第37話:噴出の不安

「*********」


 郷土史家がまとめた資料を読んでいると、扉の外から人の声が聞こえてきた。その声色は、あまり穏やかなものではない。


 しばらく静観していたものの、言葉の応酬は少しずつ激しさを増し、言い争うような声も混ざり始めた。無視を貫き通すにはちょっとした鍛錬たんれんが必要なレベルで、静かな環境に飼いならされた私には、なかなか難しかった。


 資料を読むのをあきらめて書斎を出ると、廊下のガラス越しに、中庭に幾人かの寵妃候補とその母親が集まっているのが見えた。想像通り、険悪な雰囲気だ。気は進まなかったものの、事態を把握したいという思いもあり、私は中庭に面した扉を開けた。くぐもっていた声が、クリアに耳へ届く。


「あなた方以外に、こんなことをする人がいないと言っているんです」

 甲高く声を荒げたのは、寵妃候補の母親らしき人物だ。名前は知らない。彼女の周りには、険しい顔をした女性がほかにも数名集まっている。


「だから、何度言ったら分かるんですか」

 言葉を返したのは、ユノの伯母らしき人物。彼女はユノの母親の前に立ち、あきれたように首を振って、言葉を続ける。


「あなた方が言うように、我々が寵妃の排出に躍起やっきになっているのであれば、王女様を手にかけるはずがないんです。話の内容が矛盾しているんですよ」


「何か目的があるんでしょう? あなたの娘を選ばない王女様が邪魔になったとか、そういうどうしようもない目的が」


「よくそんなあやふやな考えで言いがかりをつけられますね。もう少し妥当性がありそうな物語を作られてはいかがですか?」


「黙りなさい」

 叫ぶように言った彼女の顔は、赤くほてっており、とても正常な会話がこなせるとは思えなかった。ユノの伯母が言っていることの方が、数倍理にかなっている。


 なおも全くかみ合わない口論を続ける彼女たちから視線をそらし、上方を見やると、回廊の上に中庭を見下ろす顔がいくつもあった。


 怒りをたたえた顔、不安げな顔、あざけるような顔、面白がっている顔。

 その表情は、本当の感情を表したものなのだろうか。

 あるいは、本心を隠すためのものなのだろうか――


「馬鹿にしないで」


 寵妃候補の母親の大声が、中庭に響いた。

 彼女の言葉が周りの音を奪い、あたりに静寂が満ちる。

 誰もが口を開かず、時が経つごとに、静けさが重みを増していった。

 

 そこへ、絶叫がこだまする。

 

 不意の出来事に全員がびくっと体を震わせ、音の発信源へ視線を向けた。

 食堂の入り口に、無数の目が集まった。

 私は、反射的に走り出している。


 中で何が起きたのか、想像は嫌なほうへ転がった。

 中庭の扉を開けて廊下へ。廊下の扉を開けて食堂へ。

 室内に視線を走らせると、二本の長机の間に目が留まる。


 一人へたり込んだ女性の前に、鮮血せんけつ

 私は長机を左から回り込むようにして、彼女の後ろに足を進めた。

 カタカタと身を震わす女性の向こうには――


「ユノ」


 すぐ後ろで、叫び声が聞こえた。

 振り返る間もなく、女性が横を通りすぎる。

 彼女―ユノの母親―は、言葉にならない声を上げながら、娘の体に抱き着いた。直後、伯母も寄ってくる。


 私は一瞬の痛みを抑え込み、部屋の光景を記録に収めようと、あたりを見渡した。

 ユノの母親が血に濡れているところを見る限り、事件が起きてからそれほど時間はたっていないらしい。彼女の体の近く、長机の上には血で染まったタオルのようなものが落ちている。犯人が血を拭ったのだろうか。床に目立った血の跡はない。


 一通り部屋の光景を収めた後で、今度は集まってきた人たちの姿をとらえる。今いるのは、二十名ほどだろうか。先ほど言い争いをしていた面々と、それを眺めていた人間は、ほとんど部屋にいるように見えた。


 寵妃候補たちは、全員おびえた表情。小動物のようにあたりをきょろきょろと見渡す、ジュリエッタの姿もある。つい先ほどまで口論を繰り広げていた女性たちも、呆然ぼうぜんとユノとその母親の姿に視線を送っていた。

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