第3話 春の宵、ぼくらを繋ぐもの

 彼女を殺したのは、あの日自転車に乗っていた男だった。ぼくの推測すいそく通り、彼はあの地域に複数いる女の子たちの見張り役であり、上りをかすめる集金役でありヒモでもあった。彼女との関係は特に深く、二人は半同棲生活を送っていたうえに、共に同じ薬物の中毒者だった。

 彼はあのホテルで彼女の首をしめて殺害し、その後逃走した。殺害から半年後、逃亡犯として警察に追われていた彼は、走行中の電車にねられて死亡した。自殺だとされているが、遺書は見つかってない。そしてこの事件は、被疑者死亡という形で捜査が打ち切られた。


 こういった経緯けいいを、ぼくは彼女の同級生だった美濃部沙織みのべさおりから聞かされた。沙織は同じ大学の法学部に在籍していて、一年の頃はいくつかの講義を同じ教室で受けていた。ぼくは沙織とはそれまで一度として会話を交わしたことはなく、互いの出身地が近いことも、共通の知り合いがいることすら知らなかった。


 大学のカフェテリアでコーヒーを飲んでいるとき、沙織からフルネームで名前を呼ばれた。驚いて話を聞くと、沙織は、彼女が学校を辞めてからも親交のあったただ一人の友人だったのだという。ここ数年は音信不通だったけど、つい最近ニュースで彼女の死を知り、彼女の家族に確認を取ったらしい。


 彼女と別れたあの日以来、ぼくは抜けがらのような生活を過ごしていた。テレビも見なければスマホも見ない。そんな生活を半月ほど過ごしていたせいで、ぼくは彼女の死を知ることができなかった。結局ぼくは、徹頭徹尾てっとうてつび、彼女の役に立つことはできなかったということだ。


 彼女は葬儀も無しに荼毘だびに付された。司法解剖を受けたのちに、今は母親だけとなった親族に引き渡され、通夜も告別式も執り行わず、火葬場へ送られて灰にされてしまった。


 せめて最後に一目会いたかったと沙織は泣いたが、その涙を信じることはできなかった。もし本当に、高校を辞めた後にも彼女と親交があったのなら、沙織こそが彼女を救えるただ一人の友人であったはずだ。だがそうはならず、沙織は彼女から距離を取った。沙織もまた、本気で彼女に救いの手を伸ばそうとはしなかった人間の一人だった。


 勿論もちろんぼくは、沙織にそんな指摘をしたりはしない。彼女と知り合いだったのは間違いないのだろうが、沙織もまた、変化した彼女の世界からオフリミットされた人間だったからだ。

 

 沙織は内向的な性格で、大学にも友人と呼べるような存在はいなかった。沙織はカフェテリアでぼくに話しかけて以来、度々ぼくに話しかけてくるようになった。


 最初のうちこそ彼女の話題が多かったが、やがて沙織との話は高校、中学時代の共通の友人や、同じ学習塾にいた講師の話などに変わっていった。彼女の死以降、ぼくは事あるごとに彼女への罪悪感にさいなまれていたから、彼女との想い出を共有し、同じような罪悪感にとらわれている沙織と会話できることは大きな救いとなった。アル中の患者たちがグループセラピーを行うように、沙織と共に過ごすことで、ぼくは少しずつ彼女のいない世界と折り合いをつけていくことを学んだ。


 彼女の死後3カ月ほどたった頃、ぼくと沙織は湘南の海に出かけた。春の海を見てみたいと、沙織がそう言ったからだ。その頃になると、ぼくと沙織は彼女という共通の呪縛じゅばくから解き放たれ、新たな関係を築き上げ始めていた。


 ふたりで江の島へ向かい、良く晴れた湘南の海を眺めた。共に息を切らせながら歩いて展望台まで登り、高台から富士山を眺めた。そのあと江ノ電で鎌倉に向かい、ソフトクリームを食べながら鎌倉の街を散歩した。

 彼女の死後、初めて経験した素晴らしい一日だった。ぼくと沙織が共有していた問題は、そこには存在していなかった。彼女の想い出は辛いものだけど、それはもう終わってしまった過去でしかなかった。ぼくと沙織はその日一日でそのことを認識し、新たな世界に向けて足を踏み出すべきだと確信した。

 ぼくは、沙織を部屋に誘った。

 

 沙織を部屋に通すと、ぼくは安物のコーヒーメーカーで安物のドリップコーヒーをれた。二人でぼくのベッドに腰掛け、ぼくと沙織は並んでコーヒーを飲んだ。話したいことは何も無かった。ぼくと沙織は、その日一日、喋り過ぎるほど言葉を交わしていた。

 ぼくは沙織にキスをした。彼女は少しだけうつむくと、コーヒーカップをベッドサイドのテーブルに置き、それから服のボタンを外し始めた。


 沙織は帰りたくないと言ったけど、家族と暮らしている沙織をぼくの部屋に泊めるわけには行かなかった。夜の八時を少し廻ったころ、ぼくと沙織はシャワーを浴び、服を身に着けた。その間もぼくと沙織は何度もキスを交わし、互いの体の形を確かめるように触れ合った。

 沙織は初めての経験だと言っていたけど、痛みは少なかったらしい。こんなに簡単ならもっと早く経験しておくんだったといって笑う沙織の頭を、軽く小突こづいたことを覚えている。


 支度が終わるとぼくと沙織は、マンションを出て近くの駅まで一緒に歩いた。気持ちのいい春のよいで、散り終えた桜の花びらが時折風に舞っていた。

 腕を組んで歩いていたとき、不意に沙織が足を止めた。つい今し方まで笑い合いながら歩いていたのに、沙織は歩道の中央で足を止め、飲み屋街に繋がる細い路地の入口を見つめていた。


「誰かいる」


 硬い声で沙織がぼくに告げた。目を向けると、路地の奥から酔ったサラリーマンがよろけ出て来た。


「この時間だからね。この辺には酔っ払いが多いんだ」


 沙織がぼくの腕を強くつかんだ。今までにないほど強い力だった。


「どうしたの?何か気になることでもあるの?」


 沙織の顔をのぞき込んでたずねたが、沙織は微笑んで首を振った。


「ごめんなさい。何でもないの。なんだろう。ちょっと疲れちゃったのかな?」


 そういって沙織は歩きだしたが、そのあとは一言も喋らなかった。

 改札の前で、沙織は突然足を止め、後退あとずさりを始めた。沢山の通勤客が行き交う平日の晩だったから、改札はひどく混雑していた。


「ああ、ダメ。行けない。行きたくない」


 行き交う人の波を見つめながら、沙織は震えていた。ぼくは沙織の視線の先を目で追ってみたが、何ひとつ変わったものは見いだせなかった。どこにでもある、いつもと変わらない駅の改札の風景だ。


「部屋に戻ろうか?」


 ぼくがそう言うと、沙織は今初めてぼくの存在に気づいたといわんばかりの表情でぼくを見つめた。


「いや。あそこには絶対に戻らない」


 改札前のコンコースに座り込んで、沙織はバッグの中からスマートフォンを取り出し、自宅に電話した。繫がったスマホを握りしめ、沙織は父親か兄に、ここまで迎えに来てほしいと頼みこんでいた。

 電話を終えると、沙織は座り込んだまま辺りを見回していた。心配になったぼくは沙織の肩に手を伸ばした。


さわらないで」


 駅にいたほとんどの人が動きを止めたほどの絶叫だった。茫然ぼうぜんとその場に立ち尽くしていると、事務所から出て来たらしい駅員がどうしましたかと沙織に声を掛けてきた。


「大丈夫です。なんでもありません」


 沙織は立ち上がると、駅員に丁寧ていねいに礼を述べた。駅員が引き下がり、様子を伺っていた周囲の客も動き始めると、彼女はぼくから目をらしたまま、家族が迎えに来るから帰ってほしいと告げてきた。


「どうしたんだよ。何があった?」


 問いかけるぼくに、彼女はあとで電話するからと告げ、何かに怯えるようにぼくの前から姿を消した。



 ぼくは歩いて自宅に戻り、彼女からの電話を待った。一時間が過ぎ、二時間が過ぎた。もう掛かっては来ないと諦めかけた午前零時に、ぼくのスマホに彼女からの着信があった。


「沙織?大丈夫なのか?」


 しばらくの間、彼女からの息遣いきづかいだけがスマホ越しに聞こえた。


「天罰なのかな?」


 スマホの向こうで沙織がささやいた。


「天罰?何の話だよ。どうしたの?どこか具合が悪いのか?」


「あの子がね、いろんなところからわたしを見てるの。最初は気のせいだって思ってたんだけど、あの子の視線が、少しずつ近づいてくるのがわかるの。あの子、すごく怒ってて。わたしのことすごく憎んでて」


「そんなことはない。彼女はもういないんだ。それに、なんで彼女が沙織を憎むんだ?彼女は沙織のことを憎んでなんかいない。憎む理由がない」


「あなたを奪ったわ」


 鼓膜が破れるほどの声だった。ぼくは思わずスマホから耳を離した。


「奪ってなんかいない。最後にあったとき、彼女は幸せだっていってた。おれの幸せと、これからおれが出会う人の幸せを願ってるって、そう言ってたんだ。だから彼女が、おれと出会った沙織のことを憎むわけがない」


 スマホの先で、沙織が微かに笑うのが聴こえた。


「女のいうことを真に受けちゃダメだよ。言ってることと思ってることなんか全然違うんだから」

 そう呟くと、沙織は通話を切った。


 ぼくはすぐに沙織に掛け直した。呼び出し音が響き、ぼくはすがるようにその音に耳を傾けた。呼び出し音が十回を超え、留守番電話が作動するかと思われた瞬間、カチリと回線が繋がる音がした。


「沙織、いるのか?」


 ぼくは何度も沙織の名を呼んだ。だが沙織からの返答は無かった。ぼくのスマホからは、何かの音声だけが絶え間なく流れ続けていた。耳を澄ませてみると、聞き覚えのある音楽が聞こえた。テレビの電源を入れると、スマホから流れてくる音楽と同じ曲がテレビから流れてきた。沙織のスマホを持っている誰かは、沙織の部屋でテレビを見ている。

 スマホから流れて来るテレビの音が消えた。リモコンを操作し、ぼくもテレビを消す。スマホの先からはなんの音も聞こえてこない。だがぼくは、スマホの向こう側に沙織以外の誰かがいる気配を感じていた。


「きみなのか?」


 口を吐いて出た言葉は、自分でも信じられない問い掛けだった。彼女は死んでいる。新聞記事にも目を通したし、ネットで事件のニュース動画まで確認した。彼女は、間違いなくこの世にはいない。


 ぼくは痛いほどスマホを耳に押し付け、スマホの先にいるはずの沙織の様子を伺った。だが幾ら待っても、息遣いひとつ聴こえては来なかった。頭の奥で、ぼくではない別の誰かが当たり前だと呟いていた。彼女はもう、息をする必要すらないのだからと。


「お願いだ」


 震えながら、ぼくはスマホの向こうにいる誰かに声を掛けた。


「沙織の声を聴かせてくれ。お願いだから、沙織には何もしないでくれ」


 無限にも思える時が経過した。スマホの向こうにはもう誰もいないのか、静寂せいじゃくだけがぼくの鼓膜を埋め尽くしていた。耳鳴りに耐え兼ねて通話を終えようとした瞬間、その声は聞こえた。


 「愛してる」


 その日の朝、沙織は始発電車に飛び込み轢死した。遺書は見つからなかったが、ホームの先端から始発電車に飛び込む沙織の姿を、駅員が目撃していた。

 

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