恋慕!

「それねえ、絶対風邪だよ。ぜーったい風邪だよー」

 旅行から帰ってきたオーナーは、旅先のあちこちで買い集めてきたお土産をお店に置いていた。

「バカは風邪を引かないんじゃなくて、風邪を引いたことに気づかない……っていう格言があるけどね、何もそれを実行してくれなくてもいいんだよ」

「風邪じゃないです。熱っぽいのはテンションが高いからで、喉が痛いのは多分、酒やけとかじゃないですかね……」

 雨に降られてびしょびしょだったあの日、さっさと帰らずに濡れたまま放置していたせいだ。

「君はいつも、気づいてないふりをするね」

 オーナーが腕を組んでため息をつく。

「それとも、いつもふりじゃなくって、本当に気づいてないの? だとしたら尚のことバカだよ」

 ウェイトレスはまだ学校にいるのか、お昼なのに不在だった。とはいえ、あいつことなので少し待っていれば必ず来るだろう。

 オーナーはお盆を手にこちらに歩いてきた。温かいコーヒーを淹れてくれたらしい。

「ほら、ちゃんと体あっためて。君は今いつも以上にバイ菌なんだから、会社でウィルスばら撒く前に早退しなさい」

「社会人の風邪って、休んでも休まなくても叩かれますよね……」

 世の中は理不尽で溢れていると思う。

「……って、いつも以上にバイ菌ってどういう意味ですか!? 日頃からバイ菌なんですか!?」

「違うの? 特に女性たちにとっては極めて迷惑な菌だと思うよ」

「誰がバイきっ……ゲホゲホ」

 大声を出したら腫れた喉で突っかかって咳が出た。オーナーがニコニコしながら仰け反る。

「ちょっとーやめてよ。チャラいのまでうつりそう」

 完全にバイ菌扱いだ。

 オーナーからこんな扱いを受けているが、それでも俺の日頃の態度はかなり改まった。意識して改めたわけではないが、女の子を見つけ次第とりあえずチョッカイを出すという習慣はいつの間にかなくなっていた。お陰様で課長から「出家したのか」なんてからかわれるが、無論出家などしていない。煩悩の塊なのは相変わらずだ。ただ、対象が絞られただけである。

「あ、そういえばね。この前、涼太のお友達が店に来たんだよ」

 オーナーがカウンターに戻りつつ言った。

「油井くんっていったかな」

「何あいつ、油井くんにバイト先バレたんですか? 女装バレたくないから隠そうとしてたくせに。一回見られてるから開き直ったんですかね」

 コーヒーを口元に持っていく。湯気が鼻先を濡らした。オーナーはふふっと面白そうに笑った。

「涼太としては、流石にウェイトレス衣装は見られたくなかったみたいで黙ってようとしてたよ。でも涼太の機嫌がめちゃくちゃいいときに油井くんがさり気なく尋ねたら、ポロッと喋ったってさ」

 くすりと吹き出したら、コーヒーの湯気がふわりと歪んだ。

「やっぱあいつバカなんだなあ……」

「油井くん、あんまり驚いてなかったよ。似合うねって言ってた」

 オーナーがカウンターの向こうで楽しそうに言った。

「どうする? 圭一くん、ライバル出現だよ」

「負けないですよ」

 言ってから、コーヒーをひと口含み、あれっと気づく。

「オーナー、もう涼太から正式に告知されました?」

「何をかな?」

 オーナーはため息に似た声色で言って、肩を竦めた。

 関係が変わってしまったことについて、オーナーへは涼太から伝える約束になっている。彼の方から「俺から言うべきだ」と言い切られたのだ。だから俺からは何も申し上げられないのだが、堂々と言い切ったくせに涼太はまだ尻込みしているようである。

「怒らないし笑いもしないのにね。そりゃあ心配ではあるけど……相手がバイ菌じゃあね」

 オーナーがこんなことを言っている時点で、もうとっくに気づかれている。ニヤニヤされると居心地が悪くて、俺はぐっとコーヒーをあおった。

 そのとき、店の扉がギコ、と音を立てた。天気のいい外から初夏の風が舞い込んでくる。入ってきた彼は、鞄の肩紐をずり上げてじろりとこちらを睨んだ。

「あ、また来てる。ほんっと懲りないっすね」

 自分の女装に嫉妬して泣いちゃうような奴が、生意気な口を叩いた。

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