第24話

管理室から、履歴書と血統書を漁り、全てを記憶した…無限に広がる外界だろうが、それを読めば、凶人の居場所は明らかだ。

猫の家系に割り込んだ人間は、残酷な虐待で猫たちを家から追い出し、その貴族の屋敷を奪い取って生活している…そう書かれていたのだから、檳榔子様も耳にした事実で、間違いなどあるわけがない。

血統書には住所も書かれている。

色売り屋へ訪れるような人間だ…襲撃するならば深夜よりは、暁に近い頃。

子の刻を過ぎ、猫たちも寝静まった頃に。

一匹の猫が外界へ飛び出した。


×


できることなら、今すぐにでも元気になってほしい…そんな幼稚な感情で、教師は筆をとり、お気に入りの雑記帳の頁を一枚破り、言葉を書き出す。

本当なら、この声で意志を伝えたいが…眠る猫を起こすわけにはいかない。彼の眠りは苦痛から逃れるためだから。

でも。

だから。

この声で伝えるのは、それをちゃんとやり遂げた後。彼が安心できるようになった後。

だから今は、置き手紙で伝えよう。

もう大丈夫…ただその一言だけでも。


×


音もなく屋敷に侵入し、寝込みを襲う。

凶人はどうやら感冒を患っているらしい。知ったことではない。むしろちょうど良い。

熱に浮かされ呆けた寝顔を晒すそいつの首をひと突きすれば終わり…そのはずだったが。

猫を殺し慣れている凶人は気配に気づいて目を覚まし、刃を躱した。

そして逆に、枕の下に隠し持っていた短刀で猫の片目を切り裂く。

猫でも痛みは感じる。視界を潰されれば頭は眩む…そして凶人の方が、殺しに関しては遥かに上手だった。

動きが鈍り、くらりとよろける猫の顳顬にどすっ、と深く短刀を打ち込む。猫は白目を剥き、大きく跳ね上がり泡を吹く。鈍い音を立てて倒れ、がりがりと畳を引っ掻き、吃逆のような声を吐きながら壊れたように痙攣する。

その時点で死んでいる。

凶人は溜息のように笑い、ずるりと引き抜いた刀をもう一度、猫の頭部に突き刺した…そのまま体重をかけ、畳まで串刺しにする。

凶人は猫のおさまらない痙攣と奇怪な声を恍惚の目で堪能し…それを玩具にしようと声に出し決定して、舞踊のような足取りで箪笥に向かう。

取り出したのは手錠と拘束鎖、鈴のついた首輪…あの猫尼に似てる、気に入った、と愉しげに独り言を唄いながら、凶人は猫に振り返る。

迫ったのは漆黒の打根の尖端。

避ける暇もなく。

それは凶人の片目に深く突き刺さった。

悲鳴というよりは奇声。続く罵声。怒号。

ずる、と突き刺さったそれは引き抜かれ、闇の中に消えていく。

凶人は拘束鎖を振り上げ、畳の上の標本にした猫に振り下ろそうとした…しかし猫の姿はない。

またどこからか打根が襲う。

凶人の右胸に刺さる。

眼球、鼻腔、そして口から血を垂れ流した凶人が、残った片目を血走らせて、暗い寝室を見回せば。

月明かりを透かした障子を背に立つ、いびつな猫が居た…顳顬から顳顬へ刀で貫かれながら、猫は美しく立っている。

黒装束と血に濡れた顔。

猫と呼ぶには恐ろしく。

鬼と呼ぶには慈悲深く。

月の光の陰から覗く瞳は、明け方の空のような、澄み切った青。

凶人は猫の眼に見惚れ、呆然とする。

殺しに慣れているのが人間ならば、死に慣れているのが猫。死ぬことに関しては、猫の方が上手。

猫は無表情で、自らの頭部を貫く短刀を引き抜き、美しく構え…静かに鳴いた。

「…猫の怨み」


たんっ。

ざ。

ことん。


…気が抜けるような軽い音で、仇討ちは興醒めするほど静かに終わった。

赤い筋を引いて転がる頭部。それを失った胴は、しばらく棒立ちを続けていたが、やがてその形のままばったりと、真っ直ぐ倒れ伏した。

猫は何の表情も浮かべない。

屋敷の奥から、凶人の名を呼ぶ声と足音が近づいてくる…猫は刀を放り投げ、縁側から脱出し、音もなく消えた。


×


もう大丈夫。

その一言を伝えるために、教師は猫の療養部屋へ向かう。

もう大丈夫。

貴方を不安にさせるものは居なくなった。

…自分が殺した、なんてとても言えないが。

最初は信用できないだろうけれど、少しずつ解きほぐし…また笑えるようになってほしい。

みんなは困ってしまうかもしれないが、あの高慢で饒舌な性格も、お客様には高評価をもらっていたのだから。

だから、決して血統だけが成績の全てではない。

貴方らしくあることが、一番、貴方のためなのだから。貴方の魅力なのだから。

だからもう、安心していいのよ。

「───」


「どこへ行っていた、青藤」

…背後に現れる冷たい気配。艶やかな声が青藤を捕らえる。

身動きが取れない。すぐ目の前の扉に手をかけたまま硬直する。

「…答えろ。丑の刻からたった今まで、どこで何をしていたのだ。どのような善事を成し遂げてきた」

「……善…」

逃れられない。

背後の冷気は青藤を逃がさない。その手で触れることもせず、首輪をはめることもなく、ただその声だけで、気配だけで捕らえる。

善事…そう、善だ。壊された教え子の仇を打つために、ひとりの人間を殺してきた。猫が人間を殺してはいけないという規則はない。猫だって怨みを抱く。復讐する力がないわけではないのだから…これは然るべき報復。報い。善なのだ。

だから青藤は、真正面の扉へ微笑んだ。

「はい。浅黄を…あの子の義父を殺して参りました。仇を打ったのです。これであの子は救われます!」

「…なるほど。それは素晴らしい」

くつくつ…耳元で低く喉が鳴る音が響く。

そして。

ひやりと、青藤の肩に、薄い真白の皮膚に覆われた掌が乗せられる…するりと頬に寄せられる頭部。真黒の髪がざら、と触れる。

「では褒美をやらんとな…青藤」

「……は」

青藤の笑みは引き攣り…扉にかけた手に力を込める。

褒美。

甘く響く声に隠れるのは。

確かな邪悪と欲望。

あり得ない。あり得ない。そんな物。

「青藤…お前の願いを叶えてやろう」

「…違います。私の願いは、そんなものではありません…」

あと少しでも身体が動けば。

この扉の向こうのあの子に、本当の安らぎを伝えられる…ただそれだけ。それだけを。

「…せめて、あの子に一言だけ…」

「私はお前を封じてなどいない。その向こうへ行きたいのなら行くが良い」

黒い袖が青藤を横切り、素早く扉を開き。

途端。

とん…と、軽く背を押され、青藤は漆黒の闇の中へよろけて倒れる。

間も無く扉が閉まる。

そこに愛おしい教え子の姿はなく。

そこは猫の療養部屋などではなく。

扉が閉まれば、密閉された箱の中だ。

「……檳榔子様‼︎」

「あの猫への言伝なら、とっくに置いてきただろう。それでじゅうぶんだ。足りぬというのなら、私が直々に伝えておこう」

青藤は扉を探す…どこからか響く主人の艶やかな声を暗闇の中で睨みつけ、恐怖と憎悪に顔を歪ませる。

「貴方じゃあの子を救えない!」

「まるで人間のようだな、青藤」

「あの子を救ったのは貴方じゃない!」

「だが所詮猫だ」

「あの子を救ったのは!」

「醜く、承認欲に溺れた、傲慢で、残酷な」


「あの子を救ったのはこの私だ‼︎」


「ああ、お前は紛い物だったな」

がたん。

何かが動き出した。

灼熱が襲う。

暗闇では何も見えず。

きっと直後に響いた破裂音も、奇怪な声も。

誰にも聞こえない。

いつになっても。


×


目を覚ました黄の瞳の猫は、枕上に置かれた紙切れを手に取った。

細かく破かれたそれに何が書いてあったかなど、猫には読めやしない。

その背後の黒い影が頭を撫でる。

「もう大丈夫だ。石黄」

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