5.勝敗?

 よく晴れた土曜日、俺は約束していた場所に車を停めた。クードラパンの店の横にある駐車場に、格好いいスポーツカーでもなんでもないただのコンパクトである。

 今日は、俺の冗談と涼太の悪ノリの融合で実現した「桜ちゃんとのデート」の日だ。


 *


 前日までは、正直このイベントに戸惑いを感じていた。

 先日のあの奇襲の後で、桜ちゃんと二人で出かけるというのは我ながら不安である。涼太が笑っていたとおり、もしかしたら俺はまだどこかで桜ちゃんを女の子だと思っていて、そして結構真剣に心を奪われているのかもしれない。だとしたら、その桜ちゃんとのデートなんていよいよひとつのラインを越えはじめてしまう。理性が持たないかもしれない。桜ちゃんを女の子だと思っていた頃の俺だったら、逆に恐縮して連れ出さなかったはずだ。本当に手出ししてしまったらいけないと自制を効かせて、連絡先すら手に入れていなかったほどだ。そんな桜ちゃんの「中の人」がプライベートの桜ちゃんの姿で現れる。我ながら発狂しそうな気がして、取りやめの言い訳でも考えようかと思いはじめていた。

 しかし、昨日の昼に涼太がカフェでした発言で、俺は自分の思考を完全に切り替えた。

「ねえ圭一さん、明日のデートにはルールを付けて盛り上げましょうよ」

 サンドイッチを食べる俺の前に座って、涼太は桜ちゃんの格好でそう切り出した。

「点数制度を設けましょう。圭一さんは桜ちゃんに、桜ちゃんは圭一さんに、それぞれときめいたら加点。萎えたら減点。最終的な点数を競い合おうじゃないですか」

「なんでだろう、対等なルールのはずなのに俺が負ける未来が既に見えている」

「あれえ? デートの約束したときは、彼氏力見せてやるって豪語してたじゃないすか。見せてくださいよ、圭一さんの実力」

 天使のような顔で悪魔のように煽ってくる。

 そうだ。こいつは男なのだから、気兼ねなく連れ出していいのだ。このとおり、向こうもゲームだと割り切っている。

 潜在的に桜ちゃんを女の子だと思いたかったとしても、実際涼太は男だし、頭では理解している。だから、こいつを連れてどこかへ遊びに行くと言ってもオーナーは止めようとはしない。男友達を連れて遊びに行くだけ。それだけだ。

「分かった。受けてたとう」

「桜ちゃんのかわいさに圭一さんが勝てるものなのか見ものですね。俺かわいいからなあ」

 桜ちゃんとのデートだと思うからいけないのだ。涼太と遊びに行くだけだ。


 そして、今日に至る。俺は車の中から、涼太に待ち合わせ場所到着の連絡を入れた。相手が男だと分かったお陰で、それまで躊躇していた連絡先を気兼ねなく手に入れてしまったのである。

 窓の外を眺めて待つ。俺は既に桜ちゃんの唇の感触など忘れて、このデートゲームに燃えていた。歳上の彼氏という役柄で、最高のエスコートをしてみせる……というつもりだったのだが、やはり相手が男であるためにどこか役に入りきれない。綿密なデートプランなど考えず、行き当たりばったりでこなすことにした。実際、友達と出かけるときはそこまで組まない。デートという名目としても、数々の女の子と行動を共にしてきた俺だ、臨機応変に対応できるだろう。と、自分を過信しておく。

 約束の時間だった十時より少し早く、その人は現れた。

 というか、一瞬誰だか分からなくて見落としそうになった。

「桜ちゃん!?」

 ドアを開けて、名前を呼んだ。

「待ちました?」

 定形句のような台詞とともに現れた人を見て、俺は今度は絶句した。

 ふわりとした淡い桃色のスカートに、白いシフォンのブラウス。朽葉色の髪は毛先だけ緩やかに巻いている。唇が柔らかそうな桜色に艶めいて、大きな瞳は俺を真っ直ぐに見つめていた。

「やっべえ……ため息出るほどかわいい」

 直球な感想が口から駄々洩れした。駆け寄ってきた桜ちゃん、こと涼太は、スカートをひらっと摘んだ。

「ですよね。俺も我ながら完璧だなと。いやあ俺かわいいわ」

 外見が完全に女の子なのに、喋り方も声の出し方もそのまんま男で不思議な感覚に落とされる。

「これ『すっげえ好きな人との初デート』というテーマでコーディネートしてきたんですよ。めちゃくちゃ気合入れてお洒落してきた彼女というキャラ付けです。かわいいっすよね」

 涼太が見た目にそぐわないメタ発言をしてくる。黙っていてほしい気もするが、黙られてしまったら男であることを忘れてしまいそうなのでやはり喋っていてほしい。

 上から下まで眺めてみたが、やはり見れば見るほど女にしか見えない。

「抱きしめたい」

 ぽつりと零すと、涼太は手のひらを突き出して拒絶した。

「やめた方がいいですよ。体格が分かると男だなって実感してしまうと思うので」

 言われてみれば、腰や腕などをブラウスのゆったりしたシルエットで隠して体型を誤魔化している。だが脚だけはスカート姿のせいで隠しきれず、ニーハイの上からでも筋肉質なのがくっきり見て取れた。

「俺が満点のかわいさなのは自分で分かってるからいいんですけど、俺の方も圭一さんの私服見るの初めてなんですよね」

 涼太が指を顎に当ててじっと俺を眺めはじめた。

「ふうん……いつもスーツだから、新鮮な感じ」

 涼太が本気でかかってくるのが分かっていたので、俺の方も小ぎれいなシャツにジャケットを合わせてそれなりの格好をしてきたつもりなのだが。

「六十点」

 涼太の採点はシビアだった。

「彼女が桜ちゃんですからね、超スーパーダーリンじゃないと釣り合わないっすよ」

「お前自分のこと好きすぎだろ!」

「俺がかわいいって言ってるのは俺のことじゃなくて桜ちゃんのことなんで」

「同じ人格のくせに」

 かわいいのは見た目だけで、中身はこれである。安心した、こいつの外見がどんなにかわいくても、それを分かっていれば冷静に付き合えそうだ。そう思った直後、涼太はそっと俺の手に指を重ねてきた。

「まあでも、今日は圭一さんのことがすっげえ好きという設定ですので、何でもいいや」

 一瞬どきっとした。が、すぐに冷静さを取り戻した。こいつはこのデートという設定で全力で俺を翻弄しようとしてくる。であれば、こちらからも仕掛けてやらなくてはフェアでない。

「設定じゃなくて本気にさせてやるよ。おいで」

 涼太を車へいざなうと、彼はかわいい表情から一転、真顔になった。

「えっ……設定じゃないとなると桜ちゃんでなく俺なんですけど、本気にさせたいですか?」

 いきなり素に戻られると言ったこちらが恥ずかしくなってくる。

「都合よく緩急付けてくんのやめろ。いいから早く車に乗れや」

「はいはい。本気であなたに惚れるのは無理なので、マイナス六十点ね」

 涼太はさらっと酷いことを言いながら助手席側に乗り込んだ。俺も運転席に腰を下ろした。

「マイナス六十点って……さっき稼いだ点数がゼロにされてる」

 桜ちゃんがかわいいせいで俺も少し浮かれていたが、俺だってもういい大人なのだ。こいつの遊びに付き合ってやる気持ちで構えていこう。

 車を動かして、慣れた道路を進む。横から覗く涼太の視線を感じた。

「ねえ、今日はどこへ行くんですか?」

「ショッピングモールに行く。買い物あるから」

「買い物?」

「うん。隣の部署の女の子が今月いっぱいで退職するから、餞別にお菓子を買おうと思っててね」

「それデートじゃなくてただの買い物じゃねえか!」

 涼太がつまらなそうにむくれだした。俺は横目でちらりと彼を見た。

「だから買い物だって言っただろ」

「普通の買い物じゃん。仕事関係の用事だし、しかも知らねえ女のための買い物」

「お前はどこまで設定を作り込みたいんだよ。本気のデートプランで水族館とかきれいなレストランとか連れていったら、それはそれで気持ち悪がるだろ」

「そうですけど……」

 涼太はむっすりして窓の外を睨んだ。

「でも、知らない人へのプレゼントを選びに行くのはデートっぽくないです。減点。十点くらい減点」

「早速零下の領域に入りました」

 想定どおり、点差が開いていく。

 赤信号で車が止まり、俺は隣の桜ちゃんをもう一度よく観察した。

「桜ちゃんかわいいねえ」

「知ってますって。ボキャブラリーが貧困だな……」

 涼太が呆れ顔をしてくる。そんな表情もかわいい。

「なんでそんなに女装が似合うんだろう」

「それは知らない。生まれてくる性別間違えたかもしんないですね。女に生まれてたらモテまくったかも」

 涼太が自嘲的に言う。俺は信号が変わったのを見て、アクセルを踏んだ。

「それはないな。涼太は男でよかったよ。女装であることに意味がある。女性とは違う危険な色気がある」

「変態。マイナス五十点」

「なんでだよ、褒めたのに」

「それだと圭一さん、男の俺に色気感じてることになりますよ」

 涼太が低い声を出した。俺は自分の発言を振り返った。たしかに、そういうことになる。俺は女の子である桜ちゃんが気に入っているはずだった。だが、今の発言は何となく撤回する気にはならなかった。

 しばらく道路を走り、再びちらっと横を見て俺は苦笑した。

「おーい桜ちゃん、座り方……」

 完璧な美少女に化けているというのに、涼太は脚を広げて思い切り男らしい座り方をしていたのだ。スカートの裾が大胆にひらいている。

「今は女の子だろ。減点するぞ?」

「うっせえなあ……」

 涼太がもさもさと鬱陶しそうに脚を閉じる。俺はフロントガラスの方を注視した。

「減点かとも思ったけど、いいもの見た気分だから二十点加点」

「見てんじゃねえよ。圭一さん二十点減点」

 着々と点差が開いていく。

「涼太ってさ、見た目は完璧に女装するのに、仕草が男のままだよね」

 俺は安全走行しながら隣に振った。涼太が腕を組む。

「だって知らねえもん、女の子がどういう振る舞いしてんのか。見てたって体得するものじゃないです」

 涼太はまだ窓の方に顔を向けていた。

「喋り方とかも、上手く真似できないっす。語尾を敬語で貫いているのは、女の子の喋り方が難しかったからなんですよ」

「もはや貫けてもいないしな」

 よく語尾が男の言葉遣いそのものになっている。

「でもその品のなさのギャップにやられて、俺は桜ちゃんを口説くようになったんだよなあ」

「よかった、喋り方直す手間が省けた。ただし、なんか気持ち悪いから減点ね」

 何ひとつ誤魔化そうとしない男の声で、涼太は開き直った。

 二十分も走れば、目的のショッピングモールに着いた。一、二階にテナントが入っていて、三から五階の屋上までは駐車場である。アパレルやファストフード、雑貨屋にゲームセンター、書店と、様々な分野が雑多に店を構えている。その中にちょうどいい価格帯の洋菓子店があるので、離職する女性社員にはそこで焼き菓子の詰め合わせでも買おうと考えていた。

 外の駐車場に停めて、一階の自動ドアを開ける。俺はてくてくついてくる涼太を振り向いた。

「じゃ、俺はお菓子買いに行ってくるから、涼太……じゃなくて、桜ちゃんは好きなとこ見てきていいよ」

「もうっ! そうじゃないでしょ!?」

 涼太はくわっと牙を剥いて怒った。

「デートなんだから一緒に行きますよ!」

「あっ、そうだっけ」

 喋っていると普通に男っぽいせいで、外見が桜ちゃんでも設定を忘れかけていた。

「ごめんごめん。桜ちゃんをひとりにしたらナンパされちゃうもんな」

「そうですよ。俺、かわいいんですから」

 むすっと眉を寄せて、俺の袖を摘む。

 並んで歩くと、当たり前だが女の子と歩くのとはペースが違う。結構な速さでスタスタ歩く。こんな顔でも男なのだと何度も思い知らされる。

 さくさく歩くお陰で、すぐに洋菓子の店舗が見えてきた。一階の中央に位置する、サービスカウンターの並びにある店だ。ショーケースの中には焼き菓子を中心に、プリンや小さなケーキなんかも並んでいた。

「離職する人はかわいいものが好きな性格の女性だからな、そういう人受けのよさそうなものがいいな」

 ショーケースの中を左から右まで観察する。季節商品の春らしい色使いが目を引く。イースターの時期なのもあり、ウサギのマスコットが付いた焼き菓子のバスケットがある。

「桜ちゃんはどれがいいと思う?」

「俺、女性にお菓子贈ったことないんで分かんねえっす」

 桜ちゃんはお菓子を真剣に見つめるあまり、素の塩川涼太に戻っていた。

「女性の感性ではどれがいいと思う?」

 言い方を変えてもう一度尋ねた。涼太はまだ焼き菓子を食べたそうに見ていた。

「だから女性の感性とか知らね……あっ」

 途中で自分が桜ちゃんに扮していることを思い出して、きゃるんとした黒目がちな目で俺を見上げた。

「ウサギちゃんのがかわいい!」

「わざとらしい……けどかわいいから加点三十点」

 桜ちゃんを演じた涼太の頭をぽんぽん撫でる。涼太はウィッグがずれることを危惧したのか単純に腹が立ったのか、その手をパンッと払い除けた。

「桜ちゃんも何か食べたい?」

 真剣にショーケースを眺めていた涼太に問うと、彼はパッと顔を輝かせた。

「食べる! このフィナンシェがいい」

 食欲旺盛ながっつき方は、淑やかな見た目に全く合っていない。それが可笑しくて、俺は吹き出しながら店のスタッフに声かけた。

「すみません、この焼き菓子詰め合わせのバスケットと、フィナンシェを二つ」

 自分の分もお揃いで買った。単純な涼太は横で目をきらきらさせていた。

「圭一さん、プラス三十点」

「ミーハーだな」

 会計を終えて、フードコートのベンチに腰掛ける。買ってみたフィナンシェを涼太に渡して、一緒に食べはじめた。

「意外と美味いな!」

 涼太に同意を求めると、彼は真面目な顔で頷いた。

「俺、甘い物そんなに好きでもないんだけど、時々すっげえ美味しそうに見えるときがあってさ。そういうときに食べると、マジかよってくらい美味しい。不思議だ、甘い物得意じゃないのに」

 甘めでガーリーな服を着ているくせに、味覚的に甘い物はだめだそうだ。

「でさ、目的だったものは買ったじゃん。この後どうする?」

 涼太が食べ終えたフィナンシェの包装を丸める。俺はうーんと唸った。

「行きたいとこある?」

「特に」

「じゃ、また俺の希望なんだけど、付き合ってくれる?」

 首を傾げている涼太の手からゴミを引き取り、ベンチ横のくずかごへ突っ込む。俺は涼太に手招きして、中央のエスカレーターへと導いた。


 *


「なるほど、そういうことですか」

 連れてきたテナントを前に、涼太は溢れるニヤニヤを抑えるような顔で言った。俺はその隣で、なるべく爽やかに微笑んだ。

「桜ちゃんの知らない女の人へのプレゼント選びに付き合ってもらったからな。今度は桜ちゃんへ買う番だ」

 涼太を連れてきたのは、女性もののアパレルショップだ。それも、今日の桜ちゃんが着てきたようなフェミニンなデザインが揃った店である。

「女装、この春に始めたばっかなんだよな? まだあんまり服持ってないだろ」

 こそっと耳打ちしたら、涼太は頬を赤らめながらもジト目でこちらを振り向いた。

「高頻度で女装してるわけじゃないから、そんなにたくさんレディス要らねえよ。まあ、でも……見といてやるよ」

 なんだかんだ言って女装をいちばん楽しんでいるのは涼太本人だと思う。彼は浮き足立って店内に入っていった。見た目がいかにもこういう服を好みそうな女の子なので、何の違和感もなく店の世界観に溶け込んでいく。俺もその後ろをついて店内を見回した。

 店の中は明るい春の陽気を詰め込んだみたいな晴れやかな色合いで埋め尽くされていた。ピンクや黄色の柔らかな色使いに、軽やかな生地。フリルをあしらった甘いデザインは、いかにも桜ちゃんに似合いそうな風合いだ。

 涼太がふわっとした花柄のトップスを手に取る。

「これどうっすかね。腕とか腰なんかが強調されにくいデザインだと思いません?」

 自分の胸元に重ねる仕草は、男らしい言動が嘘だったみたいにまんま女性だ。

「かわいい……」

「うん。そんなことより、これ胸元開きすぎ? ぺちゃんこだからなあ……」

 いくら涼太がやや小柄で細身といえど、体格は男なのだ。誤魔化しきるのには計算がいる。涼太はわくわくが滲み出した顔で複数の服を取っては鏡に映しを繰り返した。

「女装の楽しいところはここなんですよ」

 レジで暇そうにしている女性店員に聞こえないくらいの声量で、涼太は嬉しそうに語った。

「単純に似合っている自分が面白いのもあるんですけど、形や組み合わせやらを考えて形成してくのがパズルみたいで楽しいんです」

 彼は淡い桃色のブラウスと白い花柄のスカートを重ねて、更に大粒のビーズのネックレスを組み合わせた。センスのいいセットを見て、俺はほおと感嘆した。

「そのコーディネートかわいいね」

「ですよね! はあ、楽しい」

 涼太が鏡の前で屈託のない笑顔を浮かべた。目をとろんと細めて、頬を高調させ、口がへにゃっとつり上がる。

 瞬間、俺の心臓は撃ち抜かれたかのように飛び跳ねた。抜群にかわいい。こんな心からの笑顔を解放したところは初めて見た。服を選ぶのが楽しくて仕方ないのだろう。

「桜ちゃん、気に入ったら買ってあげるから……試着してみようか?」

 そろりと声をかけると、彼は驚いた顔を向けた。

「待って、女装で試着室入るの初めてだよ。恥ずかしい。バレないですか?」

 女装で堂々と外を歩いているくせに、今更恥ずかしがっている。俺はスカートを数点選んで、涼太に突き出した。

「大丈夫だって、カーテン開けたりしないから!」

 それから退屈そうな店員に声を投げる。

「すみません、試着いいですか?」

「どうぞ」

 店員の快い返答を受けて、涼太は落ち着かない動きで周りをキョロキョロ見回した。そして意を決したように、試着室のカーテンを開ける。

「背徳感がすごいです……」

 涼太は遠慮がちに試着室へ入って、サッとカーテンに隠れた。俺は閉まったカーテンに向かって苦笑した。

「興奮しすぎだろ」

 と言いつつ、俺もそわそわしていた。カーテン一枚だけ隔てて、女装男子が女装から女装へ着替えている。女性が着替えているのとは違った危険性が滲み出している。なかなかスリリングだ。

「あの、圭一さん」

 カーテンの向こうから、涼太が小さな声を出した。

「圭一さんがチョイスしてきたスカート、無理っす」

 履いてみてはくれたようだ。が、カーテンに隠れて見せようとしない。

「無理ってなんだよ。好みじゃなかった?」

「違う。かわいいんだけど、丈が短すぎです」

 涼太の喋る声は、だんだん語尾が萎んでいく。

「マジか、ちょっと確認させて」

 言いながらシャッとカーテンを開けたら、涼太がひゃあっと無声音で叫んだ。中にいた彼は、スカートの裾から男物のパンツの端っこをちらっとだけ覗かせていた。

「普通、開けないだろゲス野郎!」

 見られたら開き直るのか、涼太はスカートを翻して俺のみぞおちに蹴りを入れてきた。足に吹き飛ばされ、俺は素直に謝罪した。

「ごめん! 分かっててわざと短いのを渡しました」

「本当にゲス野郎じゃねえか! 百点減点! 死ね!」

 ちゃんと謝ったのに涼太はギャアギャア怒ってシャッとカーテンを閉めた。

「今の、他の人に見られてたら男だってバレちゃうだろ」

 カーテンの向こうでまだ文句を言っている。俺は笑って宥めた。

「大丈夫だろ。少なくとも店の中にはあの店員さんしかいない。多分誰も見てないよ」

「辛うじて許してやる」

「お、サバサバしてるね。漢気!」

 そのとき、今度は涼太の方から試着室のカーテンを開けた。目に飛び込んだその姿に、俺は息が止まった。

「どうですか?」

 威嚇して蹴飛ばしてきた男とはまるで別人の、花のような女性の表情になっている。

 彼が自分で選んでいたトップスに、俺が渡した膝より少し高い丈の黄色いスカート、それからネックレス。柔らかそうな生地が甘い顔面に不思議なくらいマッチして、その可憐さを互いに引き出している。会話していた内容を全部忘れるほど、「涼太」というより「桜ちゃん」だった。

 何か褒め言葉を言おうとした。が、何も思いつかない。脳の機能が停止したみたいに、言葉が詰まってちょうどいい言葉を考えている余裕がなかった。

「……かわいい」

 無理矢理絞り出したが、ようやく出たのはいちばん陳腐な言葉だった。涼太は満更でもなさそうににんまりした。

「ですよね。やっぱり桜ちゃんはかわいいです」

「一式買ってあげる」

「やった」

 涼太はまたカーテンを閉めて着替えはじめた。数秒で、元の衣装に戻り試着した服はハンガーに戻して出てきた。

「一式だと、結構高いですよ」

「桜ちゃんのためだと思えば構わない」

 不思議と、お世辞でなくそう思った。自分で自分が分からない。俺は御薗桜という、十も歳が離れた架空の女の子に執心しているのだろうか。いや、それとも、女装が楽しいアホ大学生の遊びに乗っかって楽しんでいるだけなのだろうか。どういうつもりなのか自分でも全く分からないが、とにかく、俺は過去に女性と出かけてここまでサービスしたことはない。

 会計に持っていくと、店員の女性が微笑んだ。

「彼女さんへのプレゼントですか。素敵ですね」

「かの……」

 俺はちらと、隣の涼太に目をやる。彼ははにかみながら黙っていた。黙っていればたしかに、女性にしか見えない。そうだ、デートという設定で来たが、周りから見れば本当にそう見えるのだ。こいつは男なのに、誰も気がつかない。俺とこいつだけが知っていて、男女のセットを演じているのだ。自覚すると無性に面白くなってきた。

「そうなんです。彼女への、ね」

 店員に返した俺の言葉を聞いて、涼太は照れ笑いを滲ませていた。

「これは普通に嬉しいや。プラス七十点くらい入れてやってもいいよ。腹減ったから次ファミレスね」

「はいはい」

 普段はウェイトレス、つまり給仕係をしているのに、どちらかというと涼太は、女王様気質である。


 *


 洒落た店ではなくファミレスで昼食をとる。デート設定はその辺りからお互いに忘れてきて、会話の内容なんかまるでカップルらしさはなかった。大学の講師の話や俺の職場の話とか、あとはクードラパンの酢谷オーナーの話。桜ちゃんと喋っているというよりは、男子大学生涼太と話している感覚である。

 こいつといるとこういう不思議な気持ちにされる。本当に女の子なのではないかと錯覚させられることもあれば、全然気兼ねしない男友達みたいになることもある。

 食事の後は、その近くにテナントを構えたゲームセンターに入った。

「俺これ強いっすよ!」

 見た目が儚くか弱い美少女桜ちゃんなのに、涼太はすっかり素に戻ってパンチングマシンなんかに飛びついた。

「おい、桜ちゃんは淑やかで可憐な女性だろ。そんな野蛮なおもちゃは似合わないぞ」

「平均が百八十から九十くらいらしいんですけどね、余裕で超えますよ」

 俺の囁きを聞いちゃいない涼太は、グローブを右手に被せてマシンの赤い的を見据えた。そして肩幅に脚を開いて、完璧なフォームで腕を振りかぶった。

 ウィッグの髪が振り乱れる。シフォンのブラウスの袖に筋肉質な腕のシルエットが浮かび上がった。マシンの的がバチイッと悲鳴を上げる。俺はその異様な光景に、まばたきすら忘れていた。

 涼太はパンチングマシン相手に若い男の腕力で全力で殴りかかって、二百二十を超える記録を叩き出しやがった。

「ね! 結構強いんですよ、俺」

 無邪気に瞳をきらきらさせているのは、どう見てもか弱そうな女の子である。ギャップが大きすぎて目眩がする。

「桜ちゃん。君は桜ちゃんだろ」

 諭すように言ったら、涼太は今更ハッとなった。

「あっ、はしたない」

 取り繕っていたが、ゲーセン内にいた他の客からも既に注目を浴びている。店内に居合わせた人たちは、桜ちゃんの見た目にそぐわないスコアにびっくりして、目を疑っている。俺もゾッとした。桜ちゃんにセクハラ行為をしては鉄拳制裁を受けていたが、本気で殴らせると病院送りにされそうだ。

「圭一さん、UFOキャッチャーでぬいぐるみ取ってください!」

 涼太はまだ悪あがきみたいに女の子ぶっていた。UFOキャッチャーの前で俺を手招きしている。欲しがっている景品は、手のひらに乗るくらいのウサギのぬいぐるみだった。白や黒や茶色の、ふわふわした毛のマスコットである。

「ぬいぐるみ手に入れてどうすんだよ。部屋に飾るのか?」

 桜ちゃんでなく涼太に向かって言うと、彼も一瞬だけ素に戻った。

「叔父さんウサギが好きなんで、お土産に」

「ああ、オーナーか」

 店の中にちょこんと置いてあったら、かわいらしいかもしれない。

「UFOキャッチャーの上手い下手も、採点項目ですよ」

 涼太は自分のパンチングマシンの件を棚に上げて俺をはかりはじめた。俺もバカなので、簡単に闘争心を燃やした。

 ぬいぐるみの山の上の方に、転がりそうな角度で止まっているウサギを一匹確認した。淡い茶色の立ち耳のウサギである。UFOキャッチャーのアームを横に動かして、そいつに狙いを定めた。

「オーナーってやっぱり、ウサギが好きなんだな。店の名前もクードラパンだし」

 操作しながら呟く。

「クードラパンって、フランス語で『ウサギのしっぽ』なんだってさ」

「へえ。知らなかった」

 一応涼太は従業員なのに、客である俺から聞かされて感嘆した。

 アームを奥に動かして、開く。スススッと下降したアームの爪が、狙ったウサギの首に突き刺さった。爪が閉じると、ウサギはコロンと転げてぬいぐるみの山をくだり、取り出し口に続く穴へと落下していった。

 俺は息を呑むようにおっと小さく呟いただけだったが、隣で見ていた涼太は拳を振り上げて歓喜した。

「よっしゃあ! 取ったぞ! すっげえ、一発じゃん。やるなクズリーマン」

「桜ちゃん、言葉遣い……」

 詰めの甘さは気になるが、でも涼太が素になるほど楽しんでいるのは案外嬉しかった。

 取り出し口に落ちたウサギを涼太に手渡す。可憐な女性の姿でふわふわのウサギを持つ彼は、童話のような愛らしさだった。男なのに。ウサギを目の高さに上げて、涼太は満足そうに微笑んだ。

「ありがとう圭一さん」

 素直にお礼を言われて、少し驚いた。いつもはどついてくる人が、混じり気のない言葉で感謝してきたのだ。びっくりして、一周回って面白くてついニヤッとしてしまった。涼太がスッと無表情になった。

「なんだよその顔。減点二十点」

「取ってあげたのに!? 理不尽だな」

 涼太はゲームセンターに飽きたらしく、ウサギを手にエリアから出ていった。自由奔放な彼に俺は振り回されるようについていく。さて、次はどこを見に行こうか……そう考えはじめたときだった。

 突然、涼太が立ち止まり俺の脇にぴたっと張り付いた。

「どうした?」

「しっ」

 涼太は身を屈めて、俺の背中に隠れる。いきなり何を警戒しはじめたのやらと、周辺を見渡す。と、よく目立つ巨躯の男が目に飛び込んできた。背の高い色黒の男には、見覚えがあった。

「あっ、油井くんじゃん」

 涼太の大学の友達だ。

「ひとりかな? 声かけてくるか」

 油井くんに向かって手を振ろうとしたら、涼太が後ろからガシッと腰を抱きしめてきた。突然の大胆な抱擁に驚く。だが涼太はそれどころではない青い顔をしていた。

「声かけんな。油井が俺の正体に気づいたらもうキャンパス行けない」

 小声で言われて、ハッとした。涼太の女装に目が慣れてこちらはもう気にしていなかったが、涼太はこの件を秘密にしているのだった。

「いやでも、桜ちゃんの姿なら油井くんでも見破れないんじゃないか?」

「万が一バレたら? 顔見れば似てるって思うかもしれない。向こうがこっちに気づかないうちに立ち去ろう」

「そう? まあ見られたくないのは分かった」

 涼太に促されるとおりに油井くんが気づく前に移動してしまおう。と思ったのだが、運悪く油井くんがこちらに顔を向けてしまった。

「あ……」

 油井くんが小さく呟いた。しっかり目が合う。俺は背中に隠した涼太に目配せした。涼太は「お前が見ていたせいで気づかれた」みたいな顔で俺を憎らしそうに睨んでいた。

 目が合ってしまった以上誤魔化せず、俺はなるべく不自然さを感じさせないようににこやかに挨拶した。

「よう! 俺のこと覚えてる?」

 油井くんがのそのそと歩み寄ってくる。

「圭一さんですよね。涼太の友達の、なんかテンション高い人」

 涼太は逃げ出そうにもタイミングが掴めないようで、俺のシャツの背中を握って隠れていた。

 油井くんが切れ長の瞳で俺を眺め、それからやや首を傾けて俺の背後を覗き込んだ。

「あの……」

 声をかけられて涼太がびくっとした。俺は隠しっぱなしにするのもおかしい流れなので、俺は背中に張り付く涼太の腕を引っ張った。

「ああ、こいつね! 人見知り激しくってさ」

 そして正面を油井くんの方に向けないように、涼太の顔を自分の胸に押し付けた。

「俺の彼女。桜、挨拶は?」

「こ、こんにちは」

 涼太がぷるぷる震える声を絞り出す。油井くんは愛想のない人見知り彼女を不思議そうに眺め、やがてふっと微笑んだ。

「そうなんですか。かわいいですね」

「だろー」

 にんまりと自慢しておいた。油井くんは穏やかに目を細め、また俺に向き直った。

「それじゃ、俺は引き続き買い物あるので」

「うん。涼太によろしくな」

 あっけらかんと手を振る俺に油井くんも振り返し、それ以上突っ込まずに彼は去っていった。

「ひゃー、危なかったな」

 正面から抱きしめていた涼太を解放すると、彼は息苦しそうに目を回していた。

「びっくりした! 油井がいたことにも、圭一さんがいきなり抱きすくめてきたのも」

「ごめんごめん、苦しかった?」

 涼太のくしゃくしゃになった前髪を触ろうとしたら、その手をパンッと弾かれた。

「触んな! こっちは男の胸に抱かれて気分最悪なんだよ」

 ガアッと毒づいてから、涼太はウサギのぬいぐるみを握りしめてそっぽを向いた。

「でもまあ、その軽いノリに助けられた。加点入れてやる」

 つい、ふはっと吹き出した。オーナーの言葉を借りれば、こういうところがツンデレなのだ。

「桜ちゃんを抱きしめるきっかけをくれたから、俺も油井くんに加点しよっかな」

「油井にかよ」

 ふざけた俺に涼太が冷たい目を向ける。ふと、俺は今朝の彼の発言を思い出した。

「あ、抱きしめたら体格を実感して男だと再認識しちゃうから、触んない方がいいって言ってたよな」

 今しっかりと抱きとめてしまった。涼太はあー、と唸ってまた目を逸らす。俺は数秒前の自分を思い出そうとしたのだが、腕の中に感覚は残っていなかった。

「慌ててたから感触覚えてない。けどそれ以前にパンチングマシンに殴りかかる勇ましい姿を刮目してるから、実感も何も今更だな」

 とりあえず、男なのを知っていたのに躊躇しなかったことはたしかだ。俺の方ももう、男だとか女だとかが混乱してその辺りが麻痺しているのかもしれない。

「ふざけんなよ、俺の方は抱きしめられた感覚が全身に残ってるよ」

 涼太は両手で顔を覆って、大きなため息をついていた。


 *


 その後、俺と涼太はモールを出てクードラパンへの帰路についた。これ以上見たい店もなく、どうするか話し合ったところ、やはりいつもどおり慣れた店でのんびりするのがいいという結論に至ったのである。

 店の扉を開けると、退屈そうに店番するオーナーが顔を上げた。

「いらっしゃ……あ、お帰り。楽しかった?」

「まあまあだな。途中から点数の計算してなかったけど、多分俺の勝ちですよね」

 涼太はもうすっかりデート用の設定は放棄して完全に素の声に戻っていた。俺はいつもの席に腰を下ろして、小さく息をついた。

「多分っていうか……出来レースだったよな」

「デートファッションって気疲れするな。着替えてきます」

 折角お洒落した桜ちゃんだったのに、涼太は呆気なく終了宣言をした。店の奥へと消えようとして、途中で思い出してオーナーの前で立ち止まった。

「これ、お土産。圭一さんが取ってくれたんですよ」

 鞄からウサギのぬいぐるみを取り出し、オーナーに手渡している。オーナーは分かりやすいくらいに顔を明るくした。

「わあっ! かわいい」

「圭一さん意外とすごいんすよ、それ一発で取った」

「へえ、器用なんだね。ありがとう」

 オーナーが嬉しそうにしている前で涼太も興奮気味に話す。オーナーはニコニコ笑って、ウサギをカウンターに置いた。ウサギが飾られたのを見届けると、涼太は着替えるために店の奥へ入っていった。

「茶色いウサギ、ね。楓が喜ぶなあ」

 オーナーが小さな声で呟いたのを、俺は聞き逃しそうになった。

「楓……さん?」

「ん。そんなことより圭一くん、涼太の面倒見てくれてありがとうね」

 オーナーが独り言を誤魔化した気がしたが、俺が問い詰める前に彼は続けた。

「苦労かけたでしょ?」

「うーんと……女装野郎ならではのハプニングが頻発しますね。女の子を連れてるのとも男友達と遊んでるのとも違う、未知の気配りを求められる。そういう意味では苦労したかな」

 俺はテーブルに頬杖をついて苦笑いした。

「見た目は完璧なのに、役に入りきれてないんだよな。すぐ素の塩川涼太に戻っちゃって、振る舞いが完全に男っていうね」

「あはは、あいつはしゃぐとすごく子供っぽいもんね。我を忘れて遊んじゃうから自分が女装してることも忘れちゃうんだろうね」

「点数制度なんか設けちゃって、ほんとガキかって」

 オーナーと話していると、自分が肉体的に結構疲れていたことを実感した。若い子の有り余る体力に振り回されていたのだと痛感する。

「点数制度ねえ」

 オーナーが優しい声で呟いた。

「僕が見た感じでは圭一くんが勝ってるように見えるよ。『まあまあ』なんて言ってたけど、あいつすっごく楽しかったんだと思う。五億点くらい入ってるんじゃないかな」

「その見積もりは、一体何を根拠に」

 俺はまた苦笑した。オーナーがニッコリする。

「だってすごく楽しそうだったもん。きっとね、もう残酷なくらいに」

 何だか不思議な言葉を選んで言い、オーナーはまた静かにウサギのぬいぐるみを見つめはじめた。

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