横で龍一が慌ただしく靴を履いていた。下駄ならさくっと履いて済むのだが、スニーカーとやらは紐を結んだりせねばならないのが面倒ではある。但し動きやすいという面においては、紐の件を差し引いても機能的で評価するべきところだろうか。

「じゃあ、行ってくるね! 斎藤さん、ごゆっくり!」

 傘を掴んでから、龍一が慌ただしく出ていくのをひらりと軽く手を降って見送ると、宗一はサンダルを履いてからから、と戸を閉める。かちゃりと鍵を締めてから、玄関で立ったままの斎藤に視線を移した。


「……うん?」


 どうも覚えのある気配がする、と感じたが、見る限りは斎藤茂吉一体、のみだ。

「どうかしました?」

「いや……まあええか。上がり」

「ええ、お邪魔致します」

 靴を脱ぐのを確認してから、宗一は居間に座布団をひとつ増やすことにした。そしてそこから見える縁側からの風景に、少しだけ顔をしかめた。別に予知とかそんなものは出来ないが、どす黒い雲が低く空を激流が如く流れる様、庭の木々がざわざわと激しく揺れ始めているのを見れば、この後の状況は大体想像つくというものである。

 がたん、と縁側の戸を閉め始める。雨戸をガタガタと出し、ぴたりと閉めた後に網戸、そして硝子のはめ込まれた戸を最後に閉めて鍵をがちゃりと閉めた。背中を向けた戸からはガタン、という風に叩かれた音が響いた。

 そして、居間にちょこんと正座している斎藤を見て、少し唸ってから宗一はまず最初に台所でグラスに氷をいれ、ペットボトルの烏龍茶を注ぐ。

「ほれ、これ飲んでちと待っとき」

「直木さん、どうしたんです?」

 直木、と呼ぶのはこの世界では今のところ、彼だけではあるまいか。まあ、それは自然なことであるから気にするところではないけれども。ただ、生きて駆け抜けた頃の自分とはもう違う場所にいる、という自覚はあるから、どことなくその名前はどことなくこそばゆい気がしてしまう。それも、自然なことである。

 直木三十五、はここにいて、ここにはいない。

 だから、名は自由に呼んでいいのだろう。例え、少しばかり思うものがあったとしても。

 斎藤の呼びかけに振り返ると、宗一はくい、ととある一角を親指で示した。

「ちと、風呂沸かすわ。後、万一に備えておかな」

「万一?」

「天気予報は見てへんの?」

 聞いてみてから、ああ、と思い直す。斎藤はそも『こちら側』ではない。戻ろうと思えば、この場をすぐ離れることだってできる存在だ。自分達とカミサマとやら――一回死んでもやはりその存在は信じられないので、まあ社長みたいなものでもいるのだろうと思っているが。出来ればかつての友のような奴であればいい、とも。――を繋ぐ役割の男は、きょとん、としてから戸の鳴る音に合点したようだった。

「台風ですか。予定より随分早くこちらに向かっているようですね」

 眼鏡の奥で目が細まる。手の中でかろん、と氷が鳴ったのが宗一の耳にまで届いた。

 風呂は龍一により既に綺麗に洗ってあるので、ざっと浴槽を湯で流してから栓をしてスイッチを押せば支度は終わる。昔はずっと人の力で薪をくべるだのなんだので風呂の温度を保たなければならなかったのが、今はボタンひとつで湯を入れるだけでなく保温まで出来るというのだから、科学の進歩は素晴らしい。

――まあ、昔みたいなことは出来ひんけどな。

『直木三十五は大の風呂好きで、適温に保った湯船に身体も洗わずに飛び込み、そこで本を捲り、読み耽る』

 ……と書かれていたのは見たが、まあ、うん。今それをやったら、あの家主に蹴りの一発は食らうだろうし、大体それらは電気代で跳ね返ってくるわけで、どちらにしたって家主への負担は免れられないだろう。そう考えるとやる気にはならない。昔の連中が聞いたらひっくり返るか救急車でも呼びかねない勢いで驚かれるだろうが、借金だらけだった時分も帳簿はつけていたし、意外と几帳面だと言われてはいたのだ。今だって細かい計算をしながら食費を調整しているのは、宗一だ。まあ、そういった様子にまず驚愕したのは龍一――芥川龍之介だったわけだが。

 湯が流れ込む音を確認すると、風呂蓋をしてから居間に戻る。

「甲斐甲斐しいですねえ」

 何故か嬉しそうに斎藤がそう言い出したものだから、さよか、とだけ返事をした。まあ、多分必要はないだろうが、と押し入れの戸を開ける。

「何してるので?」

「避難リュックや。先日なんや……えーと、防災の日とかで花が買うてきてな。三人いるんやし、ちゃんとせなって」

 関東大震災が起きた日が、そういう日に制定されていたと知ったのは研修だったか。自分達は所謂『被災者』であった。芥川龍之介の家は幸い倒壊することはなかったし、直木三十五――あの時はまだ三十三、だったか――の家は燃えればスッキリしたものを火災の難を免れていた。借金を極めていた直木は、これ幸いとばかりに大阪へと向かったのだが、それはさておき。

「懐中電灯くらいは出しておかんとな」

「おやおや、予知ですか」

「用心や用心」

 がさ、と懐中電灯を取り出してカチカチとスイッチをいれて明かりが点くのを確認してから、とんとそれを和座卓の上に置くと、そこで漸く宗一は向かいへと腰を下ろした。

「随分馴染みましたよね。正直驚いてはいるんですが」

 やけに嬉しそうに、そう言われて首を傾げる。

「まあ主夫は今が初めてなわけと違うしな」

「ああ、奥様が働きに出て、子ども達の面倒と家事全般を任されてたんでしたっけ」

「俺がやる、言うたんや。まあ、嫁に働き口があるなら、家のことをやるのは当たり前やろ」

「昔の人はそう頭が柔らかく出来ていないんですよ、普通は。男子厨房に入らず、って言葉、そうじゃなきゃ生まれないでしょうに」

 まあ、確かにそうだろう。小さい頃から共働きの親に代わって家事をやっていたからこそ、対応が出来たには違いない。料理もその時に覚えたに始まって、何かと作る役割となることが多かった。また、その役割に抵抗がなかったのも本当のことではあるが、まさか死んでからも役に立つとは予想だにしていなかったわけで。

 宗一はリモコンでテレビの電源をぽち、と入れる。本当に科学はすごい、と何度心の中で呟いたことか。画面には江の島の風景が広がった。中継、というとよく出てくる風景のひとつだ。横殴りの雨と、波が白く打つ海面の激しさが遠目でも見て取れる。女性アナウンサーの声が、今夜台風が一番東京、神奈川に近づくと報せていた。外で、ごう、という音が大きく、響く。

「芥川くん、花さん、大丈夫ですかねぇ……」

 ぽそり、と斎藤が呟く。それは心配するところではあるが、普段はふええと情けない声を上げるような男でも、いざという時はしっかりしているものだし、花が一緒にいて不甲斐ない真似はしないだろう。そこは信頼しているし、芥川龍之介――龍一が格好つけなことも理解している故だ。まあ買い物は諦めたにしても、ちゃんと帰ってはくるとわかっているからこそ、風呂も沸かしているのだ。

「玄関にバスタオル、用意してくるわ」

 きっとべしょべしょな濡れ鼠となって帰還してくるだろう、と踏んで、風呂場へ向かおうとした瞬間。

 ばちん、と、何かが爆ぜたような音が聞こえた。そして灯りが暗黒にごくり、と丸呑みされる。

「――停電ですか」

「この予感は当たって欲しくなかったんやけどな」

 溜息交じりに、斎藤がいるであろう方向に視線を向けた。勿論暗闇で目も慣れていないのであるのは漆黒、の筈だ。

 筈だったのだが。


 斎藤の顔だけ、ぽわっと浮かび上がっていた――そこだけ光が、灯っているように。


「ッ、えッ!?」

 普段飄々とした態度の彼にしては、珍しく慌てた表情がいやにはっきりと見えた。

 そして、宗一は。

 先刻の違和感の正体に思い当たる。ああ、これは。

 覚えが、ある。


 躊躇いもなく、手を伸ばした。

 その光の元へと。

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