第4話 現代編 十年後の君は、罪の味 その2

「昨日も思ったけど、とおるさんって軽いよな」


 背中とひざの裏に腕を通して、小さくて華奢な肢体を抱き上げた。

 透は篤志あつしに頭を預け、そっと背中に腕を回してくる。

 抵抗らしき抵抗は、なかった。


「昨日って、何ですか?」


「あ」


 調子に乗って口が滑ったことに気づかされ、篤志のこめかみから冷たい汗が流れ落ちた。

 盛大に泥酔した昨夜の透を部屋に運んだのは、この宿の従業員と言うことにしておいたのに。

 今となってはどうでもいいことではあるにしても、今朝の段階においては透の名誉やメンツを守るために必要な嘘だったことは間違いないのだ。

 あれからまだ1日しか経過していないことに驚きを覚える。


「やっぱり、昨日私を部屋に運んでくれたのは大久保おおくぼさんだったんですね?」


「……すみません、嘘つきました」


「まぁ、今さらいいですけど」


 詰問口調ではあったものの、透は別に怒っていないようだった。

 すぐ傍に傾けられた顔は穏やかで、視線はそっぽを向いているが頬は真っ赤。

 篤志の腕の中にすっぽり収まったまま、身じろぎひとつしない。

 お互いに二十八歳の大人。

 この体勢でこの流れから何がどうなるか、全く想像できないなんてことはない。


「……」


 想像はできる。想像はできるが……篤志の足は動かなかった。

 透をお姫様抱っこしたまま硬直し、唾を飲み込んだ。

 緊張と、高揚と、恐怖。歓喜と、戸惑いと、罪悪感。

 様々な感情が胸の中で入り混じり、頭の中をかき乱す。

 おかげで思考がまとまらず、手足が言うことを聞かない。


「大久保さん?」


 囁くような問いと吐息が耳をくすぐった。

 ハッと我に返り、きょろきょろと首を巡らせてから、透と目を合わせた。


「あ、いや、その……ごめん」


「ふふっ、謝らなくていいですから」


 優しい声が胸に突き刺さった。

 何をするのかはわかっているが、どうすればいいのかはわかっていない。

 篤志には経験がない。

 今の今まで特に問題視していなかったが、これは大問題ではないかと今さらながらに狼狽せざるを得ない。

 上京して以来、異性と全く関わりがなかったわけではない。

 特に漫画家として成功し始めてからは加速度的にそういう雰囲気になりそうな機会が増えた。

 にもかかわらず、そのすべてを拒絶していた。

 封印していたとはいえ胸の奥にはずっと透の笑顔があったから、他の異性と性的な関係を持つことに興味がわかなかったし、半端な気持ちで食指を伸ばすのは相手に対しても失礼だと思っていた。

 まさかこんなことになるなんて想像してもいなかった――否、まったく考えていなかったと言えば嘘にはなるが、いざ実際にこんなことになってみると経験不足が致命傷レベルで痛い。


――そういえば、透さんは……


 腕の中でおとなしくしている愛しい女性に視線を下ろす。

 透は『風祭 優吾かざまつり ゆうご』と結婚している。当然そういう経験はあるだろう。

 なかったら、そっちの方が大問題だ。そのまま離婚の原因になりかねない。

 それに――もっと大事なことがある。


「今さらこんなこと聞くのもアレなんだけど」


「ん~、なんですか?」


 心地よさげな声。

 閉じられた目蓋から、信頼を感じる。

 甘く、そして苦い。歓喜と罪悪感のブレンド。


「その、透さんたちって、子どもは……」


 これだけは聞いておかなければならないと思った。

 自分の身勝手な感情をぶつける。透は受け入れてくれた。

 彼女を悲しませた風祭はどうでもいい。心底どうでもいい。

 でも――子どもは何も悪くない。子どもから母を奪うなんて、それこそ……


「いません」


 透は頭を横に振った。

 悲し気な顔だった。

 眉を寄せてため息をついた。

 重い、重い吐息だった。


「もし子どもができていたら、何か変わっていたのかもしれませんが」


 もう今さらです。

『それ以上は何も言うな』

 声にならない言葉が耳をかすめた。

 何かあったのだろうか?

 誰かに何か言われたのだろうか?

 篤志は、その話題には触れないでおこうと心に決めた。

 そして行儀悪く脚で障子を横に滑らせると――


「……」


「……」


 広い和室には、布団が敷かれていた。

 ふたつ。

 すぐとなりに。

 と言うか、くっついていた。


「えっと、これは……」


「私たち、そういう風に見られていたんでしょうか?」


「なのかねぇ」


 途端に気恥ずかしくなった。羞恥に顔が燃えた。

 この宿に泊まってから、従業員のことなんて意識したことはなかった。

 それは客に変な気遣いをさせまいとするプロの振る舞いなのかもしれない。

 でも、彼女たちはれっきとした人間で、感情があって。

 篤志たちのことを『そういう関係』に見ていた。

 ゼロ距離に並ぶ布団がすべてを物語っている。


「考えるのはやめましょう」


「そうだな」


 周りの人間がどう見ていたかなんて、意味がない。

 これから自分たちはそういう関係になるのだから。

 コンセンサスを得て、透の身体を布団に横たえる。


――って、ここからどうすりゃいいんだ?


 しどけなく寝転がる透を前に、篤志は混乱の極みにあった。

 高校卒業とともに上京し一心不乱に漫画に打ち込んで十年。

 繰り返しになるが、異性と接触する機会はそれなりにあったものの……こういう展開になったことは一度もなかった。意図的に避けていた。

 これ以上は先送りにできない。わかっているのに動けない。

 ふいに、透が上体を起こした。

 ちょっと不満そうな顔だった。


「大久保さん、こういうことを聞くのは失礼にあたると思うのですが」


「はい」


「ご経験は?」


「……ありません」


 羞恥プレイにしてもひどすぎる。

 篤志は心の中で泣いた。

 実際に泣きたくなった。

 自然と涙腺が緩んできた。


「あ、いえ、その……責めているわけではなくてですね」


「俺、十年間何やってたんだろう?」


 慨嘆せざるを得ない。

 透以外の誰かとしたかったわけではない。

 でも……したくはないが経験はしておきたかった。

 矛盾しているが、現在の心境を他に表現するすべがなかった。


「高校卒業してから今までおひとりで頑張ってこられたんですよね! すごく頑張っておられるじゃないですか!」


若干あやしい透の言葉が情けなさを加速させる。


「それとこれとは話が違うっていうかさ」


「……」


「……」


 お互いに間近で見つめあう。

 ロマンチックなシチュエーションのはずなのに、ただひたすらに悲しい。


「えっと、では僭越ながら私が……」


「……お願いします」


 項垂れた。

 なんかこう、妄想していたのと違う展開だった。

 十年来の思いの丈をぶつけるとなると、もっとガツガツ自分から攻めると思っていたのに。

 現実の自分はあまりにチキンで、リードどころか指一本振れることができてない。

 挙句の果てに透に気を遣わせるとか……穴があったら入りたい。むしろ死にたい。


――『くっ、殺せ』ってこういう気分なのか。


「では、その……まず、キスをしましょう」


「おお」


「そこで驚かれるの、とても新鮮ですね……それでは、眼鏡を外してください」


 続いた言葉に眉をひそめた。

 眉をひそめた篤志を見て、透も眉をひそめた。


「え? 眼鏡外すと透さんが見えないんだけど」


「そんなに悪いんですか?」


「いや、そこまでは。まぁ、すぐ傍にいるから見えないってわけじゃないけど、何かな」


『眼鏡、本当に外す必要ある?』

 無言でそう問いかけたら、透の指がそっと伸びてきて眼鏡を外された。

 篤志から離れた眼鏡は、そのまま枕元に置かれた。

 視界が霞み、鮮明に見えていた透の顔がぼやける。


「その、キスだけなら別にいいかと思うのですが、そのあとを考えると……結構激しく動くことになりますので」


「あ、そういうこと」


 得心行った。

 これから自分たちは『そういうこと』をするのだ。

 篤志の脳内(妄想)でも、かなり激しい運動になっていた。

 それにしても――見づらい。見えないことはないが、視界のゆがみは愉快ではない。

 無意識のうちに顔を寄せると、透は逆に顔をそむけた。


「透さん?」


「え、あの、心の準備が、その」


 透の声は上擦っていた。

 余裕があるように見えたが、違うのだろう。


「やっぱやめる? 今ならまだ」


「いいえ。大久保さんが勇気を振り絞ってくれたのですから」


 そう言ってくれた。言わせたことに申し訳なさを覚える。

 彼女もまた勇気を振り絞っている。

 それどころか、きっと――


「さっきから、ずっと胸がドキドキしています。単純に好きとか、それだけじゃなくて……」


 心臓が張り裂けそうです。

 囁きの温度、そして湿度に万感の思いが込められていた。

 浮気され続けた心が優しさを求めている。

 浮気しようとする心が罪悪感に苛まれている。

 浮気される悲しみを知る透は、浮気することで夫をどれだけ悲しませるかもわかっている。

 篤志と透では、罪悪感の方向性もレベルもまるで違うのだ。

 これからいっしょにひとつになろうとしているのに。


「全部俺が悪い。透さんは悪くない」


「いいえ。私も悪いです。篤志さんだけが悪いわけじゃありません」


 これは、ふたりで決めたこと。

 そう続けた透の唇を奪った。

 それ以上言葉はいらなかった。

 初めて口にする透の味は陶酔と高揚と。


――これは、罪の味だ。


 蕩けるように甘く、そして――

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る