幕間〈カクヨムコン期間用〉

七瀬の巻き戻しボタン

「ねぇ、れんくん。ちょっと私に『好き』って言ってみて?」

「へ?」


 七瀬ななせの好き好き攻撃はいつも唐突に始まる。しかし、この日はちょっと様子が違っていた。

 ところは彼女の居候先の自室。小説サイトへの復帰から少し経ったこの日、俺は何度か見慣れたこの和室に招かれ、彼女と各々の執筆に打ち込んでいるところなのだったが――。


「す……好きだよ」


 求められるがまま、俺がちゃぶ台のノートパソコンから顔を上げて言うと、文机ふづくえの前からこちらに振り返っていた彼女は、「うーん」と可愛く唸って体ごと向き直ってきた。

 清楚なキュロットスカートに覆われた膝の上に、ちょこんと両手を揃えて、ノーマスクの彼女がぐっと上体を乗り出してくる。


「もうちょっと、違う表現で」

「えぇ……?」


 その笑顔にいつものように心拍数を上げられながら、俺はひとまず彼女の望みに従って脳内辞書から語彙を引き出す。


「……き、キミに心惹かれています、とか」

「いいねっ。他には?」

「月が綺麗ですね……?」

「だからそれはウソだって。お昼だし」


 笑って指摘する彼女に、俺はドキドキする胸を押さえて、頼みの綱の突っ込みモードを引っ張り出した。


「いや、これ、何の時間なの」

「んー? ちょっとねー、ユリの告白シーンをどうしようかなって。もうちょっと劇的に、って菊池きくちさんに言われてるんだよね」


 彼女がいま取り組んでいるのは、『オルフェウスの楽園』の第二巻の原稿の直しだった。作品が本になるまでには、何度も何度も担当編集とのラリーを繰り返し、本文を練り上げていくプロセスがある。

 新たな命を得て戦いに臨む主人公・ケントに、ヒロインのユリが秘めていた想いを伝えるシーンの存在は、もちろん俺も知っていたが……。


「……だったら、それ、俺じゃなくて七瀬が『好き』って言わないと」


 女子から想いを告げるシーンなんだから――という程度の意味で俺は言ったが、半秒後に「そうだねっ」と声を上げた七瀬の顔には、完全に幸せモードの色が浮かんでいて。


「ユリのケントへの気持ちは、私の蓮くんへの気持ちだもん」

「そ、そう」


 硬直しきった俺の前で、彼女は満面の笑みで言葉を弾ませてくる。


「蓮くん、だーいすきっ」


 ずばっと真正面から心臓を射抜かれ、俺は思わずのけぞりながらも、やっとのことで呼吸を取り戻して突っ込みを入れた。


「い、いや、ユリはそんなこと言わないでしょ……」

「そうだねー、言わないねー」

「キミが好きって言いたかっただけじゃん」

「バレた?」


 もう何度か見慣れた、チロッと小さく舌を出してくる仕草。何度見ても可愛いものは可愛いので、これをやられるたびに俺の思考は強制的に数秒間止められてしまうんだけど……。


「……ていうか、今さらだけどさ」

「んー?」


 俺には主人公らしく告白するチャンスをくれた割に、肝心のケントには告らせないんだな……なんて思いながら、俺は彼女の目を見て尋ねる。


「もし、あの時、俺が告白せず日和ひよってたら……七瀬はどうするつもりだったの」

「その時は、私からお願いしてたよ?」


 小さく首を傾けて彼女は即答した。……そうなんだ。


「じゃあ、ちょっとそれ、今やってみてよ」

「なんでっ。さすがに恥ずかしいよ」

「だって、ユリのセリフ決めるんだろ」


 そこで、頬をほのかにあかくしていた彼女は、初めて目的を思い出したように「そっか」と呟いて。


「じゃあー、あの日に時間を巻き戻しましてー」


 くるくると指を回す仕草を見せながら、照れ隠しなのか何なのか、急に変なクイズを差し込んできた。


「あっ、『巻き戻す』って、なんで『巻き戻す』って言うか知ってる?」

「はい?」

「DVDの早戻しボタンってあるでしょ。あれ、昔のカセットとかビデオは、ほんとにテープを巻いて戻してたから、巻き戻しボタンだったんだよ」

「へー……」


 さすがにカセットテープやVHSの存在くらい俺だって知ってるけど、時間を巻き戻すとかの「巻き戻す」の由来が、そんなところにあったのは盲点だった。


「さすがにイナカ育ちはよく知ってるなぁ」


 いつものイジリに、七瀬は期待通りに「むぅ」と頬を膨らませる。


「私の地元だってDVDくらい普及してましたー。なんならブルーレイもありましたー」

「村長さんの家に村で初めてのブルーレイプレイヤーが……」

「普通に一般家庭にあるもん!」


 怒ったふりして声を上げる彼女はやっぱり楽しそうで、俺もついつい頬が緩んでしまう。


「七瀬さぁ、その、『何々だもん』がほんと反則なんだって」

「……警視庁があるのは」

「はい?」

桜田門さくらだもん?」

「……いや、それはちょっと、何言ってんのかわかんないけど」


 努めて真顔を作って言うと、彼女は素で恥ずかしそうな顔をしてから、仕切り直しのように再び指を回すジェスチャーに戻っていた。

 今度は「きゅるきゅるきゅる」と小声で口に出している。何なんだ、この可愛い人類は……。


「はい、巻き戻ったよー。尾上おがみくん、何か私に言いたいことがあるんじゃないのかな?」


 久々に名字で呼ばれ、逆にドキッとした。


「……ずるくない、それ」

「ずるくないよ。主人公らしく決めさせようとしてあげてるんだよ」


 あの日と同じ星の瞳が俺を見つめてくる。えっと……。何と返せば彼女から告白してくるルートに入るんだっけ?


「……ちょっと待って、ここから俺が告らない選択肢が見えない」

「えー?」

「だって、ナナセ先生、可愛すぎるし……。『言いたいことがあるんじゃないのかな』以前まで戻さなきゃムリだって」


 かつてのようにペンネームの名字のつもりで「ナナセ先生」と呼ぶと、彼女も一瞬どきりとした表情を見せてから、ふうっと息を吐いた。


「しょうがないなー。えっと、じゃあ……まずチカちゃんを掃除用具入れに隠れさせて……」

「はぁ!? アイツあの時そんなとこにいたの!?」

「ウソウソ、冗談だって」

「キミの冗談、わかんないんだよ」

「どうせジョークのセンスはないですよー」

「いや、センスがないとかじゃなくて……」


 真顔で冗談を言ったり、イタズラっぽい顔で本気のことを言ったりするから、この子は本当に読めないのだ。ジョークセンスの問題じゃなく……。

 と、そこで、彼女はすっと座椅子から立ち上がり、陽光の差し込む窓辺まで歩いて、あの日と同じゆっくりした動きで俺に向き直ってきた。


「さて、尾上くん。大事な話のお時間です」

「は……はい」


 俺もつられて立ち上がる。無意識の内に背筋が伸びていた。


「……このまま何も変わらなかったら、私達、あと三ヶ月くらいでお別れなんだけど……」


 既に通り過ぎた時間なのに、ごくりと息を呑んでしまう。

 あの日、夕映えを照り返して輝いていた彼女の黒髪が、今は暖かな光をはらんでいて――


「私、キミと離れたくない」


 上目遣いの一言に、どくんと心臓が高鳴った。


「好きなの。前に助けてくれたからじゃなくて……今のキミが大好きなの」


 その真剣な瞳から、胸の前で握った両手から、空気を震わす言葉から、想いの波が俺に押し寄せる。演技を超えたリアリティで迫ってくる彼女の勢いは、本当にその世界線にトリップしているかのようで。


「私と恋人になって、これからも一緒にいてください」

「はっ、はいっ……こ、こちらこそ、お願いします……」


 俺も完全にその空気に飲まれ、本気で返事してしまっていた。

 ……そのまま数秒見つめ合ってから、二人同時に「恥ずかしっ」と声が漏れる。ほとんど悶絶しそうになって口元を押さえる俺の前で、七瀬も体の力が抜けたように、畳の上にぺたんと女の子座りで崩れ落ちていた。


「何この時間、誰が始めたの……」

「どっちかって言うとキミでは」

「ちがうよ、蓮くんだよっ」


 むーっと俺を見上げてくる彼女の顔は、見たこともないほど真っ赤に染まっていた。


「七瀬もそんな顔するんだ……」

「するよっ! 私だって生身の女の子だもん!」

「……警視庁は桜田門?」


 何が面白いのかわからない駄洒落を繰り返すと、七瀬はくすっと笑って、「桜じゃなくてユリだもん」とやっぱりよくわからないジョークを重ねてくる。……いや、突っ込み役がいないと回らないぞ、これ。


「じゃあ、早く、今の気持ちを忘れない内に文章にしたら」


 強引に本題に繋げながら、彼女の前にしゃがんで手を差し伸べると、


「そうだったっ。……あ、でも」


 くいっ、とその手を引かれ、バランスを崩されるがままに、俺は彼女のすぐ隣に尻餅をつかされて――


「ちょっとだけ、浸らせて?」


 そんな甘い声に続いて、ひらりと体勢をひるがえした彼女が、あの日と同じくたちまち俺の唇を奪っていた。


「っ――!」


 やっぱりこれがやりたかったのか、と思いながらも、せめてもの切り返しとして。

 数秒後、唇を離した七瀬が幸せそうに微笑んでくる隙を突いて、巻き戻し、と俺は小さく呟き、今度はこちらから唇を重ねる。


 ……もちろん、大学生になるまでおばさんとの約束は破れないけど、だからこそ、許される限りの接触に浸りたい気持ちは二人とも同じで。

 それからしばらく、彼女も俺も、とても執筆は手につかなかった。

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