伍ノ幕 正式に家族公認の行動

或る休日の朝、明照が目覚めると、普段は未だ寝ている筈の両親が、何故か今日は先に起きていた。何時に無く固い表情から、明照は瞬時に悟った。明らかに何かが普段と著しく違う。

「起きたか。話が有るから座りなさい」

先に口を開いたのは父、田中たなか靖彦やすひこだった。普段は仕事が非常に忙しく、家に帰った後も何やらしている事が多い父がこんな事を言い出すのは異例の事であった。

「今起きたばかりでトイレ行きたいんだけど」

「あ、そうだったな。どうぞ」

その場を離れた後も明照は考え込んでいた。一体何事なんだ。模範的と言えるかは分からないけど少なくとも学校で何か問題を起こしたことなど1度たりとも無い。だったら一体何故。幾ら考えても見当がつかなかった。


戻ってくると、母、田中たなか千枝ちえは椅子を引いて席を勧めた。

明照が座ったのを確認すると、改めて靖彦は口を開いた。

「明照、御前は最近よく出歩いているな。何処へ行っているんだ?」

一体何事かと思えば、これ程までに単純な内容だったとは。色々な意味で予想外の展開に、明照は拍子抜けした。笑いたいのを必死で堪えつつ、明照は正直に答えた。

「歌声喫茶“ひかり”だよ」

黙秘、或は口籠るかと思ったら、意外にも明照はあっさり答えた。それが却って両親を混乱させた。聞かれる事を予測して、前もって嘘の脚本を徹底的に練り上げていたのか。それとも悪い事をするのが格好良いと本気で信じ込んでいるのか。暫くの間続いた沈黙を先に破ったのは千枝だった。

「幼稚園の頃から、只の1度たりとも友達を家に連れてきた事も無ければ、反対に、友達の家に遊びに行ったこともないあなたが連日出歩くなんて……」

「心配しなくても学業に悪影響は及んでないから大丈夫」

「そういう問題じゃない」

靖彦は思わず大声で口を挟んだ。歌声喫茶と云う聞き慣れないキーワードが有った。其れだけでも、理性を半壊させるには十分だった。

「今迄の様に、休日も一日中家に引き籠っているのが良いと云う訳ではない。だが、不良とつるむなんて、一体何を考えているんだ。友達は選びなさい」

全く以て頓珍漢な発言に、明照は何からツッコミを入れるべきか分からなくなった。目が点になりながらも、明照は応えた。

「何処か全然別の所と勘違いしている様だね。……良いよ。一緒に行こう。昔から“百聞は一見に如かず”って云うからね。本当に不良とつるんでいるか否か、その目で確かめると良いよ」

明照が大きく目を見開き、前のめりになって言うので千枝は戸惑ったが、同時に確信もした。

「明照は確かに友達作りは下手だけど、筋金入りの正直者だから行くだけ行ってみましょ。万一本当に不良と付き合いが有るなら、その場合はやるべき事をやるだけ」

未だ疑いは持っていたが、靖彦は渋々同意した。

「こんな形で一家全員で休日にお出掛けとは思わなかった」


均と清美に連れられ歌声喫茶“ひかり”に着くと、靖彦と千枝は明照が初めて来た時と同じ反応を示した。

「何なんだここは……?」

「思っていたのと全然違うわね」

孫と同様、可笑しいのを堪えていた均と清美は、娘と、義理の息子に尋ねた。

「歌声喫茶と聞いて何を想像したんだ?」

「誰にもバラさないから言って御覧」

思わぬ問い掛けに千枝と靖彦はパニックに陥った。

「いや、あの、何って事はないけど」

「正直全然分かりませんでした」

余りの情けなさに均は呆れ果てた。

「全く。一度も納豆食べたことない癖に食わず嫌いをする子供と一緒ではないか」

思いがけず自身の過去の古傷に触れられ、千枝と靖彦は危うく奇声を上げるところだった。


中に入ると、ブラジル人の会員、フェリペとガブリエラが挨拶しに来た。

「アキテル君、今日ハ家族一緒?」

「初メマシテ」

訛りこそ有るものの、日本語で挨拶され、靖彦と千枝は危うく舌を噛むところだった。

「ひぇ、えっと、あ、そ、ど、どうも、は、初めまして…」

「えっと確か…あっ、ボーアターデ」

余りにも不自然極まりないブラジル・ポルトガル語にフェリペとガブリエラは苦笑を隠すのに苦労した。然し、同時にいじらしくも思えた。

「御存知デシタカ」

「一言デモ知ッテイルッテダケデ嬉シイデス」

その後も、ロシア人乃至中国人の会員とも挨拶をして靖彦と千枝は何かが違うと気付き始めた。

「思っていたのと全然違うな…いやいや、未だ決め込むには早い」

「今日1日付き合えば分かる事よ」

あれこれ考え込みながら用意された席に着くと、主催者の孫娘、稲葉いなば杏果きょうかが姿を見せた。少し遅れて主催者夫婦も現れた。

「明照君のパパとママ? 初めまして。稲葉杏果です。明照君の、年の離れた大親友です。こちらは私の母方の祖父母 兼 歌声喫茶“ひかり”の主催者、小野田寛司おのだかんじ小野田英子おのだえいこです」

6歳位に見える女の子が、随分はっきり挨拶した事は靖彦と千枝の混乱を更に大きくした。歌声喫茶と云う所がどんな場所なのか益々以て分からなくなった。

「初めまして。田中靖彦と申します」

「初めまして。田中千枝です。両親と息子が何時も御世話になっています」

明照に似て丁寧な挨拶をする2人を見て、主催者夫婦は機嫌を良くした。

「小野田寛司です。歌声喫茶“ひかり”へようこそ」

「小野田英子です。新たなメンバーを迎えられて嬉しいです」

何時もの様に、杏果は明照の膝の上に鎮座していたが靖彦と千枝は最早ツッコミを入れる暇が無かった。

「息子は此処ではどの様に過ごしていますか?」

「皆さんに何か御迷惑を掛けてないでしょうか」

この状況を打開しようと、決まり文句を口にした両親の耳に入ったのは、予想の斜め上を行く内容だった。

「迷惑だなんてとんでもない。寧ろ、革命的大躍進を遂げました」

「例えるなら、土鳩がフェニックスに進化した様なものね」

不良ではなかったが、自分達が会ったことがないタイプの人種と接し、靖彦と千枝は目が回った。

「杞憂だったわね」

「…まぁ、不良よりは1000倍マシか。然も小さい子に懐かれているし、これじゃ介入は出来ないな」

まぁ良いやと考えた両親は歌詞カードに目線を向けた。


程無く、開始の時刻となった。寛司が壇上に上がると皆の目線が一斉に集まった。

「今日は体験入会の方がいらっしゃいましたので、比較的知名度の高い“コロブチカ”を歌います」

題名だけ聞いても靖彦と千枝は勿論、明照も意味が分からなかった。だが、心配する必要など全く無かった。何せよく知っている曲だったのだから。

「聞いたこと有る。これは確か、ブロックを横1列に揃えて消すパズルの……」

明照の独り言を英子は聞き逃さなかった。

「その通り。このパズルはソ連のコンピューター技術者アリェクセーイ・レオニードヴィッチ・パジトノフ博士が開発しました。ゲーム中の音楽がロシア民謡であるのもこれなら納得でしょうね」

試しに聴き終えた後、靖彦と千枝は見慣れないキリル文字に目眩がした。

「普段、こんな難しいのを明照は歌っているのか」

「私達に御手本見せて欲しいわね」

誤解とは言え歌声喫茶を不良の巣窟と勝手に思い込み馬鹿にしてきた両親への仕返しのチャンスだと考えた。明照は杏果から教わった耳コピの技術を活かし、両親の耳元で歌った。しかし、2人は分かった様な分からなかった様な顔をしていた。

「超展開が次から次へ起きて、如何したものか」

「少なくとも今日1日は最後迄付き合う約束でしょ」

逃げ帰ろうとする靖彦を引っ張ると、千枝は何とか順応しようと、小声で歌ってみた。何時現れたのか、英子が傍でずっと聴いていた。

「練習するなら大声でしなさいな。ここはそういう場所なんだから遠慮しなくて大丈夫ですよ」

足音も立てずに現れた事には驚いたが、一方では、真っ当な助言を貰い、頭が上がらなくなった。


実際歌ってみた後、靖彦と千枝は理解した。知っている=上手に歌える とは限らない。

「こんな事なら学生時代、音楽の授業を真面目に受けるべきだったな」

「何でもっと早く気付けなかったのかしら」

嘆く2人に均と清美は横で助言していた。

「そんな暗い表情ではまともに歌えないぞ」

「何でも良いから面白い事を考えて御覧」

一方、明照もまた杏果から指導を受けていた。

「今は実際ブロック動かしてないんだから、そんなに力まなくても良いんだよ。それとも、実際のゲームで勝負したい? 歓迎するよ。あたしの大好きな明照君となら何をしても楽しいから」

「え、あ、いや、そ、それは考えつかなかったな。うん、良い考えだね」

こうして3人は歌声喫茶“ひかり”の流儀に則った洗礼を受け、帰る頃には頭の中でコロブチカが無限ループしていた。しかし、それは断じて嫌な現象ではなかった。


帰り道、行きと違いすっかり上機嫌な靖彦は何年かぶりに息子の頭を撫で回した。

「良い所へ連れて来てくれて有難うな。それから、有りもしない容疑をかけて本当に申し訳無い事をしてしまった。父親として不甲斐ない。穴が有ったら入りたい」

「そんな気にしなくても、分かってくれたら十分だから。歌声喫茶は素敵な所。これで分かっただろう?」

何処かで聞いた覚えの有る表現を口にする父に苦笑していると、千枝は明照に何やら差し出した。

「こんな事をしたって済む訳ないとは分かっているけど、せめてもの落とし前よ」

半ば強引に伍阡円札を渡され、明照は目を白黒させた。

「いや、そんなつもりは微塵も…」

返そうとしたが、均と清美から手を掴まれ、諭された。

「受け取っておきなさい。こういうのは下手に突き返すと後が大変なんだ」

「人からの好意は有難く受ける方が利口なのよ」

大好きな祖父母に言われてはそれ以上反論する気になれず、明照は臨時収入を素直に喜ぶことにした。


夕食の後、明照の部屋からはソ連の軍歌“3人の戦車兵”が聞こえてきた。事情をよく分かっているので誰も練習の邪魔をしに行くことは無かった。

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