031 今は聞こえないわ

『目を覚ますと、昨日と同じ天井だった。

 天井には、小さな穴がたくさん開いていた。

 天井には、蛍光灯があった。

 窓の外は明るくて、蛍光灯は点いていなかった。

 今は、朝だろうと私は思った。

 なぜそう思ったのかは分からなかった。

 私は左目だけを閉じた。

 次に、右目だけを閉じた。

 蛍光灯の位置が、移動した。

 私はしばらくそれを繰り返した。

 私は起き上がり、スリッパをはいて、部屋の隅の囲いの中にあるトイレで用を足した。

 それから、洗面台で歯を磨いて、顔を洗った。

 何も覚えていないのに、私はトイレを使って、歯を磨いて、顔を洗うことができる。

 不思議だった。

 窓は昨日と同じ薄いカーテンが引かれている。

 私はベッドに腰かけて、窓を眺めていた。

 部屋がノックされた。

「どうぞ」

 と、私は言った。

 BBがトレーを持って入ってきた。トレーには朝食がのっていた。BBはトレーを窓際のテーブルに置いた。

「食欲はある?」

 と、BBが言った。

 まるでそれが合図だったかのように、私のお腹がぐーと鳴った。

「いい傾向ね」

 と言って、BBが笑った。

 私も、笑いたい気持ちになった。

 でも、笑うことがうまくできなかった。顔が引きつったような、変な感じになってしまった。

「大丈夫よ。少しずつ、慣れていくから」

 と、BBが言った。

 私にはどういう意味なのかよく分からなかった。でも、慣れていくということは、笑うこともうまくできるようになるということなのだろう。

「それと、これ」

 とBBは言って、私に本を差し出した。

 私は受け取った。

 表紙には聖書と書かれていた。

 表紙の文字はすり減っていてほとんど消えかかっていた。

 私は手の中のその本をじっと見た。

 私はそれを見たことがある気がした。

 私がこうやってこの本を持っているところを、見たことがある気がした。

 顔を上げると、BBが微笑みながら、私を見ていた。

「ありがとう」

 と、私は言った。

「どうしたしまして」

 と言いながら、BBはうなずいた。

「この近くに、教会があるの?」

 と、私は言った。

 BBは少し驚いたような顔をした。

「どうかしら。私も最近ここに来たばかりで、詳しくないの。どうしてそう思ったの?」

 と、BBは言った。

「昨日、鐘の音が聞こえた気がしたから」

 と、私は言った。

「調べておくわ。今も、鐘の音が聞こえる?」

 と、BBは言った。

 私は耳をすませた。

 何も聞こえなかった。

「今は聞こえないわ」

 と、私は言った。

「そう。じゃあ、また後で食器を取りに来るわ。ごゆっくり」

 と言って、BBは部屋を出て行った。

 私は聖書を開いた。

 そこに書かれた文章を読んでみた。

 私には何も思い出せなかった。

 以前、この本を読んだのかどうかも分からなかった。

 この本を見たことがある気がしたのは、気のせいかもしれなかった。

 私は適当にページを開いた。

 私はそこに書かれている文章を、口に出して読んでみた。

――するとそこへ、ある律法学者が現れ、イエスを試みようとして言った、「先生、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」。

 彼に言われた、「律法にはなんと書いてあるか。あなたはどう読むか」。

 彼は答えて言った、「『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。また、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』とあります」。

 彼に言われた、「あなたの答は正しい。そのとおり行いなさい。そうすれば、いのちが得られる」。

 すると彼は自分の立場を弁護しようと思って、イエスに言った、「では、わたしの隣り人とはだれのことですか」。

 イエスが答えて言われた、「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負わせ、半殺しにしたまま、逃げ去った。するとたまたま、ひとりの祭司がその道を下ってきたが、この人を見ると、向こう側を通って行った。同様に、レビ人もこの場所にさしかかってきたが、彼を見ると向こう側を通って行った。ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。翌日、デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った。この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」。

 彼が言った、「その人に慈悲深い行いをした人です」。そこでイエスは言われた、「あなたも行って同じようにしなさい」。――(ルカの福音書 第10章第25~37節 口語訳聖書)

 私はそこまで読むと、本を閉じて、ベッドの上に置いた。

 私はテーブルに着き、朝食を食べた。

 それからしばらくして、BBがやってきた。

 BBは、私の名前を告げた。

 その日私は、自分の名前を知った。

 その日私は、私の名前がクシーだと、教えられた。』

 そこまで読むと、俺は時刻を確認した。出社の時間が迫っていた。俺は支度を整え、家を出た。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る