プロローグ

 若き姉と未だ大人になりきらない弟があぜから黄金色の稲穂の中に足を踏み入れた。

 田の土はここ数日の晴天で完全にかわききっていた。

 姉弟きょうだいの裸足には田の土すらつかなかった。

 ここに逃げ込んだのが間違いなのはわかっていたが、ここしかもう逃げ場がなかった。

 里山の麓からは幾筋も黒い煙が上がっていた。


「田に逃げ込んだぞ」


 邑々むらむらで散々陵辱を重ねた兵士の野太い声が背後から響く。


「お姉様」 


 弟が堪えきれず怯えたように小さな声を上げた。

 姉と弟は黄金色の稲穂の中を地を這うように身をかがめていた。

 姉は指を口に当てて弟を制した。


「なれはあぜを駆け、右手より回り込め」

「おうっ」


 違う男が返事をした。

 声は大きかった。

 もう近くに迫っているのだ。

 姉は更に強く弟の腕をふところ近くに引きつけた。

 猿奴国えんなこく国主くにぬしがこんなに早く戦を仕掛けるとは誰も思わなかった。

 この雑兵たちも、そして姉も弟も。

 ここ数日の晴天続きで稲がしっかり実り、猿奴国えんなこく国主くにぬしは先にまだ実りきっていない自国の稲を狩りとるや亀奴国きなこくに攻め入った。


 人も土地も稲もすべてを刈り取るために。

 

 姉と弟は手に手をしっかり取って夕日に向かい駆けていた。

 なかなか落ちぬ夕日が恨めしかった。

 日中ひなか戦場いくさばの近くを移動するのは誤りだった。

 勘の鋭い姉は強くいさめたが弟は怯えに怯え、先を急いだのだ。

 右手のあぜに太い両刃の直刀を持った大男が立っていた。

 姉と弟はかがみながら左手によれた。

 次のあぜをさえ越えれば、細い用水路の土手にどうにか身を隠せそうだった。

 

「若い女と男ぞ、人買ひとかいにたこう勝ってもらえるぞ、ふんばれや」

「おうっ」


 姉と弟は急ぎながらもそろそろとあぜに迫った。

 逃げられる。

 そう思った刹那だった。


「危ない!」


 姉が叫んだ。

 姉はいつも誰よりも先に何事にも気がついた。

 左手のあぜにもほこを持ったガニ股の男が立っていた。


「どうっ」


 ガニ股の男が長いほこを横にないだ。

 ほこの柄の部分が弟の側頭部にあたった。

 姉と弟の手が離れた。

 弟は崩れるように倒れた。


「売り物だで傷つけんようにやりゃあ」

「わかっとる」


 姉と左手の畦に立つガニ股の男とが向かい目を合わせた。


「しかし、こりゃあ上物じょうものだで」


 ガニ股の男が言った。


「今、行くでぇ」


 姉の背後から声がした。

 姉は後ろも気にし、倒れた弟も気にし、首を何度もめぐらした。

 助けを呼んだり頼れるものはいない。

 武具や得物えものも持っていない。

 水と食い物にすらこの3日ほどありついていない。

 持っているものは秋には薄い着物とおのれの体のみだった。

 その間にガニ股の男は太い毛だらけの二の腕で姉の襟元を掴んだ。


「ちょっとの間、相手をせいや」

 

 ガニ股の男はもう必要ないと思ったのか長く重いほこを投げ捨てた。

 そしてそのまま姉の肩を強く押し、押し倒した。

 姉は悲鳴を上げる暇さえなかった。

 ガニ股の男は両足を姉の足の間に無理やり押し入れてきた。

 男の毛深い太ももの毛が姉の内股を下から触れ上がってきたのがきっかけだった。

 姉はありったけの悲鳴を上げた。

 ガニ股の男の上半身が吹き飛んだ。

 二三間向こうにまで飛んでいった。

 下半身は姉の股の間に残っていた。

 姉は狂ったように両手でそれを払いのけた。


「なんじゃ、どうした?」


 後方から鉄片を巻いた鉢巻をした男がやってきた。

 ガニ股の男の返り血を身体いっぱいに浴びた若い女が腰を地面に付いたまま鉢巻の男を目を見開いて見ていた。


「なれは、なにをしたんど」


 鉢巻の男の手が姉に伸びてきた途端、姉はまた叫んだ。

 姉の視線は男の胴から上を睨みつけた。

 姉の視線が走った場所全てにほむらが走った。

 鉢巻の男の全身を炎が包んだ。


「ぎゃあああああああああああああああああ」


 鉢巻の男は燃えあがりながら叫び倒れ絶命した。

 火は男が倒れた周り一面にしっかりと伸びた稲に燃え移った。

 すべてを見ていた右手のあぜに居た小柄な男はあえぐように小さく言った。


「鬼じゃ」


 小柄な男はくるっと背を向けると逃げ出した。

 姉はその背中を黙って見ていただけだったが、男が幾歩いくほも駆け出さないうちに逃げ出していた男の体も四分五裂しぶんごれつに弾け飛んだ。

 燃えがった男の周りの炎はどんどん火勢が強くなっていた。

パチン、パチンと稲の実がはじけだした。

 山の裾の里の煙も追い立てる兵士がつけたものでなく、この姉がつけたものだった。

 燃えあがる田んぼの中から姉は弟の襟首を掴むと引きずりながら用水路の土手に上がった。

 ここなら炎は届かない。

 弟を引きずりあげる力は到底、女人にょにんの力とは思えない。

 周りから騒ぎを聞きつけむらのものや兵士までやってきたが火勢が強く誰も近づけなかった。

 野焼き程度の尋常な炎ではなかった。

 用水路の土手から山裾のいくつかの集落まですべてが燃え上がっていた。

 炎は高く大きく盛大に燃え上がり、その上に強烈な色と匂いの黒煙がもうもうと立ちあがり天を覆い尽くしていた。

 あたりはの光も刺さず薄暗くなった。

 血まみれの姉は天意までも変えようとしていた。

 

 倒れた弟の脇に立つ血まみれの姉は、あたりにある見えるものすべてを燃やし尽くした。

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