☆24

 キープに踏み込んだところで、左右から一名ずつ、ダイヤの3とクラブの6が躍りかかった。

 アリスは落ち着いて、ソバットを放つ。ダイヤの3は弾け飛んだ。ウサギも肩から体当たりする。ぱたんと倒れるクラブの6。

「ウサギさん、こっち」

 エントランスホール右側の壁。屋上へ通じる唯一の入口が開いている。

 天に向けて伸びる円筒形の縦穴。その中を螺旋階段が屋上まで続いていく。

 採光窓は少なく、内部は薄暗かった。

 急階段を廻りながら駆け登り、二人はすぐに息切れしてしまう。とくにウサギは痩身かつ運動不足で、あっさりと体力が限界に達した。

 弱音を吐いて足を止めるウサギ。アリスに励まされ、何とか逃走を続ける。

 先の見えない螺旋階段。同じところをぐるぐる廻っているだけに思えてくる。洞穴に閉じ込められたような息苦しさ。足がひどく重い。

 ――行き止まり。

 唐突に階段は途絶えた。行く手を、重厚な木製の扉が塞いでいる。

 ほんの小さな穴。覗き窓。垣間見えるのは、外だ。屋上に違いない。

 アリスは扉に手をかけたが、びくともしない。ウサギも加勢する。扉は壁のように動かない。押しても引いても、体をぶつけても、出口は開かなかった。

 疲労感に屈し、二人はへたり込んだ。最後の最後に邪魔が入った。生き延びる術を奪われた。

 袋の鼠。登ってきた螺旋階段を見下ろす。先が見通せないだけに、輪をかけて不気味だった。

「ごめんなさい……」アリスは両手で顔を覆う。「わたしが脱走なんて言い出さなかったら、こんなことにならなかったのに」

「アリスは悪くない。ぼくが大女王に盾突いたのが、そもそも誤りだったんだ」

 アリスは顔を上げ、

「ウサギさん……わたしたち、殺されちゃうのかな」

「ぼくは構わないさ。けど、アリス、君は死んじゃダメだ」

「ウサギさん……」

「逃げるんだ。君だけは」

 アリスはウサギの首に飛びついて、泣きじゃくる。

「いやだ……。ウサギさんも死なないで」

「アリス……」

 ウサギはアリスの肩を抱いた。

「わかった。二人で逃げよう。逃げ切ろう」

 アリスはこくりとうなずき、涙を拭った。

「ウサギさん、わたしと一緒にいてください」

「一緒にいるよ、アリス。約束する」

 螺旋階段の底のほうから、幾人かの声。薄闇を伝わって昇ってくる。追手が迫っている。逃げ場を失って震える少年と少女を捕えようと。

 恐怖に駆られ、アリスは甲高い悲鳴を上げた。

 ガタガタ。扉越しに、物音。

 振り向くと、光が差し込んでいた。重厚な木の扉が、こちら側へ開かれる。薄闇へ首を突き出した一名のトランプ兵。

「誰かいるのか?」

 ウサギがトランプ兵の右腕に飛びつく。アリスは左腕をつかんだ。二人で力任せにトランプ兵を引っ張り、階段に突き落とす。

 おどろいた顔で螺旋階段を転がり落ちていくトランプ兵。素早く二人は外に出て、扉を閉め、閂を差した。

 屋上を見回すが、他に見張りの姿はなかった。

「あった! 気球だ」アリスは歓喜の声を上げて、駆け寄る。

 巨大風船はぺしゃんこで横たわっているが、傍らにエンジン付きの送風機も備えてあった。送風機を起動して、しぼんでいる風船に空気を勢いよく送り込む。

 屋上と階段を隔てる扉の向こう側が、騒がしい。剣か何かを激しく打ちつける音。木製の扉はぶ厚いが、いつまで持ちこたえられるのか。

 巨大風船はすぐには膨らまない。早く、と祈りながら、何度も扉を振り返る。ぎいぎいと軋む扉。閂が今にも壊れそうだ。

 次第に風船は丸みをおびてきた。そのとき。扉の向こうで、ゾッとするような機械の唸る音。一番恐れていた敵が現れたらしい。

 バーナーを点火する。風船内部に熱気が満ちていく。

 扉を突き破って、チェーンソーの切っ先が飛び出した。高速回転する刃は曲線を描きながら、扉を切り裂いていく。

 風船が起き上がる。風船に描かれているのは、ハート、ダイヤ、スペード、クラブ。キープの屋上に掲揚されたフシギノクニの旗と同様に。

 扉が円形に切り取られ、穴から腕が飛び出した。手が閂を探り当て、外しにかかる。

 アリスとウサギはバスケットに乗り込んだ。同時に扉が開き、トランプ守備隊が続々となだれ込んできた。槍を突き出し、鬨の声を上げ、まだ飛び立たぬ気球に迫る。

「くそ」

 敵軍を迎え撃とうと、ウサギがバスケットから飛び出た。

「ウサギさん!」

「アリス、君はここでバーナーを焚き続けて」

 ウサギは送風機を持ち上げる。向かってくる敵軍へ、マシンガンを掃射するように、最大出力の突風を浴びせ掛けた。

 強風にあおられ、トランプ兵がバタバタ倒れていく。覆いが取り払われ、姿を現した巨漢。チェーンソーをぶら下げたメカジキ頭のプロレスラー。ゆらりとウサギに近づく。

 ウサギは送風機を投げ捨て、トランプ兵の落とした槍を拾い上げた。雄叫び。サンソンへ、がむしゃらに突進する。

 槍の尖端は心臓へ。寸前、チェーンソー。真っ二つ。断たれた柄。

 怯まず、柄の切口を目玉に突き刺した。メカジキの丸い目玉に。

 断末魔の悲鳴。だが倒れない。むしろサンソンに火をつけた。目には目を。アイスピックめいた吻の鋭い切っ先が、ウサギの右眼を貫く。

 ウサギは右手で顔を押さえ、サンソンに背を向けた。

 すっと。浮き上がる気球。

 アリスは籠から身を乗り出して、片手を伸ばす。

 浮上していくアリスを、ウサギは左眼だけで見送る。悲しみの涙があふれ出す左眼だけで。

 サンソンの三角筋が隆起した。

 高速回転の刃が飛ぶ。切断。右手。頭部。まとめて。

 打ち上げられた頭と手は壁を飛び越え、宮殿前広場の方向に消え去った。

 首と右手を失った身体が、ばったり倒れる。切断面から血液がだくだくと流れ出し、一面真っ赤となった。

 サンソンはけたたましい叫びを発し、チェーンソーを高く突き上げる。

 上から一部始終を目にしたアリスは気を失い、バスケットの底に崩れ落ちた。

 血にまみれた現場から遠ざけるように、安全な大空へと、気球はアリスを運んでゆく。

 白い空。穏やかで優しい聖母のような大空が、傷ついた少女を抱きしめる。

 もう怖くはないから、怯える必要はないから、安心してお眠りなさい、と。

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