第5話 非通知、その先で笑う女

 しばらく思案した後、ぼくは友人の一人が、以前、霊感の強い女の子と付き合っていたと話していたのを思い出した。


 夜景を見るために観覧車に乗ろうとしたところ、それまで楽しそうにしていたその女の子は、突然乗りたくないと言い出した。高所恐怖症なのかもしれないと思い、友人は彼女と観覧車に乗ることをあきらめ、その遊園地を後にした。

 翌日、その観覧車が故障し、乗っていた乗客が数時間に渡って内部に閉じ込められたというニュースが流れていた。閉じ込められた乗客の一人が体調を崩し、病院に搬送はんそうされたが死亡したらしい。

 そのことを伝えると、彼女は観覧車の中の一台に、害意のある霊を感じたのだと話してくれたという。強い怨みの念をその観覧車から感じたらしいが、なぜそこにそんな霊がいるのかは彼女にも判らなかったらしい。


 ぼくはこの話を思い出し、その子ならあるいはと考えた。この話が秀逸しゅういつなのは、観覧車にいた幽霊の正体が掴めない点だ。この話が友人やその女の子の作り話だとしたら、話の流れからして必ずオチがあるはずだ。だがこの話には、あってしかるべきオチがない。幽霊がいた理由もなければ、幽霊と観覧車の因果関係いんがかんけいも不明だ。死亡した乗客が乗っていた観覧車と幽霊が乗っていた観覧車が同一であるかどうかすら不明で、怪談話としては驚くほど不出来だった。

 だからこそぼくは、この話を鮮明に記憶していた。友人とその女の子は、しばらく付き合った後に大した理由もなく別れてしまったらしいが、ときどき妙なものを見聞きする以外は、いたって普通の女の子だったという。


 ぼくは友人に電話を掛けて、その女の子と連絡を取れないか訊ねてみた。友人は理由を知りたがったが、友達が相談したがってるとだけ伝え、あとは話をにごした。もう何年も連絡取ってねぇけど、ちょっと連絡してみるわというと、友人は電話を切った。その子の電話番号を教えて欲しかったが、さすがに面識のない元カレの友人から電話が掛かってきたら、相手も引くだろうという理由で教えては貰えなかった。

 十数分後、友人から折り返しの着信があった。友人はひどく困惑こんわくした様子で、五分後、ぼくのスマホにその女の子から着信が入ると教えてくれた。


「条件があるらしくってな。電話を取ったら、お前は絶対に、一言も声を出さないでくれってことだ」

「どういうことだ?」

「知るかよ。とにかく、絶対にあの子と話をするな。声も出すな。お前はただ一方的に、あの子の話を聴くだけだ。この条件を呑むなら、あの子はお前に電話してくる。どうだ?」

「意味がわからない。向こうはこっちの状況は分からないはずなのに、なんでそんなこと言うんだろう?」

「ほんと意味不明だけどな。どうする?その条件でよけりゃ、おれの方からお前の番号を教えるが」


 僅かな間、ぼくは逡巡しゅんじゅんした。状況を説明できなければ、アドバイスも受けられない。ぼくの一番の望みは、その女の子と直接会い、ぼくと茉奈の現状を霊視して貰うことで、ただ一方的に相手の話を聴くだけでは何の解決にもなりそうにない。 だが、今ここでその女の子とのコンタクトを断ってしまえば、解決への手がかりをひとつ失うことになってしまう。それに何より、ぼくはその女の子が一体何をぼくに伝えようとしているのかが気になった。


「わかった。その条件でいい。おれは何も話さないし、声も立てない。だからその子に連絡してくれ」

「絶対だぞ。一声でも上げれば、速攻で切るっていってたからな。約束は守れよ」

 ぼくは友人に礼を述べ、電話を切った。茉奈はよく眠っているようだが、ぼくはキッチンまで移動して、女の子からの電話を待った。


 五分きっかりに、ぼくのスマホに非通知の着信が入った。ぼくは通話スイッチを操作し、何も言わずにスマホに耳をつけた。


「これから言うことを理解して。それから、あいつから言われたと思うけど、絶対にわたしに話しかけないで。声を出してもダメ。もしあなたが声を上げたら、咳だろうがくしゃみだろうが通話を切る。お願いね」


 危うく返事をしそうになるのを堪えた。しばらくの沈黙のあと、その子は早口で喋り始めた。


「結論からいうと、あなたは誰も救えない。あなたの友達とかいう人には気の毒だけど、その人は助からない」


 ぼくは友人に、友達が相談したがっているとしか伝えていない。それなのに電話の向こうの女は、茉奈が助からないと断言した。


「納得いかないだろうけど理解して。あなたに憑りついている何かは、それが何なのか知りたくもないけど、それはとても強力。触れれば必ず相手を死に至らしめるだけの力を持ってるの。だからもう、あなたの友達は助からない。気の毒だとは思うけれど、それは仕方がないことなの。あなたがその人にできることはもう何もない。友達の死にざまを見たくないなら、すぐにでもその場から離れることね」


 喉元のどもとまで込み上げてくる怒りの言葉を、ぼくは必死になって押しとどめた。ぼくが一言でも声を発すれば、この女は電話を切る。


「ねぇ、怒りたい気持ちは解る。わたしだってこんなことは言いたくないの。でも、みんなわたし達のことを誤解してる。わたし達はね、わたしと同じような境遇きょうぐうにいる人たちはね、それを見たり感じたりすることはできても、映画や漫画みたいにはらったり浄化じょうかしたりするなんてことはできないの。わたしにできることは、何かを感じたり、見てしまったりすることだけ。何人か同じような体質の人を知ってるけど、みんなそうだった。誰一人として、それが引き起こすことを止めることも防ぐこともできなかった。だってそうでしょう?街中でナイフを持ったやばそうな人を見かけたからって、あなたにその人を止めることができる?その人が何かをするのを未然に防いだりできる?相手が人間ならまだいい。いざとなったら110番すればいいんだから。でも、わたし達が目にするそれは、警察だろうが軍隊だろうが相手にすることはできないの。お坊さんや宮司ぐうじさんだって無理。そもそも素養そようがなければ見えもしないんだから、そんなものをどう相手にしていいかわかってる人なんているはずがない。わたし達はね、ただ避けるだけしかできない。それを見たり感じたら、息を殺して、それを刺激しないよう、ただ通り過ぎることしかできないの」


 一方的にまくし立てると、女は電話の先で沈黙した。よほど興奮しているのか、あえぎに似た女の息遣いきづかいが聞こえてくる。


「電話が掛かってきたわ」


 トーンを落とした低い声で、女がささやいた。


「あいつから電話が掛かってきた電話を切って、あなたの話を聴こうとした途端とたん


 女の声にヒステリックな笑いが付着ふちゃくする。泣き笑いだろうとぼくは見当をつけた。


「非通知だった。いえ、通話記録もないから、そもそもそんな電話が本当にかかってきたのかも分からないけど、それでも電話が鳴ったの」


 スマホの向こう側から、女の笑い声が途切とぎれた。


「話を聴かないで。それだけいって電話は切れた」


 一頻ひとしきり笑い続けたあと、女は震える声で続けた。


「あなたに憑りついてるそれは、あなたに手を差し伸べる者を皆殺しにしようとしてる。あのおぞましい声を聴いた瞬間、心臓を鷲掴わしづかみされたように胸が苦しくなって、頭がぼーっとして何ひとつ考えられなくなった。死ぬってこういうことなんだって思い知らされた。それは容易たやすく、なんの苦労もなくわたしの命を奪うことができる。助かったのは気まぐれ。あなたに憑いているそれのほんの気まぐれにしか過ぎなかった」


 長い沈黙が続いた。荒い息遣いは聞こえていたから、女はまだそこにいる。


「あなたに忠告する」


 最初に聞いた声とはまるで別人のようなかすれ声だった。わずか数分で、女の声は老婆のようなしゃがれ声に変わってしまっていた。


「その友達がどんな人なのかは知らない。あたなにとってかけがえのない人なのかもしれない。ひょっとしたら命より大切な誰かなのかもしれない。だけど、もう無駄なの。その人は助からない。あれほどの悪意と憎悪を秘めた相手から逃れる方法はない。だから諦めて受け入れなさい。誰かの助けを借りようとしてもダメ。あなたが助けを求めれば、それが誰であれ間違いなく殺される。いたずらに犠牲を出したくないのなら、誰にも接触しないで、その友達とかいう人を見殺しにして」


 女の忠告はとてもじゃないが受け入れられなかった。それどころか、ぼくは女の正気すら疑い始めていた。


しゃべらないで」


 ぼくの思考を先読みしたように女が釘を差す。


「ねえ、本当にごめんなさい。でもわたし、怖くて仕方ないの。この先いつかどこかで、あなたに出会ってしまうかもしれないと考えると叫びだしたくなるくらい怖いの。あなたは多分、普通の恰好かっこうで、普通の男としてわたしの前に現れる。何の兆候ちょうこうもなく、何の警告もなく、不意にわたしの前に現れる。あなたに憑りついているのは死そのものなのに、自覚のないあなたは平気な顔でわたしに近づいてきて、その呪われた手でわたしに触れようとする。そう考えると本当に恐ろしいの」


 スマホの向こうからすすり泣きが聞こえた。何も言えないぼくは、スマホ越しに漏れてくる女の泣き声をただ聴いていた。


「わたしに言えるのはそれだけ。あとはあなた自身で考えることよ。ひとつだけ言えるのは、もう誰にも相談してはいけない。無関係な犠牲を出したくないのなら、あなた自身で考えて、行動に移して」


 そこで通話は切れた。スマホを耳に当てたまま、ぼくはキッチンの床に座り込んだ。

 立ち上がり、眠っている茉奈の様子を見た。呼吸は安定しているし、顔色もいい。この後、茉奈の容態ようだいが急変するなどということは起りそうにない。

 自殺しろと、女は遠回しに言っていた。女からすれば、ぼくは歩く病原体、もしくは呪いそのものなのだろう。これ以上の犠牲者を出す前に、人知れず死ねと忠告する為だけに、女は自らの命もかえりみず、ぼくに電話をしてきたということだ。


「いかれてる。頭がおかしいんだ」


 茉奈の部屋のキッチンに立ち、ぼくはひとり呟いた。とんだ茶番だった。いるはずもない幽霊を信じる頭のいかれた女が、ここぞとばかりに嘘を並べ立てただけに過ぎない。明日の朝になれば、全ては笑い話と化すに違いない。茉奈は気持ちよさそうにベッドの上で眠っているし、ぼくにも何の変化もない。音を小さくしてテレビを点けてみると、いつもと変わらぬ番組が、いつもと同じように放送されていた。

 いつもと同じ夜が更けていく。ぼくはスマホでバイト先のカフェに電話し、急にバイト先からいなくなった理由を説明した。持病の発作が起きたという下手な嘘を、店長は何も言わずに認めてくれた。

 眠れはしないだろうと思っていたのに、いつの間にかぼくは茉奈のかたわらで眠り込んでいた。玄関のドアの隙間すきまから朝日が差し込み、鳥たちがさえずり始めたころ、ぼくは目を覚ました。

 ぼくの前に茉奈の小さな顔があった。茉奈は起きていて、ぼくの顔を正面から見つめていた。


「ごめん。眠ってた」


 ベッドの中で茉奈が首を左右に振った。


「大丈夫?」


 訊ねると、今度は首を縦に振る。


「ずっとそばにいてくれたんですね」


「眠っちゃったけどね」


 目をこすりながら答えると、茉奈はぼくの頬にできた傷を、そっと指でなぞった。


「わたしがやったんですよね、これ」

「大したことはない。気にしないで」

「気にします。ほんと、わたし、どうしちゃったんだろう。ごめんなさい」


 茉奈の大きな瞳から大粒の涙が流れ落ちる。


「その様子ならもう大丈夫みたいだ。安心した」


 茉奈に予定を尋ねると、午前中はバイトが入っているが、体調不良を理由に休むつもりだと言われた。昨日の晩、ぼくと茉奈がタクシーに乗り込む姿を誰かに見られていたら、バイト先でちょっと面倒なことになる。だが、そんなことはどうでもよかった。茉奈が生きててくれさえすれば、それは些細ささいな問題に過ぎない。


「ちょっとおなか空いちゃいましたね」


 コンビニで何か買ってくるというと、茉奈はカップ焼きそばが食べたいと恥ずかしそうに囁いた。ぼくは声を上げて笑い、買ってくると茉奈に約束した。すぐに食べられるようにお湯を沸かしておくという茉奈を部屋に残し、ぼくはコンビニに向かった。通りから茉奈の部屋を見上げると、窓越しに茉奈が笑いながら手を振ってくれていた。

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