第32話

 山代高校の夏休みがスタートした。

 学生として夏休みを過ごすのは実に何年振りだろう、とナツは内心ワクワクしていた。

 最近はピアノの話をよく聞く。今まで母との関係を断ち切りたかったが為にピアノからは入院生活以来距離を置いてきたが、やはり体に馴染み過ぎていて、やはり自分はこのピアノという運命から離れることが出来ないらしい。


 ――可笑しくて笑えてくる。


 それに今はカイやリク、それにソラまでもがナツの音楽を求めてくれている。ナツは不思議とピアノに対しての嫌悪感は無かった。

 ナツは居間にあるピアノに触れ、椅子に座ってみる。手始めに以前も弾いた“キラキラ星”を軽く弾いてみる。やはり初めて覚えた曲なだけあり、とても気持ちよく弾くことが出来る。次に、“ドビュッシー・月の光”を弾いてみる。この間は忘れていた箇所があった為、少しだけ悔しかった。昔、楽譜を隠した箱がこの部屋にあったことを思い出し、ナツは箱を開け楽譜を漁った。


「――あった」


 何故、この曲が一番好きだったのか未だに理由が分からない。母がよく褒めてくれていたからだっただろうか。いや、違う気がする。


 入院生活が始まってから2年が経過した頃である。当時ナツは入院生活に参っており、その様子を見ていた彼の母親が、退屈まぎれになればと電子ピアノを買ってあげたのがあの動画の始まりだった。

 ある日のこと。病室にいることすら嫌になった彼は病状がかんばしくない日に限って部屋から抜け出した。ひと気の無い廊下に逃げ、その場に座り込み電子ピアノを抱きしめたことがあった。座り込んでしまったのはまだ体が完治していない為だ。少しでも歩くと、息をするのもしんどい。彼はこの日、正確にはひと気の無いどこか遠くの場所に行きたかったのだが、廊下に出るまでが彼の体力の限界だった。

 ポツンと一人でいることがこんなにも怖いことだなんて思いもしなかった。怖くて目頭が熱くなって泣きそうになる。誰もいないけれど恥ずかしくて俯く。無意識のうちに持ち出した電子ピアノを更に強く抱きしめていた。


 ――あ、ダメだ。泣く。


 泣いちゃダメだと思う度、涙が止まらなくなった。

 心細い。誰か助けて。叫ぼうとしてもどうせ助けてくれる人はいない。


 ――死にたい。


 もう疲れた。いっそこのまま病気を悪化させて死んでやろうか。この世界に未練など無いのだから。

 泣いた所為で疲れが出て、目が段々と伏せてくる。このまま寝てしまったら果たして楽になれるのだろうか。そうこうしているうちに体から力が抜けていく。ついにナツは廊下に倒れ込んでしまった。


「そんなところで何してるの?」


 高い音がナツの耳を刺激し思わず現実世界に意識を戻した。女性の看護師が探して病室へ連れ戻しに来たのかと思った。だけれどその声は妙に子供っぽい印象だった。


「どこか痛いの?」


「……子供?」


「? 君も子供でしょ? だって、ほら。ここ小児科病棟だもん」


 この子供、何を言ってるんだ? 恐らく自分よりも2つ3つ下の男の子は何故床でピアノを抱きしめながら寝転がっているのか不思議に思っているといった顔をしていた。ナツは残りの少ない体力を使い壁にもたれかかり、座った。


「よいしょ」


「なんで、座るんだよ」


 男の子はなんの前触れもなくナツの隣に座った。


「ぼくね今お父さんとかくれんぼしてるんだ」


「……」


「そしたらね、ここに迷っちゃったんだ。怖くて歩いてたらお兄さんが寝てた」


「そう」


「お父さん、忙しいから滅多に遊んでくれない。さっきも病棟から一人いなくなっちゃって、その人を探しに行っちゃった」


 もしかしたらそれは僕のことかもしれない。少しだけナツの中に罪悪感が芽生える。


「ぼくのこと、好きじゃないのかな……」


「……違うと思う」


 泣きそうになっている彼を見てナツは何故だかどうにかしてあげなければ、と思った。全くもって損な役回りである。それでも、何かをしてあげずにはいられなかった。


「君のお父さんはきっと君のこと好きだよ。ただ今回は仕事だから仕方が無かったんだよ……きっと」


「そうかな?」


「そうだよ」


 自分には父親がいない。物心つく前に両親は離婚していた。だからといってナツには父親が欲しいとは思っていなかった。羨ましいとも、思っていない。だけど、自分より年齢の低い子供が気を落としているのを見るのは嫌だったのでそう答えるしかなかった。


「…………それ、ピアノ? 弾けるの?」


「……一応。」


「聞きたい! ねえ、弾いてみて!」


 何を言っているのだろう、この子供は。人見知りしないのか。この頃の時期は結構するものじゃないのか? ナツはこの時心底嫌そうな顔をしていたと自分でも思う。さっきまで期待した瞳で見ていたかと思えば子供は急におどおどし始める。


「…………はあ。……期待しないでね」


 ナツは子供の押しに負けた。電子ピアノの電源を入れる。人がいない場所とはいえ音量はさすがに下げた。

 一番自信があって弾けるもの、というと“ドビュッシー・月の光”。得意な曲の中で暗譜している曲はこれしかない。

 息を吸ってゆっくりと吐く。

 ピアノという楽器は素晴らしいと思う。綺麗な音が廊下を包んでいく。ああ、嫌いなのに、この音色を聞くと不思議と全てがどうでもよくなるのだ。

 子供に目を向ける。彼はまたキラキラとした純粋な目で曲を大人しく聞いていた。そういえば、名前は何なんというのだろう。服に学校で使用しているであろう名札がついているのが確認できた。


「うおなみ、そら?」


 ナツは思わずピアノから手を離した。


「……ねえ、君のお父さんって」


「――やっと見つけたわよ! 夏人くん!」


 その声には聞き覚えがあった。振り向くと、担当の看護師・青山が仁王立ちしてナツたちを睨んでいた。ナツは即座にピアノの電源を切り抱え込んでその場から逃げようとしたが、その眼光の強さに足がすくむ。


「青山さん……」


「青ちゃん先生だ!」


「あら? ソラくんこんにちは。どうしてこんなところにいるの?」


「今、お父さんとかくれんぼしてるんだ」


「そうだったの。……でもごめんなさいね。彼、実は熱が酷いの。だからピアノはもうお終い」


「えー、残念」


「夏人くん。病室に戻るわよ」


「……はい」


 青山は少し呆れた顔をしてナツに手を差し伸べる。その手はとても暖かかった。


「ねえ!」


 子供――ソラがナツの服の裾を掴む。突然のことでナツは思わず驚いてしまった。


「また、ピアノ聞ける?」


 掴まれた裾がわずかに震えている。心を許した知り合いが急に連れて行かれる状況が、彼にはきっと怖く見えているのだろう。

 ナツはこの時、この子を安心させなきゃと思ってしまった。泣きそうな表情が妹に似ていたから。握っていた裾からソラの両手を離し、優しく握る。


「……うん。今日はもう難しいかもしれないけど、治ったらまたピアノ聞かせてあげる。だからそんなに不安がることはないよ」


「う、うん」


 ああ、なんてキラキラした目なのだろうか。

 その目の輝きは、きっと生涯忘れることはないだろう。

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