第29話 運命の人(1)

 ファミレスで誓い合ったその日を境に、藤谷ふじたにさんと俺は、それまで以上に部室でも通話でも熱心に言葉を交わすようになった。

 目的はただ一つ。『オルフェウスの楽園』の続刊の企画案を仕上げて担当編集にぶつけ、出版の可能性を確実なものにすることだ。

 この作品に込められた想いを聞いた俺としては、主人公・ケントの物語に蛇足を付けたがらない彼女の意志も、できる限り否定したくない。その上で、レーベルが望む「売れる続刊」の条件を満たすアイデアを捻り出すなんて、ワナビ崩れの俺には荷が重いけど――

 それでも、何とかしたいと思った。こんな俺でも彼女が必要としてくれるなら。


『でも、尾上おがみくん、受験勉強の時間もちゃんと取ってね?』


 とは、ある夜の通話で、二時間ほど続編のアイデアを語り合ったあとに、彼女が心配そうな声で言ってきた言葉。

 正直、勉強なんか放り出したくなるくらいだけど、こっちはこっちで手を緩めるわけにはいかない。滑り止めにも受からず浪人なんてことになったら、ただでさえ不釣り合いな彼女と俺の立場は、ますます釣り合わなくなる。

 なんて、恋人でも何でもないのに、そんなことを考えるのは恐れ多いだろうけど。


「するよ、するする」

『がんばってね、私のためにも』


 ふわりと発せられる彼女の言葉に、どくんと心臓が脈打ち、熱くなる血流が俺をそのまま勉強へと向かわせる。

 ……この美少女は、俺にやる気を出させるすべを、親より教師より誰より心得ているようだった。



***



 そして、またたく間に一週間が過ぎて、金曜日の放課後。

 朝から月食げっしょくの話題で同級生達が盛り上がっていたその日、いつものように俺達が部室でノートを挟んで続編案と格闘していると、今日は月食を見に行くと言っていたはずのチカが、ひょっこり部室に顔を出して言った。


「なーんか、文芸部が初めて文芸部らしいことしてますよねー」


 藤谷さんと俺の熱心な姿を見て、小生意気な後輩はマスク越しにニマニマと笑みを浮かべている。手伝わないなら早くどっか行けよ、とでも言おうとしたところで、美少女作家が先に口を開いていた。


「ねぇ、今さらだけど、私も入れてよ。文芸部」

「……いや、そんな。商業作家を部員になんか、恐れ多いって」


 やや本気寄りの発言と察しながら、それでも恐縮して俺が言うと、チカも横から「そうですよっ」と乗っかってくる。


「ナナセさん、そんなことになったら部長のコイツより下の立場ですよ!?」

「その俺をコイツ呼ばわりするお前は何なんだよ」


 お決まりの応酬にクスリと笑いつつ、藤谷さんはふいに優しい目を後輩に向けた。


「そっか、来年はチカちゃん一人になっちゃうんだ。寂しくない?」

「大丈夫ですよ。私が部長になったら、『虹星ななせ彩波いろはのいた文芸部』って宣伝して人集めまくります!」


 無い胸を張って自身満々に言い切るチカ。いや、それは虚偽広告だろ……。


「言ってるそばから矛盾してんじゃん」

「うるさいですねっ、矛盾のカタマリみたいな男が」

「矛盾のカタマリ!?」


 俺のオウム返しをさらっと流して、チカは俺達の間のノートに目をやり、出し抜けに、ふっと嬉しそうに息を漏らして。


「このザコ犬に関して私が一つだけ認めてたのは……どんなに弾き返されても、諦めずに書き続けてたことですよ」


 と、聞いたこともない言葉を口にしてきた。

 えっ、と思わず息を呑む俺の眼前で、藤谷さんが「そうだね」と微笑む。


「そんな尾上くんを知ってるから、私も頼りたくなるの」

「……いや」


 そんな、いきなり二人揃っての褒め殺しとか、調子が狂うんだけど……。

 俺が言葉を返せずにいると、チカは下ろしたばかりのスクールバッグを、えいやっと肩に掛け直し、


「じゃっ、私はクラスの友達と月食見に行きますんで。あとは若い二人でー、ごゆっくりー」


 そう言って退散する間際、「あっ、センパイ」と、思い出したように部室の扉から再び顔を覗かせた。


「なに」

「いくら今夜が月食の日だからって、『月が綺麗ですね』なんて月並みなセリフで告るのはダメですよ?」

「ちょ、お前っ……!」


 俺が慌てて立ち上がるよりも早く、後輩はニヤついた笑みだけを残して、たたっと素早く部室を後にする。

 アイツ、本人がいる前でなんてことを……。いや、別に、告白なんてする予定はないんだけど……。

 恐る恐る視線を向けると、美少女はくすくすと楽しそうに笑っていた。


「……あの、安心してよ。そんな急に言い出すつもりとかないから」

「急じゃなかったら言うんだ?」

「いや、それは……!」


 たちまち熱くなる顔をそむけ、やっとのことで俺が着席し直すと、彼女は手元のペンを軽く振りながら、弾むような声で言った。


「まあ、その漱石の和訳の話ってウソだしねー」

「そうなの!?」

二葉亭ふたばてい四迷しめいの『死んでもいいわ』の方は本当にある訳だけど、原文は『私はあなたのもの』だし」

「……へぇ」


 なんとかして原文を言わせようと誘導しているんじゃないだろうな、と勝手にヒヤヒヤしていたら、そのとき、机に置かれていた彼女のスマホが短く震えた。


「メール?」

「うん、菊池きくちさんかな」


 彼女の白い指がすいっとスマホの画面を滑る。……その画面を見た瞬間、可憐な瞳が微かに強張った気がした。

 この一週間で、彼女は既に二度ほど続編の企画案を菊池氏に送っていたが、いずれも色よい返事は得られていない。

 これも悪い報せだろうか……と自分のことのように緊張する俺の前で、彼女は穏やかな目を作って、すっと画面を俺に見せてくる。俺は呟くようにその文面を読み上げていた。


「……ケントの生死に関する虹星ななせ先生の方針は、私としては尊重したく思いますが……やはり、上のほうが良い顔をしません……」


 俺がそこまで口にしたところで、彼女は「……だって」と伝聞の終わりの口調で付け加え、マスク越しに空元気のような微笑みを見せた。

 画面には、「それでも、何とか続刊を通せるように頑張りましょう」という一文が続いている。あの編集者の誠実そうな顔が思い出されて、最悪の報せでなかったことに少し安心したが、状況が厳しいことに変わりはない。

 そっとスマホを机上に戻して、彼女は「はぁっ」と演技めいた溜息をついた。


「難しいねー、上の人にも納得してもらうのって。自分で言っておいてナンだけどさ……前作主人公の生死を伏せたままでの続編って、それこそ、かぐや姫レベルの無理難題だよね」

「……でも、その点さえクリアすれば希望はあるってことじゃん」

「希望はあっても、時間がないのだよー」


 頭を抱えて天を仰ぐポーズをする彼女に、俺は「まぁ……」と呟いて同調する。

 続刊はスピード感が命、という菊池氏の念押しは、俺も彼女から聞いて理解していた。

 ただでさえ、新作の企画に寄り道した時間が徒労に終わってしまった今、一刻も早く続刊の内容を纏めなければ、デビュー作の鮮度が失われて商機を逃してしまう。レーベルはいつまでも待ってくれるわけじゃないし、菊池氏だって彼女一人の面倒だけをずっと見ているわけではないのだ。


「ナナセ先生、そもそもさ」


 話していれば突破口が閃くかもしれないと思って、俺は作者に尋ねてみる。


「ケントはなんで最後、死んだかもしれないみたいな描写にしたの。せっかくユリに言われて夢を持てたんだし、もっと希望の見える終わり方でもよかったんじゃ?」

「……んー、それはね」


 珍しく、恥ずかしそうなはにかみを見せて、彼女は「笑わないでね?」と切り出した。


「実はね、ユリには、私自身の人生を投影してるの」

「……いや、それは、見ればわかるけど」


 ほとんど反射的に返すと、彼女は「えっ?」と本気で驚いた目で俺を見てくる。


「わかってたの!?」

「どう見てもそうじゃん。デビュー前のキミだろ、ユリって」


 虹星ななせ彩波いろはの来歴を知ってさえいれば、誰でも行き着く発想だと思うんだけど……。


「やばっ……菊池さんにも誰にも見抜かれなかったのに……。やっぱりキミは、私の運命の人……」


 ほとんど放心したような瞳で俺を見つめて、彼女は、先日俺が途中で遮った言葉をあっさり最後まで述べてきた。


「いやいや、そんな、大袈裟なっ」


 俺がぶんぶんと手を振って否定を示すと、彼女はふふっと優しく笑って――そして。


「……もう、言っちゃってもいいかな」


 思わせぶりな台詞を独り言のように呟いて、うん、と一人で頷き、まっすぐ俺の目を見て告げた。


「ケントをこういう終わらせ方にしたのはね。彼のモデルになった人が、私の前から消えちゃったからだよ」


 えっ――。

 ざばっと冷水を浴びせられたような衝撃。

 思ってもみなかった発言に、たちまち心臓が締め付けられるような感覚がして、俺は「……ふぅん」と生返事を返すことしかできなかった。

 ……正直、ショックは否めない。恋人から元カレの話とか聞かされたら、きっとこんな気分なんだろうか。


「……モデルとか、いるんだ」

「うん」


 前に自室でケントの話をしていた時のように、彼女はマスクの下の頬をうっすらと赤らめ、遠い目になって窓の外を仰いだ。

 ……なんだよ。あの時は、俺に寄せたキャラだとか、時系列のバグった冗談を言ってたのに……。

 当たり前だけど、やっぱり彼女には俺の知らない人生があるよな……と、俺が一人で意気消沈しかけたところで。

 そんな胸中を知ってか知らずか、彼女は俺に優しく笑いかけて、そっと席を立ち、窓辺に向かって歩いた。

 薄暮れの空に浮かぶ月には、既に左端から影が差し始めている。


「一緒に見て、尾上くん。月食が神秘的だよ」

「……月が綺麗だよ、じゃないんだ」


 そりゃそうだよな、と思いながら、それでも俺は椅子から立ち上がり、一人ぶんの距離を空けて彼女の隣に立った。

 いつものようにその距離を詰めてくることもなく、彼女は語り始める。

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