人の感情を文章として表現できる自分に酔っていて、この世の全てを理解したような錯覚にさえ陥っていた

 なんの変哲もない一日は緩やかな時間の流れと共に過ぎ行き、放課後を迎えた。殺風景な教室が、歓談に勤しむ女子高生の華々しい話し声で彩られていく。最初は鬱陶しくも思っていた甲高い音が、いつのまにか日常に溶け込んで心地の良いものにすり替わっていた。


「っは〜。つかれたぁ」


 クロが大きく伸びをしてそのまま後ろに倒れ込むように腕を被せてきた。


「いてえ」


 頭に当たったので退ける。一日の授業から解放されて教室の空気が弛緩し、生徒がそれぞれ思い思いに悦楽を露わにしていた。


「これから部活か?」

「いや、今日はオフ」

「じゃあなんでラケット背負ってるんだ?」

「自主練だよ、自主練」

「それはまた熱心な」

「そりゃそうだろ。もうすぐインターハイだぞ」


 クロはバドミントン部に所属しており、夏のインターハイを控えているからか気合が入っている。最後の夏だし熱が入るのも頷ける。俺もたまに練習の相手をしているが、贔屓目なしでクロは上手い。


「そうか。もう夏だもんな。久しぶりに自主練、手伝うか?」

「いいのか?」

「最近身体動かす機会作ってなかったからな。最後の夏だろ。これくらい手伝う」

「助かるわ! じゃあ俺準備してくるからゆっくり来てな」


 そう言ってクロは全速力で体育館へ向かう。途中で『廊下を走るな』という声が響いてきて、教室に残っていた数名の笑いを誘った。








 体育館のメインスペースはバスケ部やバレー部が使用しているので、二階の広いスペースを勝手に占拠してラリーをする。二階の通路はアップのランニングで多くの部活がひっきりなしに通過していくのを横目に、俺は落ち着かない感覚を覚えつつ羽根を返していた。


「なあ」

「どうした」

「ずっと聞きたかったんだが、もう小説は書いてないのか?」

「書いてない」


 俺は中学一年の頃からずっと小説を執筆してきた。そのことを知っているのは幼馴染であるクロと、従妹の海琴くらいだ。唐突にぶっ込まれたその話題は、俺にとって脛をバットで殴られたようなものだった。小説は書かなくなったのではなく、書けなくなったからだ。


「あんだけ書けるんだから書いて欲しいけどな、俺は。原因が分かってるから軽口は叩けないけどさ。やっぱりもったいないって思うよ」

「書かないっていうか、書きたくない」

「お前が嫌なら無理にやる必要はないけどさ。なんで書きたくないんだ?」

「馬鹿にされるのが嫌なんだよ」

「馬鹿にするやつなんて今の時代ごまんといるだろ。そういうやつはどんな作品にもケチつけるもんだ。というかお前がアンチとか気にするようなタマには見えないけどな」

「そりゃその通りさ」


 SNSでエゴサーチしたことはないのでわからないが、情報が過分に奔流するこの時代、そんなことを怖がっていては生きていけないのは道理だろう。実際はそんなことを心配しているわけではなく、書けない理由は他のところにある。


 無言が続く。ラリーは最初からだいぶ強くなり、ついていくのがやっとになりつつあった。やがて押され気味になった俺は、ミスショットを発端にバランスを崩し、クロによって正確にコントロールされたショットが虚しく背後に散った。


「……人の気持ちが分からなくなった」

「前は分かってたのにか?」

「おかしな話だよな。前は自分の中で人の気持ちを想像、整理して言葉に出来てたんだ。でもそれって結局、俺の空想、妄想でしかなかったんだよ」


 自分が勝手に形作っている「他人の感情」が世間一般で正しいと言えるのか。正しい、というのは少し語弊があるかもしれない。自分の中で生み出した描写や表現ひとつひとつがうまく咀嚼できず、勝手に脳内で疑問符が浮かぶようになった。専ら恋愛関連の感情について。そもそも誰かと付き合った経験がないのだから、分からないのは当然だ。

 

 元々よくできていたわけでもないが、人の気持ちを想像して修辞的に表現できる自分に酔っていて、この世の全てを理解したような錯覚にさえ陥っていたのだろう。


「そんなもんだろ。誰も目の前の人間が本当に考えていることなんて分からんって。メンタリストになれば分かるかもな」

「あれは心理学を基に人に暗示をかけて誘導してるから、その人の考えていることを絞り込めているだけで、結局人の心はその人にしか分からないんだよ」

「ひねくれてんなぁ。でもその原因に心当たりはあるのか?」

「……」

「ま、無理には聞かないけどよ」


 これ以上突っ込まない方がいいと思ったのか、再び羽根を緩く打ち込んできた。


 心当たりというか、原因は分かっている。間違いなく、高校一年の時の父の死が原因だ。父は身体は大きくなかったが酒豪だった。タバコも吸うし、ラーメンや粉もの、焼鳥といった味付けの濃い物を特に好んで食していた。その不摂生が祟ったのか、四十代で末期ガンを宣告され、そのまま程なくして呆気なく逝ってしまったのだ。


 それはまだ良い。いや、良くはないが、父の死によって母が精神を冒されてしまったのが、最も悪かった。元々今どき見られないほど非常に仲の良い夫婦で、ある程度歳を食ってからも変わらず仲睦まじい様子を見せつけられたほど。俺が高校に入ったばかりの頃だったので、その光景は息子目線で見ていて決して楽しいものではなかった。


 それほど仲のいい夫婦だったゆえに、母は病んでしまったのだ。あるいは一家の稼ぎ頭を失って、将来の暮らしに絶望したとか。まあ生命保険による当面の資金を残してくれてはいたわけだが、それでも一生を不自由なく暮らすには到底足らない額である。だから俺は高校を出たら真っ先に働くつもりでいる。


 母は病んでしまった結果自死を図り、失敗したものの昏睡状態になった。今は母方の伯父が経営する病院に入院している。その伯父の娘が海琴である。


 当時の俺は今と比べたら比較ならないほどに感情豊かな人間だった。それゆえに、父の死と母の自殺未遂は心を抉った。母はなぜ俺を選ばず父を選んであの世へ向かおうとしたのか。俺が出した答えは「愛の強さゆえ」である。自分が愛されていなかったとは思わない。人並み以上に家族としての愛情を受けて育ってきた自覚はある。


 だからこそ、母の行動は俺という存在の根幹を揺るがすほど、信じがたいものだった。屋烏の愛は何者にも変え難い唯一無二の代物だからこそ、そこには底知れぬ危うさや、蛸壺化した視野による周囲を顧みない突発的衝動が、闇の側面として常に纏わりついてくる。

 

「サンキュー、これくらいにしとくわ」


 一時間半くらいでクロは切り上げると宣言した。いつもは陽が暮れるくらいまでやっているのに、今日は随分と軽めだ。


「もういいのか?」

「あんまりやりすぎて怪我したら元も子もないしな。というか依緒莉はもう限界っぽいし」

「馬鹿にすんな。これでも一応毎日ランニングしてる」

「にしては息切れが早いな?」

「お前が本気でやりすぎなんだよ。現役退いてから何年経ってると思ってんだ」

「なんだその退役軍人みたいな言い様は。そんなんじゃ夏は乗り切れんぞ」

「俺はエアコンの効いた室内で九割の時間を過ごすから良いんだよ」

「引きこもりじゃんか。一割ってバイト先との行き来で消費しそう」

「そのつもりだが?」

「もっと青春しろ、青春。高校生の最後の夏だぞ」

「青春、ねえ……」


 そもそも青春とは何なのだろうか。恋人作ってデートしたり、友人同士で旅行やBBQをしたり、部活に打ち込んだり。そのどれもが青春と呼べる物だろう。ならばバイトに勤しむのも青春と言えるのでは無いだろうか。そんなことを言えば『労働はこれから先嫌でもやることになるんだから特別な体験価値なんて微塵もないだろ』と言われそう。そうか、強いて言うならば青春とは『特別』か。なんとも抽象的な表現だ。


 俺はいそいそと片付けを進めるクロを傍目に、窓から容赦なく射し込む夕陽の影となっている窪みに身を委ねていると、ポケットのスマホが通知のバイブ音を響かせた。

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