第19話 人に紛れて


 件の長女、草凪千世は十四歳という年齢からは考えられないほど痩せっぽっちで小柄な女の子だった。

 初めて千世を目にした時、龍生は彼女を小学生くらいの子どもだと思ったくらいだ。

 痩せすぎた体。

 同世代より一回りも二回りも小さな体軀。

 肌は荒れ、切りっぱなしで手入れのされていないぼさぼさの髪。

 小綺麗で発育の良い妹達とは明らかに違う。おそらく、家庭内差別があったのだろうと察せられた。

 一方を否定し、一方を肯定する軽度の差別から冷遇、優遇、果ては折檻まで、家庭内差別の被害を受けやすいのは第一子である。

 千世の場合は特に酷く、ネグレクトに近い扱いを受けていると思われた。

 知世が冷遇されたのは、おそらく母親の経歴によるものだ。

 彼女は売れない舞台女優で妊娠を機に引退したというから、自分の力不足を子どものせいにしたのだろう。

 当然龍生は組んでいた先輩課員にそのことを進言したが、やはり臨時課員であった彼はことを荒立てることを嫌い、まともに取り合ってはもらえなかった。

 かくいう龍生も出向先の課で問題を起こすわけにもいかず、それ以上の働きかけを控えてしまった。

 ほとんど喋らない千世をいいことに、両親が家族円満を語るたび枝葉を伸ばすのも、妹が姉との仲を美しく表現するたびに若芽を増やすのも、誰もが見て見ぬふりをした。

 その結果が、千世を管理者に押し上げたのだ。


 空になったジョッキを指先で撫でて、思う。

 もっと彼女にしてやれることがあったはずなのに、と。

 結局龍生が彼女にしてやれたのは、絡まる髪の毛を梳いてやったことくらいだ。

 後ろめたい思いがそうさせたのか、単に気の毒だと思ったのか、ある日龍生は思いついて真新しい櫛を千世に買ってやった。

 公務員と市民の間での物のやりとりは基本的にご法度である。

 だからまあ厳密には咎められるべきことなのだが、そんなことを気に留める者は当時の特事課にはいなかった。

 櫛をもらった千世は戸惑うようにじっと手の中の物を見つめていた。

 使い方が分からないということもないだろうから、単純に意図を図りかねたのだろう。

 もしくは与えられることに慣れていないのか。

 微動だにしなくなった千世に苦笑して、龍生はこっちにおいで、と彼女を手招きした。


──貸して。梳かしてあげる。


 ぼさぼさの長い前髪の間から龍生を値踏みしていた千世が、ややって大人しく龍生に近づく。

 素直に従ったことにも驚いたが、躊躇いなく背中を向けて龍生の足の間に腰を下ろしたことにも驚いた。

 大人は誰も彼女の味方ではなかったのに。千世は龍生に身を任せたのだ。

 いじらしくて、可哀想で、龍生はこみ上げるものを必死に嚥下しながら、千世の髪に櫛を通した。

 たったそれだけ。

 それだけの交流だ。

 だけど龍生にとっては心を震わせる出来事で、出向期間を経て元の部署に戻っても、千世のことだけはいつまでも気にかかっていた。

 だからこそ、耳に入った続報には誰より心を痛めたのだ。

 磯波の声が葛野に告げる。


「管理者と認定されたのは家族に縁者が多かったのも決め手になったと思います。しかし実際には嘘花を気味悪がって、誰も彼女を助けませんでした。長女はヤングケアラーとして半年ほど嘘花とともに過ごしましたが、ご家族が足留めされた頃、ある日家に火をつけて自身ごと嘘花を燃やしてしまいました」


 悲劇的な結末に、葛野が息を呑み、伊織がグラスを包む手に力を込めた。

 千世にとって、人生とは何だったのだろう。

 当時感じた衝撃と理不尽さを思い返していると、店員がようやくビールのおかわりを持ってきた。


「長女に関しては生きてるって噂もあるけどな」


 しんみりとした席に無頓着な言葉を放り投げたのは小宮山だ。口いっぱいに食べ物を頬張りながら篭る声で続けた。


「家が燃えるまでの間、長女には寄生による大きな変化が見られなかったそうだ。発芽のタイミングや進行の速度には個人差があるが、半年ともなるとかなり長い期間だ。これが本当なら異例の遅さと言えるだろう。更に火災現場の遺体の数が合わなかったからな。その辺の情報に尾鰭がついて、嘘花でありながら発芽せず生き延びた説がまことしやかに囁かれるようになったんだ」


「本当ですか」


 目を剥いた葛野に「馬鹿」と返して、小宮山がさっさと真相を開示する。


「現実には寄生された嘘花が発芽しないなんてことはありえん。大方記録上のミスか観察の怠慢だろ。御堂が言った通り、当時の特事課は寄せ集めの素人集団だったからな。各自の仕事に精度なんか求められん。遺体の数についても別に不自然なことはないぞ。先に発芽していた家族は体の構造が植物のそれに近づきつつあったから、骨や歯が人間と同じようには残らなかったんだろう。炭を燃やすのと同じだ。灰となって吹き飛ばされたら跡形もなくなる。燃えた嘘花を人間と同じように数えることはできないんだよ」


 なんだ、と葛野が落胆にも見える呟きをこぼした。

 真実のほどは小宮山が話した通りだろう。

 それでも未だに噂が途絶えないのは、嘘花やそれを管理する者達にとってそれが唯一の希望だからだ。

 もしかしたら発芽を抑えられるかもしれない。普通の人のように生きられるかもしれない。そんなありもしない奇跡を信じたくて妄言に希望を抱く。

 恐怖心を刺激することで語り継がれる嘘花感染説とは別ベクトルの流言であった。

 口の中のものを飲み込んでから、小宮山が龍生を眺める。


「その嘘花が本当に生き延びていたら、御堂の奥さんが助かる術もあったかもしれないのにな」


 ぴくりと隣の席の伊織が肩を震わせた。

 自分の話では顔色一つ変えなかったくせに、人の話では動揺する。

 分かりにくい新人の分かりにくい心の機微に気づける程度には、相手を理解してきたようだ。


「そーですねぇ」


 意図的に軽い声を出して、龍生はビールに口をつけた。


「でも俺としては、もしあの子が本当に生きているなら、うまく人に紛れて誰にも見つからず、幸せに暮らしていてほしいと思いますよ」


 ぽかんと口を開けた小宮山が「本気か」と半眼になる。

 はは、と口先だけで笑って、龍生は遠い日に出会った少女のことを思い出した。

 絡まる髪が引っかかっても文句を言わず、櫛が通るたびに気持ちよさそうに目を閉じた。

 あの子が心穏やかに暮らしているなら、どんなにいいだろう。

 しかしそれは所詮自分本位の、都合の良い願いであった。

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