第14話 日野ノート

「日野ノートのことですね」


 苦笑を禁じ得ず、龍生は誤魔化すように首を振った。

 ネットが普及する時代において一番の弊害と言えるのがこれだ。

 正しい情報とともにデマや誤報がまことしやかに多くの人の耳目に触れる。

 人はもともと、自分の信じたいものを裏付ける情報ばかりに目を向ける傾向があるのだ。

 心理学用語で「確証バイアス」と呼ばれるこの行為は、ネット検索が容易になればなるほど加速度的に強化されるようになっていた。


「日野ノートと呼ばれる論文を書いた日野(ひの)晃(あきら)医師は精神を病んでいました。長年嘘花を研究していましたが、ある日自身で命を絶った。論文の信憑性は否定されていますよ」


 だいたい、と龍生は肩を竦めて見せる。


「嘘花が感染するものなら、私達特事課職員は真っ先に嘘花になっています」


 感染を否定する証拠を目の前に提示されて、母親の視線が床に落ちた。


「別に……感染だけを危惧してこうしているわけじゃないわ」


 どういうことかと問おうとした、その瞬間。どん、と内側からドアを叩く音がした。


「私に用があって来たんじゃないの」


 柔らかさで包むことを知らない、若く攻撃的な声。

 向井紗良(むかいさら)。

 都立高校に通う十七歳の少女のものである。


「こんにちは。特事課から参りました、御堂と志摩です。中に入ってもよろしいですか」


「そのために来たんでしょ」


 さっさとして、と投げつける紗良の声が遠ざかる。部屋の奥へ退いたようだ。

 サムターンを回してドアを開ける。忌避するように母親が一歩下がったのは、もはや反射だろう。

 部屋に入ると、そこは異次元だった。

 お行儀の良い印象の玄関周りとは異なり、ファブリックに黒やビビッドピンクを取り入れた主張の激しい空間。

 壁にはお気に入りのポストカードを所狭しと貼り、ベッドや椅子、部屋の隅にはお気に入りと思われるカモノハシに似た水色のキャラクター人形が点在している。

 個性が過ぎるその部屋にいたのは、逆に無個性に没しようとするような少女であった。

 眉の高さで切りそろえられた前髪。胸まで伸ばされたストレートの黒髪。整えられた眉も、グレーのスウェットも、今時の女子高生のステレオタイプだ。

 同じ制服を着せたら一見して見分けがつかなくなりそうな……作られた容姿。

ベッドに座る紗良の試すような視線に晒されながら、龍生は彼女の足元に散らばる若芽に目をやった。


「若芽を無理に引き抜くと体が傷つきますよ」


 引き抜かれたばかりと思われる芽は細く、白い根には微量ながら血痕が付着している。

 龍生は背後を振り返ると母親に声をかけた。


「すみませんが、何か手当てできるものをお借りできませんか」


 しかし母親は怯えたように娘を眺めるばかりでその場に固まったまま動かない。彼女を動かすことを諦めて、龍生は伊織に指示を出した。


「志摩さん。悪いけどお母さんと一緒に救急箱を探して来て」


 ついでに母親を置いてこい、と無言のうちに命じる。意図を汲み取った様子で、伊織が母親に声をかけつつ部屋のドアを閉めた。


「聞き取りの前にまず、発芽している場所を確認させてください」


 言いながらその場に座る。妙齢の少女にとって部屋の中によく知らない男がいるというのは気持ちの良いものではないだろう。

 パーソナルスペースは侵しませんよ、という龍生なりの暗黙の意思表示であった。

 龍生をじっと見つめていた紗良が、いきなりスウェットに手をかける。躊躇なく上下を脱ぎ捨てると、龍生の前に下着姿を晒して言った。


「私が今悲鳴をあげたら、おじさん失職しちゃうね」


 試されている。

 咄嗟に理解して、龍生は紗良の瞳を真っ直ぐに見据えた。


「本当だ。困りましたね」


 笑って見せたのは余裕の演出だ。

 あなたはちゃんと大人ですか。子どもに振り回されない強かさを持っていますか。転じて、あなたを信用しても良いですか。

 思春期の子どもが全身で問いかける覚悟に、龍生は応えた。


「どうしたら服を着てもらえますか」


 首筋から若芽が。右腕に引き抜いた真新しい傷跡が。左脇には少し時間の経った傷跡があるのを視界の端で確認しながら、紗良に尋ねる。

 落ち着き払った龍生を見下ろして、紗良が小首を傾げた。


「じゃあその喋り方やめて」


「喋り方」


「お役所っぽい喋り方。そういうの、嫌い」


 なるほど。自分に踏み込むつもりならお前も曝け出せということか。

 了解して、龍生はまず足を崩した。


「いいけど。猫被ってないと態度わりーですよ、俺は」


 公務員の顔を捨てて見せると、紗良がびっくりしたような顔をしてからちょっと笑った。


「いきなり駄目な大人っぽい」


「戻しましょうか」


「いい、いい。そのままで」


 紗良がスウェットを頭からかぶった。どうやらお眼鏡に叶ったらしい。

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