第7話 御堂龍生という男


 いわゆる良家に産まれた龍生は、苦労らしい苦労をしたことのない青年であった。

 両親に正しく愛され、金銭を理由に何かを諦めさせられたこともなく、学業が危うくなれば家庭教師がつき、いつだって清潔な服を着て、お腹一杯ご飯を食べることができた。

 人から優しくされるのは当然で、人に優しくするのも当然のこと。あの事件が起こるまでは本気で性善説を信じていたし、自分の生きる世界は安寧秩序だと思っていた。

 育ちがいいだけの無能。

 いつだったか真木がそう揶揄したことがあるが、それはきっと当たっている。

 対して明日香は魅力に溢れた女性であった。

 同じ大学で、同じ歳。付き合いでたまに顔を出していたイベントサークルだかボランティアサークルだかに在籍していて、初めて見た時はずいぶん綺麗な子がいるものだな、と思ったものだ。

 でも、ただそれだけだ。

 異なるグループに属していたこともあり、個人的な付き合いは特になかった。

 互いに互いをきちんと視界に入れたのは、共通の知人の結婚式だ。

 たまたま席が近くて言葉を交わした明日香は、大学の頃よりずっと大人びて見えた。

 明るい色に染め上げたショートボブの髪。活動的に見えるスレンダーなスタイル。全体の印象はクールなのにどこか愛らしさを残したメイク。全てが魅惑的な色香に満ちていた。

 なんとなく公務員になった龍生とは違い、着飾ることが好きで、化粧することが好きで、就職浪人を経ても志望を変えずに目指していた化粧品会社に入社したという明日香の意思の強さにも打たれたと思う。

 加えて思い切りが良く刺激的なことを好む性格は、大人しいタイプとばかり付き合ってきた龍生の目には新鮮に映った。

 式が終わる頃にはすっかり心を奪われていて、龍生はたぶん、生まれて初めて女性を食事に誘った。

 そこで何を話したのか、今となってはよく思い出せない。

 仕事のことや、家族のことを喋った気がするが、これといって話が弾んだ記憶もなかった。

 ただ、何をどう気に入ったのか、この食事を期に明日香は何くれと龍生を誘い出すようになったのだ。

 振り回されるように付き合ううちに、二人の距離はどんどん縮んでいった。

 多少気分屋なところも、我がままなところも、それが当然通ると信じている自尊心の高さも、自分だけに見せる甘えと思えば可愛いものだ。

 やがて交際するようになり、何年か経って求婚にも成功した。

 あの頃が一番、幸せだったように思う。


「あの日はよく晴れたいい夜で、住宅の中でもちょいと浮いた新築の邸宅に忍び込んだわけだが」


 唄うような真木の声があの夜を語り始めた。


「リビングに明かりがついていたことは気にも留めなかった。防犯用に一部の明かりをつけておく家はあるし、二度押したチャイムにも反応はなかった。何より一階には人気がなかった。だから俺は安心して家探しを始めたんだ」


 人の気配を感じられなかったのは一重に家の大きさのせいだろう。

 一人息子である龍生の結婚を喜んだ両親は新居を構えるにあたって多額の資金援助を申し出た。

 住まいについては得にこだわりのなかった龍生だが、一軒家がいい、どうせならあれもこれもと細部に凝った妻、明日香の希望によってそこそこ立派な戸建てが建った。

 広めのテラスを有したL字型の家屋も、緩やかにカーブした螺旋階段も、キングサイズのベッドを置いた寝室も、全てが身の丈以上のものであったと今なら分かる。

 真木がガラスを切って侵入した場所と明日香のいた寝室は構造上一番離れた場所に位置していた。そのため、互いに相手の存在に気づかぬままことが進んだのだ。


「現金も、通帳も、身分証も手に入れて気が抜けていたんだろうな。キッチンに取り置かれていた手料理を見つけて口に入れたのはほとんど無意識だ。リビングにあざとく飾られた結婚式の写真が鼻についたせいもあるだろう。生まれた家がたまたま金持ちだっただけで、でかい邸宅に住めて美人の嫁まで来る。そう思ったら、写真に写る何も考えてなさそうな新郎が妬ましくてしかたなかった」


口端をひん曲げて真木が暗く笑う。


「金目のものとして探すならあとは貴金属だ。事前に手に入れた情報によると寝室にはウォークインクローゼットがあった。そこに目星をつけて二階へ上がったんだ」


 持って回る言い方は龍生を焦らしているからだろう。

 さあ、来るぞ、来るぞ、と緊張感を煽って龍生の神経を逆撫でしているのだ。


「寝室に近づいて初めて、俺はこの家に俺以外の人間がいることに気がついた。部屋に入らなくても何をしているのかはすぐに分かったぞ。すごい声だったからなァ」


 絡みつくような視線で真木が龍生を眺める。


「正直、あそこまでの嬌声でなければ早々に退散していただろう。むしろ安全に逃げられるタイミングだ。しかしどうにも気になってなァ。写真に写っていたあの乳臭い新郎が、一体どんな手練手管で女を喜ばせているのかと」


「もういいだろう」


 流石に聞いていられなくて龍生は口を挟んだ。

 他人の口から妻の痴態を聞くなんて、ましてや不貞の詳細を聞かされるなんて耐え難い。

 それに、この部屋には自分達の他に刑務官もいる。真木にいいように苛まれている姿を晒すのは屈辱だった。

 やれやれ、とわざとらしく真木がため息をつく。


「相変わらずメンタルが赤ちゃんだな、お前は。まあいい。とにかく好奇心が勝って俺は寝室の扉を開けた」


「おい」


「うるさいな。いいから黙って聞いていろ。──中では思いがけず激しいプレイが繰り広げられていて、俺は夢中になってそれに見入った。あの無害そうな写真の男が意外なことだと感心さえした。だからこそ、ふとした瞬間、間接照明に照らし出された男の顔を見た時は驚いたな。だってそうだろう。組み敷かれているのは写真の妻に間違いないのに、組み敷いているのは全く別の男だったんだから」


 耳を塞ぐ代わりに両眼を閉じる。いたぶるような声で真木が龍生を励ました。

「おいおい、しっかりしてくれよ。醍醐味はここからだぞ」


 嬉々として真木が先を続ける。


「ことが終わっても二人はなかなか離れなかった。もしかしたらその後、二戦目、三戦目を繰り返すつもりだったのかもしれん。ベッドの中で絡みあいながらしばらくお喋りを楽しんでいた。すると男が言ったんだ。『旦那もいい加減鈍いよな』って。『付き合っても、結婚しても、俺の存在に気がつかないなんて。仮にも自分が寝ているベッドで妻が別の男に抱かれてたら、違和感くらい感じるものだろう』ってな」


「やめろ」


「女は言ったぞ。『あの人は絶対に気づかない。この世は善意と優しさと、ほんの少しの不幸でできていると信じているような人。その不幸がまさか自分の身に起きているなんて想像もできないのよ』ってな。そして男に自慢してみせた。『あの人は私の安全なキャッシュディスペンサー。手堅い仕事、足りなければいくらでも補填しようとする親、疑うことを知らない幼さ。その証がこの邸宅よ。だから結婚したの。あなたと一生遊んで暮らせるように』」


 ばん、と大きな音を立てて、互いを隔てるアクリル板に平手を打ち付ける。

 驚いたように目を丸くしてから、真木が幹を軋ませて爆笑した。


「悔しいか! 悔しいだろう! 馬鹿みたいに信じた相手に裏切られたんだからなァ! 自分にそれほどの価値があるとでも思ったか! ざまあみろ!」


 口元から樹液を飛び散らせながら真木が大声で嘲笑する。

 体の中で渦巻く怒りは真木に対してか。妻に対してか。

 吐き気すら感じる嫌悪感が、龍生の時間をあの夜に引きずり戻した。

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