第9話 狭いカウンター、茉奈と沙織

 店の中に鳴り響いていた火災報知器の電子音が不意に止んだ。狭いカウンターの中で対峙たいじするぼくと女の荒い呼吸音以外、すべての音が消えていた。


 先に変化に気づいたのは女だった。荒い息遣いきづかいでぼくににじり寄る女の瞳孔がうつろい、やがて首をめぐらせて何かを探すように辺りを見回した。


「なんだよ、あの音」


 女の吐き出す荒いあえぎ以外、何も聞こえない。だが女は、ぼくに向けていた包丁をだらりと下げ、カウンターの中に立ち尽くして辺りを見回している。


「気持ち悪いね。なんなんだよ、あれ。聞こえるだろ、あの音。猫かね?どっかで猫でも鳴いてるのかね?」


 ぼくには何も聞こえない。だが女は、苛立いらだたしそうに辺りを見回し、音の出所を探していた。


「うるさいったらありゃしない。何だろね、あの音」


 頭に集った虫を追い払うように、女の両手が髪の毛をむしる。そうしている合間にも、女はうるさいうるさいと呟き続けている。


「うるさいよお前ら。どこにいるんだ、姿を見せな!」


 天井を見据みすえた女が叫ぶ。女はもうぼくの姿を見ていない。髪を掻きむしり、耳を塞ぎ、ぼくには聞こえない音を遮断しゃだんしようと足掻あがいていた。


 わめき怒鳴り散らしていた女の声が不意に止り、右手に握っていた包丁が音を立てて床に落ちた。それを合図に、それまで女が耳にしていただろうその音が、ぼくの耳朶じだに侵入し鼓膜こまくを震わせ始めた。


 最初のうち漠然とした雑音でしかなかったその音は、意識を集中し耳を澄ませるにつれ、人の声として認識され始めた。言葉として意味を為さない呻きと叫びの合間から、やがて女の声が漏れ聞こえてきた。苦しいとうめく声が聞こえ、次には殺してやる呪ってやるという憎悪の叫びが遠い海鳴うみなりのようにぼくの脳裏に届いて来る。苦しみにもだえ、怒りに震え、憎悪に狂う怨嗟えんさの声は徐々に明瞭めいりょうになり、やがて凄まじい音量でぼくの頭の中で反響し始めた。両手で耳を塞いでも意味は無かった。声は鼓膜を震わせているわけではなく、ぼくの頭の中に直接流れ込んでくる。


 苦しみに喘ぎ、怒りに絶叫する声の中から、耳慣れた二つの単語をぼくの意識がすくい上げた。ひとつはぼくの名を呼ぶ沙織の声。もうひとつは、先輩とぼくを呼ぶ茉奈の声だった。


 地獄の底から響いてくるような怨嗟の声の正体は、ぼくの為に命を落とした二人の女の声だった。


 おそらくぼくはその時、声を限りに絶叫したのだろう。全てが終わったあと、ぼくの喉から血塗れの痰が大量に吐き出されたからだ。

 人間が感じられる恐怖にはおのずと限界があるという。交通事故を起こした際、衝突の瞬間をまるで記憶していない人が少なからず存在するという。許容量を超えた恐怖は、脳が勝手に記憶を遮断してしまうからだ。


 あの日あの時、薄汚れたあのスナックのカウンターの中で、女の身に何が起きたのか、ぼくはまるで覚えていない。だが、あの日から不定期に襲い来る悪夢の中で、沙織と茉奈があの女にしたことを、ぼくは何度も繰り返し追体験することになる。


 悪夢の中の彼女たちは全裸で、その肌は透けて見えるほどに白い。そして二人は、互いにもつれ合いながらも蛇のように女の身体に絡みつき、歯の抜けた赤い口を開いて女の血肉をすすり始める。女は叫びを上げようとするが、女の口腔は沙織の大量の髪の毛で塞がれていて声は出ない。女の眼球がぐるぐると動き回り、やがて助を求めるようにぼくの目を見つめたまま停止するが、ぼくは息を潜め、生きたまま貪り喰われていく女の姿をす術もなく見つめていた。


 沙織と茉奈は、互いに絡み合い解れあいながら、丹念に女の血肉を啜る。女の身体を絡め取った二人からは、もう怨嗟の声は聞こえてこない。獲物を前にした沙織と茉奈はひどくご機嫌で、互いにキスを交わし、クスクスと笑いあい、ゆっくりと時間を掛けて女の身体を喰らい尽くしていく。


 沙織と茉奈は、ときどき思い出したようにぼくに視線を向ける。好奇心の強い茉奈にいたっては、すぐ近くに顔を寄せてぼくの目を覗き込み、感情の抜け落ちた声で小さく先輩と呟いたりする。だけど沙織も茉奈も、ぼくには何の関心も払ってはいない。今の二人にとって、ぼくはもう獲物を誘き出すための生餌いきえにしかすぎないからだ。沙織と茉奈にとって必要なのはぼくではなく、ぼくが招き寄せてくる新たな犠牲者の身体だけなのだろう。


 殺戮さつりくは静かに、時間を掛けて行われていく。歯の抜け落ちた口で、沙織と茉奈は丹念に女の身体を喰い千切っていくが、生きたまま喰い千切られていく女の身体からは一滴の血も流れず、女の喉から苦痛の叫びがほとばしることもない。それどころか、欠損していく肉体を眺める女の顔には恍惚の表情すら浮かんでいた。色も音もない時の止った世界の中で、沙織と茉奈は、女の魂そのものを丹念に貪欲に喰らい続けていた。


 どれくらいの時が経過したのだろう。気づくとぼくは、狭いカウンターの中に膝を付き、同じ格好のまま項垂うなだれた女と向き合っていた。

 この店に着いたのは昼過ぎだったはずだが、天井に近い明り取り窓から差し込んでいた陽光は陰り、辺りはもう薄暗くなり始めていた。


 激しく痛む左のこめかみに触れると、血の塊が指先に付着した。女が彼女の骨壺を叩きつけた際にできた傷なのだろうが、髪にこびりついた血液は既に固まっていて、出血は止まっていた。


 目の前にいる女に声を掛けようとしたが、口を開くと同時にぼくは激しく咳き込み、薄汚れた床の上に大量の血痰を吐き出した。声帯が損傷しているらしく、大丈夫ですかと女に向けた言葉は、およそ人の声とは程遠い獣じみた呻きとなってぼくの口を吐いて出た。


 仕方なく、ぼくは骨ばった女の肩に手を伸ばした。

 ぼくの指が女の肩先に触れた瞬間、項垂れていた女は顔を上げ、鼓膜を突き刺すような鋭く短い叫びを上げた。顔をしかめ硬直したぼくの右手を、女は両手で強く握りしめてきた。


「助けて」


 極限まで目を見開き、女がぼくを見つめていた。すがるように顔を近づけた女の瞳の中に、同じように怯えたぼくの姿が映り込んでいた。


「助けて。ねぇ、助けて。死にたくない。助けて。ほんとなんでもするから。だからお願い、助けて」


 大きく見開かれた女の眼球が反転し白一色と化した。真円を描く女の口から突き出された灰色の長い舌は、何もない空間を舐めとるようにせわしなく動いていた。咽るむせような荒い呼吸のあと、真っ白だった女の目に瞳孔が戻る。


「なんでもする。お金もあげる。償えるなら、なんでもする」


 視線を逸らすと、女は床に散らばった彼女の遺骨を拾い集めた。


「供養だってするよ。ちゃんと、ちゃんと弔ってあげる。駄目な母親だったけどさ、償うよ。心入れ替えて、あの子に許してもらうから」


 掬い上げた遺骨に頬を擦りつけながら、女が上目遣いにぼくを見つめていた。恐怖と絶望に彩られた女の瞳の奥に、僅かな希望が透けて見えた。


「助けてくれるんだよね?そうでしょう?これじゃあんた、人殺しだよ?」


 ぼくの頭に骨壺を叩きつけ、柳葉包丁で刺し殺そうとした女の言い分ではない。だけどぼくはこうなると知りながら、明らかな殺意を持って女の唇に自分の唇を重ねていた。沙織や茉奈のときとは異なり、知らなかったという言い訳は通用しない。このまま女が死ねば、ぼくは意図的にこの女を死に追いやったことになる。


 女の言葉に激昂げっこうして唇を重ねたことを、ぼくは心から悔やみ始めていた。それと同時に、この女は本当に死ぬのだろうかという疑問も抱いていた。

 確かに女は、死の直前の沙織や茉奈同様、何かに酷く怯えている。だが、女の表層に彼女は現れていない。キスをしてから、相手の表層ひょうそうに彼女が現れるまでタイムラグがあることは過去の例から解っている。沙織が彼女に意識を奪われたのはキスから数時間後、茉奈の時は数分後だった。この女の場合はどうなのだろう。これから現れるのか、それともすでにぼくが気を失っている間に発現してしまっているのだろうか?いずれにせよぼくは彼女に会わなければならなかった。この女を救う手立てがあるとすれば、それを知っているのは彼女だけだからだ。


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