第44話 志摩伊織という個体

「物心ついた頃から、私は母に嫌われていました」


 訥々と語る伊織の声が薄暗い車内にひっそりと響く。

 思い出語りをするということは、施設に入る前の記憶がないというのは偽りなのだろう。

 いや、彼女は沈黙しただけで周りが勝手に解釈しただけかもしれない。

 ともすると夏虫の音よりも小さい伊織の声に、龍生は注意深く耳を澄ませた。


「感情の増幅が人より大きいタイプの人なので、父に対する気持ちが膨れ上がった末の不始末だったようです。いい歳をして一人分の食い扶持も稼げないような俳優でしたから、引退したのは何も妊娠したせいばかりではなかったでしょう。それでも母には気持ちの捌け口が必要だった。何かのせいにしなくては、自分が浮かばれなかったのだと思います」


 自分のことを不始末と言い捨てた伊織の口ぶりに、母への憎しみは感じられなかった。

 冷静な分析と、諦め。

 くじを引いたら外れました、とでもいうような淡々とした追憶が続く。


「しかし母にも母性はあったようで、子を愛おしみたいという欲求は、二つ下の妹たちに向けられました。歩み寄っただけで笑顔を向けられる。声を上げれば必ず応える。生きているだけで、可愛いわね、元気がいいわねと褒められる。私が同じことをしても、鬱陶しがられるだけでうまくいきませんでしたが」


 痛ましい、と思った空気が伝わったのだろうか。伊織がこちらに顔を向けて言添えた。


「そんな顔しないでください。不幸だと思ったことはありません。それが普通だったから。両親や妹たちと自分は別の種類の生き物なのだと思っていました。間違えて人間の家に生まれてしまったんだなって」


「志摩さん」


 思わず話を割ってしまって、龍生は天を仰いだ。

 こんな風に過去に至る傷口を押し開いてひっかきまわすような真似をしたかったわけじゃない。

 だけど始めたのは自分だ。今更、心が痛むからやめてくれというのはあまりに勝手な話だろう。

 上手い言葉が見つからず、龍生は頭を掻いてから掌を上に向けて伊織に差し出した。


「その、手を握っていてもいい?」


 はっきりと戸惑う表情で伊織が首を傾げる。

 セクハラかパワハラか、もっと別のハラスメントかと頭の中でリスクを計算しながら、それでも龍生は手を引っ込めなかった。


「君を一人ぼっちで楽しくもない過去に向き合わせるのは違う気がして」


 目の前の女性にかつての頼りなげな少女の姿が重なる。手を差し伸べなかった過去の自分の代わりに、ささやかでもできることを重ねたかった。

 龍生の意図を知った伊織が大きく目を見開いて、一瞬泣き出しそうな顔で微笑んだ。


「私は、御堂さんに手を繋いでもらえるような人間じゃありませんよ」


 そうして龍生が何か言う前に、急いで話を前に進めた。


「私だけ別の生き物なんだという思いに確信を得たのは小学校を卒業する頃でした。ある日を境に、体から木の芽が出るようになったんです」


「え」


 初めて耳にする事実に唖然とする。


「それは──嘘花に寄生されたということか」


「そうです。後に知ることとなりましたが、私だけ先に寄生されていたんです」


「そんなことが」


 ありえるのか、と言いかけて、龍生は口をつぐんだ。

 すでに八年という長寿を実現している個体なのだ。数年程度嵩が増したところであり得ない、などと考える方が愚かだった。


「嘘をつくと芽が出るという法則性には、すぐに気がつきました。それが寄生植物によるものだとは知らなかったので、ああやっぱり私だけ違う生き物なんだ、と思ったくらいであまり驚かなかったように思います。私は家族と同じ人間じゃない。だから私だけ別物のように扱われる。それが正しいんだって、ちょっと安心したくらいです」


 その頃になると、家族内差別はよりはっきりとしたものとなっていた。

 自分の分だけ用意されない食事。存在を無視される会話。

 殴られたり、蹴られたり、罵倒されるような虐待はなかったが、まるで世話することを忘れられた観葉植物のようだったと伊織は語る。


「家族の食べ残したものを食べて、自分の分だけ洗濯物を回して、廊下の隅で毛布にくるまって眠りました。それが普通ではないということには薄々気づきはじめていましたから、学校ではあまり人と喋らないようにしていました。家でも、外でも人との交流はほとんどない。結果的にはこのことが私を嘘から守ったのです」


 しかし、そうして長らえた命は別の試練を彼女に連れてきた。


「二年ほどが経って、最初に父が、次に妹たちと母が発芽しました。私と同じものが体から生えていく様を見た時は、気が狂いそうでしたよ。だって」


 龍生の掌を拒否した姿勢のまま、伊織が悲しそうに笑う。


「同じものなら、どうして私だけ家族の輪に入れなかったの」

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