第陸幕 異界

「まさかこんなことになるなんてなー」


 これは机の下に隠れたままの椎名が呟いた率直な感想である。隠れ場所は旧実習棟の二階にある被服室だ。こうして隠れている理由は廊下を徘徊している化け物の所為なのだが、その危険な状況に反して椎名の独り言には気楽さのようなものがある。


 遡ると全ての始まりは旧実習棟に入った時からだ。非常口が内側から解錠されたことに関して、椎名は異常を疑うどころか自分の幸運さを讃えて迂闊にも校舎内に足を踏み入れてしまった。その結果、異様なほど目映い黄昏に視界を奪われた瞬間、遠くに咆哮を聞きながら椎名は気を失った。


 何が起きたのかを知るため、ビデオカメラは目が覚めた直後に確認したが、黄昏も咆哮も撮れていないどころか、校舎内に入った直後に録画は途切れてしまっていた。その後、気を失っていた椎名を映す映像に始まり今へ至る。


 頼りの携帯も圏外になってしまい、出口を探して仕方なく旧実習棟を彷徨っていた時、ありふれた怪談に酷似した化け物と出会した。それは萎びた葡萄のような下半身をぶらさげた妖怪――テケテケだ。


 気に入ったのか目障りだと思ったのか、何もわからないまま椎名は執拗に追い回されたが、テケテケはそこまで頭が冴えるタイプではなかったようで、室内を調べ回すことをしなかった。椎名の方も咄嗟に隠れた場所だったのだが、反射的な判断が正しかったことが証明された形だ。


 しかし、いつまでも隠れているわけにはいかない。人間には自然の欲求というものがある。それに急かされるまま、椎名は机の下から這い出ると、廊下側の壁に耳を当てた。


「ああ……もう……しつこい奴は嫌われるぞ……」


 廊下から微かに拾えるのは、荒い息遣いと爪を床に突き立てる音だ。苛立たしげに床や壁を引っ掻いている音が諦めていないことを告げている。いくら椎名とはいえ、あの鉤爪と対峙した初見を考えたら身震いするのだ。反射的に転がり出た行為をもう一度は無理だろう。反応が少しでも遅れていたら、彼女の片腕は全て持っていかれたのだから。


 次の方針を求めて周囲を見渡した椎名は、這ったまま奥の教員机の陰に向かった。そこは物陰になっているため、ある種の覚悟を決めた椎名はゴソゴソと奥へ入り込み――それを咎めるような物音が響いた。


 ギョッとした椎名は物音が聞こえて来た方角――本棟の方を見た。その音は酷く乱暴で、机を投げ飛ばしたような音だった。さらに、その物音に応えるようにしてテケテケの奇怪な咆哮が聞こえて来た。それはテケテケが一体だけではないことを象徴することなのだが、椎名にお熱であったテケテケが呼応するように廊下を駆け抜けて行ったことは幸いであった。


 自分が知るありとあらゆる神様と物音の主に感謝すると、バッグと懐中電灯を掴んで廊下に飛び出した。そのまま技術室前、図書室前、階段前を通り、その横にあるトイレに駆け込んだ。


 埃か蜘蛛の巣だらけだと思っていたが、その不吉な想像に反して中は綺麗で、照明は役割を放棄しているものの、蛇口から水が出るなら充分だ。水を流すかどうかの選択を求められたが、椎名はそれをうやむやにしたままトイレを後にした。


 目下の悩みが消えたことで軽くなった両足を連れ、椎名は歩きながら耳のビデオカメラを外した。トイレ中と黄昏時以外の光景はきちんと撮れており、テケテケも鮮明な姿を捉えることが出来た。これはかなりのスクープとなり、譚怪の海に送れば賞金をもらえるかもしれない。怖さはあるが、出口を探しながらも心霊映像を狙うのも良いかもしれない。


 賞金だぜイエーイ、と自身を奮い立たせた椎名は、新校舎に直接繋がっているドアを調べに向かった。


 真っ先に調べるべき場所だったのだが、テケテケの所為で調べる余裕はなかった。このまま新校舎へ繋がってくれれば、そんな願いを連れて両開きのドアをガチャガチャ言わせたが、案の定反応はない。数歩下がって渾身の体当たりを喰らわしたが、しれでもドアはビクともしなかった。それどころかやり返されて派手に尻餅をついた椎名は、その場で盛大に毒づいた。流華に聞かれたら叱られてしまう類いの言葉だが、ここにいない流華を少しだけ羨ましく思った――その瞬間、背後からドアの開くような音が響いた。


 ビクリと身体を弾いた椎名は、音が聞こえた方向に向けて光を撒き散らしたが、物音を自ら立てるような物は見当たらない。テケテケに襲撃とも考えたが、あの単細胞に奇襲という概念はないだろうと結論付けた。


 正体を確かめようとさらに注意深く廊下を照らし――あることに気付いて足を止めた。さっきまで自分が入っていた女子トイレの入り口に何かが落ちている。それが何か確かめ――目を疑った。


「何でこんな場所に……?」


 落ちていたものは、椎名が羽織っていたブレザーだ。旧実習棟に入った時に中庭へ飛ばされてしまったものなのだが、それが何故かここにある。おそるおそるブレザーを掴み、その場から急いで離れた。こういった場面は映画や漫画では確実に人が死ぬ。死ぬつもりは毛頭ないが、警戒するに越したことはないだろう。


 バタバタと走りながらブレザーに罠がないか確認したが、意外にもその類いはなく、悪戯された形跡もない。目的はわからないが、単純に誰かが届けてくれたのなら、その候補にテケテケは入らない。ならば自分以外に誰かがこの校舎の中にいるのだろうか。その場合、入り口に置かなくても声をかければいいだけのはずだ。


 わからないことばかりでさすがに苛立ちが募り始めた時、近くで人が走る物音が聞こえて来た。反射的に身構えた椎名だが、その物音に混じって誰かの乱暴な息遣いも聞こえて来たため、その正体を求めて待ち構えた。

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