新幹線にて

 九月半ばの三連休前の金曜日、克文は東京駅で正午に朋恵と待ち合わせていた。正午を五分ほど過ぎた頃、克文は待ち合わせ場所の新幹線乗り換え口の前まで来ていた。克文はキャリーバッグの側で、人待ち顔をしている朋恵を見つけた。背が高く、美人なので目立った。黒の花柄ワンピースにパンプスという服装は、今日という日に相応しいと思えた。克文に気付くと、朋恵は手を振って、笑顔を見せた。

 新幹線に乗ると、二人でシウマイ弁当を食べた。克文は女性と二人で新幹線に乗るのは初めての体験だった。それ自体、非常に胸躍る体験だが、今回は旅と人生の門出が重なり、めくるめく高揚感をもたらした。まだ家族の誰にも自分が朋恵と帰省することを話していなかった。克文は妹のあっけにとられる顔を想像してほくそ笑んだ。しかし、得意になるのは、どこか怖いものがあった。朋恵との交際期間はまだ浅かった。この時期は、まだまだ関係は盤石ではないと言えた。その中で、こうして二人で帰省の旅につくことは大きな一歩である、と克文は考えていた。朋恵との同棲が今まさに目の前にあった。

「すごい、美味しいね」

「うん。シウマイ弁当当たりだったね」

 崎陽軒のシウマイは横浜のソウルフードだった。もう、しばらく食べられなくなるだろう。田舎での生活は、物質的な面で都会よりも制約がある。しかし、朋恵との暮らしは、大きな違いであり、生活面の制限を大きく上回るものである。都会で独り暮らしをするよりも、田舎で女性と暮らした方がどれだけ楽しいか。都会という環境を活かしている人など、一部の特定の職業の人だけだろう。展覧会やクラブが生活に不可欠とまでは言えない。なくてもどうにかなるものだ。しかし、女性なしの暮らしはどうだろうか? ずっとそうした暮らしだったが、それは望んだことではない。積極的に望むことは、女性との暮らしであり、環境は二の次ではないだろうか。

 弁当を食べ終わると、克文はリクライニングしたシートに身体をもたせ掛けた。窓際の席の朋恵も同じような体勢になると、こちらを向いて、「昼寝する?」と訊いた。

 克文は朋恵と見つめ合っているうちに、キスしたい気分になった。しかし、シウマイを食べた後なので、手に触れるだけにとどめた。朋恵は克文の手を握った。朋恵も自分と同じことを考えているように思えて、それが何よりも嬉しかった。

「そうしようか」

 目をつむると、思い返されたのは、この「逃避行」の裏面だった。佐渡に帰ることを話したときの、葵の反応は想定外だった。それは克文に罪悪感を抱かせるほどだった。


 六本木で展覧会を見て、夜、渋谷のパスタ店で食事していたときだった。

「そうなんだ。一人で?」

 眉をひそめた葵の表情には、静かな悲しみが籠もっているように見えた。克文が「従妹と一緒に」と言うと女の表情は俄に険しくなった。

「従妹と? 従妹を取るんだ」

「……」

 克文は視線を反らせた。次の瞬間、冷たいものが克文の顔にかかり、思わず声を上げた。葵は空になった、水の入っていたグラスを手に、怒りに震えていた。

「勝手にしろ!」

 そう吐き捨てて、女は店を出ていった。


 結局、自分は何一つわかっていなかったのだ、と克文は考えざるを得なかった。葵にはもっと相応しい相手が見つかると思っていた。だから、円満に別れることができる、と。ところが、葵は想像以上に自分を恋慕していたのかもしれない。あるいは、振られるということをまったく想定していなかったのかも。いずれにしても、葵を傷つけたことは間違いなかった。まだ、朋恵に彼女との出来事は話していなかった。話すかどうかも決めてなかった。


 克文が新幹線のトイレで小便をしていると、誰かが入ってきた。振り向くと、葵だった。葵は黒のパーカーをかぶっていた。

「えっ、どうしてここに?」

 動揺のあまり小便があらぬ方向に飛んでしまった。

「次の駅で降りて、私と東京に戻って」

「今更そんなことできない」

「まだ間に合う。楽しかったのにどうして?」

「俺には従妹に対する責任がある」

「私にはないの?」

「君には僕よりも相応しいひとがいる」

「みんなそう言う。確かに十年前二十年前ならそうだったでしょうね。でも、この歳ではどうかな?」

 ようやく克文の小便が終わった。

「とにかく、ここから出なよ。女性が入るところじゃないぜ」

「次の駅で降りるって、約束してくれたら、出る」

 葵はそう言うと、パーカーのポケットに隠していた手を出した。手にしていたのは、バタフライナイフだった。葵は手品のような動作で、すばやくバタフライナイフの刃を出した。

「そんな物騒なものを持ってたのか。わかった。言う通りにするよ。だけど、約束してくれ。従妹には何もしないって」

「言う通りにしたらね」


 朋恵はずっと寝ていた。克文が熊谷で下りるときも気づかなかった。

「これで満足?」

 克文は駅のホームを移動中に背後の葵に訊いた。女は答えなかった。ちょうど朋恵の席の前を通ったとき、折悪しく彼女は自分たちに気づいた。哀れな女はぽかんとした顔をしていたが、次第に泣き出しそうな表情に変わった。克文は慌てて「違う、違う」と言いながら両手をクロスさせて振るジェスチャーをした。

「さあ、行くよ!」

 葵は声を上げた。克文は手を掴まれ、引っ張られた。

「正気か? こんなことをして何になるっていうんだ。暴力は何の役にも立たないぞ。恋愛では」

 克文はエスカレーターで下りているときに、背後の脅迫者の方を向いて言った。

「大人なこと言うね。だけど、君は私にひどいことしたんだよ。許せない」

葵はバタフライナイフの刃を出すと、こちらに向けた。そのナイフの煌めきには、葵の眼差しに漲る怒りが宿っているように思えた。相手の言うことには一理あった。

(しかし、友達でいたいって言ったのは君じゃないか)

 克文はそう思ったが、口にしなかった。結局、自分もそれ以上の関係を望んでいたのだから。葵は本気で俺を好きになったのだ。そう思うと、克文は感動した。同時に、彼女に対してすまない気持ちになった。

(そうか。それほどなら――)

「どうしても許せないんなら、れよ! 刺せよ!」

 克文が大声を出すと、女性の悲鳴が聞こえた。エスカレーターの人たちが慌てて下りた。葵はナイフを自分の首元に向けた。

「やめろ! 自棄になるな」

 克文は蹴られて、エスカレーターから落下した。

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