セハザ《no2EX》 ~ エルにアヴェエ・ハァヴィを添えたら ~

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0章 ~アヴェエ・ハァヴィ・ユリゼント~

第0記~『アヴェエ・ハァヴィ・ユリゼント』 <0章>

―――転入して、並んで歩く廊下のもう一人の少女の姿を横目に。

見知らぬ大人の後ろについていくだけの。

見知らぬ場所、見知らぬ状況。

その少女の心の中はただ、不安だけで。

ときおり振り向くその大人が自分を見るたびに、身を縮こまらせる。

大人が決まって少女を見ていくのがわかる。

この大人についていかなければ、自分は怒られるから。

自分はついていく。

そう言い聞かせて。

とぼとぼ歩いてた。


何日か、何週間かも忘れたが、白くて何も無い、安心できて心地が良い部屋の、病院から連れ出されて。

車の中で母は私の髪を撫でていて、父はときどきこっちを見ては少し不器用に笑おうとしてた。

母は色々自分に話しかけてたけど、よく覚えてない。

「わくわくしてる?」

とか、少し無理した微笑みを見せてくれたのは、少し覚えてる。

両親と共に着いたのは、ここ。

この新しい学校。

綺麗な学校の中は、今まで見たこと無いくらい、綺麗なフロアで囲まれてる、きらきらしてて目が眩みそうだった。

絨毯を敷かれた淡くて暗めの照明の、高級そうな部屋の中でソファに座って誰かと話していた父と母。

母と父は一回だけ自分を強く抱きしめて。

病院からついてきてた女の人が手を引っ張って一緒に、どっしりとした扉を開けて出て行った。

振り向いた時に、「良い子にしててね」と難しい顔をしてた母と、その隣で母の肩に手を置く父が忘れられなかった。

自分が捨てられたような気がして。


ただ女の人について行って着いたのが、ベッドの置いてある誰かの部屋で。

茶色の多い昔のような部屋。

静かで、音の止まったような部屋。

「今日からここが貴方の部屋よ」

自分がどうなったかを最後に宣告されて。

真っ暗になった。

それは、とても気持ちよくて。

けど、気がついたら、倒れそうになってた自分はベッドの上で寝ていて。

外行きの服のままの自分に、その女の人におでこに手を当てられて。

「・・・疲れた?気分はどう」

その人はじっと私を見てた。

「・・休んでて」

そう言って、少し頬を動かすと、床に置いてた荷物の詰まってる大きな鞄を、部屋の隅に置きなおして扉を閉めていなくなった。

独りだけになった見知らぬ部屋の、見知らぬベッドの上で、その茶色い物の多い音の止まった部屋を、少し首を動かして見てたけど。

ベッドが二つ、二つの机が見えるくらいで。

後は、天井の淡い光を灯すランプを見ていた。

柔らかいベッド。

重い身体の重い服。

音の止まった部屋。

重いくらい。

その中にずっといたいと、思った。



誰かに揺り起こされて、目が覚めたらあの女の人が自分を覗き込んでいた。

「もう夕飯の時間だけど、貴方ずっと眠ってたの?」

じっと、その女の人は見てた。

「・・・あ・・・えっと、ここは寮だから。食堂に食べに、行く?」

私は枕の上の首をただ横に振って。

「・・・じゃあ、今日は持ってくるね。」

諦めたように、一瞥して部屋を出てく。

最後に見たあの人の目は、呆れてたような目だった。

見知らぬ天井に、暗がりの淡い照明の、綺麗な見知らぬ部屋。

見知らぬ机に椅子に棚に、後は見たことのある自分の荷物を詰め込んだ鞄。

さっき、何処かの部屋で母と父と話してた会った知らない髭の生えた男の人も。

母も父も、笑ってたけど。

目は笑っていなくて、自分を何かに騙すために笑おうとしていて。

自分はここにいて。

この部屋でずっと、ずっと・・・。

胸が気持ち悪いような、苦しいような気がして。

気がついたら涙が出ていた。

目を何度も瞬きしても、ずっと滲んでるから。

それに気づいたら。

胸がもっと気持ち悪くなって。

「・・・ぅ、っぅぅぅ゛ぅ゛・・・・、ぐす・・・ふぅ・・・っ」

私は泣いていた。

「・・・・う゛ああああ゛あ゛あ゛・・・・っ」

大口を開けて、ぼろぼろと涙が零れて。

滲んでぼやけた天井を見つめたまま、喉に涙が詰まっても息苦しくなってもずっと泣いていた。

「・・・ぐすっふぅっっ、う゛ああああああああ゛あ゛っ・・・」

がちゃりと扉の開く音がしたから。

私は、もっと大きな声で、もっともっと大きな声で。

そうするともっと涙がどんどん溢れてくる。

「・・・・う゛ああああああああああああああ゛あ゛あ゛・・・・っ」

誰かが何かを言ってた気がしたけど。

きっとそれは今部屋に入ってきた人で。

うるさいから、もっと大きな声を出して。

私を触ろうとするから、叩いて、暴れて振り払って。

しつこく触って掴もうとしてくるのをぶって、蹴って、大声で泣いて。

ずっと泣いてた。




「・・・ぅぅ・・・っ・・・・ぐすっ・・・・ぐす・・・っ」

ベッドの上で、彼女はまだ泣いている。

外着のシックな灰色のスカートに皺を作りながらのままに、壁を向いて寝転がっている少女の後ろ背の肩はまだ嗚咽をするたびに震える。

「・・・そろそろ、落ち着いた・・・?」

子供を住まわせるには豪華な部屋の、それでいて高級そうな近世の西洋のような内装の。

そこに備え付けられていたしっかりとした椅子の背もたれに、疲れきったような表情で眼鏡を掛けた女性がその少女の背中に声をかける。

その子のカルテも目を通したし。

最近の精神状態も聞いていたのに。

子供だからといって、環境の異なる場所に連れてこられたりなどのストレスを感じるのは無理も無いとは思うが、だからといってこんな目に合った自分がストレスを感じざるを得ないというのは・・・。

いや、こんな『多少なりとも』苛立ちを自分に騙し通せるわけがない。

今度、彼女の主治医に会ったら思いつく限りの文句を言ってやる。

そう、彼女が泣き止むまで、取り押さえるのを諦めて椅子に脱力してもたれ掛ったまま考え至った事である。

多少の憂さが晴れた所で。

椅子から立ち上がって茶色のパンプスでカーペットを踏み、未だ泣き震えてる小さな少女の背中に近づいていく。

何をそんなに泣いていたの、と聞きたいくらいだが。

精神状態の不安定な患者にはよくある事であるし・・・。

彼女に至っては、入院直後は毎日のようにヒステリック・パニックを些細なきっかけで幾度も起こしていたとカルテにも書いてあった。

長期の入院とカウンセリングによってその頻度も度合いも落ち着いたため、彼女の主治医と両親の合意によって今回の、彼女にとっては苦痛を伴ったらしい『お引越し』を決行したわけだが。

やっぱり今度会ったらあの主治医を締め上げてやろうかと内心毒づく。

「・・・ふぅ、食事、持ってきたから。一緒に食べましょう」

そう小さな背中に声を掛けて。

それでも、当然のように振り向かない背中にため息を吐いて。

不意にちくりと痛んだ手の甲の引っかき傷を見る。

よく見れば肌の出てる部分の所々に引っかき傷を見つけて、その女性は再び疲れを込めたため息を吐いた。

今日がこの仕事に就いてから初めての最悪の日かとも思った。

そんな気持ちも知らずに背中を向けている少女を見つめていて。

「・・・着替えもしないと」

そう呟いて。

思い腰を持ち上げて立ち上がり、少女のトラベルバッグを置いた隅の壁まで歩いて行き。

カーペットの上で開いて薄手の楽な服を探したが、パジャマらしい服を見つけたのでそれを着せようと折りたたんだそれを持ってベッドの脇に戻る。

少女はさっきから動かないままで、壁を向いて眠っているかのように大人しくなっていた。

「お着替え、する?」

また暴れだすんじゃないかと、なるべく優しく声を掛けた。

当然、彼女は振り向きはしないが、多少の意を決してその子の肩に触れても。

今度は暴れだしたりはしなかった。

少しの力を込めて、肩を引っ張って振り向かせると。

その子は、ごろりと転がって。

仰向けになった。

涙の乾いた筋もわからないほどぐしょぐしょに濡れた顔を拭きもせずに、何処か焦点の合わないような瞳で遠くを見ていた。

一瞬、ぞくりとする悪寒が背中を駆けた。

そして、本当にこの子は大丈夫なのかと心配に見ていたが。

着替えをさせるために、パジャマをベッドの上に置いて、女性は涙を拭くためのテーブルの上に置いた自分のバッグの中にあるハンカチを取りに戻った。

少女は全く動かずにそこにいた。

ハンカチで顔を拭いても、少し皺になった上着のボタンを外しても、スカートのホックを外しても。

白い下着姿の彼女の腕を取ってパジャマを被らせて着せてあげても、先ほど暴れてたのが嘘のように全く抵抗をしなかった。

ただ難しい顔をしてただけで、嫌がることもなく。

ベッドの上で足を伸ばして座っていた少女は着替えを終えてからちらりと自分を見たが、その視線はすぐに落ちてまたベッドに少女は横から倒れこむ。

これ以上は、どうしようもないと。

親切な女性は観念して、せめて身体を丸くした彼女に布団を掛けてあげてから離れた。

「ご飯はテーブルに置いておくから、お腹すいたら食べなさい。今日はゆっくり寝てていいから・・・。」

少女は背中を見せているだけで全く反応をしない。

「・・おやすみなさい」

その背中に掛けた声にも返事はなかった。

それを見届けた彼女はバッグを取って部屋を出て行こうとして、

もう一つ思い出してベッドを振り返る。

「・・・聞いてるのかわからないけど、このボタン、テーブルに置いておくから。用事があったらこれを押して呼んでね」

バッグから取り出した、手の中にすっぽりと納まりそうな白くて丸い簡易なデザインのそれは、病院から貸し出された緊急用のコールの物で。

『もしも』、の時のためにと支給された物。

面倒ごとに自分から関わろうとしている行為の気がして、滅入っている気が更に滅入る気もした彼女だが、これも仕事の内なので仕方が無い。

テーブルの上の既に冷めた夕飯のトレイの横にそのボタンを置いた。

「明かり、消す?」

どうせ反応が無いだろう背中に声をかけた。

それは一人で嘆息するために言った言葉だったのだが。

少女が身じろぎをして。

反応らしい反応に、少し驚いた気持ちで女性が見てる中で、少女はこちらを見て。

瞳を頼りなくも彷徨わせて、テーブルを壁を天井を、それからその女性に合わせ見た。

「・・・つけて、ください」

か細い声が囁いたのがなんとか聞こえた。

「・・・あ、うん。つけておくのね」

「・・・はい」

更に小さくなったかすれ声、けれど無いよりは随分良い。

「夕飯、食べたい時に食べてね、冷めちゃってるかもしれないけど。温かいのがいいんだったらもう一度持ってくる?」

「いいです・・・。・・・はい、ありがとう・・・」

「そう。あ、じゃあ・・・。これ、ボタンね、押したらすぐ来るから、いい?」

「はい・・・」

「えっと・・・」

一頻り、聞いていたのかいなかったのかわからない説明をして。

他にも、説明は多分にあるのだが、今は会話ができた事の驚きと、彼女への休息を。

それがいい。

「・・・それじゃ、おやすみなさい」

正常な意識であるのかもわからなかった少女が。

「おやすみなさい・・・」

か細くもはっきりとした返事をしたのに安堵を以って、女性は自分の分の夕食を持って扉を開けて出て行った。

そう、問診は明日でいい。

これからは毎日顔を見合わせることになるのだから。

残された少女はその閉まる扉を見ていたが。

数度の瞬きの後。

音の無い部屋の中で、身体を丸めて目を閉じた。

眠くは無い。

眠くは無いが、ただそうして目を閉じていたかっただけの。

何も聞こえない部屋の、何も見えない暗闇の中の穏息を。

甘受し続けていたかった。

彼女は気づくことなく、再び浅いまどろみの中に誘われていく。

それを邪魔するものは何も無く、それは悠久の時の中でのことのようだった。



ふと目が覚めて、重い目蓋を薄く開けた少女の目に映るものは。

やはり知らない天井の、知らない部屋の中の光景。

ぼんやりと橙色の寂しい灯りに。

誰もいないはずのテーブルの上に置かれた食事が、とても不気味に見えた。

温かなベッドの中でそれをぼんやりと見ていた少女はごろりと転がって、暗い壁の方を向く。

シーツが少し硬いのが気になっても、すぐに忘れた。

僅かな温もりのある布団の中で、少女はうっすらと開いている目で壁の一点を見つめていて。

また次第に目蓋が重くなってくる。

空腹の自分の音を聞いた気もしたが、それもすぐに忘れた。

空腹を感じるものでなく、身体に力が入らない事が、何より心地よかったから。

眠いから。

ずっと眠っていたかった。

少女の悠久の時はまた始まり。

もともと形も成していなかった意識も、再び散っていった。



何かの音を聞いた気がして、目蓋を開く。

少女が瞳を開ききる前に、ベッドで布団をかけて眠るその背中に女性の声が掛けられた。

「おはよう」

聞いた事のあるはっきりとした女性の声に少女は、向いていた壁とは反対の方に転がって向く。

誰かが入ってくるその前からほぼ醒めている意識に、ある女性がテーブルの上を覗き込んで呟いたのが聞こえた。

「食べてないのね・・・」

そう呟いたシャツとレギンスパンツ姿の女性はベッドの方に視線を向ける。

少女が長めの前髪の奥から黒い瞳で自分を見てるのを認めて、口端を多少持ち上げて微笑を作って見せた。

「おはよう、アヴ。もう朝よ」

少女はそう呼びかけられてから、もぞもぞと動き出して、のそりと起き上がり始める。

それを見ていた女性は。

昨夜は、奇異な行動を取ったその少女の挙動に注視せざるを得ない。

ベッドの横から足を下ろして座った格好になった少女はそのまま少し頭を低くして。

「おはようございます」

と、とても礼儀よろしく挨拶を返した。

「・・・・・・」

女性は目を細めたまま少女を見つめていて、少女も暫く女性を見つめていた。

アヴと呼ばれた少女はどうして彼女がそう呼んだのかを考えていたが。

そういえば昨日、初めて会った時にそういうやり取りがあったかもしれない。

けれどそれもよく覚えていなかった。

「・・・それじゃあ、着替えて、お食事しに行きましょうか。お腹すいたでしょう。これは片付けて朝ご飯を食べに行きましょう」

「・・・はい」

少し反応は鈍いが、少女が素直に頷く。

聞き分けの良い子じゃない、と安心と感心の半々に混じった気持ちの女性は少女を見ていた。

少女はベッドの足元をきょろきょろとしていて、それから女性を見上げてくる。

何かを言いたそうなその仕草に女性は眉を上げて問いかける。

「・・・あ、あの・・・」

「ん、なに?」

一応、優しく言ったつもりでも、その子は口ごもってしまう。

「・・・」

どうしたのかと思い見ていたら、彼女は手の平をゆらゆらと、指もゆらゆらと動かして女性の方に返して見せているようだった。

わかりにくいが、何とか思い当たった彼女はそのシャイな少女に口を開く。

「ああ、私の名前?もう忘れちゃった?」

「あ、いえ・・・その・・・」

尚も言いにくそうにしてるのは、名前を忘れたのが失礼だと気遣っているのだろう。

優しい子じゃない、と女性は頬を上げて微笑んで見せた。

「ココリーナ = ラスラよ。ココでいいからね。そう呼んで」

「・・・はい、ココ、さん。」

「うん」

「・・裸足、です・・・」

そう言って、自分の足元を見る少女にココは思い当たって納得して頷いた。

昨日、着替えさせた時に靴下も脱がせて、革の硬い靴もベッドの下に置いてあるが彼女には見えてないようだし、裸足で穿いても痛いだろう。

「そうね・・。」

部屋の中を見回しても、スリッパなどは置いておらず。

後で持って来てあげようと思いながら、彼女のトラベルバッグを壁の隅から両手で持ち上げて彼女の傍まで持ってきた。

どすん、と床にカバンを置いた彼女に少女は目を伏せながらも言ってくれる。

「ありがとう、ございます」

「はい」

少女はバッグを開いて中をがさごそと探していて。

それから、ふと動くのを止めて。

また彼女を見上げる。

少女を見守っていた彼女はその行動に不思議そうにしていた。

「・・・ぁの、・・・えっと・・・」

何かを言いにくそうに、目を彷徨わせていて。

「・・・うん?服、着替えて?」

そうなるべく優しく声を掛けて。

「はい・・」

少女は俯いたまま、そう僅かに頷く。

彼女が着替えの服を取り出すその間に、ココはベッドの下から彼女の靴を引っ張り出してあげて、それから立ち上がって彼女を見ているとこっちをちらりと見てすぐに視線を下ろす。

着替えの服は既に鞄から取り出して横に置いてあり、その上着を手にしているのだから着替え始めてもいい筈なのだが。

彼女は自分の服の裾に手を掛けようとしては手を止めて、下ろして。

俯かせている顔を見ていれば、ココに視線を一瞬だけ上げてすぐ下げる。

何かを言いたいのかもしれないし、けれどもしかして、だけど、とココは少しの間いぶかしんで、ベッドから離れテーブルの方に戻っていった。

その背中にやっと衣ずれの音が聞こえ始めた。

着替えを見られるのが恥ずかしかったのかもしれない、けれど昨日は自分が着替えさせても無抵抗だったものを。

パニックの状態が落ち着いた後の放心状態だったから、意識がまだはっきり働いてなかったのかもしれない。

それしか考えられないけれど・・・、それが本当なら、この子はよほどの激しいショックだったんだろうに。

それに、今の様子と比べても、不安定な状態に簡単に遷移してしまう事を憂慮すべきか考えてしまう。

普通の生活を送れるのか。

ココはテーブルの側の椅子に腰を下ろし、テーブルの上に肘を乗せて、暫くの間は少女を見ていた。

その視線に気づいた少女は、下ろしかけていたパジャマのズボンを少し上げて、もじもじとココから隠れるように身体ごと横を向こうとする。

脱ぎかけたズボンから可愛らしいパンツが見えているのだけど、それに気づかないような仕草も可愛らしく、ココは苦笑いのような気持ちで微笑んでいた。

それからそっぽを向いて、ココは自分のバッグの中を用も無いのに手を入れて漁ってみていた。

そしてふと、ブラシが目に入って、少女のために取り出すのだった。



朝の支度を終えさせ、共に部屋を出たココと少女は廊下を歩く間。

少女が食べなかった夕飯のトレイを持っているココはこの学校に、その寮に来たばかりの少女に話を聞かせてあげていた。

少女は時折、珍しそうに寮生の部屋が並ぶ廊下の光景を眺めては、すぐココを見上げて話を真面目に聞いているようだった。

「・・・たくさんの学生がいるから。私は、ここ、学園『ライトィール・エドゥワー』のお手伝いみたいな係で、貴方が困った時に頼ってもらうのがお仕事。同じお仕事をしている人は他にもいるから、調子が悪くなったりしたらすぐに助けてあげられる。もしかして担当が替わってもその時はちゃんと知らせるし、この寮の中でも学校、校舎の方でも会えるから安心してね。あ、それから、当分は、貴方がいた病院でもやっていたと思うけど、定期的に検診も受けてもらって、健康の状態を診て貰うお医者さんも暫く時々訪ねて来るのも覚えておいてね。病院の方よりは窮屈な思いをしなくてすむと思うよ。気軽にしててね。ここは学校だもの、たくさんの友達と遊んで、勉強して、楽しんでね」

沢山の事を彼女に伝えようとしていたけれど。

ココを見上げる少女は無言だった。

そんな少女に、ココは肩を下げる息と共に微笑んで見せた。

いつか彼女がよく笑うようになり、感情を素直に出してくれるようになるのならば、それは嬉しい事であるのだから。

今はよくはわかっていないだろう少女にココは言葉を続ける。

「そうね、お腹空いたでしょう。これ、じゃなくて温かい朝ご飯をすぐ食べさせてあげるから・・・?」

廊下を擦れ違う、制服を着た寮生達をちらちらと気にしているようなアヴにココは気づいた。

気にしているのに、おどおどと下を俯く少女の横顔をココは見つめていたが。

「ココさん、お早うございます」

声を掛けられたココは向こうから来る制服の女の子を見て柔らかく微笑んだ。

「おはよう、リコット」

リコットと呼ばれたその少女も微笑んで、それからココの隣で一緒に立ち止まったアヴを不思議そうに見ていた。

アヴは俯き加減にちらりと目の前の少女を見て、すぐにそっぽを向く。

あまり良くないおどおどとしている様子に、リコットはココを見上げた。

「この子、新入生?」

「ええ、昨日着いたばかりの・・・」

横目に、アヴが全く反応をしないのをココは見て。

「今から朝ご飯を食べに行くところ、お腹空いてて。ごめんね」

ココはリコットに控えめに微笑んでみせる。

「あ、はい。それじゃ、」

リコットも微笑み、ココに手を振り、最後まで彼女を見なかったアヴを少し不思議そうに見ながら擦れ違って行った。

「さ、行きましょうか」

ココがそう一歩踏み出せば、アヴもついてくるので。

ココはそれ以上は気にはしなかった。

それでもさっきまでのように、首を回して辺りを見ないようになってきたのは他の寮生がいる事と無関係とは思えなかった。



廊下の先の壁にある開いてある大き目の扉には、そこへ入っていく学生と出てくる学生とが半々に行き交う、朝の食事処の盛況ぶりである。

学生にまぎれてその扉を潜ると中は広く、長いテーブルに自由に座った学生達の騒がしさが耳にうるさく、食欲をそそる良い匂いが鼻をくすぐる。

ココは中を見回して思う。

いつ来てもご飯時は大盛況である。

「寮に住んでる生徒はみんなここでご飯を食べていくの。朝と晩の決められた時間に来れば好きなだけ食べれるから、覚えておいてね。味は美味しいから、お腹にいっぱい入って食べすぎには気をつけてね。」

まあ、にこりともしない隣の少女だけれども。

「お昼には皆学校へ行ってるから、ここに来るのは朝と晩の二回だけね。休日だと三食・・・ね」

俯いてるアヴが自分の言葉に全く反応しない様子に気づき、ココは訝しむ。

それでも彼女の横にぴったりと並んで歩いているので気にするほどでは無いかも知れない。

ココは食堂のある壁の端に立って、隣の少女も立ち止まったのを見て。

「少し待っててね」

と言い残した。

夕飯のトレイをまずは片付けてからにしようとしたのだが、反応の無いアヴが少し頷いた様な気がしてココは一歩、二歩と歩き出す。

アヴはココについて来る事はせずに、言われたとおりその場で待っててくれるようだった。

それを確認してからその場を離れようとして、ずっと俯いたままのアヴの姿を横目に気にしつつも、ココは少し離れた残り物の処理用のコーナーへ歩いて行った。

その場を離れていくココを目で追いかける事もせず、がやがやと騒がしい、ときどき甲高い笑い声が聞こえてくる元気な喧騒に満ちた、幾数十人もの学生達の溢れる部屋の壁際にアヴは独りでいた。

ガンガンと耳に伝わってくるような、痛い音。

頭から大量の水を被ったような大騒ぎで常に直接頭を揺さぶられているような、ひどい音。

次第にもっともっとうるさくなってきた。

あまりにもうるさくて耐えられそうになくて、少しだけ顔を上げて目だけを動かして周りを見れば、周りで歩く人たちも、テーブルで食べてる人たちも、皆が笑っている。

たくさんの人達が周りでいっぱい笑っている。

何でそんなに可笑しそうにして。

何をそんなに大声で話してるのか。

わからない。

でもこっちを見てる人がいる。

可笑しそうに、笑ってる。

たくさんの人達が笑ってる。

たくさんの人がこっちを見てる、たくさん・・・・・・。

見てる。

たくさん。

たくさん・・・。

笑ってる。

なんでおかしいのか、わかった。

私が見てるときは見ないようにしてて知らない振りをしてて、私が見てないときはこっちを見て、笑ってる。

きっとそう。

見られてる気がして、そっちの方を素早く見たら誰かがこっちを見てた視線を切った。

あの人、見てないっていう振りをしてる。

・・・嫌だ。

変なのって思ってる。

あの人も。

あの人も。

嫌だ・・・。

みんな制服だし。

・・・私だけパジャマだし。

パジャマ・・・?

パジャマ、だっけ・・?

・・あ、ちがう、・・・パジャマじゃない。

着替えたんだった・・・。

たしか・・・、着替えたんだった。

嫌だ・・・。

嫌だ・・・・・。

でも私だけ浮いてる。

浮いてる。

嫌だ・・・。

私だけ浮いてる。

嫌だ・・・。

変だから。

嫌だ・・。

嫌だ・・・。

変なものでしかないから、私・・・。

嫌だ・・。

嫌だ・・・・

いやだ・・・・・・。

・・・いやだ・・・怖い・・・。

怖い・・・・ぃ・・。

私の傍で周りで、囲んだそこらじゅうからの幾つもの嫌なものが身体中の肌をちくちくと突付く。

痛くて、怖くて、私の身体は何度もぶるっと大きく震えて。

何度も、・・・怖くて、痛くて・・・恐くて・・・。

嫌だ・・・嫌だ・・・・・・・嫌だ・・・・。

・・・ぁ・・ぁ・・息が・・・。

・・い、嫌・・嫌だ・・・・・息・・・くる・・・・・・。

全身が、病気みたいに、言う事をきいてくれない。

私は私の身体を両腕で抱きしめて、痛みから守りたかったのに、私の腕は動かないで。

足も、首も、背中もお腹も、どこも、私の身体を曲げることがまったくできない。

「か・・っ・・ぁっ・・・ぁ・・っ・・・」

息、くるし・・・。

全身が、動かないで、身体中の中身が重くて鉄みたい。

全部硬いものに入れ替わったみたいに固まってた。

・・病気・・・?・・・死んじゃう・・・?

私・・・?死んじゃう・・・?

ここで?今・・?・・・死んじゃう?

・・嫌だ・・・いや・・・。

イ・ヤ、ダ・・・って、大声で叫びたくても、顎が僅かに震えるだけで。

喉の奥が空気が弾ける音が聞こえるだけで。

「っか・・・ぁ・・っ・・・かっ・・・・」

何度も人はいっぱい。

人がいっぱい笑ってて・・・。

うるさいくらい笑ってる・・。

私が今すごく痛い事、恐い事。

たくさん笑ってる・・。

気づいてなんてくれない。

独りだけの私、

他の人達とは全然別の。

・・・違う、私は苦しい。

苦しいの。

笑わないで。

もう笑わないで・・・。

痛くて、辛くて、悲しいから・・・。

嫌だ・・・・・・・・。

嫌だ・・・。

昔、絵本で読んだ。

街に連れてこられた檻の中にいる、ぼろぼろの野良犬は哀れだった。


ココは手付かずの昨日の夕飯を捨ててしまうのに多少の抵抗はあったが、それも済んでしまって今は心の引っ掛かりが全て取れたようにすっきりした気分でいた。

別に資源の無駄だとかをこだわるつもりもないし、それでも思い切ったように捨ててしまうと多少は晴れた気分になるのだから、結局は気分的にも良い事をしたとさえ思ってしまう。

当分はちゃんと世話をしないといけない子を任された事だから、けど彼女を学園生活に慣れさせればいいことなのだしと、ココはまだ少し遠い壁際であの少女がちゃんと言われたとおりに待ってるのを見て心の中で頷いていた。

俯いてるその姿は、やっぱり彼女にとって新しくて、未知な学園の生活に放り込まれた不安なのだろうと、独りぽつんと立ってる少女の姿を見て改めて強く思った。

これからその不安を取り除いていかないと。

・・・ココがその少女の傍に帰ってきても、少女は顔を上げるような事もせず反応はしない。

先ほどから、こういう人が多い所だと緊張するのか、まぁゆっくりと慣れてもらうしかない。

「待たせたね、行きましょうか」

そう、ココは歩き出そうとして。

「お腹ぺこぺこでしょ・・・・・・?」

さっきまでは横についてきた少女が今はついてこないのに気づいて、ココは振り返る。

少女はそこで立ち尽くしたまま動いていない。

「ア~ヴ・・・?」

不思議に思って、優しく呼びかけても・・・。

「どうしたの?」

ココは少女の前まで戻って。

それでも動こうともしない少女を不思議に思って肩に触れようとして。

少女の小さな肩が小刻みに震えてるのに気がついた。

「アヴ・・・?」

・・短く浅い呼吸の繰り返し。

嫌な予感がして、ココは膝を折って少女の顔を覗き込もうとして、少女の両肩に手を置いた。

「・・・んはっ・・・・・・ぁ、はあっ・・・はあっ・・・・」

ココの両手の平が少女の両肩を掴んだ瞬間、驚いたように少女が小さく息を吸い込んだ。

まるで、人間が息を吹き返したように。

ココは真剣な瞳で少女の顔を覗き込むと、少女の瞳は焦点を結びかけて自分を見ようとしていた。

けどそれも安定せずに、黒い瞳は小刻みに揺れて彷徨い、目の前の自分を見ることもできなくなっている。

「アヴ・・・」

例の発作と直感したココがそれを考える前に、少女の瞳が涙で溢れる。

大粒の涙が頬をぼろぼろと流れていき始めるのはその数瞬の間でしかなかった。

「・・・ぅぅぅぅぅ・・・ぅぅぅぅ゛ぅ゛・・・・」

歯を食いしばるようにして少女は強く息をしていて。

一緒に喉に引っかかったような声か音が鼻に掛かっても音を出していた。

・・・既にパニック状態と言えるのかもしれない、けど昨夕に遭遇した症状と比べると軽度だと思いたい。

「大丈夫?恐かった?」

ココは意識を保させようと両肩に手を置いたまま少女の瞳を真っ直ぐに見つめて、震えそうになる声でなるべく優しく聞かせてあげる。

「・・・ぅぅぅぅぅ・・・ぅぅぅぅ゛ぅ゛・・・・」

けれど、少女の様子は変わるようには見えない。

「良い子ね、もう大丈夫よ。落ち着いて、落ち着いて・・・」

知らず知らずの内に、ココの、少女の肩を掴む両手の力が強くなっていた。

不意に少女は肩を大きく震わせて。

敏感にも不快に感じ取ったのか、その両手の圧力を振り上げて振り払った。

「・・っ・・・」

突然の事にココは驚きの声をあげる。

その瞬間に少女と目が合っていた。

少女は驚いたように呆けた表情でココを見ていた。

涙で濡れた顔で、自分の事がわかっていなかったのか、たった今それに気づいたかの様にココには見えた。

止まっていた少女の目尻から一筋、涙が頬を伝って落ちていった。

「・・・ぅぅぅううう゛う゛う゛っふっあ゛ああああ゛あ゛あ゛っ・・・・・」

その顔がみるみる内に悲しそうに歪んでいく少女は、止まりかけた涙がまた止め処なく流れていく。

大口を開けて、とても小さな子供の様に泣く少女が溢れる涙に目を両手で擦るのを見ていて、少しの間は驚いてはいたものの、ココはどうしたものかとすぐに小さなため息をつきたくなった。

ココが辺りを見回すのに気がつくと、何人かの学生達が周りから遠巻きにこちらを見ていた。

ここいると目立って余計に悪くなる、そう思ったココの背中に声が掛かった。

「ココ?どうしたんだ?その子は?」

「あ、ジェソン、ウェイ・・・」

振り向いた先には同僚の、スタッフ二人がこちらに来ているところだった。

「ちょっと、この子が泣き始めちゃって・・・、静かな所に連れてく」

「そうか・・・?」

「看護室あたりがいいんじゃない?」

「・・・そうね、そうする」

ココは二人にそう告げて。

「行きましょ、アヴ・・・」

優しく言い聞かせるようにして、目を擦る少女の手を取る。

そしてその手を引こうとし、すると思い切り強く手を引っ張られてココの手から抜け出してしまった。

ココは少女の拒絶に驚いたが、今も少女は両手を目に当てて涙を擦っている。

「・・・アヴ、行くよ」

強めに、再び少女の手を取って握った。

また逃げようとして、逃げようとして。

強く引っ張る力に強く握っていれば。

その力は小さくなっていって、逃げる事もしなくなった。

ココの手を引っ張り返そうとはせずに、少女はそのまま片手で涙を拭きながら、泣き声をあげたままココと一緒に抵抗しないで歩き出してくれた。

なるべく他の子には見えないように身体で遮りたかったが、それも全てできるわけでもない。

「さあっ!後は任せてっ!ちゃんと朝ご飯を食べて行けよ!時間がなくなっても知らんぞーっ」

後ろから聞こえたジェソンの、他の子への大声には助かる思いだった。



アヴは廊下を手を引っ張られて歩いている間もずっと声を上げて泣いていて。

近くの看護室に入るまでにも、擦れ違う子らの注目を浴び続けていた。

涙は本当に止め処なく溢れてくるようで。

看護室の扉を閉めたところでもまだ顔中を濡らし続けていた。

部屋の中にいたスタッフの一人、トムは座っていた腰掛の上で驚いた顔を向けココとアヴを見比べた。

「どうしたんだい?」

いつもなら人のよさそうな恰幅の良い相好も今は眉が釣りあがっている。

「静かな所で落ち着かせようと思って。泣き始めちゃったの」

「そうか」

トムは立ち上がって棚を空けると白いタオルを取り出す。

それをアヴの目の前に差し出して顔に押し付けた。

「ほれ、これで拭きな。手で擦るよりは柔らかくて気持ちいいだろ」

アヴはタオルで口を塞がれて、落ち着いてきた泣き声がまた一段と小さくなる。

押し付けられたタオルを両手で掴んで、ひっくひっくと息を乱しながら肩を震わせながら、引き離してじっと白いタオルを濡れた睫毛を歪めたまま見ていて。

「あ、ありがと、トム」

ココはそんなトムに忙しなく礼を言って。

アヴはココの方に目を向けたトムの顔を下から歪めた目で見上げていた。

「それより、俺は出ていようか」

滲む視界の中でトムの口が動いてココにそう言ったのを見て、アヴはその柔らかくて白いタオルに顔を埋めた。

ココが返事をする前にもトムはその大きな身体を起こしココの脇をすり抜けていく。

「ごめんね」

「いいってことよ」

トムは申し訳無さそうなココににっと笑って見せて、突然の急患であるその少女の背中を一瞥してから看護室の扉を開けて出て行った。

ココはそれを見届けずにどうしたものかと考えていたが、取りあえずはアヴの背中を優しく押して、ベッドに座らせてあげた。

背中や肩がまだ小刻みに震えてるのを手の平で感じていた。

ただ、隣に座って少女の様子を眺めていても、このまま当分の間そっとしておけば泣き止みそうだった。

大声で泣いていたのを今は肩を震わせて息をしてるくらいで、大分落ち着いてきている。

・・・それなら、やっぱりご飯を持ってきてあげようと思い至って。

ココは背中を優しくさすってから。

「すぐ戻るからね」

とアヴに告げて、ベッドから立ち上がり看護室の扉を開く。

仕切りで見えないベッドの上のアヴの、すすり泣く音が扉を閉めるまで聞こえていた。

「おや、もういいのか?」

ココは部屋を出たすぐにトムを見つけた。

こちらに歩いてきていたのかトムもココを見ていた。

「いえ、ご飯を持ってきてあげようと思って。もしかして待ってた?」

「いやぁ、俺はタバコを忘れちまって」

「タバコ?吸ってるの見たことないけど」

「当たり前だ、学園内は禁煙だよ。ただ咥えてるだけならいいだろ?」

「あぁ、隠れてやってるのね・・・」

「そういうこと。まぁ、吸いはしないよ。どっちにしろ見つかると面倒だがな」

「そうね。取ってきてあげましょうか?」

「そうか?」

「ええ」

「ああ、なんだったら俺が食堂行ってご飯もらってくるよ」

「いいの?」

「ああ、俺の秘密を知った仲間への愛ってか」

「・・・弱みを握られたとは考えないのね」

「おいおい、物騒だな」

「冗談よ」

そう微笑んだココに、トムは肩を竦めて見せる。

振り返って行こうとしたトムの背中にココが声をかけた。

「ねぇトム」

「うん?」

振り返ったトムはココが何かを考えている表情に見えた。

「あの子、昨日着いたばかりの子なんだけど、カルテを読んだ限りの様子じゃ随分違うのよね。病院にいた時より不安定になってるのかも・・・。報告した方がいいかな・・・?」

「なに、リハビリさ。珍しい事じゃない、そういうケースは。今は実際の社会で生活できるようにするためのリハビリみたいなもんだ。じきに安定するのを待つしかないのさ。」

「それは、わかってるんだけど・・・」

「必要以上に心配はするなよ?けどちゃんとお守りはしとけよ、あの子にはまだまだ必要そうだ」

「ええ」

そう頷いたココを見て、トムは背中を見せて行ってしまう。

トムは後ろ手に軽く手を振って見せていた。

彼を暫く見送って、ココは出てきたばかりの看護室のドアノブにそっと手をかけて静かに開いた。

音を立てないようにパタンと閉めても、どうやらすすり泣くような声はもう無くなっていたようだった。

泣き止んだのかと思って仕切りの向こうを覗いて見れば、少女は泣き疲れたようにベッドの上で横になっていて。

静かに近づいた所、規則正しい寝息を立てているのがわかって、ほっとしたような呆れたような気持ちになる。

一つ短く息を吐いた後、先ほどトムがいた辺りに目を走らせて、置き忘れたというタバコの箱を見つけられた。

あまり隠す気は無いようにも思えるが、机の上の真ん中に鎮座するそれを取って、ココはポケットに仕舞いこんだ。

そして先ほどのトムのように腰掛に座り気を落ち着ける。

ふと、視界の隅に何かが映った気がして、ココは振り向いた。

あの少女が眠っているベッドの、横。

少女が寝息を立てているだけの静かな部屋の中で。

ベッドの横の空間がぼやけたように目に映ると、淡い暖色に色づいていく何かの形を成す、輪郭も次第に細くなっていき、それは人型のような形を成していく。

ただそれは、所々が崩れたように、明らかな人ではない骨に当たるのか出っ張りが、デッサンが狂った顔の部分が相成っている。

幻のような、蜃気楼を見ているように、淡い色の、空気に揺らぐようなそれは、定められた形を成しているのかもわからない。

ただ、人の成り損ないとしか見えないそれは、酷く不気味な存在でしかない。

それは少女の上を通り越して、何も無い中空を見つめているような、動く事もなくそこにいるだけの。

人間のような人形のような。

ガツッとココは身じろぎをしようとしたのか、振り向こうとしたのか、その際の靴の踵をどこかにぶつけた。

静かな空間ではとても大きな音に聞こえたその後、少女の側に現れていた人の成り損ないは輪郭を失い、色を失い、現れた時よりもずっと早く消えていった。

ココはそれが在った筈の空間をぼうっと暫く見ていた。

もう跡形も無いその現象を目の当たりにしたココは、それを信じるか信じないかよりも、自分が正常であるかでないかを考えるよりも。

ただ驚いていた。

鮮烈な芸術作品を見た直後の得も言えぬ衝撃の中にいるような。

恍惚としたまどろみの中にいるような。

・・・・・・ごそっと、衣ずれのような音が聞こえて。

「・・・ん・・・っ」

ベッドの上の少女が動いて。

浅い眠りから醒めたようだった。

ココは未だ驚きの余韻を引きずりつつも、腰掛から立ち上がり少女の側に近づいていった。

少女はうっすらと目を開けて、ぼんやりとした眼でココを見つけたら、睫毛を何度も上下させていた。



トムの持ってきてくれた朝ご飯の乗ったトレイと、彼のタバコを交換して。

すっかりご機嫌が治ったらしいアヴはとてもお腹が空いている様なのに、隣のココの視線を気にしながらも、時折美味しそうに頬を持ち上げて。

朝ご飯を平らげて満足そうにほっと一息を吐いていた。

そんなアヴを見つめていたココと目が合って、アヴはついっと目を逸らす。

その恥じらいにココは軽く相好を崩した。

「お水、いる?」

「・・・いえ、いいです」

「そう・・・まぁ、休んでて。学園の方には連絡しとくから。」

こぽこぽと、グラスに水を注ぐココを、きょとんとした瞳でアヴは見つめていた。

「今日から学園に行く予定ではあったんだけど、もう授業が始まっちゃいそうな時間だし、まだもう少し待ってもいいかと思って。学校はお休みにしときましょう。先生方には伝えておくから」

そう言いながらココはそのグラスをアヴの方の机の上に置いた。

「ありがとう・・・」

「いいえ」

置かれたコップをアヴは手に取って、ちびちびと飲み始めて。

それからこくこくと喉を動かして飲んでいった。

その様子を微笑ましく見つめつつ、後で主治医に報告した際に仰ぐ指示の内容を考えていた。

ありのままに伝えれば、恐らく学園に行くのは日にちを置いてからになるのだろうと。

その後、寮の部屋にまで帰したアヴに自由にしてていいとココは告げて。


ココの予想通り、彼女の主治医であるラルジュ = メォ = ファーナゾン医師は数日にわたる経過観察を申し渡した。

対面して診察も行ったがこれといった異常は無く、環境の変化によるストレスから来てるものだと判断し、学園に行くよりもまずは生活の根幹となる寮での生活に慣れてもらおうとの事だった。

その話を聞いたときの、当の心配の種である子羊が微かに目尻を下げたのをココは見ていた。

一通りの診察を終えて、ドクター・ファーナゾンは彼の茶色の皮製の鞄と共にテーブルに置いていった簡単な医療器具たちを片付け始める。

寮生の普段の部屋生活の中で、本来は相部屋になる寮生が椅子に着いて、思い思いに使われるのであろう茶色の手頃の大きさのテーブルが、今は彼女の医療行為の一役を担っている。

そういった場面を見るのは、この寮に集まる子の世話をするココにとっては珍しい事ではない。

けれど、その光景はいつ見ても、医師の診察を受ける子達、彼女らが特別である事を感じる瞬間を見せ付けてくれる。

ドクターが診察を終えた様子を感じ取った少女はベッドの上に座ったままで、俯き加減にちらり・・ちらりとドクターの様子を盗み見ている。

ココが今まで見て来たその少女の様子からして、もう無理して彼と面を合わせなくてもいいのかと安心と、どうしていいのかわからないといった不安な気持ちが織り交ざっているように見えた。

そんな彼女の遠慮がちな視線を受けながら、ドクター・ファーナゾンは鞄を閉めてテーブルの椅子から立ち上がる。

彼はその視線に恐らく気づいてるであろうが、穏やかな口調で彼女に問題は無い旨を簡単な言葉で告げた。

「それじゃあね、また来るよアヴェエ」

そう少女に挨拶したドクター・ファーナゾンは見るからに気の優しげな初老の男性であるが、少女は軽く頷いただけだった。

彼女が病院に入院している間から彼は診ていた筈なのだが、少女にとってそれほど特別な存在ではないようだ。

ドクターがココの脇を通って行き、ドアの向こうから彼女を呼ぶ仕草をしたのを見た。

ココは一度、ベッドに座ったまま俯き加減にしている少女を見て、少女が視線を上げてココにも遠慮がちな目を向けたのを見て、口元だけだが微笑んで見せた。

すぐに視線を下げた少女がその笑みをどう受け取ったのかはわからないが、ココは扉の方へと歩いて行き扉を静かに閉めた。

扉の外で待っていたドクターと、今は学園へと出払っている寮生の部屋が並ぶ閑静な廊下を並んで歩いていく。

「彼女にも言ったとおり、身体に異常は無いので、ストレスから来たのは間違いないでしょうね。病院にいた最近は特に安定していたんですが。やはり環境の急激な変化が原因だと思っていいでしょう。何か思い当たる事はありますか?」

「特には、無いです」

一度目の発作、あれを発作と呼んでいいものかはわからないが、一度目と二度目も突然の事だったのでココには思い当たる事も何も無かった。

「そうですか。でしたらやはり先ほど申したとおりに、学園には無理して行かせずこの寮での生活が落ち着くまで待ってあげてください」

「・・・わかりました。」

精神的に不安定ですぐに泣き出したり暴れたりするのなら、それは病人と変わらないのではないかとも思ったがココは言葉を飲み込んだ。

彼女はここまで日常的にひどくなる子を見たことはないし、他の人が付いた子にもこれ以上ひどい症状になる子がいたとしても病院に連れて行くのが常でありそれも多くの場合ではない。

ココにはその線引きができるわけではないし、それをするのが難しい事だとはわかるのだが。

ドクターがそう判断したのならそれはそうなんだろう。

「勉強は、自室でさせても?」

「ああ、はい。彼女は病人では無いですから。特別気に掛けなくても、他の子らと同じようにしてください」

入院していたというのに、病人ではないと言うのもおかしな話だ。

「はい・・・」

ココの声に含まれる微かなものを聞いたのか、ドクターは目を細めて言う。

「人より少々特殊な面を持ち合わせている。それが理解ですよ」

ココの内心を見透かしたようなその意味ありげな穏やかな笑みに、ココは僅かに頷くだけだった。

「はぁ・・」

それも少し、歪な考えなのではとココは思ったが。

勿論、普通じゃないから病気なのでは、などと彼と議論する気もさらさら無い。

それに、この場所でそんな事を言う神経も彼女は持ち合わせていない。

ここには程度の差はあれど、異常と呼ばれ得る子らが集まっているのだから。

自分に親しげに笑ってくれる子たちがここにはたくさんいるのに。

そう考えて、ココは少し彼の言う事がわかるようなものの気がした。

「彼らと関わっている身同士、私が誇張して言う事じゃない、ですね。」

ドクターはずっと穏やかに微笑んでいた。

「あ、いえ・・・。」

「・・・ルーシーやマルコや、彼らにも近頃会ってないんですが、彼等は元気ですか?」

「あ、はい。みんな元気ですよ。ルーシーはちゃんと挨拶してくれるし、友達といて毎日楽しそうです。マルコは友達とやんちゃに遊んでるみたいですし、そうそう、知ってます?あの子、テニスの有望選手だって期待されてるらしいですよ」

「おお、それは凄いね」

「メグも、ノッタもカオもモロも、みんな元気で学園に通ってます」

「そうですか・・・」

名前を呼ぶだけで、以前はドクター・ファーナゾンに掛かっていた、彼らの顔が思い浮かぶ。

穏やかな笑みを湛える彼も、それはきっと同じなのだろう。

それからしばらく歩いて、外からの光が満ちた広めのエントランスに抜けた。

遮光された光は程よく淡く心地よく、外客を迎え入れるに持て成しの一つとなるのだろう。

入り口の扉から入ってきて正面に迎え入れる、吹き抜けとなっている二階への大きな階段の横に差し掛かったとき。

そこで彼は立ち止まりココに軽く手を上げて止める。

「ありがとう、私はこの辺で。」

「お越しくださってありがとうございました」

「いえいえ。彼女を、今しばらくはよろしく見てやってください」

「はい。」

微笑を交し合い、ドクターは帽子を頭に被りエントランスの中心を通って外へと出て行く。

その背中を見送ったココは少しの間立ち尽くしたまま、これからやるべき事を暫く思い返していた。



昼頃、日の差し込む廊下を歩くココは壁に掛かっていた時計を見て、寮へ向かう足の歩調を変えることは無かった。

学校の方で少し調子が悪いという担当の生徒の連絡を受けて今しがた診て来たところで。

話を聞いていたその子は次第に気分は治っていき、特に問題が無いということで授業に戻っていった。

その後で暫くは保険医の先生とその子の様子を話し合いながらお茶を頂いてきた。

気付けば既に昼を回っている。

ココはお昼を食べに行く前に、寄るべき所を思い出しながらそこへと向かって行った。

日の光が基調となる学園の通路を進んで行けば、次第に寮の住まいの光の通らない廊下へとなって景色は大分変わる。

昼間でも少し強すぎる日光を窓硝子で遮光するその辺りは、白む光に慣れた目では暗がりに歩を進める印象になってしまうがそれもすぐに目が慣れてくる。

廊下にアンティーク調の備品が時折飾られる雰囲気はまた違った生活感を感じれて、とても落ち着いた気分にさせてくれる。

多くの学生が出払っているこの時間帯のこの場所の雰囲気もココは好きだった。

その閑静な廊下にある一つの扉の前で止まり、控えめに拳を当てれば返事は返ってこない。

それも何となく予想済みのココは声を掛けながら鍵の掛かっていない扉を開いた。

名前を呼びながら開いても、中から返事は無い。

ココは仄かに淡い橙色の灯りが点いている室内を見渡した。

案の定、というか、彼女はベッドの上で仰向けに横たわり目を瞑っていた。

静かに床を踏みながらココが近付けば安らかな寝息を立てているのもわかる。

このまま寝かせてあげたいのもやまやまだが、さてどうしようとココはその少女の寝姿を見つめていた。

診察の後、自由にしててと言ったけれど、まさかまた寝ているなんて。

お昼を誘いに来たのに安らかに眠られていると声を掛ける事もためらわれる。

なにせまだ少し難しい状況の子だ。

それに、けれど、またお昼ご飯を持ってきてあげてもいいけどこの子の為にもならない気がする。

ココは少しの間その子を見つめながら考えていたが、結局決めて、驚かさないように声を掛けたのだった。

「アヴ、アヴ・・・、起きなさい・・・?」

眠りが浅かったのか、すぐに彼女は驚いたように薄く目を開けてその瞼を重そうに僅かに瞬かせていた。

「起きた?」

そう聞いたココに、アヴは顔を向けて、二、三度眠そうに瞬きをしてからそのまま驚いたようにゆっくりと、身体を起こしてふらつくようにベッドの端に座る。

そんなに慌てなくて良かったのにと、ココはそんなアヴに口元の笑みを見せる。

そのアヴは黒い前髪に隠れる上目遣いにココを見上げては視線を落として、何の用かを気にしているようだった。

「お腹空いたでしょ?お昼ご飯行きましょう」

そう、ココが言えば。

アヴは顔を俯かせたまま何も答えなった。

「あら?」

少し予想外の反応にココはアヴを不思議そうに見る。

「空いてない?ご飯いらない・・?」

と、アヴは俯いたままふるふると、強く首を横に振っていた。

ココにはわけがわからないのだが。

「駄目よ、ご飯食べないと元気出ないから。さ、一緒に行きましょう」

そう言っても、アヴは動かなくて。

「どうして?具合悪い?」

そう聞けば、アヴはまた首を横に振る。

「・・いえ」

そう小さい返事も聞こえて。

「じゃあ、ご飯に行きましょう。ちゃんと食べないと身体に悪いんだから」

アヴはそれからまた返事無く、動かないでいた。

「・・・・・・」

まだ何か、言わなきゃいけないのかと考えていたココは。

「・・はい」

微かに頷いたアヴにまた小さく驚く。

そしてようやくベッドから下りてココの傍に着き、ココが歩き出せば彼女は付いてくる。

「・・忘れ物、無いよね」

そう、ココは室内を見渡しながら、独り言の様に呟いて。

「はい」

そう素直に頷くアヴに2、3度目を瞬かせて。

開いた扉に灯りを消し、暗くなった部屋から少女の歩調に合わせ歩いて出て行く。

彼女は何も言わずココの隣に何歩か遅れてついてくる。

それを見て、お昼ご飯を食べに行かせるのにも一苦労だと、ココは小さな軽い溜め息をつくのだった。



廊下の突き当たりの階段を下りてまた廊下を真っ直ぐ歩いていけば食堂の入り口に着く。

そこで朝食べれなかった食事をもらう為のココの説明を彼女は素直に聞き、彼女は普通にご飯を食べていて。

それから、普段から小食のようでお皿には少し残していた。

ココはそれを見ても、いちいち咎める事も無く、フォークをトレイに置いたアヴを見つめていた。

アヴはやはり時折、俯いたままの顔を少し上げこちらを気にしているようだった。

残った食器を片付けて食堂から出た後はココの案内に、寮生が使う入浴所に洗濯室、それに廊下の所々にある看護室という部屋などの、普段アヴが使うことになる部屋を紹介して。

最後にスタッフセンタの場所へと案内して、ココは教える事が漏れていないかを頭の中で反芻してみても、主要な場所の説明はこれで終わりで。

そんなココの続く言葉が終わったのを動かないで待っていたアヴはまた首を横に動かし、未だ人通りの少ない通路の周りを気にしているようだった。

説明をしている途中でも、時折頷く仕草を見せていたアヴは、途中で時折、同じ様に周りを気にしていた。

景色が気になるんだろう、とココはそんなアヴのあどけない仕草を見て思った。

初めての場所は誰だってそうだ。

ココはそんなアヴを暫く見ていて、それからアヴがココを一瞬だけ見上げたのを見て、次は寮と学園を繋ぐ連絡路や中庭へ抜ける道などを説明しに、アヴに声を掛けてその先に進んで行くのだった。




誰かに呼ばれて、触れられて、薄く目を開けられればそこにはココさんがいた。

私がぼうっとココさんを見ていれば、目を細めて言ってくる。

「起きたね。お早う、今日もお寝坊なのね」

そう背を向けて、離れていく。

「学園へ行かないけど、ずっと眠ってていいわけじゃないわよ。」

起き上がったけど、まだ開ききれない瞼でその背中を見てるとココさんは振り向いた。

「朝ご飯を誘いに来たわ。さ、着替えて」

「・・はい」

どこに着替えがあるのか、考えながら、私はまだ眠いままベッドから足を下ろしてスリッパを履いて。

壁の隅に置いてあるトラベルバッグの方へと歩いていった。

私が鞄を開けて中を見てると、後ろからココさんの声が聞こえた。

「まだ鞄に入れてたの?」

少し驚いたような声に私は振り向いていた。

「部屋にあるクローゼットやタンスは自由に使っていいのよ。入れるの手伝いましょうか?」

「・・・いいです」

「あら、そう・・?あ、ごめんなさいね。ちょっと無神経だったかしら」

ココさんが申し訳無さそうにしていたから、私はすぐに首を横に振っていた。

「・・いえ」

「一人でできるならいいの」

そう言ったココさんに少し頷いて。

「・・でも本当眠そうね。まずは顔を洗ってきたら?」

「着替えてから、でいいです・・」

「こっち側の廊下はまだ女の子しかいないから大丈夫よ?」

「・・・」

ぷるぷると首を横に振っておいた。

私は鞄から集めて取り出した着替えを持ってベッドの方に歩いていって。

「アヴは昨日、夕飯何を食べた?」

ベッドの上に置いたところでココさんがそう聞いてきた。

私は少しの間止まって、昨日の事を思い出そうとして。

「・・・アヴ?」

不思議そうに呼ばれてココさんに振り向いていた。

「・・・」

「・・・」

聞かれて動きが止まったみたいに、振り向いてすぐ俯いたり、それはいつものアヴの仕草のようにも見えた。

でもなかなかその答えを言ってくれない。

「昨日は夕飯を誘いに来れなかったから、知りたいなって・・」

アヴは少し俯かせた顔のまま、長めの前髪の奥で瞳を少し瞬かせていたようだった。

「夕飯食べに行った?」

そう聞いて、またその瞬間は動きが止まったように見えた。

何を答えようとしているのか、何を考えているのか、俯いた顔は答えない。

「・・行ってないのね?」

驚いたように、アヴの身体が少し動いたのをココは見逃さなかった。

「アヴ、駄目よ、三食ちゃんと食べなさい。身体が元気にならないわよ。いい?絶対に、私が来なくても、行きなさい。いいわね?」

そう、強めに言ったココに、アヴは俯いたまま無言だった。

「アヴ・・・っ」

「・・・はい」

「・・まったく、お腹空いてないの?あ、早く着替えて朝ご飯を食べに行きましょう」

「はい」

そう素直に返事をしたアヴはこちらにその小さな背を向けたままようやくパジャマを脱ぎ始めた。

その細い肢体を呆れたように細めた目で眺めながら、ちらりとアヴがこっちを見たのを見て、ココは口元に適当な笑みをなんとか作って部屋の違う方に視線を移した。

食欲が無いからと言ってご飯を食べに行かない子は時々いるけど、この子はまた少し違う気がする。

様子を見に来てもその何回かが部屋で寝てばかりいる。

何処も身体は悪く無いというのに。

放っておけばいつまでも寝てそうだ。

暫くそう、まだ私物も置かれていない生活感の無い部屋の中の、端にある棚を眺めていたココは近付いてきたアヴに気がついた。

アヴの寝癖のついた髪に、まだどこか頼りない足元。

寝すぎの所為か瞼だって腫れぼったい気がする。

「さ、顔も歯も磨いてきなさい」

アヴは一瞬だけちらりとココを見上げると、少しの間の後、とぼとぼ歩き出し。

自分の洗面用具を入れた袋を棚のほうから取り出してきて、それからまたちらりとココの方を見る。

その視線に気付いたココは手に櫛を持っていて、まだとぼとぼとした風に歩いて部屋から出ようとするアヴに付いていくのだった。

その小さな背中で、長い黒髪にある寝癖の跳ねを見つめていたココは、腕を伸ばして指に触れてみる。

ぴくっと感じたらしいアヴはすぐにこっちを振り向いて足を止めた。

ココはそのアヴの顔を見ながらその指先の感じを確かめていた。

すぐに顔を俯かせてしまうされるままのアヴに、ココはふと思いついた。

「昨日のお風呂はどうだった?不便な事なかった?説明は足りてたと思ったけど」

ぴたりと止まるのが、控えめな雰囲気にもわかるアヴである。

その俯いた横顔のみならず頭も止まっている。

そんな不自然な態度、ココには何も言わなくてもお風呂をどうしたかくらいはすぐわかる。

「・・・はぁ、まったく・・・っ」

ココは強めの溜め息をアヴに聞かせて。

暫く俯いたまま動かないアヴを見つめた後。

その小さな両肩を背中から取って押し出すようにして部屋の扉へと向かわせたのだった。

「いい?今日は絶対に入りなさい。午後の四時には入れるから、すぐに行きなさい、いいわね?」

有無を言わさない、温かな声である。

アヴはそうして扉の前まで押されたのを、ココを見上げて、それからノブを取って開いて。

開いた扉にまた背中から押し出されていくままに廊下を行く。

朝の廊下は、制服を着た女の子達がたくさん溢れていた。

中にはまだアヴェのように寝癖をつけたまま眠そうにパジャマで歩いてる子もいるけれど。

きゃいきゃいと溢れる楽しそうな声の中にすぐ隠れてしまう。

朝から元気なその光景を、少しばかり俯かせた目で長めの前髪の隙間から覗き見るようにおどおどと見ているアヴェは無意識に肩を竦めても、ココに捕まってるのでこのまま真っ直ぐ歩くしかなく。

背中を押して誘導する手に僅かな抵抗を感じるココはアヴの後ろからきっぱりと低めの声で言う。

「・・お風呂、行きなさい、返事は。」

「はい・・・」

アヴはそう、背中からの声にそう返事をするしかなかったようである。




そろそろ四時になるのを、アヴェはテーブルの上に置いてある時計を見ていた。

ベッドの上に座ってその大き目の二つの針をぼうっと眺めている。

さっきまでベッドの上でごろごろしていて長い黒い髪が多少乱れているが彼女は全く気にしていないようで。

さっきからずっと時計の針を気にしていた彼女はようやく来てしまったこの時間に何のやる気も出ないようだった。

暫くの間ずっと、時計の針が僅かに動いていくのを見つめてるだけの時間に、彼女は眠気眼である。

それから俯かせて膝を見た視線に、それを横に移してベッドの皺を見てと、この時間になる前から何度も逡巡していた行くか行かないかの難問に、怪訝そうに目を閉じるのである。

とても静かな部屋では何も聞こえない。

何も聞こえないからずっと此処にいた。

静かな音を充分聞いた後、アヴェは薄く目を開けて。

また暫くぼうっとテーブルの上に時計のある部屋の風景を眺めるのである。

何も無い部屋と一緒に。

それからアヴェは静かに立ち上がった。

とことこと床を歩いて、壁際にある鞄に屈んで開き手を差し込む。

一つ一つ、確認して、それから暫くして持ち上げたお風呂に必要なタオルや着替えがアヴェの腕の中に集まっている。

鞄の蓋を屈んだまま閉めたアヴェは立ち上がり、とことこと歩き出したアヴェで。

テーブルの横を通るときに見た置時計の針は四時一分か二分くらいだった。


扉の鍵を閉めたアヴェは次に、人のいない廊下をきょろきょろと見回した。

静まり返っているこの廊下の雰囲気はお昼を食べに行ったりした時よりも静かな印象で。

アヴェは辺りを見回すのを瞬きを交えながら、昨日教えてもらった筈のお風呂場の場所を思い出そうとしていた。

覚えてるような覚えてないような、それも道順も不安が強い中で、暫く目を留めていた廊下の先へ静かに歩き出すのだった。

確か、こっち・・、と不安に胸を鳴らしながら、アヴェは周りの景色に控えめにもきょろきょろと目を向けていた。

暫くすると視界の端に入る、向こう側から歩いてくる人がいるのを見つけて。

アヴェは前髪の奥の目を僅かばかり丸くし。

その人が私服の女の子で自分より少し大きい人なのを見てから、ついと顔を俯かせる。

そのまま静かで広い廊下を歩く二人は近付いていくのだが。

その女の子は俯いて歩くアヴェに目を留めた。

けれどそれも少しの間だけで。

女の子はついとすぐに何気なく目を自分より少し小さい女の子から離して前を見る。

擦れ違っていく気配を感じながら、アヴェは廊下の床に落とした目をちらちらと動かしながら。

人が通り過ぎて行ったのを見てから、ようやく恐る恐る顔を上げる。

前方の廊下には誰もいなく、きょろきょろと瞬きを繰り返して。

今擦れ違った女の子を振り返りかけた僅かな動きを止めて。

暫く固まったように前を見ていたアヴェは、それからまたお風呂場への道の途中に戻るのだった。

きょろきょろと辺りの景色を見回しているアヴェに、暫くすればまた人が向こうから歩いてくる。

そしてアヴェはまた顔を俯かせその目を黒い前髪の奥に潜ませる。

人と擦れ違うたびにそうするアヴェは、長めの前髪の奥の目を床に留めたまま、制服の人が多いので、今は授業が終わる時間だと思っていた。



ようやく着いた大きな扉の前で、アヴェはここがお風呂場なのをプレートを見上げて確認した。

扉の窓越しに灯りが点いているから入ってもいいみたいで、アヴェはドアノブを回して扉を開きその隙間から顔を覗き込ませた。

白っぽい明るい部屋には仕切りがあって、中が狭い様にしか見えなくて。

アヴェは暫くそのまま見ていたドアの隙間からようやく中に入った。

どきどきしながら、恐る恐るの目を辺りに動かしていて。

それから何も起こらないのと、仕切りの隙間から奥へ行けるのを見つけて、アヴェは顔を紅くしながらもその先を覗きに足を踏み出していく。

前髪を揺らしその隙間から覗き込んで見えたのはきちんと整列されたロッカーが並ぶ光景で。

他に人がいないみたいなのを見てから暫し待ち。

アヴェは入り口から入ってきたときのように恐る恐る顔を俯かせて入って行くのだった。

隅っこの、鍵つきのロッカーを前にして、暫し見つめているアヴェは。

それから開いて中に何も無いのを見てみたりと使い方も多分わかるのを確認してから、アヴェは足元に袋を置くのだった。

衣服を脱いで、そそくさとバスタオルを身体に巻くアヴェはふとその室内へと目を向ける。

明かりの点いた部屋なのに、人が一人もいない静かな中で。

暫く瞬きを繰り返した後。

アヴェはバスタオルに目を戻してからその下で下着を脱ぎ始めた。



ロッカーの並ぶ部屋の奥のそれらしい扉を開ければ、湯気が立ち込めていた。

むわっとした蒸した熱さに包まれながら、バスタオルを身体を巻いて、いつも使っている自分用のボディシャンプーの容器を胸に預けたままアヴェは驚いた。

驚きながら、アヴェはきょろきょろと辺りを見回せば、霧のように湧き出ている所が真正面にあるのを見つけて。

少しずつ近付いていけば、そこには広い浴場の中の床を掘ったような大きな穴の湯船があった。

そこから湯気がたくさん立ち上がっていて、ざあぁっと、お湯の音も聞こえてきている。

目を瞬かせながらアヴェはもっと近くに行こうとして。

すると湯気の向こう側に人がいるのに気付いた。

アヴェは足を止めていた。

タオルを腕に掛けた女の子のようだ。

先にここのお風呂場に入っていたらしい。

アヴェは赤味のある頬を背けてまたきょろきょろと辺りを見回す。

他には誰もいなく、大き目の湯船の周りには壁に付けられた一個一個のシャワールームがあるように仕切りになっていて。

それを見つけたアヴェはそのままそのシャワーの方へと歩いていくのだった。

ひたひたと裸足でタイルの上を歩いていって、個室に入ってその中を見回すのもそこそこに防水のカーテンを閉めて。

小さな個室の中をアヴェはきょろきょろと見回した。

ボディシャンプーの容器とかは、置いてあるのを見つけて。

自分のボディシャンプーをその横に置いた。

そこでバスタオルを置く所が無いのに気付いた。

慌ててきょろきょろと辺りを見回しても、この狭い個室の中ではシャワーのお湯を出せばどこに置いても濡れそうで。

アヴェは慌てながら考え、結局横の壁の上を見つけてそこにタオルを半ば放るようにして、なんとか掛かった。

手を伸ばせばなんとか届く高さのタオルの端を暫し見つめていてから。

アヴェはきょろきょろと辺りを見て、もうシャワーを浴びるのに足りないものが無いのを確認してから、シャワーの栓を捻った。

熱いお湯がすぐに出たのを、身を縮こまらせながら顔を顰めさせて我慢して浴びていて。

ようやく身体の緊張を緩めかけたのは充分身体が温まってからだった。



濡れきった髪も身体も、少し跳ねて掛けていた壁から取ったタオルで包んで、個室のカーテンを開いたアヴェはお風呂場の中の雰囲気が少し変わってるのに気付く。

浴場の中を歩いてる人がいるし、シャワーの音もタオルを取ろうとしている時から多くなっているのに気がついていた。

アヴェは少し辺りを首を回して見回して。

たくさんの色んな人達がいるのを見回してから外へと歩き出す。

少し俯き加減に歩くアヴェは、お喋りして笑っていたりする女の子達と擦れ違ったりするのを気をつけながら。

まだ少ない人達を顔を上げて少しだけ見回した。

ほかほかと、湯気が浮かび上がっている浴場。

それを見つけてアヴェは透明じゃないガラス窓の張られたドアに、出口に向かっていた足を止めて。

そちらの方を目を留めて見ていた。

時折、人が近付いてくるのに緊張しながら、その人が擦れ違っていくのを感じながら。

アヴェはその湯気のほかほかと立ち上がる湯船を見ていた。

少ない女の子が二人くらい入ってるだけの。

アヴェはそれから、ちらりと自分が行こうとしていた、お風呂場からの出入り口へと目を向けて、湯船に目を戻した後、そちらの方へてとてと、と歩き出すのだった。

濡れたタイルを踏みながら、アヴェは湯船の縁から揺らめいている透明なお湯を覗き込んでみて。

少しの間じぃっと、それに気付いて、アヴェが顔を上げて、湯船の中にいる湯気の中の肌が紅くなっている女の子達は思い思いに少し気だるそうに浸かってて。

アヴェは足元に目を戻すと、それから少し恐る恐ると左足の先に水面に触れてみる。

爪先にぴくっと感じた熱さに少し身を縮こまらせ。

床に戻したその足の先と水面を目を瞬かせて見ていて。

それから、また左足を、ちゃぷんとその浅い所に入れてみて。

身体を吃驚させて慌てて入れた足を上げて引っ込めた。

熱すぎて絶対に入れないと思った。

アヴェは足元を見つめていた目をもう一度ちらりと湯船に入ってる子たちを見て、一人の子がこっちを見ているのに気付いて。

アヴェはまた少し吃驚したように、顔を背けるように振り向いて湯船から離れて。

ひたひたと濡れたタイルを踏んでる左足がまだ少しじんじんしてるのを感じながら。

浴場の中で響く音が反響して、出入り口からまた入ってきたきゃいきゃいと騒いでる子たちと擦れ違ったりする中で、アヴェは真っ直ぐにドアの方にちょこちょこと歩いてくのだった。




笑い声が聞こえた。

くぐもった笑い声は、壁の向こうの声。

それが小さくなっていくのを聞いていて。

そしてまた静かになる。

私は少し動かした目を天井の一つの汚れに戻していた。

おでこに乗せていた右手の甲が重い気がしてきていて。

息をするたびにベッドの上の私の胸が小さく上下を繰り返し。

ずっと、ずっと、感じていた。

ずっと、続いてた。

ずっと。

お母さんの顔が出てきた。

なんでか、お母さんを思い出した。

お父さんも出てきた。

お父さんが覗き込んできて笑ってきたときもあった。

お母さんとお父さんが二人で色々喋ってるときもあったり、静かに何も喋ってないときとかも。

病院の、ベッドの傍にいたときだった。

頭を撫でられたりしたり。

ここは違う匂いで。

違う色の、違う感じの、ベッド、部屋だって、ちょっと広いくらい。

ここはどこ?

なんであそこに私はいたのに。

ここにいるの・・?

お母さん達に言われたとおりに、車に乗って。

車の中でお母さんに肩を寄せられていて。

時々何か言ってた。

ずっと私を気にしてるみたいだった。

それから車を降りたら、とても広い所に連れて行かれて。

お母さんたちが何かを話していたら、お母さん達の代わりに誰か来て。

ちゃんとついていかなきゃだめみたいだったから。

そして、ここで寝てる。

ずっと寝てる。

眠くなるから。

寝ちゃう。

なんでここで寝てるんだっけ。

寝なくちゃいけないんだっけ。

あそこがいいんだっけ。

なんでもいいんだっけ。

眠いから。

また、自然と力が抜けていって。

目の前は真っ暗で。

浮いてるみたいに軽くて。

気持ちよくて。

私はまたいつの間にか眠ってる。

気付くのはいつも、思い瞼を薄く開けた後。

なんでか、顔の頬の辺りがひりひりして、乾いてて。

嫌な感じに指で擦って。

なんで、ちょっと湿ってたのか。

なんで、・・・なんで、・・けど、どうでもいいことみたいだった。

枕の濡れてない所に、重い身体を転がらせて。

・・誰か、いたっけ?

て、開きにくい瞼を開けて、ベッドの上から壁をぼんやりと。

反対側に顔を転がせても、向こうの方にテーブルが置いてある変わらないだけで。

誰もいるはずなんて無かった。

誰もやっぱり、いないから。

私は天井をまたぼうっと、見ていた。

ちょっと、寒くなった気がしたから。

私は掛けてある大きなタオルをぎゅっと胸の中に抱きしめた。




コンコンと、ノックの音が聞こえた気がして。

それから、ドアの開く音。

誰か来たから。

私はなんとか薄く目を開ける。

名前を呼ばれて、声を掛けられて。

あの人が私に言ってた。

ココさんは、一緒に行こうって。

夕ご飯、だから私は頷いてた。

力の入らないのをなんとか起き上がって。

ベッドの上で眠さに目を閉じてたら。

眠そうだからって。

廊下の途中で顔を洗わされて。

それから、お風呂に行ったか聞いてきたから。

私はちゃんと頷いた。

行ってきたから。

ココさんは、偉いって言ってたけど、お風呂に行くなんて、当たり前だと思う・・。

それから、話してくるココさんの話を聞いていたりして、食堂のテーブルではたくさん人がいて、ココさんと隣で夕ご飯を食べた。

トレイの上の中の、とろとろしたソースのお肉の料理が美味しかった。




夕方の、夜の廊下はちょっと騒がしい。

お喋りしてる男の子達や女の子達が歩いてる途中の笑ったり、大きな声がときどき聞こえるくらい。

人がいっぱいいる。

擦れ違う人とぶつからないようにしながら、私は一人で廊下を歩いていて。

自分の部屋を少し顔を上げて探しながら。

ココさんは食堂で食べ終わった後、仕事がまだちょっとあるからって別れて。

一人で帰れるよね?って聞かれたから、私はココさんにちゃんと頷いた。

お昼と違って、食堂から部屋まで人はたくさんいて、その中を私は歩いてる。

少し悪ふざけではしゃいでる人がいたり、今お風呂から出てきたように髪を濡らしてる部屋着の人もいたり。

中にはまだ制服の人達もいたけど、同じくらいの年の色んな人達が廊下では歩いてた。

置いてある物とか、廊下の雰囲気とか色とかは全然違う、前、行っていた学校の廊下はもっと白くて、でも雰囲気はこんな風だった。

ここだと、橙色の灯りが全部を照らしていて、花の蕾のようなその灯りの下で廊下は広がってて。

私は他の人達とぶつからないようにしながら。

歩いて。

たくさんいた人達も少なくなって。

段々と静かになる、部屋の並ぶ廊下で。

女の子しかいなくなった廊下で。

少ないお喋りの声が聞こえるその辺りの廊下の一室の扉の前で止まって。

一度顔を上げて確かめて、鍵を開けて扉を開いた。

中は真っ暗で、壁のスイッチを探して入れて。

灯りが点いた部屋の中は広くて静かな私の鞄が置いてる部屋。

首を少し動かして部屋の中を見回して。

扉を閉める。

それから鍵を掛けた。



「・・アヴ、アヴ」

そう呼びかける声に薄く目を開いて、アヴェはぼうっとしたままベッドを覗き込んでくる人の顔を見つめた。

「朝よ、起きなさい。」

ココは眠そうな表情でじぃっと見つめてくる枕の上の少女の顔を見つめてた。

微かに頷いたようにしながら、それから暫くして、ココがもう一度声を掛けようとした時にアヴェはゆっくりとベッドの上で起き上がった。

「おはよう」

ココはアヴェへの優しい挨拶にしておいた。

「・・おはいお・・、ござぃまふ・・・」

今日はいつにも増して目が開かない、仏頂面のアヴェみたいだった。

「・・今日もぐっすり寝たみたいね。」

そんな事を言うココにもアヴェは返事ではなく微かに首をこっくりさせている。

「ほら、起きなさい。今日も私は朝食を誘いに来たから」

「・・ふぁい」

アヴェは解ったような解ってないような返事をしてから。

やはりゆっくりと、時々止まるように動き始める。

「アヴは目覚まし時計使ってるの?私が来る前にちゃんと起きなきゃ駄目よ」

と、こちらを見て、開かない目でぴたりと動きを止めているアヴェに、ココは少しの間瞬きを繰り返していた。

「・・いいから、着替えなさい」

暫くしてアヴがまだ質問に答えられるほど目が覚めてないのだと気付くココは溜め息のようにそう言うのである。

のそのそとベッドの上で動いてる、けれど一応ちゃんと着替えようとしているらしく、時間が掛かっても今はベッドから下りようとしている少女に。

ココはベッドから離れ、テーブルの椅子に腰を下ろしてその少女の緩慢な動きを生暖かい目で観察し始めるのだった。

スリッパを履いたアヴェは、クローゼットでもなくタンスでもなく、壁の方に開いてある鞄の方にとぼとぼ歩いていくのを見ながら。

まだ整理もしてないらしい事にまた軽い溜め息を吐くココである。

そうと、さっきドアの横に置かれていた洗濯した衣服の白い包みを、中を取り出して今はテーブルに置いてあった少女の衣服に目を留めて。

ココは仕方ないといった気持ちに立ち上がり、畳んであるそれを持ってタンスの方に歩いていくのだった。

毎日これを続ければすぐにタンスに収納される事になるだろう。

引き出しを閉めたココは振り向き、アヴェの方を見ればベッドの方を向いてようやく上のパジャマを脱いだ所のようだった。

寝癖の立ってるその後ろ頭を見ながらココは他にやる事がないか部屋の中を見てみるけれど。

机の上にノート端末が置いてあるのと、棚に少ない日用品が置かれているくらいの特に殺風景な部屋にはそんなものは無いのがすぐにわかるものだ。

ココはまたテーブルの方に歩いていき、アヴェの着替えが終わるまで待つだけだった。

それからアヴがなんとか着替えを終えてこちらへと振り返り歩いてくるのを。

「さ、寝癖も酷いし、顔も洗って歯も磨いて、あ、洗濯したお洋服はあのタンスに入れておいたからね、あのタンス」

そう指差すココの指の先を目で追うアヴェであるけれども。

まだ全然開ききっていないその黒い両目の焦点はとても怪しいものである。

「あのタンスに、入ってるから、後で確認しておきなさい」

そう力を入れて言って、なんとか少女を頷かせたココは、それからまた洗面用具を取ってくる少女の後ろに付いて、ぼさぼさの黒髪に櫛を差してやるのだった。

部屋に出るまでに気付いたように立ち止まったアヴェは、頭の上に付いてるその櫛を手で探して取って、瞬きを繰り返してそれを見つめて。

それからココを見上げて同じ様に不思議そうな顔で瞬きをして、ココの顔とココの櫛を見比べ。

ココはそんな少女を頬を持ち上げて笑っているだけだった。

アヴェはそんなココをぼうっとした目で見ていて、微かに口元を細めてみたようで。

ココは少しだけ驚いた気持ちに微かに目を丸くし、そしてまたもっと大きく笑い返すのだった。



朝食をココと一緒に取って、それからその後で別れる時に。

「お昼はちゃんと一人で行きなさいね」

と、ココに言われて。

アヴェは頷いてた。

少し慌しい感じの、朝の廊下の中を歩いて静かな部屋に戻ったアヴェは少しいっぱいになったお腹のまま、それからベッドの方に歩いていって端に腰掛けた。

打って変わって本当に静かな部屋の中で、アヴェは部屋の中を見回していて。

また立ち上がり、今度は机の方に歩いていく。

椅子を引いて座ったアヴェはノートのスイッチを入れて暫く、その画面をぼんやりとした風に見つめていた。

それから準備ができた画面に、操作をして、いつものテキストを開いて、アヴェは昨日からの続きを読み進めて行った―――。


―――今日のノルマが終わったのに気付いたアヴェは、画面から目を離して、まだ少しぼうっと目を瞬かせていた。

病院でやっていたテキストの、切りのいいところまでの今日のノルマと、この学校のテキストの今日のノルマ。

問題も解いて、全部正解なのを確かめてから。

でもまだ、数時間も経ってないでお昼にはなってなかった。

アヴェは暫くぼうっとしていた後、それからノート端末に手を置いて、ニュースとか、お気に入りに入っているサイトとかをぼうっと見てみて。

それから、消して。

ノートを閉じた。

アヴェはその閉じたノートを見つめていて。

顔を上げて立ち上がった。

静かな部屋を横切って、ベッドの端にとすんと腰掛けて。

暫くそのままでいて。

それからベッドに背中を預けた。

ふわりと長い黒髪が揺れて舞った中に、アヴェは倒れこむ。

天井をぼうっと見つめていた。

足だけで靴をごそごそやって脱いで。

両足とも脱いだらベッドの上に持ち上げて、アヴェは枕の上に頭を乗せて。

天井を薄めた目で見つめたまま、胸を上下させていて。

そして目を閉じた。

とても静かな部屋で。

そうしていれば、いつの間にか眠っているから。

いつの間にか眠っていて、気がつけばまた眠くなって。

眠ってる。

お昼に、起きられれば、いいけど。

ココさんがお昼は、って言ってたから。

そういえば、食べてる時に言ってたけど、目覚まし時計、やったっけ・・?

・・いっか・・・―――。

けど、どれくらい時間が経ったのか、わからないけれど。

アヴェは閉じていた目を薄め開いて天井を見ていた。

何故か、眠れなかった。

ベッドの上にいても、あまり気持ちよくなかった。

数回、天井を見つめている目を瞬きさせた後。

アヴェはベッドから起き上がって。

ちらりと、テーブルの方を見て。

それから、少しの間ベッドの上でぼうっとしているようだった。

そして動き出したアヴェはベッドからずれて、ロングスカートの両足を下ろして、足元を見つめていた。

顔を上げても、部屋の中は静かだった。

ノートも、もうやる事無い。

テーブルの上には何も無いし。

鞄の中は、・・・ごちゃごちゃしてる。

アヴェは部屋の中を見渡して、見回して。

それから暫くして、その黒い目をドアに留めた。

閉まりきったドアの。

暫く見つめていたアヴェは足元に目を落として靴を履き。

立ち上がると、てくてくとドアの方に歩いて行った。

扉の前に立ったら、少しばかり上を見上げて。

向こうから聞こえてくる音は何も無いようだった。

暫くそうしてから、アヴェはドアのノブに手を置く。

それを押して僅かに開けば、がちゃっと音を立てて。

その向こうからの音は聞こえない。

アヴェはその隙間から見える廊下の床を見ていて。

押したら簡単にその隙間を大きくしていく。

顔を覗きこませたアヴェは少しおどおどと、周りの廊下を首を動かして念入りに見つめまわす。

廊下はとても静かで、人は一人もいなかった。

きょろきょろと、ドアの向こうに首を突っ込ませたまま、ドアノブにしがみ付くようにしていたアヴェで。

それから、少女は顔を引っ込ませ。

背中を真っ直ぐにすると。

息で肩を胸を上下させていて。

掴んだままのドアノブをゆっくりと、押し開いて足を踏み出す。

スカートの裾がドアの隙間に吸い込まれてから、ぱたんと扉が閉まった。




大きな窓硝子には細く黒い格子が四角い模様を作っていて。

壁の突き当たりにあるそれからは白い光が差し込んできている。

廊下の床の上に鮮烈な色の光と形を残し、扉の並んだ壁で挟まれたこの場所から見る光景は神々しくも、触れえてはいけない、まるで神聖な教会の奥に輝くもののようだった。

外の光は強くて。

薄暗く見える屋内の、閑静な廊下の真ん中で少女は立っていた。

既に学園の授業が始まっている時間なので、廊下の壁に等間隔で並ぶそれぞれの寮生の部屋からは話し声も、物音一つも聞こえてこない。

誰もいないその廊下の真ん中で、少女は向こうの壁の突き当たりにある窓硝子を見つめていた。

それは何故かといえば、少女にとってはその光が眩し過ぎるから。

光に当たったからといって溶けるわけでもない、焼かれるわけでもないのに、少女は向こうの壁の突き当たりにある階段へと行くのを躊躇った。

その躊躇いは本能的なものであって、向こうに何かがあるような気がして少しばかり恐れたのかもしれない。

自分を遠くへと誘ってしまうような何かを。

そして見つめていれば、薄暗い屋内に差し込む白い光の鮮烈さと、それらが創り出す扉や廊下を形作る物たちの陰影がとても、不思議なものに見えてきたという、静かな驚きに少女は動く事を忘れ眺めていた。

普段は寮生で溢れる、今は閑静な廊下での一つの光景。

少女はふと気づいて、小さい歩幅で廊下を歩みだす。

先ほどまで眺めていた白い光で何かを成す窓へ。

自分の足元が光に触れて、それは膝丈を超えて、腰を超えて上に、自分の服が色を変えていくのを見ていて、それから顔を上げて窓の外を見る。

眩しい太陽の光に目を細めて手を翳し、眼下に広がる並木道を見ていた。

緑色に生い茂る木々が三本の道を平行に作り、白い材質で舗装された道を真っ直ぐに行けば黒色の格子で阻まれた門まで続く。

その光景を見下ろしながら。

自分がその道を歩いて、強い日差しの中を暑さに流れる額の汗を拭い、眩しさに細まる瞼を開き、辿り着く先の堅牢な門を眺めて、再び歩き出す。

木々の葉が並木道に作る影も正午に近い今では自分を太陽から守ってはくれないだろう。

それでも白い視界の中で歩き続けて。

その先の門に辿り着いて。

立ちはだかる黒い柵の、その大きさに成す術も無く見上げてるだけの自分。

その向こうにあるのは何だろう。

今までの、私のいた所。

そこには繋がってるのだろうか。

パパやママも、その向こうで暮らしているのだろうか。

私のいない所で。

私のいた筈の所で。

そんな自分を想像していて、そんな事を考えていて。

ふと気づいた少女は、鼻に息が通るたびに胸の奥が苦しくなるような感覚があって、酷くなりはしないけど、そのままだと無くなりもしないのを知っているから。

顎を下げて、窓の側から離れて、屋内に差し込む白い光を避けて窓の横に立つ。

壁に背を向けたまま床に落ちる窓の光が形を作っていて。

埃が空気中にその光を受けて煌めいていた。

少女は顔を上げて、廊下の向こうが長くて薄暗くなっていく光景を見てから、やっぱり、特別なものは何も無かったって納得して、その場から歩き出す。

突き当たりの窓の側にある階段を下りていく少女は、外の世界の事を忘れて、今から行くまだ慣れない食堂への道順を思い出そうとしていた。

お腹が空いているような、空いていないような。

それに食堂の他にも、シャワーの浴びれる入浴所と、自分の部屋の場所。

その他にもいろいろあったかもしれないけど、今は広いこの寮内を散歩するので精一杯だった。

少しうろ覚えの廊下を歩いてて、食堂に行けそうか不安だった。

あまり見覚えの無い場所を歩いている。

道を曲がってきた年配の女の人がこっちに歩いてきてるのを見て。

少女は俯いてその人と擦れ違うのを待つ。

擦れ違った後は、たぶんこの道は合ってるからと、自分を納得させようと、それか安心させようとしていた。

少し雰囲気の変わった感じに気づいて、食堂の入り口を見つけた少女はほっとしたような、また少し人に会うことに緊張したような気持ちで食堂の入り口を覗き込んだ。

広くて大きいテーブルが並ぶ中で、何人かがちらほらと席に座って食事をしているのが見えた。

その中には年の変わらなそうな子達もいる。

恐らく病欠とか、自分と同じような理由なんだろう。

少女は少しの意を決して、食堂の中に入っていった。

配膳の、トレイを取って、お皿とか、置いてもらう時に何かを聞かれてとか。

教えてもらってた事だけど、戸惑って。

こっちを見てくる人に何も言えなくなってたら、後ろから、あの、ココさんが声を掛けてくれて、助かって、ほっとした。

トレイに乗せた食事を持って、テーブルについて。

食べようとしたらココさんがトレイを持ってきて隣の席に座っていいかって聞いてきて。

人といると食べづらいけど、ココさんは親切で、助けてもらってるから。

私は頷いて、それからココさんをあまり気にしないようにしてスープを掬ってスプーンを口に入れた。

途中で、ココさんの食事は食べかけだったみたいなのに気づいて。

それを見てたのをココさんに聞かれて、私は首を横に振った。

ときどき、話しかけてきたけど、上手く言えないから、私は大体聞いてるだけだった。

勉強は言われたとおりにテキストをやってるし、困ってる事も無いし、ココさんにちゃんと頷いて。

暇じゃないの?他にやってる事ある?って聞かれたから。

私はココさんの顔を見たまま。

ちょっと考えてみて、・・・少しだけだけど、寮の中を散歩してるって言ったら、ココさんは中庭が綺麗とか、温かくて日向ぼっこができる木があるとか。

学生証さえ持ってれば学校の方にも私服で行っていいとか。

いろいろ教えてくれた。

日向ぼっことか、とても見晴らしのいい屋上の場所とか、今度、行ってみたくなった。

それに、並木道に続くあの門も、いつか行ってみたいって思った。




部屋に帰る、食事が終わったから。

廊下を歩いてて、俯いてた。

少しだけ顔を上げて、周りを見て。

また俯いた。

さっきより、廊下で擦れ違う人が多い気がしてたから。

廊下を歩いてる人が多い。

同じくらいの年の子もいて。

お昼だから、普通は学校へ行ってる筈なのに。

たぶん、お昼ご飯を食べに歩いてるんだと思う。

人は少ないけど途切れる事が無いから、ずっと俯いたまま歩いてた。

・・学校へ行ってない人って、けっこう多いのかな。

同じくらいの年の子、年下くらいの子も、年上みたいな人もいっぱいいて。

普通は学校へ行ってる時間なのに、みんなが普通にいっぱい歩いてく。

たぶん、ご飯を食べに。

変な感じ。

それでも向こうから歩いてくる人はいるから。

俯いたまま見える、その人達の足元を目で追いかけてた。

階段を上って。

窓の横を通って。

扉が並ぶ廊下を歩いてく。

顔を上げてみても、人は遠くで一人とか。

それくらい少なくなってた。

足音の聞こえない、静かな中で。

廊下の先を歩く、その人の背中を歩きながら見てた。

ふと顔を上に向けて、横の扉を見て。

私の部屋まで、歩いてく。

周りには扉はいっぱいあったけど、開くなんて事は無かった。

私は部屋の前で扉を見上げて立ち止まって。

閉まってる茶色の扉を見てた。

開ければもっと静かで、誰もいない部屋。

でも、ここもとても静かだった。

左を見てみて、右を見てみて。

廊下の先にはもう誰もいなくなってた。

だから、その先を見ていて。

私はもう一度、扉に目を戻す。

・・・一歩踏み出して近付いて、右手の指で茶色の扉に触れてみたら。

ひんやりしてちょっと気持ちよかった。

でも。

私は指を離すと。

もう一度茶色の扉を見上げて。

やっぱり、あっちの、廊下の先に。

歩き出した。

扉から離れたときから、たぶんちょっと、どきどきしてた。




一際強い風を受けて横髪が頬を叩いて、力強く押し返される扉の隙間から慌てて飛び出す。

壊れそうなくらい強く閉まる音に身を竦ませ、閉まりきった灰色のドアから目を離せば。

広い、そこはとても遠くて。

風が吹き抜ける度に長い髪が滑らかに揺れていく。

遠くの建物が連なる、雄大な山々のようなそびえ立つビルに囲まれた場所で見上げ、ぐるりと一回転してみると、自分だけはぽつんと小さな所で一人立っているだけみたいだった。

吹き付ける風を全身に受けながら、真っ直ぐに誰もいない広場を歩いていく、歩いて、その端っこの何重にも張られた柵にしがみつけば、ここは天上の世界だというのに改めて気づく。

ココさんが言ってた屋上ってここなのかもしれない。

すごく見晴らしの良い場所で。

風がとても強くて。

青空が近い。

ビルの群れは眺めても遠い、近づいても遠い、遠く離れた幾つものビルには手は届くはずがないし。

柵の隙間には指しか通らない。

無数の小さなものが動き続けるビルの周り、それらの群れより見上げる日の光に輝く虹色のパラソル。

あの一番大きな、白くて細い三つの、『リリー』から開く大きな虹色のパラソルは彩るように花開いてた。

青空にある綺麗な光景の向こう側。

幾つもの綺麗な虹色の花。

アヴェは強い風に長い髪を吹き曝されながら、呆けたように柵の外を見つめていた。

それから気付いて、右手を髪に当ててみれば髪の毛はばさばさになっていて、指に絡みついて引っかかってしまってる。

それにこの強い風は、今日はズボンだからいいものの、捲れるようなスカートの時は来ちゃいけない所だ。

人があまりいないのもこの所為かもしれない。

そしたらまた強い風が吹いて、アヴェを吹き飛ばしてしまおうとする。

それをぎゅっと網を握って耐えた少女は、次に目を開けたときに広がる地面から遠いビルの群れの光景に、ぶるっと心が震えた気がした。

強い風に自分が吹き飛ばされたら、どうなるか考えてしまって。

僅かに目を細めたアヴェはそのまま風に耐えるように少しばかり身を縮こませながら、踵を反してゆっくり元来た方へ歩いてく。

相変わらず人のいないそこの景色、少し寒くて寂しい。

歩いて、歩いて、ふと扉の上よりも上を見上げたら。

屋上だと思っていたのに、また上に建物が続いているのも、自分のいる建物より上に続いていたのを見てアヴェは少し吃驚した。

凄く大きな高い所にいるってことを知ったアヴェである。

早く屋内に戻ろうと思って、ドアノブに手を掛けて回して引っ張っても。

びくともしない。

不思議に思って、押しても引いても、何度かやっても全く動かなかった。

吃驚して、慌てて、力を込めて引っ張っても、引っ張っても。

強く吹き曝す風を背中に受けながら、アヴェは吃驚して泣きそうに。

と、引っ張った時にドアが僅かに浮いた気がした。

それからすぐに簡単に開いたドアと、止んだ風はほぼ同時で。

すぐにまた強くなり始めた風を後ろから感じて、アヴェは少し慌てて急いでドアの中に滑り込ませた。

アヴェが振り返って、ドアの方を見たのとドアがばたんと閉まったのはほぼ同時で。

どきどきしながらアヴェはそのドアを暫く見ていた。

それからそのまま、殺風景な廊下の先を振り返って、瞬きを何度かして、とぼとぼ歩き出す。

・・この廊下、歩いてきた時は、随分感じが変わったと思っていたけれど。

アヴェはまだ少し心がとくんとくんと鳴っているのを感じながら。

でも、ここにまた来て、この凄くて綺麗な光景を眺めてるのも、良いかもしれないって思った。

風が少なくなったなら。




通路の先は、学校の方に通じてる。

それを思い出したのはその道を少し行ってからのことだった。

ココさんが言ってた、向こうの先は学校。

昨日とは違う通路を歩いて。

アヴェは通路の真ん中で立ち止まり、もう見えているガラスのドア、向こうに見える日の当たる通路を見ていた。

突き当りの狭い通路の透明なドア。

じっと、壁のない外を瞬きをして見つめてたアヴェは。

ふと自分のロングスカートのポケットに手を当てて探してみて、あった感触にポケットに手を入れ、学生証のカードを取り出した。

学生証は持ってた。

・・・けど。

アヴェは目の前の学生証を見つめていた目を向こうのドアの外へと向けた。

・・どうしよう・・・?

暫くそう、眩しく白く光る外を見つめていたアヴェは。

もう一度、学生証のカードに目を移す。

学校の名前が書いてて、自分のIDが書いてて、それから学校のマークとか、他にも。

暫く見ていた、そのカードから、また白い外に目を移すアヴェである。

何度もそんな事を繰り返してたアヴェはどれくらいそこにいたのかわからないが。

見つめていたカードをごそごそとポケットに戻して。

それから、白い通路の方に顔を上げて、アヴェは歩いていった。

重くて少し熱いドアを、肩を預けるようにして押し開いた。

隙間から身体を滑り込ませて、なんとか抜けたアヴェは白く明るい光に満たされてる。

それにきょろきょろと辺りを見回して。

・・人は見えない。

それに、ここがまだ通路なのに気付く。

日の光が降り注ぐ白い通路。

外だと思ったのに。

長い通路は橋みたいで、周りの緑色の木々や、遠くの青空の下の日の光に眩い白い校舎らしい建物が見えた。

淡いぐらいに眩い白色の中で、アヴェは驚いたようにしながらきょろきょろと辺りを見回しながら、少しずつ歩き出していた。

少し上るようになってる通路の道を歩いていけば、その先に広がる景色も徐々に広がっていって。

最初にそれが何なのかわかったのが、グラウンドだった。

遠くて広いグラウンドでは、たくさんの子たちが集まって走り回ってたりしていて。

その土の色でいっぱいのグラウンド全体に緑色に、天上を透明なフィルムが覆っている。

それは緑の色の中で見つけた大きな遊び場みたい。

そこから少し離れた所には校舎の続きらしい建物が繋がっていて、向こうの遠くに見えた校舎にも繋がっているみたいだった。

とても大きくて広い光景は凄すぎて、アヴェは目を丸くして大きく周りを見上げてはゆっくりと、信じられないように見回して。

手で掴まっていた通路の手すりの先の、緑色の木々の葉が揺れるのを見ていた。

本物の葉っぱ・・・。

それから前の方に広がるグラウンドに目を向けて、人がグラウンドの小さな一箇所に集まっているのを見つけた。

アヴェは長めのスカートを揺らしながらてってっと走り出して、少し行って突き当たる大きな曲がり角の手すりに両手で掴まってグラウンドの方を覗き込むようにしていた。

眩いグラウンドでは、あそこの人達は遊んでいたんじゃなくて、授業中だったみたいで。

先生の所に皆が集まったところのようだった。

皆が話を聞いてるみたいにしていて。

それからすぐに皆はまたグラウンドに散らばりだした。

駆け回って、白線の中を逃げたり、大きな声で笑ってて。

何をやっているのかわからないけれど、じっと見ていたアヴェは、暫く経ってもやはりわからなかった。

でも凄く明るい中でやってるそれは、とても眩しくて、じっと、ずっと見ていて飽きなかった。

屋根付きの通路の上で、少しばかり身を乗り出すようにして。

楽しそうに遊んでいるような人達を、見ていた。

ふと気付いて、見上げて。

淡い光を通す屋根の上を見上げて。

変な、黒い。

大きな、動くものが、飛んでくるのを見つけて。

「・・ぅあ・・っ」

一瞬でぞわぞわしたものを背筋に感じたアヴェは、驚いたままそれを見ていた。

じじじじっ、と変な音を出したまま、それは屋根の上を下を、くっつくように変な動きして。

・・恐る恐るじっと見ていたアヴェが一歩下がると、その黒いじじじっといってるものが飛んで近付いてきた気がして。

「・・・」

アヴェは二、三歩じりじりと下がっていった。

それから、固まったまま、その天井裏の黒いものを眉を寄せて警戒していたアヴェで。

それを他所に、それは暫くして何処かへと、青い空の下、緑の木々の方へと飛んでいってしまった。

「・・・・・」

少女の黒い目はそれをじぃっと見送っていて。

ぎぎぎ、とぎこちなく正面のグラウンドの方に首を戻したけれども、今起きた事をよそにグラウンドの方ではまださっきからずっと遊んでいる。

2、3、アヴェはそれを見ていたのか、見ていないのか、瞬きをしていて。

踵を反して、後ろに走り出す。

あまり速度の出ていないアヴェの足元で揺れているロングスカートの裾。

それを押しのけるように動く足のアヴェは、ここに近付いてきたときより必死かもしれない。

恐ろしいものを見た、みたいな顔のままのアヴェである。

白くて淡い光の満たされる通路を走る黒髪の少女は、ガラスのドアの前までやっと走ってくると力いっぱいその重いドアを開いて中に身を滑り込ませた。

早くて浅い呼吸を繰り返して肩を胸を上下させるアヴェは額も頬も汗で湿っているけれども。

アヴェは呼吸を整えるよりもまずガラスのドアの向こうの方を、ドアに寄りかかるように顔を近づけながら覗き込んでいた。

白い景色に別に変わりなんて無いのだが。

「・・むし・・・?・・あれ、虫だ?・・・?」

ガラス越しに驚いてるような丸い目の、紅色の唇で呟いた驚きは。

拗ねたように口の中でもごもご言い、彼女はそれを心の中で頷くしかなく。

「・・・あんなおっきいの・・?」

また向こうの方からゆらゆらと、けれど案外速いスピードのそれが飛んでくる気がしていて。

アヴェは暫く、そのどきどきが収まるまでじぃっと動かずに、そうそこでガラス越しに外を覗き込んでいたのだった。




「明日から学校に行きましょう」

ココさんが突然そう言った。

私のベッドの前で、ベッドの端に座ってた私と目が合ったら少し微笑んで。

明日から、学校に行きましょう・・・。

学校・・・。

学校・・・?

見たことない学校。

知らない人しかいない学校。

いっぱい人がいて、廊下でも溢れるくらい。

私はそこに行かなきゃだめなの・・・?

何をするために?

そこにいなきゃいけなくなるの・・・。

行かないと・・・だめ・・・?

「ね?アヴ?」

目の前で、優しく覗き込んでくる、微笑みに。

「・・はい」

私は顔を俯かせて頷いた。

「・・・はい、それじゃ、明日からね。」

ココさんはそう頷いて離れた。

「明日はもうちょっと早くここに迎えに来るから。遅刻しないように・・、七時には起きてなさい。目覚ましアラームをセットし忘れないでね?」

「・・・はい」

私はそう、俯いたまま。

「・・・良い所だからね。学校は。」

そう、少し優しいような、ココさんが言う。

「私が知ってる学校の中で一番ね。恵まれてるのよ、あなたも。」

私は床の上で少し視線を彷徨わせた後、ココさんを見上げていて。

ココさんはまた私に口元を微笑ませる。

「勿論、他の子も、みんなね。」

そう、優しく。

私はまた顔を俯かせていて。

腿の上で両手を重ねて握ってた。

「・・それじゃ、私は行くから。今日はもうお風呂に入った?」

「・・はい。」

「よし、良い子ね。明日は早いんだからちゃんと起きるのよ。」

そうココさんは扉の方まで歩いていって。

「また明日。おやすみなさい」

私の方を見てそう言った。

「・・おやすみなさい」

静かに扉が閉まると、部屋には誰もいなくなり。

扉の方を見ていた目を俯かせて。

また床を見ていた。

変な、どきどきが収まらない。

さっきから、ずっと。

もっと強くなってる気がして。

肩からゆっくりベッドの横に、ぼふっと倒れこんだ。

なんか、起きる気が無くなった。

靴を履いたまま。

だから足が重い。

微かに浅い胸の息を感じながら、私はベッドの目の前の一点を見つめてた。




少し、早かったかしら、とココは廊下を一人歩く内に思っていた。

アヴの様子を見ていれば、控えめだが彼女なりにもう元気に過ごしていたみたいだし、退屈していたら喜ぶかもとも少しは思ったけれど。

アヴは学校って聞いて、俯いていた。

明らかにしゅんとしていたようだった。

元々、一人でいるのが好きそうな子ではあるので、ただ気乗りしない、というだけかもしれない。

・・でも、それも、元気な同年代の子と接していれば、次第に年相応の、明るい表情も見せてくれるのだろう。

ココはそう思う事にした。

だって、接してきた大概の子は、皆そうだったから。

そう思うと、近い将来のアヴの明るい表情を見ることは、少しの楽しみに感じれた。




気がついたら目が覚めてて。

頭が凄く重かった。

まだ眠い目の奥を時折ゆっくり瞬かせながら。

知らない天井。

・・ここ何処だっけ・・・。

頭が枕に埋まってるようなくらいに重くて。

何処だっけ、ここ。

重い首を少しずらして横を見た。

部屋の真ん中にテーブルのある光景。

見たことない場所・・・。

とても凄くうるさい音が鳴り始めた。

驚いて、思い切り目を瞑って。

それからすぐに手で耳を塞いだ。

布団の中に潜って。

音は小さくなった。

だから暫くずっとそうしてた。

いつの間にか眠っていたみたいだった。

重い目を開けたときに、聞こえた気がしたのは。

「・・アヴ、まだ起きてないの!?」

驚いたような、呆れた声の。

「早く着替えなさい、もう七時半過ぎるからっ・・」

慌ててる女の人の声。

耳を塞いでいた手を取っても、あのうるさい音は全く聞こえなくなってた。

いきなり、誰かに肩を捉まれて揺さぶられてた。

「アーヴっ、早く起きなさい。アヴっ。」

頭がぐらぐらして。

「あい・・・」

なんとか、返事して。

かくかく揺さぶられながら目を開けて、起きようとしてた。

けど頭が凄く重い。

揺さぶってくる強い力の手が離されて。

「制服渡した・・、そうだ、クローゼットに・・・」

女の人の声が遠ざかっていく。

頬に柔らかい枕を感じながら、開かない目の中で、力が抜けてく・・。

けど、こつこつと、音が近付いてきたら、また女の人の声が響く。

「アーヴっ、寝るな・・」

少し驚いて目を開けるよりも早く、肩を捉まれて凄い力で持ち上げられてた。

起こされて座ったまま、まだ少し頭が痛い中で、ふらふらする。

「いつにも増して寝起き悪い・・・、何処か調子悪い?」

心配するような声が聞こえた気がして。

「・・・いえ」

そのまま僅かに首を振れた。

「・・それじゃ顔を洗ってきなさい。ほら、遅刻しちゃうから」

「・・あい・・・」

こっくりと頷いた。

「・・・おーい」

気がついたらまたかっくかっくと揺らされてた。

なんとか、眠いままで顔を上げて。

あのココさんを見上げて。

なんとかベッドの上から降りようとして。

足を手を動かして。

下ろした裸足にスリッパを履けた。

「さ、顔を洗ってきなさい」

って、すぐに手を引っ張られて。

立ち上がって。

歩いてった。

ぺたんぺたんと床を鳴らして。

「歯ブラシ忘れてる、歯ブラシ、タオルも・・っ」

慌てた声が近付いてきたと思ったら、後ろから首に掛けられたタオルと、手に少し重い洗面具を握らされていた。


顔を冷たい水で洗って。

タオルに顔を埋めて。

歯をしゃこしゃこ磨いてて。

「おはよー」

「おっはよーっ」

って。

気がついて、周りを見たら、廊下では人がたくさん歩いてた。

制服を着た女の子ばっかりの。

明るい声が、お喋りの声で溢れてた。

・・少しの間止まってた、手に気付いて、水で濡れた水を流す所の中を見つめて。

しゃこしゃこ歯を磨くのを始めた。

いつもより人が多いのは。

いつもより早い時間だからで。

いつもは皆が学校へ行った後に起きてるからで。

・・なんでだっけ。

人がいっぱい。

背中からの声がいっぱい。

私に掛けられてるような声がいっぱい。

・・そんなわけない。

そんなわけないから・・。

・・なんで、早く起きたんだっけ・・・?

起こされたんだっけ・・・?

・・えっと・・・。

・・えっと・・・・・。

がっこう・・・?

行く・・?

んだっけ・・・?

学校・・・?

こんな、人達がいっぱいいる所へ・・。

いっぱいいる所へ・・・。

『あはははっ』

「きょう朝から走るんでしょー、すっごいだるくってさぁーっ・・・」

「・・ってる?イノコってちょー面白いらしいよ、みんな言って・・・」

しゃこしゃこ、磨いてた歯ブラシを口の中から出して、香りの強烈な、白い泡を洗面器の上に静かに口から落とした。

なかなか落ちないから、べってやって、舌をちょっと出して、やっと一つの固まりが落ちた。




「やっと帰ってきたわね・・っ。さぁ、着替えて。そしたらすぐご飯行きましょう。あ、その前に髪もやらないと」

戻った部屋の扉を開いて、顔を上げると、テーブルの傍にいたココさんが少し慌てたようにしてた。

そんな何かやろうと動こうとしたココさんが私を見て。

「早く入って、見てないでさっさと着替えて」

そう言われて、私は扉を閉めて、部屋の中に入っていって。

ベッドの上に着替えの制服があるのを見つけて。

ベッドの方に歩いてく。

「急いでって・・・。」

ココさんの呟くような声が聞こえて。

振り向いて見たココさんは腰に手を当てて私を見ていた

「・・・急ぐ気なんて無いのね・・」

ため息の様な声も続いて。

私は少し急いでベッドの上の制服を手に取った。

制服は、暗い赤色の、ワインレッドっていうのか、大き目の襟の首元に一つのリボンとラインが印象的の。

セットの膝丈のスカートはちょっと青い紺色の。

胸元から少し見える白いシャツ。

廊下を歩いてて見る、制服の子達と同じもの。

あの子達は、可愛くて、かっこよく見えるけど。

私に、似合うのかな・・・。

私には似合わない気がする・・・。

「・・アーヴ・・・?」

後ろからの、言い聞かせるような音にどきっとして。

持ち上げて見ていた制服をすぐ置いて、パジャマのボタンを上から一個ずつ外し始めた。



靴下まで制服のを穿いて。

ココさんが急いでるから、って髪に櫛を通してくれて。

ぐるりと近くで見られて。

「うん、可愛いわ。新品の、新入生って感じ」

よくわからない言葉で褒められた。

「さ、行きましょう。朝ご飯を抜くのは許さないから、凄く急ぎになるからね」

鞄を私に渡して、急いで歩き出すココさんを追いかけた。


鞄を抱きしめて。


ココさんの後ろをついてく。

廊下では、制服の子たちがいっぱいいて。

いつもと違う服を着て私も歩いてる。

いつもより短い、膝丈のスカートが揺れるとすうすうして、気になる。

いつもより違う服の私は。

目立つ気がして。

かっこいい制服だから。

合わない気がして。

見られてる気がする。

少しだけ顔を上げたら、必ずあっちから来る人とすぐ目が合う。

だから、足元を見て。

私の黒い靴が動くのを見てた。

「緊張してる?」

そう聞かれたのは、朝ご飯を食べてる時で。

隣のココさんは私を見てた。

緊張してる?

私は・・・。

・・私は。

「楽しいところよ、きっとわくわくするから」

そう、口元を微笑ませて見せたココさんの顔は、何処かで、いつか見たような、気がした。

息が詰まるような。

とても悲しいことだったような。

悲しい・・・?

「さ、早く食べちゃって。残すのも許さないからね」

それでも、ココさんはそう笑ってた。

少し急いでるココさんに急かされて、食堂を出てからココさんに付いていくまま、歩いていくと。

行った事のない道を曲がって、知らない場所を進んでいく。

躊躇って行かなかった道の中の一つで。

すぐに、もう見た事の無い場所を歩いてる。

今までとは違った雰囲気の、歩いてる制服の人達も何か違う場所。

白い廊下で、物静かに歩いてて。

幾つかの扉を何個も通り過ぎて。

それから暫く歩き続けた後、ココさんは部屋に入っていった。


ココさんの隙間から覗いたその部屋は広くて。

少しごちゃごちゃした感じの、仕切られた机がぎっしり置かれていて。

慌しい、大人の人達がたくさん・・。

「失礼します、ムリアーニ先生は?」

ココさんがそう大きな声で部屋の人達に聞いて。

「はい、ここです」

誰か男の人が手を上げた。

中くらいの高さの仕切りの奥の、白いシャツを着たその人の机の方へ、ココさんが行くのを。

遅れて気付いた私に、ココさんが振り返って。

「こっちよ」

そう呼んだのを、私は追いかける。

ココさんは仕切りを避けて、椅子に座ってたその人の前に立って話し掛けていた。

「おはようございます、生活助護員のココリーナ = ラスラです。アヴェエ = ハァヴィ = ユリゼントを連れてきましたよ」

「あぁ、どうも。転入生ですね。」

そう、その男の人は椅子に座ったまま覗き込んでくる。

「私は担任のピッドォ-リヴィン = ムリアーニだ。アヴェエ、よろしく」

私は、そう言われて、見れなくて、顔を背けてた。

「アヴ、ちゃんと挨拶なさい」

頭の上からの、隣のココさんの声に怒られた。

私はその、ムリアーニって言った、男の先生の人を見ようとして。

少し顔を上げて。

だけど、その人も私を見てたから、目を俯かせて。

「・・普段からこんな子かい?」

「あぁ、えぇ・・、まぁ」

足元を見てる私の頭の上の、そんな言葉が聞こえてた。

アヴは少し力を入れて歯を噛んで。

ココはアヴが少し膨れたように、唇を僅かに尖らせた横顔を見たが。

「これからクラスメートにも紹介するが、大丈夫か?」

そうムリアーニが聞いてきて彼に目を戻した。

そう覗き込んできてるのがわかってるからか、アヴはずっと下を向いていた。

「・・人見知りが大分激しい子みたいで。でも、私とも普通に話せるようになれましたし、同じくらいの子達にならすぐに慣れると思います」

「そうですね、まぁ、任せてください。」

彼もココを見上げて軽い笑みを見せた。

「はい、よろしくお願いします」

これは、本当ならアヴの言葉の筈なのだけれど、とココは思いつつ少女を見たが。

少女は未だ俯いたまま、それこそ何も喋らないで済ますつもりのようだった。

「あぁ、そろそろ行くぞアヴェエ・ハァヴィ、けっこうぎりぎりの時間だからな、ほら、行こう」

先生が立ち上がって荷物を取って歩き出すのを、ココは目で追いかけ。

その隣の小さな少女も先生の背中を見上げて、それから隣のココを見上げた。

その背中を追う小さな姿が目に入らなかったココは隣の立ったままの少女を見つけて。

「ほら、アヴ、あの方についていって。」

ココがそう言えば。

少女はその先生の方を見ると、彼が振り返って待ってるのを見て。

すぐに視線を下げて俯いても、足を踏み出して、てくてくと歩いて先生を追いかけてく。

その背中にココは声をかけていた。

「楽しんでね」

少女は振り返りはしなかった、けれど、俯かせた頭を僅かにまた俯かせたようだった。

ムリアーニ先生の背中まで来た少女を、彼はその頭を見下ろしながら何かを言ったようだった。

「俺は取って食わんから安心してくれ」

そう冗談めいて言ったのをココの耳が捉える事は無かったが。

彼の背中にぴたりとくっ付いて職員室を出て行く少女の小さな後姿を最後まで見送った。

まるで、何もしていないのに怒られた生徒のような、余計に小さくなっている少女の姿から溢れてるような、強い不安の気持ちを自分も色濃く感じている。

下手したら過保護すぎる事になるかもしれない。

そんな自分に嘆息し、未だ慌しい雰囲気の中の教職員の部屋でココは一人で苦笑いをしているのだった。




知らない男の人について行っている。

何処に行くのかわからないけど。

ココさんがついて行って、って言ったから。

ちゃんと付いて行ってる。

男の人は私を振り返らないで歩いてく。

見た事ない場所に、見たことない感じの、見たことない遠くの先の廊下の。

来た事ないところに連れてかれてる。

私はきっと。

たぶんそう。

大きな男の人が歩いてくのを追いかけて。

強くなっていく。

どきどきが。

帰りたい。

帰りたくなった。

とても帰りたくなった。

私の、私のベッドのある部屋。

静かで誰もいない。

私のベッドの部屋。

部屋にいたい。

このまま。

ついてったら。

・・ついてったら。

どきどきでお腹が苦しくなってる。

息も苦しくなってる気がする。

息も苦しい。

足、動く私の足から振り返って。

私の後ろの道を見て。

そこも知らない廊下。

ずっと遠くまで続く廊下。

帰り方、わからないんだ。

すぐにわかった。

見た瞬間に。

廊下では知らない人達が歩いてる。

そんな知らない人達の中で歩きたくなかった。

私を見てる。

見てる・・?

見てる・・・・。

どきどきが凄く強くなりすぎて。

どくどくするのだけが強くなりすぎて。

足元を見てるだけで、息が重くなってた。

肩が動いて、苦しい息を繰り返す。

頭の中まで激しく、どくんどくんどくんってずっと鳴り続けて。

私の体全部が重い音だけになっている。

手、じゃない。

足じゃない。

動かない。

おもくって。

重くて。

震えてる、勝手に。

手が足が。

喉の奥が、胸の奥が、息ができないから、苦しい。

きっと息ができてないから苦しい。

それで息をする度に苦しい。

熱くて。

熱くて。

苦しくて。

どっくどっく、胸の奥で跳ね続けて。

痛い。

痛かった。

なんで痛い・・?

痛すぎて。

胸の中で暴れてる。

痛すぎて。

死ぬ、かもしれない・・・。

死んじゃうかもしれない。

いつも、こんな苦しいの、いやだ。

しんじゃうの、いやだ。

しにたくないのに・・、いやだ・・・。

わたし、くるしいの、いやだ・・。

痛かった。

とても痛かった・・。

目の奥で震えてた。

ぐるぐる回って。

世界が回って。

私は。

私は。

どうなってるのかわからなくて。

頭の奥が痺れてた。

ぐるぐる回って。

頭の中がぐるぐる回って。

どこか遠い所に行きかけてた。

地面を触りたかっただけなのに。

気付かなかったら、私は倒れてたのも気付かなかったかもしれない。

胸の奥が、心臓の音が、息がまだ苦しい。

頭の芯が痺れて、痛い。

「ぁ・・か・・・っあっ、は・・っ・・」

さっきから。

変な音が聞こえてたかもしれないのは。

自分の喉から出てる音で。

口を開いて喉を鳴らして、息をしようとしてる私を覗き込んでる凄く近い大きな顔が。

「ぁ・・っひ・・・っ・・・か・・っ・・」

私の息が止まった。

でもそれは。

一瞬だけ。

すぐに、また苦しい息ができる。

でもその一瞬が、凄く苦しかった。

一番苦しかった。

喉の音が大きくなったくらい。

「うっ・・・ふぐ・・っ・・・」

ぼろ、ぼろって。

気付いたら。

涙が出てた。

ぼろぼろ涙が出てた。

止まらない。

止まらなくて。

止まらない。

顔をどんどん流れてく。

苦しくて、苦しいのに。

息も出来ないのに。

涙だけ、いっぱい出続けた。

涙がいっぱい、出続けた。

「・・・うあ゛あ゛ぁ・・っ・・・・」



「どうしたっ?アヴェエっ?おいっ、しっかりしろっ!?」

先ほどから、自分を見ている少女の目の焦点が合っていなかった。

小刻みに震えている肩は呼吸の度に喉を鳴らし、呼びかけても答えず。

一瞬、目の焦点が合い自分を見た瞬間に今度は大粒の涙をその黒い瞳から溢れ出させ始めた。

廊下の真ん中で立ち止まっていた少女に気付いて、踵を反し近付こうとした瞬間に少女が崩れ落ちた。

固い床に頭を打ったようにも見えた少女に、焦って慌てて駆け寄り抱き起こした。

少女は目を開いてはいたが目の前の自分の顔を見てはいない。

焦点の合わない目の、その様子がおかしいと気付くよりももっと、事は後の状態だった。

先ほどから何度も呼びかけていたムリアーニに少女からの返事は一向に無かった。

「ッ・・か・・ッ・・・はっ・・・あ・・ぁっ・・あ゛・・あ゛あ・・ぁあっ・・ぅ゛ぅ゛・・・・うううう゛・・っ」

急にぼろぼろと流し始めた涙が、勢いを増して流れ始める。

ムリアーニの腕の中で少女は激しく胸を上下させていたが。

「うう・・っ・・・うう・・あぁ・・・あぁぁぁ・・・っ」

大きく口を開けて、本格的に、泣き始めた。

まるで小さな子供のように、泣き始めた。

「ああぁぁっ、ぅ゛あぁぁあぁ・・・っ・・」

ぼろぼろと涙を流して大口を開けて泣く少女の。

ムリアーニはその小さな肩に手を置いたまま難しい顔で首を捻り、苛立ちに後頭部を掻き毟ったが。

少女は簡単には泣き止みそうに無い。

「なんだー、どうしたんすか先生」

ムリアーニが気付けば、周りの廊下の生徒達の注目を嫌でも浴びているようだった。

廊下の教室の扉や窓も開けてたくさんの生徒達が顔を覗かせてもいる。

「ムリアーニ先生がなんか泣かしてる」

「えっ、まっじ?」

教室の中からはそんな声もあるが。

こりゃやべえな・・、と思うしかないムリアーニである。

彼はシャツの胸のポケットに指を入れ取り出した小さな携帯を片手で操作して。

操作を終え閉じた後は周りの彼らに向かって言うが。

「お前ら、教室に戻ってろ」

と、誰一人聞き入れるものはいないで珍しげにこっちを見ているだけである。

その中で、ムリアーニの腕の中の少女は今も遠慮なしに泣き喚いているのであって。

「あぁぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁああぁ゛ぁ゛っ・・・・、っくっくひっああ゛あ゛・・・っ」

泣く子には何を言っても無駄だとは知っている。

「泣き止んでくれよぉ・・・」

だがそれでもムリアーニは少女にかしずいたままそう呼びかけ、肩に置いた手を握ったりして慰めようとしてやってるのだった。

「先生、どうしました?」

と、掛けられた声に顔を上げたムリアーニは近付いてきた男の胸のプレートバッジを見て少なからずほっとする。

「いや、いきなり泣き出したもんで。私にもさっぱりわからんですよ」

「はぁ・・?」

納得したようなしてないような返事である。

「あ、頭打ったかもしれないんで、診て下さい。」

「急に倒れたんですか?」

「はい。今日から新しく転入してきた子でしてね・・」

そう、泣く少女の黒髪を分けて、彼は表面を簡単に調べたようだった。

「血は、出てないようですね・・」

「・・移動できますか?ここだとなんなので」

「あぁ、そうですね、連れて行きましょう」

彼も周りを見回して、気付いたように頷いてくれた。

「さ、きみ・・・、名前は?」

「アヴェエです、えっと、アヴェエ = ハヴィ = ユーゼン、だったかな・・?」

「アヴェエちゃんですね、はい、わかりました。」

彼はなかなか立たない少女をなるべく揺らさないように抱き上げてみようとしたり、といろいろ錯誤をしてみるのだが。

その度にムリアーニが捲れそうになるスカートを直してやったりして慌て大変だった。

そんな事をしている間にも、少女は未だめそめそしながらもなんとか立ってくれて。

それにほっとした彼らである。

それから彼は少女の濡れた手を引いて連れて行こうとして。

「あ、先生はいいですよ、授業があるでしょう。私で連れて行きます」

そう、付いて行こうとした彼にそう言葉で制した。

「そうですか?すいません」

「いえ、これは私の仕事の内ですから」

そう彼は肩を竦め軽く笑みを見せて、少女を誘導していく彼のその背中は廊下の薄い人垣を割って行くのをムリアーニは途中まで見ていた。

「さあ、お前ら、さっさと教室に入れ。終わりだ終わり。彼女は大丈夫だ」

それから彼は、周りの集まって興味津々に見ていた生徒達に声を大きくして言ってやった。

「先生なんかやったんすかー?」

とまあ、誰かの質問に、何故か周りが幾分静かになった気がするのであって。

「・・なんもやってないよ」

懇願するような声になったのは致し方ないのだろう。

「ええ、じゃなんで泣いたんすか?」

「あの子、どこの子?」

「先生が怖かったんじゃないの?」

「先生、おどかした?」

「いいから戻れーーー」

好き勝手な事を言い続ける彼らにそう言って追い払うのだった。

次第に各々の教室に引っ込んでく彼らを見回しながら行こうとしたムリアーニで。

「ムリアーニ先生、ちょっとお話よろしいかしら」

そう、後ろから呼びかけられて振り向けば。

そこにいた厳しい眼差しの老女が眼鏡の端を指で持ち上げるのを見て、彼は寄せた眉で嘆息するのだった。



最寄の看護室に連れてこられてからもベッドの端に座らされたまま、まだ止め処ない涙で泣いているアヴェエを見ていた彼は端末のモニタへと目を戻した。

先ほどから何を言っても、宥めても泣き止まない。

仕方なく彼はやるべき事を先にやる事にしていた。

画面に並ぶリストから少女の名前らしい名前を検索して、登録にある名前を確認した。

そして必要な項目にチェックを入れれば作業は完了である。

彼はそれからその少女に向き直り、先ほどから変わらずに涙をぼろぼろと零している少女に近付き顔をタオルで拭いてやるのだった。

それを嫌がって両手で跳ね除ける少女はやはり小さな子供のように癇癪を起しているようだった。

それからその少女を一応目に留めておきながら、暫くすればドアがノックされた。

すぐにドアが開けば同じ看護係の女性が入ってきた。

彼女はベッドの端に座る少女を慌てた様子で見るや否や。

「いったいどうしたの?」

と、彼に驚いた表情を向けてきた。

「わからん、先生が言うには突然泣き始めたらしくて。連れてきたのはいいが、宥めようにもずっと泣いてるんだよな・・・」

そう彼はお手上げといった風に、白いタオルを見せるように手を上げて見せた。

彼女はそんな彼の言葉が終わる前にも少女のほうへと近付いていて。

「アヴ、アヴ、いったいどうしたの?」

中腰に少女の顔を覗きこみそう問いかけても。

目をくれないでぼろぼろと泣き続けるアヴェは。

まるで無関心に自分の事だけで精一杯のようだ。

そんな様子を見ていた彼女は。

結局、初日の頃のことを思い出すしかないわけで。

肩の力を抜くように溜め息を吐いて。

少女の隣に腰を下ろし肩に触れ、ぽんぽんと置いてやって、気分が落ち着くようにと時折擦ってやるのだった。

それを暫く眺めてた机の彼は。

「その子任せていいか?俺じゃやれる事は無いみたいだし」

そう彼女に言い。

「ええ、連れてきてくれてありがとう。」

彼女は彼に少し無理した笑みを見せる。

立ち上がりかけた彼に彼女はこうも続けた。

「この子、前にもこういうことがあったけど・・・。」

「よほど酷い事があったのか?」

「いえ、何も。けどその時も泣き止むまで待つしかなくて」

そう、彼女は少女の小さな肩を擦る。

「そうか、・・まぁ、行くよ」

そう言い残して、彼は扉をパタンと閉めて部屋を出て行った。

その背中を見送ったココは、それから、未だ泣き続けるアヴェに目を戻して。

震えるようにぼろぼろと涙を流し続けているアヴの黒髪を見つめていて。

小さな肩に置いた手を上げ、背中を抱くように片手を置いて優しく撫で始める。

ただ、少しでも抱き寄せられようとすると、アヴェは力を込めて逃げたから。

なるべく刺激しないように、優しく少女に控えめに、彼女は触れてることしかできなかった。




「・・うん、大丈夫、健康ですね。」

老医師が、仕上げに少女の前髪をかき上げて、その黒い双眸を覗き込んだ後で穏やかにそう言った。

少女のおでこに当てていた手をゆっくりと下ろして、そうすれば少女のおでこも遠慮がちな目も長い黒髪に隠れる。

自室のベッドで落ち着いた様子の少女に、ゆっくり頷きながら。

老医師は眼鏡の奥の目を細めたまま、足元に置いた鞄へ聴診器などの簡単な医療器具を仕舞っていた。

「頭を打ったと聞きましたけど、先生」

それを横に立って見ていたココが彼に尋ねていた。

一通りの診察を終えたばかりの彼は鞄に詰めながら答える。

「いやぁ、たんこぶも出来てないですし、頭は強く打ってはいないみたです。ね、僕が頭を触っても痛くなかったよね?」

そう穏やかな口調のまま突然聞かれて、アヴェエは彼を一瞬前髪の奥から見上げてからこくこくと慌てて頷いていた。

「打ってなかったですか・・よかった・・・」

彼女は心底ほっとしたように呟いた。

たぶん、他人からの同じ判断を聞いて、彼女はようやく安心できたのだろう。

「ええ、ほんとに。」

彼は目を細めてココを見上げ微笑んで見せた。

それからベッドの上の少女に向き直り声を掛ける。

「さて、アヴェエ、疲れたでしょう、寝てていいからね。」

そう立ち上がり、彼が薄い掛け布団を捲ったのを、一瞬だけちらりと彼を見上げアヴェはそのままおずおずとベッドに身体を横たえる。

布団の中に足を潜り込ませたアヴェに彼は布団を掛けてやった。

枕の上から黒い瞳に僅かな光を帯びさせじっと見ていたアヴェに、彼は一つ微笑み。

「おやすみ。」

彼は傍を離れると椅子に立てかけていた鞄を持ち、片手に上着を掛けたままココに付き添われて部屋の扉から廊下へ出て行った。

それを見届けた少女は、いなくなった二人の後ろ姿を見つめたまま、枕の上の目をぼうっとさせていて。

それから、ゆっくりと閉じていった。

誰もいなくなった部屋で、穏やかな寝息が聞こえてくるのももう間もなくだった。





「私の見立て違いですかね・・・、いや、申し訳ない」

廊下を歩く途中で、彼はココに向かい、そう言っていた。

「先生の所為ではありませんよ。そう言うなら私のほうが彼女の傍にいたんですから。私の所為になります」

ココは彼にそうきっぱりと正面から答える。

「はっきりと許可を出したのは私ですよ。しかし、それらの判断が間違ってるとは思わないですが。もう少し慎重にいきましょう。彼女はやはり、他の子達よりも繊細で、特別のようです」

彼は思うところがあるのだろう、ココに見せる目を細めた真面目な横顔は考え事をしているようだ。

「私も、思います。あの子が、もう少し自分から喋ってくれると良いんですけど・・」

「ふむ、そうですね。」

彼は頷いた細い目を、僅かに開いて正面を見つめているようだった。

「・・・彼女は、自分をコントロールするためにも、もう少し強くならないといけない。どんな『力』も、とても危険ですからね。」

彼はそう続けたが。

「・・・」

ココはそんな彼の、眼鏡の奥に細める目の横顔に目を移しただけだった。

彼はそれから無言でやはり、色々考えているようだった。

『力』をコントロールするため、と彼は言ったが。

『力』のコントロールなんてできなくても、彼女も含めて、子供たちが普通の生活を送れれば、それでいいのに。

毎日、朝起きて、笑って、楽しんで、時には泣いたっていい、怒ったっていい、その後にそれですぐに笑えれば、夜に眠り朝に目が覚めて子供たちが笑えれば、それでいいのに。

そう、ココは思うだけだった。

「今回の事は、体調からのものじゃなく、精神からのものだと思いますから。」

彼の言葉に、ココは思考していたことを止めて彼を見る。

「また気持ちを落ち着けて、今までどおり此処の環境に慣れ親しませるように、お願いします。」

「はい」

「今度また、私が問診に来ますのでその時にまた判断を。」

「わかりました。お願いします」

それまでは、私があの子を見ていないといけない。

「はい、では見送りは此処までで結構。広いですからね。お忙しいのに時間を割いてもらうのも恐縮です。」

「いえそんな・・」

「私も大分此処に慣れましたからね、一人で帰るのにさして問題は無いですよ」

「そうですか・・」

「それでは、あの子をよろしくお願いします」

「はい、ありがとうございました」

彼はそう微笑みを見せて。

手を軽く振って、彼女に背中を見せて行く。

廊下の真ん中で立ったまま彼を見送るココは、それから。

彼の背中が充分に遠くなるのを見てから踵を反し、今歩いて来た道に足を踏み出し、彼と歩いていた時と変わらない歩調で静かに廊下の道を戻っていった。




幸いにも、彼、ファーナゾン医師の申告と合わせた願い届けは以前に受け入れられているので。

受け持つ子の数を少なくして彼女の様子に今までは専念できるだろう。

と言っても、差し当たってやる事といえば彼女の緊急の用事に駆けつけるぐらいの事しかできないのだが。

彼女は病人じゃない。

精神的に不調の患者を病人という人もいるかもしれないが、彼女はそう呼ばれるのが許されるほど重度の病人ではない。

ずっと付き添っているわけにもいかないし、寧ろ自分が過保護すぎてしまうかもしれないのが心配だ。

それに彼女の部屋にはコールボタンを置いてあるので、すぐに駆けつけることはできる。

・・けれど、今までそれで彼女から呼ばれたことがないのは、良い事なのか悪いことなのか。

ココは廊下の途中の、その部屋の扉の前で立ち止まり。

暫く見つめていた扉に手を伸ばして、軽いノックをした。

当然のように室内からの返事が無いのは慣れていて、彼女は静かに部屋の扉を開いた。

足を踏み入れた彼女が部屋の中を見回す前に、ココは視界の端に触れた、何かに。

気付いて、目を凝らす。

それは凝らすまでもなく、背の高い人影が。

人影が少女の部屋の中に突っ立っていた。

ココは思わず身体を震わせて。

驚いたまま、口を開き。

「あな・・っ」

叫びかけた。

悲鳴にもなりかけたそれを。

ココは思わず飲み込み。

彼女の息は止まった。

なぜなら、それが人影では無い事に気がついたからである。

揺らめく水に溶かした絵の具のような、形の成さない、空気に揺らめく人のようなもの。

見ていてとても、気持ちの良いものではないそれは。

以前に、どこかで見たものと、とてもよく似ていた。

それは輪郭が空気に溶けていくように色をたゆたわせているが、その『人』のような形自体が変化する事は無い。

眉間に強く皺を寄せながら、ココは『それ』の方へと、ベッドの方へとゆっくりと、恐る恐る近付いていく。

それは、すると、こちらを見たかのように首の辺りが動き。

それと同時に驚いたココは動きを止めた。

すると、その人影の様のものは間を置かずに、空気の中に揺らめき溶ける様に、形をなくしたかと思うと一瞬で霧散して消えていった。

ココはその現実とは到底思えない光景を、どくんどくんと胸を鳴らしながら見ていて。

緊張で汗に荒くなった呼吸を繰り返していて。

気がつき、目の端に触れたベッドの上で僅かに動いたものに目を向ければ。

枕に頭を乗せたままの少女、布団の中で横たわり眠っている少女の姿があった。

瞼を閉じて無垢な寝顔に寝息を立てて眠り込んでいるその姿を。

ココはそれを暫く見開いた目で、驚いた表情のまま見つめていたが。

・・大きく息を吸い込んで、全身の力を吐き出し。

「・・はぁ・・・っ・・心臓に悪いわ、全く・・・」

全身疲れてもほっとしたような、誰にともなく悪態を吐くように言うのだった。




アヴェはベッドの上で目が覚めてから、幾度目の瞬きをしていた。

眠気は完全に取れて、寝すぎで開きにくい瞼に、おぼろげな今までの事を思い出そうとしているように天井を見つめている。

枕の上の頭を横に向けても、誰もいない部屋の中にテーブルがあるだけで。

アヴェは暫くの間、部屋の光景を見つめ続けていた。

部屋はいつものように、どこまでも静かな。

ずっと、夢を見ていたみたいに。

けれど時計を見たら、起きるには遅すぎる時間が、いつもとは違う。

机に向かって勉強してる時間。

アヴェは暫くテーブルの上の時計を見ていた後、むくりとベッドから起き上がって。

ベッドから床に足を下ろしてスリッパに乗せた。

自分がパジャマなのに気付いて、スリッパを引っ掛けクローゼットの方に歩いていき。

クローゼットのその扉を開くと、ハンガーに掛かってる自分の私服の、クリーム色のブラウスの横に、ワインレッドのような色の制服の上着とスカートが同じ様にハンガーに掛かっていた。

それは皺一つ無い、新品の制服で。

視界の端に入ったそれに目を留めたアヴェは、見つめることなくそれから目を離す。

アヴェは手を伸ばして、掛けてあったハンガーから青色のシャツとパンツを取った。

そのままクローゼットを閉めて、ベッドまで戻りベッドの上に服を置いて。

パジャマを袖から脱いで白の青色のチェックのシャツに腕を通し。

パジャマから足を抜いて濃い青色のパンツに足を通してボタンで留める。

ベッドの上に放ったパジャマを折り畳み、置いて。

それから、1度、部屋の中を見回した。

少し乱れているアヴェの長い黒髪が揺れるが。

アヴェは机の方に目を留めてから、歩き出してテーブルを横切り、机の席に腰を下ろして目の前のノートを開いた。

起動するまでの少しの時間にテーブルを振り向き時計を見たら、いつもなら勉強は終わりそうな時間だった。

二度ほど、瞬きをしながらそれを見ていたアヴェは。

それから、ノートに両手を置き操作し始めた。




もう少しで今日分の勉強ノルマが終わりそうだった頃に、アヴェはふと気付いて、後ろを振り返った。

物音がしたのが聞こえた気がして手を止めたアヴェは、椅子に座ったままココとすぐに目が合った。

部屋に扉から入ってきたらしいココは、入り口で今丁度こちらに目を留めた所だったようだった。

「アヴ?起きてたの?」

少し、驚いたようにそう聞いてきた。

アヴェは頷きを繰り返して。

「はい・・」

「身体は、辛い所とか、痛いところない?」

「・・はい。」

前髪の奥から見る目を入口ののココに向けたまま、アヴェはそうとだけ頷く。

「・・・えっと、今お勉強してたの?」

「はい」

こっくりと頷くアヴェに、僅かに驚いていたようなココは少し溜め息のような息を吐いたみたいだった。

「・・あまり無理しないでね」

そう、アヴェに呼びかけて。

「・・はい」

アヴェは頭を少し俯かせて、小さく返事をして。

それから、何も言わないココへ、気になるように僅かに顔を上げたアヴェはココの言葉を待っているようだ。

ココは向けられるその視線に2、3の瞬きの後で口を開く。

「・・えっと、あなたの様子を見に来たついでに、お昼も誘いに来たんだけど・・・」

そう言うココにアヴェは黒い瞳を瞬きさせているようだ。

「どう?お勉強。もうすぐ終わる?」

アヴェはそう聞かれて、瞬きをしてからノートの方を振り向き後ろ頭を見せ。

何かを考えたような間の後にココを振り返って、こっくりと頷いた。

「それはどっち?」

ココは少し笑い、アヴェに目を細めた。

「・・行きます」

アヴェはそう言って椅子から立ち上がり、そのままノートを閉じた。

ココは、俯き加減のアヴェがこちらまで近寄ってくるのを目で追っていて。

目の前まで辿りついたアヴェが立ち止まっているままのココをちらりと見上げた。

「・・ご飯に行く前に、髪をちょっと直して行きましょう」

そう、ココは棚の方のアヴェのヘアブラシへと目をやって。

視界の端にアヴェが動いてるのを見つけて目を戻せば。

アヴェは顔を俯かせたまま、手で触って髪の毛の跳ねたり絡まってる所を探し始めていた。

「ちょっとだけよ、すぐ直るから」

そう、ココはアヴェに、棚へ向かってアヴェのブラシを取ってきて。

まだ気にしているように前髪の辺りを弄ってたアヴェの頭に手を添えてブラシを当てた。

ココはアヴェの髪を触る度に思うのだが、長めの髪の毛は元々真っ直ぐで。

綺麗に流せば艶のある黒髪には、ブラシよりも細かくて細い歯の櫛が良いし、似合うと思う。

別にブラシでも問題なく、綺麗に直せるんだけど。

少し絡まる、ブラシに軽く引っかかった所を力を入れないように解いている間も。

アヴェは髪を梳かされている間、終わるまでじっと動かないでいた。




食堂に着くまで廊下を歩いている間も、ココの隣の半歩後ろを歩いているアヴェに時折目を向けるココに。

気づく事も無くアヴェは歩いている。

俯いた視線は足元しか見ていないようだが、それでも問題は無いようだ。

いつものアヴェの様子に気を配りすぎるのも良くないか、とココは目を離しては少ししたら、また時折半歩遅れるアヴェに目を戻す。

いつもだったら、何とか話題を探して。

一方的に話すような格好になるけれど、親しい友達の学生から聞いた学校の話をアヴェに話し伝えて、学校に興味を持たせたり少しは笑わせられることもできるのだけれど。

今日は今朝のアレでその話もアレである。

変に意識をしすぎているかもしれないが、学校について話をするのも気が引けるので。

他に話す事がないか考えてみても特に無いことしか見つけられないのであって。

経済ニュースなんて、最近よく騒がれてる不景気の兆候がとかの話とか、話しても興味無いだろうな、と僅かに眉を顰める。

他の仕事仲間と話していることといえば、やや盛り上がる困った子供の話や接し方とか、はこの子に話す事ではないし、その他のフランクでジャンクな会話も止めた方がいいに決まっている。

そんな風に頭を捻る気も知らずに歩いてる様子のアヴェの頭をココは見下ろし。

ココはとりあえず話題探しは脳裏の仕事に押しやり、結局彼女の様子を気に掛けて歩くのである。

ずっと無言でも堪えられるらしいアヴェは彼女から離しかけてくる事は滅多に無いけれど。

それもやっぱりあまり良くない気がしてならないココで。

食堂に着いてからも。

「さ、好きなのもらってきましょう」

と言うココをアヴェは前髪の隙間から少し見上げて。

頷いたような俯いたようにして。

立ち止まったままの、ココが歩き出そうとしてから歩いてく。

そこで別れるのは良いとして、トレイを持ったままココが待ってる所へ充分に悩んでから戻ってくるアヴェと適当なテーブルに着く。

食事をしている間も、ココが時折、隣のアヴェに話し掛けて彼女が頷くかするくらいで短い会話が終わる。

それもいつものことだけれども。

なのでココは手に持つ食器を動かしながら、隣で同じ様に食器を持って控えめに食べ物を口に入れていく少女の様子を盗み見るようにしているだけで。

こっちが見ているのに気付くとすぐに手を止める彼女も困りもので。

少女が動きをぴたりと止め、それから隣のこちらを見上げる前には、ココは正面の遠くのほうを見ている。

そして口にスプーンを一口分運んで、さも今気付いたかのようにアヴェの視線と合わせてみたりして。

アヴェはそうするとすぐに視線を俯かせ、また配膳の上の食事を見つめて。

ココが普通に食べていればまた食器の音を微かに立てて食べ始めている。

幾分、溜め息を吐く様な気持ちで、その食器の音を聞きながらココはスプーンを口に運ぶのだった。




ベッドの端に座って、ぼうっとしてた。

誰もいない私の部屋で、ぼうっと、テーブルの方を見てた。

椅子は誰かが座ってたみたいに、少し引っ張り出されたままこっちを向いてるままで。

机の上のノートも、今日はもうやる事がない。

だからぼうっと、考えてた。

ベッドの上で。

お勉強してた時にココさんが入ってきたときも。

ココさんは少し何かを考えてるみたいに私を見てたけど、普通にお話して。

お昼を食べた時も、ココさんは朝のこと何も言わなかった。

体調が悪くないかくらいしか、聞いてこないで。

・・・ココさんは怒ってないのかな。

私が学校に行かなかったこと・・。

あれだけ、ココさん私に行かせたがってたのに。

私は行けなかったのに、怒ってないのかな・・?

お昼ご飯を一緒に、隣で食べてたココさんは普通にしてて。

いつものココさんだった。

怒ってなんてないみたいで、朝の、学校へ行く事を忘れてるみたいで。

・・なんで学校に行かなかったんだっけ?

突然苦しくなったんだっけ。

胸も頭も痛くなって。

気持ち悪くなったんだ。

だから気付いたら泣いてるのが止まらなくて。

・・色んな人達に見られたかもしれない。

・・・やだな・・・変な風に見てたんだろうな・・・・、変な子だ、って・・・。

・・やだな・・・変な事しちゃったな・・、私・・変だな・・・・。

いつの間にか閉じていた瞼のまま。

私は枕のある方に肩から倒れ込んだ。

少し弾んだベッドに押し返されて少しだけ跳ねて。

柔らかくて優しい感じのベッドの上で、頬や顔をつけてるだけで気持ちよかった。

もぞもぞ動いて、足に引っかかってた重い靴を脱いで。

ベッドの上で丸くなった。

そうしてると、柔らかくてとても気持ちよくて。

ずっとこうしていたくて。

だけど寝るなら、パジャマにならないと・・・。

でも手も、胸も身体が動かなくて。

靴脱いだからいいか・・。

お布団、入らなければ・・。

ちょっと熱くて汗ばむけど・・。

柔らかくて優しくて気持ちよくて温かい、ベッドの上で。

丸まって、静かな暗がりの中、瞼を閉じていた。

長い間、気付くまで、ずっと。

・・その間に夢を見てたかもしれないけど。

眠くて、何の夢なのかも忘れてた。




廊下の歩く先に、白色に輝くガラスのドア。

あれは、前にも、見た、ドアだった。

外の白い光が差し込んで、床に煌いている、透明なガラスのドア。

白く輝いてるみたいに、外の光が眩しい。

透明なドアの向こうには、白い光の通路があって。

真っ直ぐ前に続いてく。

少し身を屈めて、私は向こうの景色を覗いていた。

時々、風が緑色の葉を揺らすのを見てて。

綺麗な、気持ちの良さそうな光景に。

私は背を伸ばして、手でドアを押していた。

びくともしなかったドア。

思い切り力を入れて身体ごと押してやっと、重いドアに隙間ができて。

なんとか、その隙間からそのドアをくぐって。

ほっとして息を吐いた。

ガラスに反射する光に気付いて、白い天井の白い光でいっぱいの中に私がいること。

淡い光の屋根を見上げて向こうの方までぐるりと首を回して、向こうまで白くて長い通路が続いていく。

前にも来たことのある、綺麗な場所、でも前よりもっと白くなってる気がして。

真っ直ぐの先に青い空の。

左横には広い緑色の木がたくさん光の下にあって。

反対の横には、小高い丘の向こうに、向こうの建物の一部が見えていて。

学校の、校舎かもしれない、その建物も遠くの日の下の。

私は向こうの方を見ながら角度を変えるように、通路の先へと歩いて行って。

そうして動いてく、遠くの建物の表情が少しずつ変わってく。

燦々さんさんと少し暑い日が降り注ぐ中の緑色の光景。

その手前に長い通路が向こうの方まで続いてくのが見えて。

正面に顔を戻すと、突き当たりの曲がり角が近付いていて。

その奥に見える手摺の向こうにある、広いグラウンドの光景。

曲がった通路の先に続く道は日当たりの良い階段まで続いていて、広場まで見えた。

グラウンドでは何人かの人達が遊んでるように走り回ってるのに、他に人がいないのは授業中だからかもしれない。

私は手摺につかまって目の前にある少し遠いグラウンドの光景を見ていた。

生徒っぽい人達が走り回ってて、楽しそうだった。

遊んでるように、皆は走り回ってて。

前と変わらないで、とても楽しそうだった。

前もここで眺めてたっけ。

ずっと、長い間。

面白そうだったから。

皆は楽しそうに笑ってる。

皆が楽しそうに笑うたびに。

胸が少し苦しくなった。

ちょっとだけ、胸の奥が頼りないような。

寂しいような気持ち。

それは少しの嫌な気持ち。

それに気付いてから。

私は手摺に捕まる私の両手の甲に目を落として見つめてた。

温かくて、少し暑いくらいの日の光で辺りが溢れてる。

私の手も凄く眩しく光ってた。

・・・・・・耳の奥で何か聞こえた気がした。

・・・よぉく聞こうとして。

・・ぷ~ん・・・。

それは嫌な音。

すぐに私はびくっと、驚いて。

顔を上げて周りを見回した。

けど何も飛んでない。

・・・いるわけない。

いるわけないわけじゃないけど、いるわけ・・・。

グラウンドの方では、まだ走り回ってて。

・・・ぷーん・・。

・・慌てて首を回して周りを警戒して。

すると・・、少し離れた所の空中で羽虫がぶんぶん飛んでるのを見つけた。

くるくると回転してるそれは、通路の先の途中の、白い光の下で・・。

ぶんぶんぶんぶん・・・。

この前よりは小さな虫みたいだけど・・・。

私はそれを見つめながら息を呑んで。

ちょっと背中がぶるっと震えた。

だから、それから目を離さないようにじぃっと見つめながら手摺からゆっくりと離れて。

それはその場所から動かないから。

周りにも、空中や天井に目を回して。

なんかいっぱいいそうだったから・・・。

他にはいないみたいだったけど。

今も曲がり角の向こうの先で飛んでる一匹のそれを。

その羽虫を見つめたまま。

だだだっと、私は走って元来た道の方に逃げた。

ちょっと足がもつれそうになったけど・・。

どきどきしながら、追いかけてきてないのを振り返って見れば、遠くの方も見えなくなっていて。

でもまだ少しどきどきしながら、白い光の屋根の下を慌てないようにてってと走って行って。

ガラスのドアの、光の届かないような暗い向こう側に。

身体を押し付けるみたいに、ドアに力をいっぱい押しつけて。

重いドアが開いたらすぐに中に入った。

真っ暗の中に入った私はどきどきしながら。

ドアの閉じた向こう側を覗き込んで。

虫なんていないのを、白い通路の景色に探してた。




「調子は・・、どう?」

ココは隣のアヴェを覗き込むようにして。

そう聞いたココをちらりと前髪で隠れた目を向けたアヴェはすぐに視線を落とした。

「・・普通、です。」

そうかろうじて聞こえるような声で答えた間も、ココはアヴェを見ていて。

「・・・」

ココは、見る限りは、彼女が本当に普通に生活しているのを知っていたから、誰も目にはしない軽い頷きに彼女の頭から目を離す。

ココがスプーンを持ち上げて口に運ぼうとした時に。

「・・大丈夫です」

そう隣から、続いて聞こえてきた、言い直したような言葉に気付き、ココはアヴェを見た。

アヴェのさっきから変わらない俯かせた頭が見えるだけだった。

「そう、良かったわ」

姿勢の変わらないアヴェだが、そのココの返事を聞いて、それからスプーンを動かし始める。

そんな寡黙なアヴェの様子を眺めながら、ココも一度は皿に置いたミートシチューを乗せたスプーンの先を口に含んだ。

いつものように美味しい味が口の中で広がる中で。

それからふと、アヴェが自分を見ていたのに気付いて。

少しの瞬きを返すと、アヴェはまた何も言わずに視線を下ろしてスプーンを口に咥える。

そんなアヴェの仕草は、以前より自分を気にしなくなってきた表れだと思う。

それは良い事なんだろう。

時折は些細な事でまだ気恥ずかしげな仕草を見せるが、こういうに以前よりもリラックスして過ごしているのがわかる。

それは良い事だけれど、その反面、こうしているアヴェを見ていれば、普通に生活ができる子なのに、とココは思って仕方が無い。

大人しすぎることはあっても、それが悪いわけではないし。

部屋の中に篭りがちだったのに、今ではときどき学校の中を散歩しているのも知っている。

あの騒ぎの一件から、少し塞ぎかけてまた部屋に篭りがちになったアヴェが、少しずつ部屋から出て来始めるのはやっぱり良い事であって。

時折、アヴェの部屋を訪ねて中を見回してもいないと、どこかをてくてくと歩いてるアヴェを想像して少し微笑みたい気持ちになる。

同時に、そんなアヴェがちょっと心配になるのも否めないが。

でも、決まって次に会った時にその時の事を聞いてみると、言葉少なな返事しか返ってこないのもまぁ、ココは許せるのである。

アヴェへの時間を増やす為にした申請もあまり必要なかった様子に、最近のアヴェを見てて思う事を、ココはスプーンを口に含みながら、彼女と同じ様な少しばかりぼうっとした時間を過ごす。

お昼の食堂は閑散としていて、そんな雰囲気が良く似合う気が、最近しなくもないココで。

隣でアヴェが、アヴェなりに、せっせと口に食べ物を運んでいるのを時折眺めていた。




廊下には人がたくさんいる。

制服を着た人達もいっぱいいて。

その人達の邪魔にならないように歩いてた。

夕ご飯の時間は少し嫌。

行くときも帰るときも人はいっぱいいるから。

騒がしくしながら歩いてくる人達には、ぶつかりそうになるのを気をつけないといけなくて。

私よりも大きな人たちの、その人達の足元を見ながら脇を通ってたときに、突然、大きな声で、誰かが怒ったような声で言ったのが聞こえた。

私は驚いて。

周りの、近くの人達が、何かに気付いたようにしている人達は同じ方向を見ていた。

応える様な違う人の声も、聞こえてきた。

私は振り返って、声のした右の方を見て。

誰かが向かい合ってて、怒ってるみたいだった。

周りの人達もその人達に目を向けてるのに、その人達は続けようとしてるみたいにしてて。

その声が聞こえる度に、大きくて、悲しい響きが心を震わせる。

私は、怖くて。

嫌な気持ち。

私は他の人が足を止めてそっちを見てる中を、隙間を通って離れてく。

皆の足が止まってる中を、私の足だけが動いてるのを見つめながら。

今も嫌な声が聞こえる廊下の上を離れていった。

聞こえなくなるまで、結構遠くまで歩いた。

振り向きたくなくて、止まらないで真っ直ぐ歩いてた。

誰もそんな騒ぎを知らなくなった廊下で、私は私の部屋まで歩いて。

扉を開いて部屋に帰っても、誰もいない静かな部屋の中で立ってても、嫌な気持ちのまま変わらない。

ベッドの上に座ってても、変わらない。

ベッドに抱きついても、目を閉じても。

嫌な響きはずっと残ってた。




今日のお勉強も終わったから。

私は部屋を抜け出して、誰もいない静かな廊下を歩いてた。

お昼が近いと人は少なくて、時々向こう側から歩いてくる人がいても擦れ違うだけで良くて。

広い廊下の中で見上げても大きな天井の、珍しくて可愛いデザインの、不思議な形の建物の中はすぐに顔を近づけたくなる。

歩いてても周りには面白いものしか無いから、きょろきょろして、気になる物に近寄って。

離れた所にあった、壁のお馬さんの絵の、それから隣にあった扉のノブの、ちょっと変な形したそれを見ていて。

顔を近づけてみても細かいデザインだったから、触ってみると、本当に細かい穴が空いてたりしてて・・・。

「・・あのー何してるの?」

・・って、声が聞こえた。

吃驚して慌てて周りを見回して。

後ろに人が立ってるのに気付いた。

その人の爪先から顔を見上げて、その人と目が合って。

私はすぐ俯いてた。

そのお姉さんは知らない人だった。

制服じゃなくて、デニムのズボンの、Tシャツのお姉さんで、目の前に立って私を見てた。

「・・あのー・・?」

私より背の高いお姉さんの、頭の上から軽い声で、なにか不思議そうで。

だから私は待ってた。

「・・なにー?してたのぉ?」

お姉さんがそう聞いてきて。

私は首を横に振って。

「・・・ん?」

お姉さんの声が不思議そうだった。

何もしてなかったのを、何て言った方がいいのか考えてて。

見てた、だけ?です・・・、何を・・?わからないけど、変なのを・・・。

変なもの見てました・・?だと、変な言葉だし。

「あー、声いきなり掛けちゃまずかったかな。」

って、お姉さんが突然言うから、私は首をまた横に振って見せて。

「うん・・・」

お姉さんはだから頷いたようだった。

「・・ん?声出ない?もしかして喋れない?」

不思議そうな声で聞いてきて。

私は慌てて首を横に振ったけど、気付いて。

「い、いえ・・・」

「あ、なんだ、吃驚するな、もう。」

お姉さんはそう笑ってるみたいで。

「あぁ、逆に吃驚してた?」

逆・・・?

わからなくて首を傾げてみて。

それからふるふると首を横に振って。

「うーん・・、迷子?」

少し困ったような声でお姉さんは言ってた。

「い、いえ・・」

私は慌てて首を横に振った。

「ふーん?違うのか・・。あ、違うならいいや。なんか凄いじっと見てたから」

そう軽い声で。

「それじゃあね」

お姉さんはそのまま足を動かして離れていって。

私はそのお姉さんの後姿を見上げて。

視線を落として。

それからお姉さんとは逆の方を向いて行く。

背中のほうにお姉さんがいるのが、なんか、ひしひし感じれて。

―――数歩行った所で、さっきの壁に向かってた子が気になった彼女はそういえば、と気付き立ち止まって振り返った。

「きみ・・・・・・」

と、彼女はまださほど離れてないはずの女の子に言いかけた、のだが。

「・・・・・・」

さっきまで壁の端にいた、その黒髪の、俯き加減だった無口な女の子は視界にいなく。

視線を上げると廊下の向こうへと、女の子がてってっと走っている。

なんか、急いでるようなその後姿、さっきはそんなでもなかったような、とその背中を瞬きしながら見ていたその子は。

それから、くてっと大きく首を傾けた。


―――・・・?」

胸がどきどきしていて。

どきどきする音を感じながら、アヴェは駆けてた足をゆっくり遅めてく。

ゆっくりになった足は廊下を歩いてるのと同じになって。

それから、周りを見てから、控えめに、ちらりと一瞬だけ後ろを見て。

すぐ正面を向き直る。

後ろには誰もいないのを見て、少しほっとした気持ちになった。

アヴェは顔を上げて、廊下の先を見て。

「・・・・・・?」

目に入る壁の、扉の並ぶ景色を眺めながら歩いてて。

何度か瞬きをしていた。

辺りを見回して、足を止めて、また周りを見回して。

次第にきょろきょろと、慌てて周りを見回すアヴェは。

「・・ふ・・ふぁぅ・・・」

口からそんな頼りない声を漏らしながら。

周りの光景に不安に、顔を緊張させて暫くきょろきょろしていて。

どっちに行くべきかだけでも随分時間を掛けて迷っていた。

なけなしの決断力でまだふらつくように迷う足を踏み出し、三歩歩いて後ろを振り向いたアヴェは暫く立ち止まって見ていた後ようやくそのまま真っ直ぐ、とぼとぼと歩いていく。

泣きそうな少女の声が人気の無い廊下で彷徨う・・っていたのはあまり長くは無い時間で。

少しだけ涙ぐむ、少女が見覚えのある道を見つけてもっと涙ぐむのはそれから、お腹が鳴り始める少し前の事だった。




じぃぃっと、見てた。

大きな湯船には、熱そうなお湯がいっぱいに張っていて、そこからたくさんの湯気がもうもうと出てた。

その中に入ってる人はいなかった。

いつもなら、見るたびに誰かが足を伸ばして入ってるのに。

今は誰もいない。

お湯の水面に水滴が跳ねて輪っかを何度も作ってる。

静かな、ときどき何かが反響する中にいる私は。

タオルを身体に巻いたまま、それをじぃっと見てて。

迷ってた。

入ろうか、どうか、だって、・・・入った事無いし。

見てるだけだと凄く熱そうなのに、入る人はいっぱいいるし。

温泉とか、大きなお風呂って入るとほかほかして気持ちいい、って。

聞いたことある。

・・入ってみようかな・・?

入っちゃおうかな・・・?

今日は誰もいないし、見てないし・・・。

入っちゃってもいいかも・・・・・・。

足を踏み出したら。

突然、後ろから大きな音が響いて。

少し吃驚して。

タイルを踏んだ足の次の足は、違う方向に勝手に曲がって。

三歩目、四歩目もちょっとぎくしゃくしながら、勝手に足がタイルの上をひたひた歩いてく。

その間に、音のした方に顔を向けて見てみて。

・・誰かが入ってきてて。

その人もタオルを巻いた、シャワーで流しに来た人みたいだった。

・・・。

・・気がついたら、自分が向かってたのはシャワーの個室の方で。

私は目の前で立ち止まって、向こうの方を見たらその子もシャワーの方に向かって歩いてて。

その子も顔をこっちに向けた気がして、私は正面のシャワーの方に向き直った。

そのまま止まってた私は。

暫く、中には誰も入ってない目の前の、シャワーの出る奥の壁を見てて。

一歩、足を出した。

・・・先に、シャワーしよ。

その方がいい気がする。

大きなお風呂は、後でで・・。

そのときにあの子も出てるかもしれないし。

ちょっと納得いかない気持ちだったけど、私はシャワーのカーテンを閉めた。

お湯を流して、降り注ぐ温かくて柔らかい雨に包まれる。

髪を洗ってる時に、あの子も湯船に入るかも、って思ったけど。

・・その時は一緒に入っちゃっても、いいかも・・って思った。

・・・にしても、ぴしゃんとか、音がけっこう、し始めてたのが、シャワーの音の隙間に聞こえてたけど。

私はちゃんと身体を洗って。

シャワーを止めて、タオルを濡れた身体に巻いて、カーテンを開けて出てきた時に。

顔を上げて見たのは、もう広い浴場の中で人が普通に歩いてて、友達とお喋りしてるような子たちもいる。

湯舟の方でも、大きなお風呂に足を伸ばして入ってる人もいて。

・・・・・・。

暫くそっちの方を見てたけど。

そのまま、濡れたタイルに反射する灯りを見つめながら、とぼとぼ、足の裏に踏んで。

曇りガラスの更衣室のドアの方に時々ひたひた鳴る足音を鳴らして歩いていった。

後ろから聞こえてくる、お風呂の中で笑ってる声がちょっと、嫌な感じだった。




「昨日のお昼は何処かに行ってたの?」

「はい・・?」

テーブルの椅子に座ったココに、アヴェは俯き加減な瞳を向けて、少し不思議そうにしたようだ。

それを見たココも当然不思議そうに眉を上げる。

「あれ?昨日お昼に部屋に来たんだけど・・。いなかったわよ?」

と、アヴェを見つめて言ったココに。

アヴェはそれから充分な時間を掛けて。

「・・・あ、はい・・。」

俯いた頭をこっくりと頷かせるアヴェである。

「忘れてたの?」

「・・・」

また少し動きを止めていた後に、こっくりと頷くアヴェで。

・・まぁ、いきなり言われたら思い出せないこともあるか・・・、とそんな仕草にココも頷いた。

「えっと・・、何処に行ってたの?」

・・とまぁ、またゆっくり時間を掛けて考える様子のアヴェで。

それはアヴェのペースであるので。

問いかけたココはその答えを気長に待つしかない。

それからちらりとココを見上げたアヴェは小さく口を開き。

「・・・わかんないです」

アヴェは静かにそう言った。

「え?」

驚いたココはそんな声を出した。

いちおう、こんなゆっくりした時間に、アヴェの散歩について詳しく聞いたことがなかったので尋ねてみたが。

思ってもみない答えが返ってきた。

「何処に行ってたかわからないの?」

不思議そうに聞いてくるココに。

「・・・はい」

アヴェは少し言いにくそうに声を出して。

あまり覇気の無い声はいつもと大して変わらない音であるのだが。

「えーと、どんな所に行ったの。何があったか覚えてる?周りに・・?」

とまぁ、漠然とした質問をするしかないココに、たっぷり時間を掛けて考えていたらしいアヴェが口を開くのは秒針が半周するくらいの時間だろうか。

「・・・わかりません・・」

アヴェの消え入るような気落ちしたような声にココは目を瞬かせるしかなく。

「・・えーと、周りに何があったとか、そういうのでいいんだけど・・」

「・・・・・・はい。」

こっくりと項垂れるように頷いた後、まぁ、じぃっと動かないアヴェである。

その姿を見ていれば、熟考しているのか眠っているのかわからなくなってくるココで。

「・・あそう・・・」

とりあえず、重く納得したように頷くココだった。

大丈夫かこの子、と。

ココが素で思うのも当然なのだろう。

一人で変なところに行ったり迷い込んだ末の帰還なのではないかと、あまり利発な動きを見せないアヴェを見てると思ってしまうのだが。

この寮から変なところに続く道なんてあるわけないし。

幾らなんでも寮の外や学校の方、増して敷地の外に出て行ってるわけがない、はずだ・・。

「寮の中よね?行ってるのは。そこはわかるでしょ?」

「・・ちょっと、外にも」

ちょっと外にも行くらしい。

「・・ちょっとよね?ちょっと。すぐ帰ってきたんでしょ?」

「はい・・」

こっくりと頷くアヴェで。

「そう、ならいいわ。・・良かった」

「・・・?」

少し変な反応を見せたのか、アヴェが不思議そうな視線を上げてココを見ていた。

ココはそれに気付いて、アヴェに繕ったような笑みを見せておいた。

ふと、ココはテーブルの上の置時計を視界に入れた。

「あ、そろそろお仕事の時間だから。私行くわね。」

「はい」

アヴェがこっくりと頷くのを見届けながらココは椅子から立ち。

「ちょっと長引くと思うから、今日はお昼は一人で食べてね。それと、お昼の後の、・・そうそう、二時くらいには、今日はここにいてね。」

「・・・?」

不思議そうな視線を向けてくるアヴェにココは言葉を続ける。

「お医者様が来るからね、何処かに行ったら駄目よ?」

「・・はい」

それを聞いてアヴェはこっくりと頷いた。

それを見て、ココは口元を僅かに微笑ませて軽く手を振って見せる。

開いた扉の隙間から彼女が部屋を出て行き、扉がぱたんと閉まるのを見ていたアヴェは。

静かになった部屋の中で顔を俯かせて、じっと床を見つめて止まっていた。



朝に、ココさんがお昼の二時にお部屋で待ってなさいって言っていた。

アヴェはベッドの端に座って、まだ誰もいない部屋の中をぼうっと見ていた。

テーブルの上の時計は二時を少し過ぎた所で。

このままぼうっとしていたら少しある眠気のまま、ベッドに横たわりたくなってくる。

頭がくらっとするような。

ベッドの、枕の方を見ているとそんな気がしてくるから。

ぼうっと見つめていて。

ふらりと頭が揺れたと思ったら、枕の中にぼすっと倒れこんでいた。

ベッドの上はやっぱり気持ちよくて。

ずっとこうしていたくて。

ずっと、こうして・・・―――。

静かな部屋の中に、扉からノックの音が響いて。

気がついて、目を開けていた。

扉の方からは、白髪の、眼鏡を掛けたお爺さんが入ってきていた。

あの人は何回も会ったことのあるお医者さんの人。

その人が扉から入ってきたのを見ていたら私に気が付いて微笑んで手を上げた。

「やあ、元気だったかい」

少し遠い彼へ、少し俯くアヴェは小さく口を開く。

「・・はい」

小さく頷く声が、彼に聞こえたかはわからないけれど。

彼は柔らかく微笑んだままテーブルに近寄り、鞄を置いた。

後から続いて部屋に入ってきたココが扉を閉めて。

ココは部屋の中のファーナゾン医師と、アヴェを見回し・・・。

アヴェがベッドの上で寝そべってるのを見て少しばかり眉を険しくしたのだが。

それを見ていたアヴェはまだ眠気のありそうな目を僅かに瞬かせていて。

彼がそれから、テーブルに備えられていた椅子を持ち上げベッドの横に持ってきて置いた。

そしてまたテーブルの方に戻るのを、アヴェはベッドの上から身体を起き上がらせ腕で顔を目を擦っていた。

手荷物の鞄を持って再び近付いてきた彼は椅子の傍の床にそれを置き。

そうして顔を上げて、正面の少女と向き直った。

ベッドの端に座った、まだ少し眠そうなアヴェは、顔を俯かせているのだけれど。

彼は少女の顔を角度を変えて見つめていた。

「うん、調子は良さそうですね」

そう微笑んで。

「もうちょっと詳しく見るよ、いいかい?」

「・・はい」

アヴェがそう返事をして、それから彼は彼女の頬を両手に取り眼の下の赤味を見たりなど。

彼がそう少女を調べてる間も、ココはテーブルの椅子に座って二人を見ていた。

彼はそれから一通りゆっくりと、いつもしているように少女の体調を調べていく。

アヴェは彼の言う事に素直に従い、滞りなくその調べも終わったようだった。

彼はそれから、聴診器を耳から外しながら口を開いた。



「そろそろ学校に行かないかい?」

突然のその言葉に、診察中も少し俯かせた顔のままだったアヴェは、そのまま首を横にふるふると振るだけで。

「嫌かい?僕はそろそろ君は学校に行った方がいいと思うんだけど」

アヴェはじっと動かない。

「沢山の事があるよ、学校には。色々な事があるから、アヴェエの為にいいと思うんだ」

それでもアヴェは首を横に振る。

「どうしても嫌なの?」

首を動かさないアヴェで。

「ふむ・・、どうしてだい?」

その問いかけにもアヴェは動かなかった。

けれど、彼は暫く待った。

それから、充分待った後で、アヴェはようやく、顔を俯かせたまま口を、誰にも見えない唇を僅かに動かして言った。

「・・・痛いから」

かろうじて聞こえたその呟き。

「痛い、のか・・・」

彼はそれを聞いて、納得したようにしていた。

少し離れたテーブルの席で二人を見ているココには何が痛いのかわからなかったが。

けれど彼が納得したように頷いている白髪の後頭部は見えていた。

「そうか、そんなに嫌なら、仕方が無いか・・」

彼の呟きにも似た声に、アヴェは俯いたままで。

ココは彼が諦めたと思った。

「・・絶対に嫌かい?」

けれど続いた彼の問いに、アヴェは少しの間動かないでいて。

それから、僅かに頷いていた。

「・・本当に?」

アヴェはまた頷く。

彼はその頷いた頭を暫く見ていた。

「・・でも、アヴェエはここの部屋は好き?」

アヴェは少し止まって、ちらりと彼を上目遣いに見上げた。

それから俯いた時、それは頷いたようにも見えた。

「ここにいると落ち着くよね。初めて此処に来たときよりもっとこの部屋が好きになってる」

アヴェは動かなかった。

「・・そう思わない?」

アヴェは、横に首を振りかけたようにも見えたけれど、途中で止めて、もっと俯いたような頷いたようにしていて。

「ここは君の部屋だから好きなのは当たり前だよ。」

そう、彼が俯いたままのアヴェに言って。

でも動かないアヴェに彼は続ける。

「学校も好きになってみない?」

アヴェは俯いたまま、隠れた前髪の奥で僅かに瞬きを繰り返していた。

「この部屋が良い所になったみたいに、学校も好きになってさ。」

アヴェは床に俯いたままちゃんと聞いてるようだった。

「アヴェエは学校に行くともっとよくなる」

そう言うと、また少しアヴェは頭を俯かせた。

「確かに、辛い時もあるかもしれないけど、もし辛くなったりしたら、すぐ先生に言いなさい。それか保健室に行けばいいよ。保健室に行けば、君に無理をさせることはないから。そこにも先生がいるから、君を守れる。そして君をまた、楽にしてあげられる」

じっと聞いてたアヴェが俯いたまま、少しの間の後にふるふると首を横に振る。

「・・?」

さっきから会話をしていた彼にもわからなかったようで、彼は眼鏡の奥の目を僅かに円くしてアヴェの頭を見ていた。

それを見ていたココにも勿論・・。

「・・よく、わからない、です」

静かに呟いたようなアヴェの言葉が聞こえた。

「・・・」

彼はそれを黙って聞いていて。

「・・ただ、苦しくなったのは、嫌です・・。」

そう告げて、また俯かせた頭に彼は口を開く。

「・・そうか。それなら、だから、嫌な気分になったり、気持ちが苦しくなったりしたら、すぐ先生に言って、それかすぐ保健室に行きなさい。そうすると君を守ってあげられるから。」

「・・・・・・」

彼の言葉に、アヴェはただずっと俯いていた。

けれど。

「・・ほんとう、ですか?」

アヴェの小さな声の、静かな質問に。

「うん」

彼は優しく頷く。

「・・はい」

それを聞いて。

アヴェは少し考えた後で、また頷いたようだった。

彼はそんなアヴェの黒髪を暫く見つめていたが。

「・・・学校に行くかい?」

暫くしてアヴェに問いかけて。

アヴェは何も答えず。

じっくりと間を置いて、また考えてるようにしていてから、アヴェは。

「・・・はい。」

僅かに頷きを見せた。


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