5

 少女はその瞬間、ぼんやりと布団の上で目を開けていた。何をするでもなく、ただ息をしていたはずだ。空調の音を聞きながら、自分の腹が膨らんで、とっとっ、とからだが脈打っているのを感じていた。

 そうして、ざらり、と。彼女の身体は、支柱を抜かれた砂の山のように、崩れて消えた。

 染みも、塵も、残りはしない。彼女の思考も。

 ──しかし。その瞬間身体に流れていた全ての血潮は、電気信号は、組み直された身体が自分のものだと疑いもせずに、また、巡り始める。大丈夫、この血脈の形は私だ。なんだろう、なにか空白があったような気がしたけれど…大丈夫。さっきまでとおんなじ、からだだ。

 もとより開いていた目を、少女は、あれ、と動かした。

 そこはもう、暗い、自分の部屋ではなかった。

 唇の端から、なにか、つめたいものがつう、とこぼれていく。ざらついたコンクリートの地面に手をついて、少女は、はっと身を起こした。喉の奥が、つめたく、あまく、湿っている。慄くくちびるを手で押さえて、自分が含まされたものを拭う。指の腹に、乳白色がうすく引き伸ばされて、つきあかりをにぶく反射した。それは今まで、彼女が口にしたことはない、ものだった。

 何かで拭おうと、向日は思った。しかし触れた腕も、見下ろした身体も、液体を弾くような材質の黒い肌で覆われている。…だからそれは、コンクリートの床になすりつけるしかなかった。

 それから恐る恐る、少しずつ、周囲に感覚を向ける。覚えのないマンションの廊下に、座り込んでいる。左手には扉がぽつぽつと並んでいて、右手の壁のむこうには、くっきりと星のまたたく夜空が広がっていた。空気が澄んでいるのだ。街ではない。…ただ、この建物の廊下の照明は、どれひとつとして点灯してはいなかった。

 背後から、聞き覚えのある寝息がした。凍った瞳を溶かされるようにして、彼女は、振り返った。

 一歩這い寄れば触れられる距離で、霞川春㫤が身体をまるめて床になついている。彼はむぐむぐと口を動かしながら、気持ちよさそうに、ねむっていた。

「……せんぱい」

 安堵と、仕方なさを混ぜた笑みをこぼしながら、少女はその肩をゆさぶった。う、と陰った蜂蜜色のひとみが薄くひらく。彼はがばりと跳ね起きた。

「うわっ、すっごい寝てた…」

「寝てましたね…こんばんは」

「こんばんは…」

 身体、おかしなところないか? と彼はまず少女を気遣った。今のところは大丈夫だ。でも、自分が嚥下させられた得体の知れないものが不穏で、生駒は口のなかを指さす。

「…何か、甘いものを食べさせられたんですが…」

「あっ、あー…いつものやつだな」

 心臓の味、と彼は黒く艶めくハイネックに覆われた喉元をなでた。

「…あ、ああ。ああいう味なんですね…?」

「そ。結構美味しくないか?」

「味だけでいえばそうかもしれないですけど…」

 なんで、何も食べていないうちから、と顔が強張る。味を、覚えさせられているとでもいうんだろうか。それとも知らないうちに、自分はもうそれを狩って食べてしまったんだろうか? …コンマ一秒の間に?

「…今、何時でしょう」

「時計が無いからな…どこかの部屋に入ったらあるかもしれないけど」

「…部屋」

 気乗りはしなかった。この建物には人の気配がない。そんな団地の部屋を開けたいとは──それも夜に──どうしても、思えない。

「まあ、多分十時頃だと思うぞ。時間が分かる場所だったらいつもそうだし」

「…はい」

 その時、さほど遠くはない場所で、電車が線路を揺らす音がした。春㫤が座り込んでいる踊り場の向こうからだ。…きっと、その中には、人がいるはずだった。春㫤以外の誰もいない場所へ連れて来られたわけではなくて、ここは、人の世界と連なったところにある。

 それに、安堵する自分がいた。…何故だろう。あの中にいると、一人でいいと、一握りの大切な人だけいればいいと思いもするのに、弾きだされてみるとほんのすこし、怖くなる。今はあの音だけで十分だけど、もっと引きはがされたら、もっと、欲しくなるのだろうか。

 そうなるのは恐ろしいと思いながら、少女は、青年の腕にそっとふれた。

「…先輩、外、確かめに行きませんか。ここがどこか知りたいです」

「…なつにもそれ、言われてたんだ。余裕があるときに場所確認しておけって」

 記録つけるんだってさ、と彼は生駒の手をとって立ち上がる。

「狩り場の外には出られないから、そんなに遠くまでは行けないけど」

 踊り場の壁には剥がれかけた六の数字が印字されていた。春㫤は下の階の方へ、少女の右腕を引いていく。

 履かされたブーツのヒールは運動に支障が無いくらいの高さだった。それがカツン、カツンと反響する音と、…上の階から、自分の背後から何か現れるのではないかという不安に追われて、生駒はすこし、青年に身を寄せる。

「…すみ、ません、ちょっと…怖いので…」

「? なんで謝るんだ?」

「いや…引っ付かれるの鬱陶しくないですか…?」

「全然」

 鬱陶しいってどういう感じだ? と春㫤は尋ねた。

「…邪魔、って感じですかね。近寄らないで欲しいみたいな…」

「ふうん…じゃあ、やっぱり全然鬱陶しくないぞ。生駒が怖くないならそれでいい」

 彼はいつものように笑った。

 廊下の月明りは、踊り場の奥までは届かない。しかし青年は何を恐れる様子もなく、暗がりの方へ降りていく。下の階に着けば、また少し明るくなると知っているからだろうか。…でも、彼は、降りていく先が終わりのない暗闇だったとしても、いつまでも変わらずに進み続けてしまうような気も、した。

 

 その時、少女は、振動を感じた。

 

 足元からだ。何か巨大な、這いずるものが、ゆっくりと上へ上がってくる震えが、足に伝わっている。

 二人はほとんど同時に階段を下りるのを、やめた。春㫤の白い耳が音の方向を掴むように動く。彼は少し鼻先を上げて、頭を傾けた。

 …逃げたい、と少女は思った。それが来る方向はわかっている。どこから来るのか。でも、身体が硬直していて、なんで、先輩は逃げないんだろうと、春㫤から視線を逸らせない。その人が浮かべているのは恐れの表情ではなかった。何が来るんだろうと、まるで次目の前を通過する電車の色が知りたいみたいな、場違いな普通、の色をしている。

 ──だから、彼女は、それを知ることになった。

 ぺたぺたぺた、と無数の腕が段差の上でもなめらかに巨躯を押し上げる。その肌は、生まれたてのラットのように赤黒く血管が浮いていて、青い内臓の色をところどころに浮かせている。何故、腕にそんな色が浮かぶのか少女には理解ができなかった。そうして運ばれてきた胴と頭は、蛇のようにむっくりと、凹凸なく連続している。眼球ではなくて、肉の内側で静脈を括ったようなふくらみがふたつ、頭部にこぶをつくっていた。それが不随に脈打つのを見て、少女の頬が引き攣る。

「──ぃ、や」

 ほとんど泣き出しそうな声が漏れた。しかし、一歩後ずさるという、彼女の精一杯の逃げは春㫤の腕に止められる。

 わからなかった。何故、逃げてはいけないのか。

 そうして彼女が呆然と瞬いたのと、肉塊が階段を駆け上がる速度を増したのと──春㫤が少女の背を抱き上げて踵きびすを返したのは同時だった。

「あ──」

 彼の肩を手で押さえながら、自分の髪が肉塊の方へ流れるのを見た。あれよりも、春㫤の方が、速い。彼は七階までは上がらずに六階の通路へ向かって、──そのまま、右手の壁をふっと乗り越える。

 それは、建物の下まで飛び降りようという曲線ではない。出来る限り壁に沿って、垂直に、という運動だ。そうして彼は一階分を落下した後、壁面をぐっと掴んで──おそらく四階の──通路に身を躍らせる。その足が接地した部分から、とぷりと、コンクリートが溶けた。いや、溶けたのではなくて、それはまるで水面のようにふたりの身体を下の階へと潜らせて、彼は目の前の部屋の扉へくるりと横転する。…それも、また、お前にはそう見えないだけで水面だったのだとでもいうように、人間二人の身体をその向こうへ潜らせた。その一呼吸後に。何か大きくて重いものが、マンションの外の地面を揺らす、振動がした。

「……? …っ?」

 もう、恐怖よりも困惑の方が強い。彼の首元にただしがみついて、目の前の錆びた手紙受けを見つめる。

 よいしょ、と春㫤は少女を抱き上げて、部屋の奥へ進んだ。

「なっ、逃げるのは簡単だろ」

 そんなに早い奴じゃなくてよかった、とのんびりした声が言った。

 ──おか、しい、この人は。

 その声は、慣れのおかげで恐怖を抑えられるようになったのではなくて、初めから何も、こんなことには心を揺らされなどしないようだった。…わからない。彼は本当に、いつも私の隣で穏やかに眠っていた人間だろうか。ノートを取りながら、教員の言っていることがわからなくて首を傾げていた、その人なんだろうか。…でも、触れている身体は自分よりもすこし体温が高くて、陽の下にいる時と変わらないのだ。何も。

 少女の鼻から、震えるような笑いが漏れる。

 その音は、泣いているようでもある。滲んでいるのは、自分はあの肉塊がこんなにも恐ろしかったのに、この人は何とも思わないらしいという齟齬そごへの純粋な面白さだ。それから、そういう己の弱さへの惨めさと、春㫤はいったい何になら慄けるのだろうといういとしいような、苦しいような感情だった。

 彼女は、彼のやわい後ろ頭を掬うように抱えた。

「……怖かった?」

「…はい。先輩は、怖くないみたいですね」

「まあ、ああいうのはそんなに」

 彼は講義の内容について意見するのと同じ調子で言いながら、少女を捨て置かれた折り畳みベッドの上に降ろした。ワンルームの室内は埃っぽくて、ほとんど何もない。掃き出し窓にはカーテンもなくて、…そこに、あの肉塊が張り付くかもしれないのは、怖かった。でもまだ今は、夜空と、藍々となだらかな山並みしか硝子の向こうには見えない。

 彼は床の埃をブーツで払って、そこに腰をおろす。

「──それじゃ、捕まえる?」

 ぱっと開かれた両手に、ダイヤモンドの子ネズミが一匹ずつ、のっている。どうやるんですか、と少女は掠れた声で尋ねた。

「あれは追ってくるタイプみたいだから、適当に引きつけながらこの建物をどろどろにする。そしたらまあ、生き埋めには出来るだろ?」

「先輩…恐ろしい規模ですね…」

 でも、と生駒は表情を引き締める。

「多分…いない気はするんですが、人がいたらどうするんですか」

「大丈夫。生き物か物かの判別はつくから、人がいたら保護しとく」

「…あっ、器物損壊は…」

「天災とかで処理されると思うぞ」

 液状化した団地が天災…、それは、明日のニュースが楽しみだ。SNSのトレンドには乗らなそうな僻地だし、少女の部屋にはテレビもないから目にするかはわからないけれど。

 もうどうにでもなるような気が、していた。目の前のこの人は何も恐れはしないし、少女もちょっとやそっとの恐怖では壊れたりなどしないのだ。何かが上手くいかなくても、しばらくこの廃墟にグロテスクな肉塊と幽閉されることになったとしても、ふたりはいつも通りでいられるだろう。

 春㫤が溶かした途方もないコンクリートの山の上で人のいないそらを見て、鉄の工具かノコギリでもあれば、それであの肉を解体するのを手伝ったり、しよう。生き物を殺す感覚は恐ろしいはずだけど、普段の食事だって究極的には同じだ。屠殺場も人間に運営されているのだから、同じ人間である生駒に出来ない道理はない。

 そうやって少女は、どこかぼんやりと、子ネズミたちが青年の手のひらをおりて床に溶けこんでいくのを見ていた。

 春㫤は鼻歌でも歌いそうな調子で、目を閉じる。楽しいのだろうか。…なるほど、綺麗に組み立てられた何かを壊せるのは気持ちがいいかもしれない。例えばそれは、適当に積んだ積み木のように、崩してしまったって誰も傷つけないものに限るけれど。

 だが彼に。そういう無邪気な加害欲求があるのかは、わからなかった。それよりも純粋に──何かのつくりに感覚を張り巡らせることを楽しんでいると言われた方が、春㫤に関してはしっくりくるかもしれない。自分に無い構造を感じるのはわくわくする、と。

 少女は、そういう無垢な色に仕方なさげな笑みを浮かべて──彼が、瞳を輝かせながら瞼を上げることを、疑いもしなかった。

 しかし。…あれ、と春㫤は表情を消す。ぺた、と、彼の黒い手のひらが木目の床に触れる。

「……なん、だ、これ。神経、の──」

 塊。

 コンクリートじゃない、建物では、ない、と、見開かれた金の瞳が少女を見た。


 …そうだよ、と微笑むように室内は様相を変えた。


 うごめひだのような肉の上に、…腰かけていた。壁が、床が、赤黒く脈打っている。窓だった場所だけ酷く薄い膜のようにその向こうの光を、透すかしている。

 ──怖い、というよりは、なんだろう、これは、という理解が及ばないものへの幼さの方が、先に来た。

 彼女は、先ほどよりも弾力性のあるマットレスを手のひらでたわませながら、首を、傾げた。──その腕を、強く掴まれて、引かれる。春㫤に。彼は、薄い膜の方へ転げるように駆けた。その呼吸がなぜ引き攣っているのか、しなやかな脚がなぜもつれる様なのか、まだわからない。さきほどと同じように溶かして逃げてしまえばいい、なんて、傲慢にも思った彼女のブーツが床に沈む。

 足を取るのはお前の専売特許ではないよ、と、それは春㫤に言っているようだった。やさしく沈んでいく身体を引き上げようとして、彼は、ぬかるんだ肉の床に腰を付かされる。その顔に、表情が無い。それは、昼間のような幼さからくるものではない。無知から生まれたものではなくて…一歩、足を踏み外せば恐怖と焦りに我を失ってしまうという、その一線を保つための、ものだ。

 ただもう、天井がずっと、近かった。圧し潰されてしまうのだろうか。──たしかに。こんなところで肉を溶かしても、上も下も肉であることに変わりはない。潰されて、しまうのだ。そして彼はそういう圧力には、抵抗する術を持っていない、ように見えた。

 春㫤の吐く息が、震えている。彼は可能な限り少女の身体を自分に引き寄せながら、その肢体に覚えのある温度を流し込んだ。昨夜とおなじ、きっと、痛みを弾くためのものだ。暗い。もう、夜目が効かないほど肉に光を遮られている。

 ここで、──ええと? どうされるのだろう、と呆然と見開いたままの瞳に、ばちり、と悲鳴のような光が爆ぜて散る。少女の、右足からだ。見覚えのある青白い電位と、鼻腔びこうを刺すような血の、匂い。

「…あ゛、…ぁ、ッ、ふ…?」

 ごぎゅごぎゅ、と脹脛ふくらはぎから下をペースト状にならされる感触が、した。そんなものを初めて知った。だが、痛くない。ただ、やさしく、猫の舌で骨をあまやかされるように、ざりざりと削られていくだけだ。もはやそれは、気持ちよくすらあって、少女は、そんなはずはないと首を振った。違う。痛いはずなのだ。そうやって痙攣する濡羽色の髪に、青年の指がからむ。…大丈夫、おとなしくしていれば殺されるのだって痛くも怖くもないと、あたまを抑えるその指が、震えていた。

 ──震えて、いる。

「──ッ……な、んで、こん、な……、ぁ。ぐ、」

 彼の頭が重い肉にぐうと沈められて、喉を晒していく。それなのに春㫤は、肺に息を留めようとも、自分の頸を折られまいという抵抗もしなかった。ご、めん、と少女に向けて嗚咽のような言葉を零しながら、青年の腕が縋るように生駒のあたまを抱く。そんなことでこのやわい頭蓋を守れはしないけど、それが今の自分にできる最大なのだとでもいうように。

 その瞳の色を確かめるすべは、もうなかった。ただ、彼がまだ呼吸をしているのを、彼の胸元へ押し当てられた頬に感じて、春㫤がまだ意識を保っているのを、まだ、自分の血の匂いしかしないことを、感じた。

 

 その時、この人の熱を壊したくないと、鮮烈に、そう思う。


 まだ今なら、彼の身体を、心を、このかたちのまま留められるはずだ。いいや、今でなくては、まだ私が壊されきっていない今でなくては、彼のかたちを保てない。そうしたい、そうさせてほしい、自分が壊されることなんかではなくて、他人の身体を守れないと震えているこのひとのかたちを、私に。他でもないこの魂に、保たせて、ほしい──



 ──誰かが。頭の後ろで低く、深く、しかし穏やかに、笑った。

 人の声ではない。言葉ではなくて、息を吐くような、喉の奥で唸るような、愛しさの震えだった。

 この音を、少女はよく知っている。”彼”が自分の上に身を伏せながら、あるいは何かに瞳を輝かせる自分のことを見つめながら、時折聞かせてくれる声。

 かくりと、首がすこし重くなる。皮の首輪をつけられたような感覚と、頸のうしろをくう、と引かれるような力を感じる。それは乱暴ではなくて、少女の喉を締めたりはせずにゆっくりと、彼女の項からなにか細く、長い、銀に煌めくものを引きずり出した。それがしなやかな鎖のかたちをしていると、向日はその時初めて、知った。

 それは、少女と青年の上半身を潰されない分だけ肉壁を押し上げる。そうして、杭のように鋭く尖った切っ先を、そっと彼女の頬に滑らせた。冷たい金属の感触が、くちびるに触れる。

 …な、ん、だろう。──でも。なんだって構わない、彼が、この身に施したいことなら。

 従順に、しかし喰い締めるように伏せられたくろいひとみは、くちのなかへの侵攻を一切の抵抗なく、許した。舌を抑えるそれから鉄錆の味はしない。ただまろい冷たさだけが、濡れた肉に触れている。

 目を閉じて、杭の先から嚥下させられる熱だけを、感じる。狭い喉をつたいおちるそれは、何の味もしない。甘くも、苦くも。耐えられないほど熱いわけでも、痛いほど冷たいわけでもない。そんな小手先の感覚で彼女の思考をかき乱したりはしなくて──それが、震えるほど。

 ……愛おしかった。

 細胞の増殖を続けさせるためだけの食事も、餓死させるわけにはいかないから与えられているだけの食事も、死にたくなくてしがみ付くように何かを飲み込む自分も、大嫌いだった。じゃあ死んでしまえと言われたって、自死してしまえない自分の弱さも。こんな肉の身に縋りついている自分の、惨めさが。

 だから。今与えられているこれが、少女を、彼女の生きる意味のためだけに存命させるものだと思って、──ラッガが、そういう自分のかたちを理解してくれているのだと感じて、彼女は、笑う。その声は、夏の陽ざしが、わらの帽子に梳かれてきらめくような、色をしていた。

 喉の内側を伝った熱は、両腕の外側になにか、見えない殻のような膜を張っている。その内側を満たせると、彼女は思った。

 ──そうして、赤く輝くレッドスピネルが、その手の外側に流れ込む。美しい血潮の色だ。この暗闇を照らしだす、赫あかい星でも、ある。

 少女は、鉱石の爪に覆われた手の甲に、くう、と唇を押し当てた。それは肌をも焼き落とすように熱い、気がした。自分の肉は爛ただれたりしないようだけれど。触れた春㫤の肌へ、溶け込むように沈んだりも、しないようだけれど。

 それは…少し、理を外れているんじゃないだろうか。彼女は苦しいような、おかしいような笑みをこぼしながら、青年の胸元からその瞳を見上げた。彼の呆けた琥珀に、迸ほとばしるような焔が反射している。

「──先輩。私、守って、あげられます」

 傲慢な言葉だった。でも、驕りではなくて、息を吸えるのと同じくらいの確かさで、そうできると感じていた。今、この場においては。

 ぐわりと。

 ──熱風が渦を巻く。それは色すら纏っているようだった。少女の髪をばたばたと暴れさせて、陽炎かげろうの花でも開いていくように周囲の肉塊を蒸発させる。その中で春㫤が形を保っていられるか。それは賭けではない。彼は高温であるはずの液状化したコンクリートと鉄を──あるいは肉と骨を──、何の熱さも感じさせずに潜り抜けたのだ。それならきっとこの熱も、ダイヤモンドの鼠たちは処理してしまえるだろう。

 向日は身を起こしながら、赤の滲んだ瞳で、黄金の青年を見つめていた。──ああ、彼は。この灼熱の中でも何も変わりはしなかった。その身体のどこも、その呆けた視線のなにも、変えはしない。

 少女は弾けてしまいそうな喜びを喉の奥で噛みしめた。それはいつもの、人間に聞かせたくないという色ではない。このきらめくものを私の中で確かめていたい、身体の外へ零してへらしてしまいたくないという、甘く切ない色だった。

 潰された右足の感触が戻りつつある。それがどういう形で再生されているのか、彼女は振り返らない。ただ、一息後には、力を込めて床を蹴れるという感覚があった。それなら、今は──それでいい。それだけで。

彼女は、消し飛ばした肉塊がふたりをまた覆う前に、彼の身体を引き起こして外へ駆けだした。その手のひらにも、春㫤の腕は溶かされたりしない。この鋭い爪を喰い込ませれば、またすこし、違うのかもしれないけれど。

「──ラッガさん!」

 呼びかけに、彼女の首輪の後ろから伸びた二本の鎖が応えた。彼は、器用に春㫤の身体を捕まえて、少女の背に括り付ける。

「うぇっ、え、あッ…? ッ??」

「──片手じゃ、登れないので」

 月明かりの方へ向かう、彼女のはにかみは優しかった。濡羽色のあたまの上で、厚い耳がぴんと音を掴んでいる。青年の蜂蜜色の瞳が、その生きた仕草に見開かれていく。

 この人は。私の両手の鮮烈な赤にではなくて、私の傍に在ってくれる高潔なひとの気配に、その瞳を開いてくれるらしい。それはとても、…愛しいことだ。

 彼女は開けた穴の横に、ひょっ、と爪をたてて、肉の山を登り始める。これは内部のものには牙をむくけれど、外のものには一切興味が無いらしい。そんなことでいいんだろうか? それとも、抜け出せただけで及第点、なのだろうか。

 なんだって構わない、と高揚に茹ゆだるような頭で彼女は思った。ただ嬉しかった。春㫤を壊さないでいられたことが、ラッガが自分の傍に、居てくれることが。この声も、音にならない想いだって知っていてくれるひとが、受け止めてくれるひとが、この世界に、いることが。

 そうやって辿り着いた肉塊の天辺で、しかし、鎖は雑に春㫤を放り捨てた。

「なっ、あ、ラッガさん」

 彼は器用に受け身をとって、目をぱちぱちさせながら、二人を見上げた。

 彼女は月明かりを背に受けて、肌に暗い影を落としている。細い喉元に括られた厚い首輪の後ろから、意志を持った二本の鎖が隙なく宙を漂っていた。少女はその銀を、赤い鉱石に覆われた手で嗜めるように引く。

「どうして先輩に乱暴するんですか…」

「……生駒、そ、れ…お前が、動かしてるんじゃない、よな?」

 ふさふさの尻尾が少女の後ろでぱたぱたと揺れた。

「…はい。この鎖に…私の神経が通ってる感じはしないので」

 それに。この色と形は彼だという、覚えがある。忘れもしない、あの路地裏で見た一度限りの幻だ。あれから彼が犬以上のことをして見せたことはなかったから、流石に幻覚だと思っていたのだけど──そうでも、ないのかもしれない。

 満たされている感覚に目を細めた少女は、しかし、目の前の青年が次第に顔を俯けて、呆然と両手で覆うのを見て、はっとしゃがみ込む。

 霞川、先輩、と名前を呼びながら垣間見た彼の瞳は、震えていた。細い尾が、竦むように彼の脚に巻き付いている。

「──俺、何も──」

 …出来なかった、と思っているのだろうか。

 少女は、手のひらを肉塊の上に置いたまま、彼の腕の間に鼻先を寄せた。

 …春の夜風が、ふたりの髪をやわく揺らす。

 広大な盆地をゆるやかに撫でていくそれは、ぬるくて、この身体から痛みを連れ出していった彼の優しい温度にも似ている。…同じだ。風が吹かなければ実を結ばない花もある。その穏やかさのなかでなければ、人間の自我など簡単に思考を保てなく、なってしまうのだ。

「…せんぱい」

 囁く声は、音のはじめが掠れていた。

「──たくさん、私の痛みを弾いてくれたと、思うんですが…」

 まだ、不安ですか、と宵闇のひとみが月明かりで満たされたひとみに問いかける。もう痛くないですよ、と穏やかに。

 彼はその色を硝子のような目の内に反射させて、ぱちり、と瞬いた。それはまるで鏡のようでもあって、少女はふと、彼の何かを上書きしてしまっただろうかと、そんな不穏を感じる。…しかしそうではなくて。春㫤は蜂蜜色の瞳の中で、向日の穏やかさに彼自身の安堵を、ゆっくりと混ぜた。

 くたり、と顔を覆っていた腕を降ろして、彼はそっと首を振る。それから何度か、頷いた。

「…それは、どういう意味ですか」

 彼女は尋ねた。

「反省しましたって意味…」

「反省」

「…次からは何が何でもまず一番高いところを陣取る…」

 確かに、春㫤のCaratにはそれが合っているかもしれない。位置エネルギーの優位にたっていなければ、圧力の系統には太刀打ちできないだろう。

 しかしそれは、彼がひとりであればの話だ。少女は悪戯っぽく笑いながら、口元に人差指をあてる。

「私が傍にいる時は、一番高くなくても大丈夫ですよ」

 あ、そうか、と彼は少し顔を上げた。それから眉を下げる。

「それじゃあ──今までとそんなに変わんない?」

「遠能先輩と私だと、だいぶやり方は変わりそうですけど…」

「全然違う」

「…ちょっと、じゃあ何が変わらないんですか?」

 俺の位置…と彼は少し悲しそうに言った。…珍しい、拗ねたような、表情でもある。

「それは──先輩、守られてばかりだと…思ってるんでしょうか」

「だいじなとこで…役に…立て、ない、ので…」

 昼間恐ろしいことをしてみせた彼は、そんなことを、言った。彼のCaratは心臓を引きずり出せないというだけで、それまでのいくつもの過程を、甘夏にも向日にも不可能なことを数えきれないほど可能にしているというのに。このマンションにも信じられないことをしようとしていたその口は、そんなことを気にしているようだった。

 でも彼にとっては〝そんなこと〟ではないのだ。しかも、鼠で生駒の痛覚を弾いたことが少女をどんなに支えたかを、根本的に、本質的に理解していない。何も。目の前の向日が痛がっていないことに安堵を覚えたに過ぎないらしい。

 深いため息を吐いて頭を抱えそうになる自分を、少女は唾を飲んで腹の底に沈めた。彼の友人の気持ちが、わかり始めている。痛いほど。

「……わかりました」

 いや、何もわかってはいないし、この人をどうしようかという気持ちの方が強い。だが、どうにかしたいわけでもない。彼のCaratを決定打として活かす方策を考えるとか、過程についても自分の功績を適切に評価できるようになればいいですねとか、そういうことではないのだ。だってきっと、それには切りも果てもないのだから。

 そうではなくて──春㫤のおかげで、私たちに満たされるものがあるということに、気づいてほしいのかもしれない。もう十分すぎるほど守ってもらえていると、その瞳に安堵か、喜びを浮かべてほしいのだ。…ああきっと、それが。際限を知らない彼に感じる、苦しいような愛しさなのだろう。

 少女の喉から苦笑がこぼれた。それから、どうしても、首を振ってしまうのをとめられなかった。宙の鎖を掴んで立ち上がりながら、どう思いますか、ラッガさん、と問いかける。彼はそれに答える声帯を持たなかったが、ぺしん、と春㫤の金髪を鎖の腹でゆるく叩いた。それから、青年の前にも金属の縄を垂らす。

「えっ…あ、どうも…」

 へへ、と彼はあどけなく笑った。

「生駒、らっが…? に、こんなごつい首輪つけてたのか?」

「…いや、そういうわけじゃないんですが」

 むしろ彼に首輪をつけたことは一度もない。彼の喉を戒めたくはなかったし、それを付けたところで誰にも知覚されない彼には意味がないのだ。

「──でも、この鎖はラッガさんなんです。初めて会ったときに彼が身につけていた…気がするので」

 それは奇妙な表現だった。しかし、少女の認知したものを適切に、若干ぼかして言語化すると、おそらくこうなる。

 春㫤はそれを聞きながら、ふう、ん…? と少し首を傾げた。

「何処かから逃げてきた飼い犬を保護した…とか?」

「…なるほど」

 そういう解釈になるらしい。確かに、鎖を身につけていたと言うとそんなイメージも浮かぶかもしれない。

 でもまだ、「彼が身体から鎖を出して性犯罪者を昏倒させてくれました」と正直に言う勇気は無くて、少女はただ、微笑んだ。

「それじゃあ、先輩。”狩りhunt”、しますか?」

 彼はぎゅう、と目を細めた。

「……はい。補佐support、します…」


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