4. いきなりの自宅訪問

第16話 離れたくないな

 藤谷ふじたにさんとの衝撃のデート……と呼んでいいかはわからないけど、ともかく緊張の外出から二日後の月曜日。

 学校で顔を合わせた彼女は、例によって皆の前では挨拶以上のやりとりは求めてこなかったが、それでも「おはよう」と俺に微笑みかけるその眼差しには今まで以上の親しみがこもっているような気がして、俺は朝から顔が熱くなるのを抑えるのに必死だった。


 その日のホームルームでは、大学入学共通テストの出願について担任から少し話があった。

 来年一月に迫った受験の山場のことを考えると、「学校は通過点に過ぎない」と言っていた藤谷さんの言葉がふと脳裏をよぎる。教室の中ほどの彼女の席にちらっと目をやれば、優等生ぜんとしたその後ろ姿は、真剣に、あるいは楽しんで、担任の手短な話に聴き入っているように見えた。

 ……勉強もできるみたいだし、きっといい大学に進学するんだろう。

 一昨日は「尾上おがみくんと出会えただけで十分」なんて、ドキッとするような一言を俺に向けてきた彼女だけど、半年後には彼女と同じ学校に通える時間も終わってしまうわけで。……そんなことを思うと、どうにもならない切なさに胸が締め付けられる思いがした。


 ホームルームが終わると、陰キャ仲間の稲本いなもとが、しみじみといった声で「共通テストかぁ」と話を振ってきた。


「尾上、勉強してる?」

「まあ、ボチボチって感じ。そっちは?」

「俺はやってるよ。ちょっと最近、塾が楽しくてさ」


 黒縁メガネの奥の彼の目が「聞いてくれよ」と言っているように見える。なんだか、マスク越しに人の表情を読むということが、藤谷さんと出会う前より得意になったような気もするな……。

 それより、塾が楽しいって?


「なに、なんか聞いてほしそうじゃん」

「わかる? ちょっとさぁ、俺にも運が向いてきたって言うか」

「もったいぶるなって。なに、女子がらみの話?」


 俺が問うと、彼は待ってましたと言わんばかりに「実は」と切り出すのだった。


「塾の子がスマホにアニメキャラのカバー付けててさ。こないだ思い切って『オタクなん?』って声掛けてみて、ちょっと授業の後とかに話すようになったんだよね」

「へえ。やるじゃん」


 第一声がオタク呼ばわりはどうかと思うけど、少なからず見知った相手が非リアを脱出しようとしていると聞けば、俺だって嬉しくないわけじゃない。

 俺が応援のつもりで「まあ頑張って」と言うと、稲本は少し照れたような頷きで応じてから、ふいにこちらにも水を向けてきた。


「そっちはなんか、そういう話ないの」


 他意のない級友の問いかけに、思わず藤谷さんの席のほうへ目が泳いでしまう。彼女は今も何人ものクラスメイトに囲まれ、楽しそうに談笑していた。


「……ないと言えばないような、あると言えばあるような」

「おっ? ……まさか美少女作家がらみ?」


 俺の視線に目ざとく気付いたのか、それとも彼女とちょっと挨拶する仲であることくらいは彼の耳にも入っているのか、稲本は声をひそめて聞いてくるが……。


「違う違う。……まあ、いつか話すって」


 級友には悪いが、彼女の名誉のためにも、俺はそう言ってごまかすしかなかった。



***



「ナナセさんっ。こないだはありがとうございますっ!」


 その日の放課後、文芸部の部室に藤谷さんが顔を見せるやいなや、俺の向かいに座っていたチカは飛び跳ねるように立ち上がって謎の感謝を述べていた。

 美少女は後ろ手に扉を閉めながら、きょとんとした目になって「ん?」と首をかしげる。


「私、チカちゃんに何かしてあげた?」

「いえっ、ウチのザコ犬が一生ぶんの思い出を頂いたとかで!」

「お前さぁ、言い方」


 今日も彼女が来てくれた喜びを噛みしめる暇もなく、俺はやれやれと息を吐く。彼女との外出の首尾は、もちろんその夜の内にチカにも通話で共有していたが、それにしたってコイツは本当に……。

 藤谷さんは俺達の様子にクスクスと笑って、「あれで一生ぶんなの?」と楽しそうな視線を向けてきた。


「尾上少年、人生はまだまだ続くのだぞー」

「いや、俺はそんなこと言ってないんだけど……」


 まあ、これまでの人生で最も女子と接近した一日、と言うなら、何も間違ってはないのだけど。


「でもナナセさん、この犬に彼氏役なんて務まりました? 誤用のほうの役不足でご迷惑おかけしてないか、私、気が気じゃなくてっ」

「もう、チカちゃんは心配性だなぁ。大丈夫、尾上くんは立派に私のケントになってくれたよー」


 デビュー作の主人公の名前を引用して、美少女作家はさらっとそんなことを言う。本気ともからかいともつかない流し目を向けられ、俺がひとりで恥ずかしくなって「いやいや……」と口ごもっていると、


「そんなに物欲しそうにしなくても、今度チカちゃんの彼女にもなってあげるからっ」


 なんて、彼女はお馴染みの弄びモードをチカにも発動させていた。


「ふぇっ、ふぇええ!?」


 栗色の頭から湯気を噴き出す勢いで、後輩がバグった声を上げてのけぞる。その手のジョークを毎回食らってる俺の気持ちが少しはわかったか?

 はひゅーと息を吐きながらパイプ椅子に収まったチカは、ややあって、「あっ」と何かを思い出したように自分の手のひらを拳で叩いた。


「ところで、さっきこの犬が気にしてたんですけど、ナナセさんって志望校はどこなんですかっ?」

「ちょっ、お前っ」


 それを気にしていたのをバラされて動揺する俺に、藤谷さんがすかさず笑みを含んだ視線を向けてくる。……いや、彼女が来る前の部室で俺がその件を話題にしていたのは事実だけど、代わりに訊いてくれるならそこは伏せないと意味ないだろ……。


「なぁにー? 尾上くんは私の進路が気になるのー?」

「……まあ、はい、気になります」


 心から楽しそうに声を弾ませる美少女に、もうどうにでもなれという思いで俺は白状した。

 実際、聞きたいのは確かだし。……知ったからって、彼女と同じ大学を目指そうと思える学力なんて、たぶん俺にはないんだけど。


「ふふっ。正直でよろしい」


 こつこつと窓際に向かって歩いてから、彼女は俺達に振り返り、マスクの下で少し気恥ずかしそうにはにかんだ。


「志望校っていうか……実は、前の高校にいた時に、もう総合選抜で合格決めちゃってるんだよね。だからこんな時期に転校もできたんだけど……あ、クラスの皆にはあんまり言わないでね?」


 ピリピリさせちゃいたくないから、と言いながら彼女が告げたのは、誰もが知る都内の名門私大の名前だった。


「はぇー……さっすがナナセさん、『魅惑の財テク』ですかっ……」

「『みやこ西北せいほく』な」


 無意識の内に後輩に突っ込みを入れながら、俺は美少女の笑顔と、その奥で夕映えに染まりはじめる空を呆然と眺める。

 ……おめでとう、とか、凄いじゃん、とか、本当は言うべきところなんだろうけど。

 それ以上に、余裕のない俺の意識を占めているのは、やっぱり世界が違うのか……という思いだった。

 総合型選抜がAO入試と呼ばれていた時から、その大学があらゆる分野で活躍する高校生に広く門戸を開いているという話は小耳に挟んでいたけど……。俺みたいな何も持たない陰キャには縁のないそんな話も、しっかり彼女の世界には現実として繋がっているんだな……。


「どしたー、尾上くん?」


 にこっと笑って歩み寄ってくる彼女の前で、俺は切なさを悟られないように口を開く。


「……いや、まあ、部活の実績で入る人も沢山いるくらいだし、そりゃプロ作家様となればなぁ……」

「そうとも限らないよ? 部活で全国レベルの結果を残せる人はごく僅かだけど、商業作家なんて掃いて捨てるほど……って言っちゃうと他の作家さんに失礼だけど、とにかく、いっぱい居るからね?」


 謙遜なのか何なのかわからない彼女の言葉に、そうか、受賞の実績ひとつで大学に受かったような言い方は失礼だったか――と思い直して、俺が謝ろうとしたとき、


「掃いて捨てませんよ! 拾って集めますって!」


 と、後輩の黄色い声がジャマしてきた。いや、それ、何も上手いこと言えてないぞ……。


「ありがとっ。私が一作限りで玉砕しちゃったら、チカちゃんも骨拾ってね?」

「ふぇっ!?」


 自虐と言うにはあまりに際どいたとえを持ち出して、藤谷さんはあくまで楽しそうに微笑んでいる。チカの「ナナセさんは玉砕しませんよっ!」という声を横で聴きながら、俺が一昨日の書店での彼女の姿を思い返していると――


「ところで尾上少年、キミの志望校はどこなのかな?」


 という声が、ふわりと降ってきた。

 吸い寄せられるように彼女と目を合わせ、俺はドキリと鳴る胸を押さえながら答える。


「いやー、俺なんかは、とても藤谷さんに聞かせられるレベルじゃ……。ていうか、まだハッキリ決めてはないし……」

「迷ってるなら都内の大学にしようよ。私、レンレンと離れたくないなー」

「「はぇっ!?」」


 軽く身をかがめ、上目遣いで彼女が発したその一言に、俺は後輩と揃って変な声を上げてしまった。

 ……いや、だから、その姿勢を取られると、強調されるべき膨らみが強調されちゃうわけで、それと弄びモードの合わせ技は破壊力がヤバすぎるわけで……。


「だって、卒業しても、私が作家でいる限りは力になってくれるんでしょ?」

「……は、はい、前向きに善処いたします……」


 俺がなんとか理性を保って言うと、彼女は「わぁい」と自分の胸の前で両手を合わせて。


「じゃあ決まりねっ、尾上くんは東京二十三区内の大学を志望校にすることー」


 その笑顔を見ただけで、さっきまで感じていた切なさなんて、どこかに吹き飛んでしまうような気がしたが――


 ――それ以上に俺を動揺させる誘いが待っていたのは、その翌日のことだった。

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