第3話 湖

 ローワンさんが本屋に立ち寄るようになって、半月が過ぎた。


 エミリーに誘われて懇親会に顔を出すこともあったけれど、流行に乗らない誠実そうな人には出会えなかった。

 一方でエミリーは十人目の婚約者を作った。

 ついに婚約者が二桁に達している。

 もはや意味が分からないが、それだけエミリーがかわいいということなのだろう。


 流行は若い世代にとどまらず、おじさんたちの間にも広がっているようだ。

 飲み屋で中年の既婚者にも「君いい飲みっぷりだね、婚約しない?」と声をかけられるようになった。


 もはや「婚約」は「羽ペン」どころか「わたぼこり」くらいの軽さだ。

 掃き集めて捨てなければ。

 ポポイのポイ。


 ローワンさんはお客さんとして話す機会が増えたけれど、世俗に疎いおかげで気安く婚約しようなどとは言わないし、安心感がある。

 結婚を前提とした交際をそれなりに重いものであるという価値観を共有していることもあって、ローワンさんの好感度は高い。


 ローワンさんからの本を探してほしいという依頼のおかげで、見つけた本をアカデミーに届けに行く仕事がちょくちょく入るようになった。

 店長とエミリーのおせっかいも多分に含まれているけれど。


 おかげでローワンさんとはバゲットを持って行ってランチを一緒にする機会が増えた。

 ハムとチーズを付け合わせに食べる昼食は豪華ではないけれど、一緒に食べる人がいるだけでそれは楽しいものだった。


 私だけが思いを募らせているのでないと信じたい。


「今度実験のためにオー湖に行くのだけれど、休みが合えば一緒に行きませんか」


 ローワンさんから誘われて期待に胸を膨らませるのは悪いことではないと思う。


 §


 ローワンさんの手を借りて馬車から降りた。

 単なるエスコートだけれど、手をつなげてうれしい。


「ここなら清浄な水があって、精霊も着心地がいいかと思いまして」


 一面に広がる透き通った青は、オーと呼ばれるのにふさわしい景色だ。

 湖の名前に「オー」とつけるとは安易なものだと思っていたけれど、実際に足を運んでみればそうとしか呼べないような景色であった。


 オー湖は美しいだけではなく自然の摂理を忘れていないようだ。

 吸い込まれるような青の中で、牙のある魚が飛び跳ねては小鳥に食らいついている。

 弱肉強食である。


 ……魚がいかつすぎる。

 デートだからと深緑のワンピースにロングブーツを着てきたのは失敗だったかもしれない。

 ワンピースはローワンさんの目の色に近いからと浮かれて選んだものの、圧倒的な自然を前にして、もっと動きやすい服装の方が良かったのではないかと思い始めた。

 赤みを帯びた茶髪をサイドテールにまとめたのだけは動きやすくて正解だった。


「実はオー湖に来たのは初めてです」

「へぇ、僕もですよ」


 周囲には若い男女が何組か歩いている。

 荒ぶる魚以外には脅威はないのかデートスポットになっているようだ。

 そのおかげもあって、湖畔の小屋に馬を預かって管理する人が常駐していた。

 私たちも周りにならって馬を預け、湖畔で散歩をした。


 人目を気にするカップルは森の方で木の陰に移動し、人目を気にしないカップルは小屋の近くでくつろいでいた。

 私たちはどちらでもなく、湖をぐるっと回って人が少ない場所に移動している。

 精霊の顕現が主な目的で、デートは二の次だからだ。


 などと考えていると、木の根につまずいてこけそうになった。


「ひゃっ」

「おっと」


 ローワンさんが腰に手を回し支えてくれた。

 叱られた黒犬のような表情をしていたときとは違って、頼もしい。


「ソフィアさん。気をつけてください」


 そう言って、今度は転ばないようにと手をつないでくれた。

 精霊の顕現が主な目的だ、などともう言えなくなった。

 これはもうただのデートだろう。


 浮かれた気分のまま、湖を三分の一ほど周回した。

 私だけが浮かれているのかと思いきや、ローワンさんもどことなく照れているように見えた。

 意識してしまうともうだめで、人がいない開けた場所に出るまで、私もローワンさんも口数は少なかった。


 実験にちょうどいい場所についてしまって、私たちは手を放す。

 名残惜しいと思う間もなく、ローワンさんは実験の準備を始めた。

 ここなら実験に失敗して子猫の姿の精霊との追いかけっこが始まっても、迷惑にならないはずだ。

 囁きシュショテの魔術は数分で消える。


「では呼びます」

「はい」


 ローワンさんが魔法陣の上で祈り、汲んできた水と太陽の光を魔力で混ぜて、改良型の囁きシュショテの魔術を行使する。

 ローワンさんの手の中で淡く光った水にぴしっと尻尾が生えてきたと思ったら、耳、前足、後ろ足の順に徐々に猫に近づいていく。

 やがて完全な子猫の形となったあと、首をかしげてからブルブルと全身を震わせた。

 と思ったらはじけ飛ぶように飛んで逃げた。


 一直線に湖に向かった子猫ちゃんは、すかさず飛びかかってきた牙のある魚に噛みつかれて霧散した。

 弱肉強食が過ぎる。


「……」

「……」

「だめでしたね」


 素材となる水が良くても精霊さんは暴れてしまうようだった。


「一応、普通の囁きシュショテも見せてもらえますか?」

「ああ、やってみましょう」


 魔法陣を変えて、同様の手順で行使した囁きシュショテでは、真ん中に空気の層を含んだ水球が生まれた。

 球体は震え、中から声変わり前の少年のような声が聞こえた。


『貴殿には水と光の才がある』


 そうして水球は、ばしゃんと音を立てて崩れた。


「これだけですか?」

「ええ。普通の囁きシュショテはこんなものです。使いたい魔法を先に尋ねると魔法陣もなんとなくで教えてくれますけど」


 子猫ちゃんと水球のどこに差があるのか。

 猫の形をとったときは魔力で形成された水で全身を構築していた。

 水球の形では中に空気が入っていた。


 趣味の手芸でぬいぐるみをつくるとしたら、どうするかを私は考えた。

 フェルトで形をつくるけれど中に綿をつめる必要がある。

 綿の代わりに精霊さんが詰まっているぬいぐるみを作り出す魔術が囁きシュショテだとすると、子猫ちゃんに入り込もうとした精霊さんは中に入れなくてバタバタしたのかもしれない。


「うーん。私はぬいぐるみ作りが趣味なんですけど。精霊さんはもしかして綿みたいな存在なんじゃないかと思うんです」

「綿」

「球体のときは中に空気の層みたいなのがあったじゃないですか」

「え? そうでしたっけ」


 首をかしげるローワンさんはやっぱり黒犬みたいでかわいらしかった。

 納得のいかない様子でローワンさんはもう一度囁きシュショテを行使した。


 ぶるぶる。


『貴殿には水と光の才がある』


 ばしゃん。


「あー、確かに空気の層みたいなのがありましたね。じゃあ、子猫型の魔法陣をこう書き換えれば……」


 そのまま夕方まで熱中した私たちは、日が暮れるぎりぎりに子猫型囁きシュショテ(改)を完成させた。



「急がないとっ、日が暮れてしまいますっ」

「すみません。遅くまで付き合わせてしまって」

「いえ! 見ているのは楽しかったのでっ」


 手をつないで小屋まで走ることになるなんて、学生の頃に戻ったかのようなドタバタっぷりだった。

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