ラス・メニーナス

西木夋介

プロローグ

第0話:プロローグ

 木の葉と木の葉が触れ合って、かさかさと静かな音がする。


 私は眠りから覚めたことを確認し、そっとまぶたを開けた。


 小さなテントの中には、わずかに寝息の音。すぐ隣で小動物のように寝ているパドマが、その発信源だ。彼女の顔には、テントの生地を透過とうかした青い光が注いでいる。


 しばらく少女の寝顔を眺めた後で、上半身を起こし、頭が動き始めるのを待った。少しずつ少しずつ、頭の中に血が巡ってくる。

 立ち上がる決心がついたところで、寝袋をはぎ取りテントの外へ。まずは、大きく伸びをした。ひんやりとした空気が胸の内に入ってきて、気持ちが良い。すがすがしいエネルギーのおかげか、ほとんど無意識に足が前へ進んだ。


 白っぽい木が立ち並んだ林を少し進むと、下り坂の先に視界が開け、穏やかな流れの川面が見えた。向こう岸から鳥の鳴き声が聞こえるものの、薄くきりのかかった周囲の視界は悪く、姿は見えない。川面の上を揺らぐ霧に樹形じゅけいが暗く浮かんでいる様子は、古い水墨画のようでなかなか幻想的だ。思わず見とれてしまう。


 頭の中を巡る思考が消えていく中で、相対的にのどの渇きが意識された。

 川岸のあたりをちょろちょろと流れていく水は、空気と同じくらい鮮やかに、水底の白い石を透過させている。手を伸ばすと、冷たさが肌を刺した。季節が春に移ってしばらく経つけれど、水の温かさはまだ歩調を合わせていないらしい。山の上に降り積もった雪が、解けて流れてきているのだろうか。


 冷たさで痺れた手を持ち上げ、水を一口含む。氷のような塊がのどからおなかの中に伝い流れて、体の芯が冷えた。三分の一くらい眠っていた脳が、はっきりと目を覚したのが分かる。


 直後、寒さで体が震えた。

 寝袋から持ってきたぬくもりを、ちょっと過信していたかもしれない。握り合わせた両手に息を吹き込みつつ、ゆっくりと立ち上がる。


 と、対岸でぱきっという高い音が鳴った。反射的に、視線がそちらへ向く。

 音は、木の枝を折った時のそれに似ている。動物でもいるのだろうか。向こう岸は相変わらず薄い霧に隠れており、何も見えない。多少のもどかしさを感じるも、ちょうど川の上流から風が吹いてきて、霧の塊が川下の方へ押し流された。分裂した霧と霧の隙間から、向こう岸の光景が現れる。


 思わず息を飲んだ。

 開けた視界の向こう、二十メートルほど向こうに、人の姿。川の上に差し掛かった木製の構造物にしゃがみ込んで、水の中をのぞいている。


 冷え切った水のおかげで脳は限りなくクリアな状態だったけれど、それでも、私は目の前の光景を信じられなかった。薄い小麦色の生地に、鮮やかな赤い生地をちりばめたワンピースをまとう彼女は、ほぼ間違いなく少女と言っていいくらいの年齢だ。


 色々な疑問が頭の中に浮かび、考えが渋滞する。

 どうして人がいるのだろう。それも、小さな子供が。アンドロイドだろうか。可能性は高いけれど、見た目では判断がつかない。でも、もしかしたら――


 思考が深まっていく瞬間、耳のそばで羽虫の音。

 集中していたせいか必要以上に驚いてしまい、体のバランスが崩れる。

 まずい、と思った時にはもう、足元の砂利が音を立てていた。

 ハッとして顔をあげると、川向こうの少女が大きく目を見開いている。

 

 一瞬の沈黙。

 

「ごめんなさい」

 こらえきれなくなって訳の分からない謝罪を口にした瞬間、彼女は林の方へ走り始めた。


「待って」

 言いながらあたりを見渡すも、向こう岸へ渡れそうな場所はない。どうしようもなく立ち尽くしている間に、再び立ち込めてきた霧が、どんどん少女の後ろ姿を覆い隠していく。


 間もなく彼女の姿は完全に見えなくなり、わずかな足音も川のせせらぎにかき消された。残されたのは、全てが元通りになった、水墨画めいた川岸。


 ドキドキと音を立てる鼓動だけが、出会いの余韻を伝えている。

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