その方が正しいのだと、わかっているのに
水分補給も終わり、いろいろ呼吸を整えてひと段落する。動悸と呼吸を整え、汗をぬぐった。心と体に渦巻くモヤモヤしたモノをつばを飲み込むようにごっくんと体内に抑え込む。
(ドキドキなんてしてない。ドキドキなんてしてない)
(これはただの生理現象。慣れないことに不安なだけ)
心の中で今の心境を整理する。そうだ、不慣れな事だったから緊張しただけだ。キスだって慣れればきっと難なくこなせる。けして香魚にドキドキしたとかくらっと来たとかそんなことはない。
「えへへ。香織お姉さまが一杯です」
胸に手を当て、ほわっと笑う香魚。全然緊張とかドキドキとかしてなさそうだ。こっちはこんなに動揺してるのに。ちょっとムカッと来た。
「……なんか、キスし慣れれてるじゃない。どこで学んだのよこんなこと」
「いろいろ勉強しましたから」
「ふーん、それも
自分でも驚くぐらいに言葉に棘があった。
香魚から
要するに、この舌の動きもキスのやり方も誰かに教えてもらったのだ。誰か。自分じゃない誰かが、香魚とキスしてた。
……別にそれはもう仕方のないことだ。香魚はそのために作られて、そういう教育を受けた。DNA採取のために効率いい手段なんだろう。だから仕方ないったら仕方ない。
仕方ない仕方ない。何度も心の中で呟く。その度にモヤモヤする。
「あの、香織お姉さま? 何を怒ってるんです?」
「別に。仕方ないことだからどうでもいいわ。貴方がキスし慣れてるから、びっくりしただけよ」
それだけだ。別に怒ってなんかない。香魚に教育したのが誰とか、その人とどういうことしたのかとか、気になるけど気にならない。香魚だっていろいろあるんだし、出会ってまだ数時間程度の私よりもその人と過ごした時間の方が長いんだし。だからいろいろあるのは仕方ないわよ。
「慣れてるっていうほどじゃありませんよ。実践は初めてですし」
「……そうなの?」
「はい。基本は本や映像での教育です。実際に口づけしたのは香織お姉さまが最初ですから……その、ご不満とかありました?」
「っ、そ、そう……ベ、別に不満とかは、ない。うん、ないわ」
私が最初。
それを聞いて安堵する私。その後で、安堵した自分戸惑いを感じた。香魚が他の人とキスしてない、ってだけでなんで安心するのよ。これじゃ私が香魚の事――好きみたいじゃ――!
「そんなことないんだからああああああああ!」
「ひゃああ? あ、あの、どうしたんですか?」
「吊り橋効果! 吊り橋効果よ! 非常識な状況で、心が揺れているだけ! それを心が勘違いしてるだけなんだら!」
そうだ。このドキドキは未来に対する不安。そういう事だ。水没した世界。DNAを与えないと魚になる香魚。キスすることで水分を確保できる。そんな異常事態にストレス感じてるだけで――
(キス……香魚と、キス……)
(待って。これ、もしかしてずっと続けるの?)
一日三回DNAを与える。死なない程度に水分補給。
(その度に、あんなことされたら……)
『んちゅ、香織お姉さま、ちゅ、香織お姉さま、はむ、香織お姉さま』
『香織お姉さま、ちゅちゅ、香織お姉さま、んちゅー、香織お姉さま、ちゅー』
『ちゅっちゅっちゅっ、ぎゅー、香織お姉さま香織お姉さま香織お姉さま、香織お姉さまぁ……』
『ちゅ、んん、んちゅ、む……んっ!』
『香織お姉さま、香魚……欲しいですぅ』
思い出すだけでいろいろくらっと来る。頬が熱くなって、足元がふわふわする。だめだめだめだめ。いろいろだめになる。
しかし、キスしないという選択肢はない。DNA交換しないと香魚は魚になるし、私も水を得られない。お互いがお互いを必要としているのだ。むしろどちらかが欠ければ、お終いなのだ。
だめにならないためには、どうすればいいか?
「そうよ。動揺なんかしちゃダメ。こんな状況になったけど、心揺らぐことなく立ち向かうのよ。うん!」
吊り橋効果なんだから、不安に負けちゃダメ。鋼のメンタルでこの状況に慣れれば、きっと乗り切れる。キスは医療行為。生きるため。私はノンケ。女の子のキスでくらっとしない
「よくわかりませんけど、香織お姉さまが元気になったのは嬉しいです」
私の内面葛藤など知らないとばかりに微笑む香魚。……くそぅ、この。ここまで動揺してるのは、香魚のせいなんだからね。
「ともあれ衣食住の食に関しては、しばらく何とかなると思います」
「……そうね。食べ物はしばらくは缶詰があるし」
いろいろあって忘れそうになったけど、元々はサバイバルの話だった。安全な水と食べ物は何とかなる。缶詰もいずれはなくなるだろうが、それも今日明日ではない。
「着るものに関しては、しばらくは今のままですね。速乾性のあるリネンやポリエステルの服があればいいんですけど」
私が着ているのは、学校の制服だ。替えの服や着替えなんてない。何かあった時の為に変えは欲しい。乾かしている間、下着姿と言うのはさすがに。
「でもこんな状況で新しい服とか、さすがに無理じゃない?」
一面の水平線を見ながら言う私。ブティックはもちろん、人が住んでいる家すらない。すべて沈んでしまったのだ。
「明日にでももう一回潜って街に行って、乾きやすそうなのを見つけるしかないですね。さすがに流されてるでしょうから、期待はしないでくださいね」
「流されてる?」
「はい。私が言った時もかなり水が渦巻いていました。軽いものは水流に流されてると思います」
水が渦巻く。それがどれほどの規模か想像はできないけど、香魚の言葉からその危険性は伝わってくる。
「無理しないでよ。私の服なんか、しばらくこれでいいんだし」
「そうもいきません。衣服の有無は体温維持や外敵の防御に必須です。汗の吸収なども考えれば、複数あるに越したことはないんですから」
心配する私の言葉に首を振る香魚。理屈はわかるけど、無理してほしくない。
「それに、香織お姉さまのいろんな姿が見れると思うと……うへへ」
「なんでアンタはそこでそんな笑い方するのよ。怖いんだけど」
「ちがうんですー。いろんな服を着ることで様々な状況に対応できるって意味なんですー。状況に合わせるのはサバイバルの基本ですから」
ドン引きする私に慌てて言いつくろう香魚。理屈はわかるけど、絶対それだけじゃないでしょ。
「住に関しては……しばらくはこれで雨風を防ぎましょう。寝床もこの寝袋で」
言って香魚は工事現場とかで見る青いシートを指さす。缶詰や寝袋とともに、水面下にある町から持ってきたものだ。
「本当はテントを持ってこれればよかったんですけど……さすがに重量的に無理がありました。すみません」
「何言ってるのよ。上出来よ。むしろ感謝したいぐらい」
しょげる香魚に、心の底から感謝を告げる。こんな状況で水の中から何かを持ってこれるなんて、凄いことだ。私は何もできないから、むしろ申し訳ないぐらい。ここまで世話になるなんて。
(まあ、私のDNAが目的なんだから仕方ないんだろうけど)
香魚がここまで慕ってくれるのは、私のDNAがないと魚になるから。人間の意識を保つために、ここまでしてくれる。利害関係の一致で私を死なせるわけにはいかないだけだ。
(逆に言えば、私のDNAが要らなくなれば、私との関係を維持しなくて済むんだよね)
例えば、他の人が現われてDNAを与えてくれるのなら。
あるいは、香魚の研究をしていた人が彼女の体調を戻したのなら。
私と香魚の関係は、終わってしまう。
その方が正しいのだと、わかっているのに――
(……ヤだな。胸がちょっと、痛い)
じくり、と小さく胸を削られたような痛みが生まれた。
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