第1章 黄昏の呼び聲

第零幕 追憶

 二0一七年七月二十二日。


 老いという概念を知らない日輪の指揮のもと、遥か彼方にまで手を伸ばす入道雲たちをバックコーラスにしたセミたちの歌声が響き渡る中、欄間からの採光によって薄暗い室内は夏という金色を迎え入れている。だが、その歌声と金色に反して室内には夏らしい雰囲気が一つも見当たらない。


 部屋と廊下を隔てる障子はピシャリと口を閉じ、微かに蠢くのは衣擦れの音だけだ。エアコンの恩恵で部屋は涼しいが、停滞した空気はお香の煙霧を纏って右顧左眄の迷い道だ。


 そんな停滞の中で蠢く人影――かげりという名の女性は畳と真剣な御見合いをしていた。支度をしなければ叱られてしまうというのに、朝食後から何一つ進んでいない。前日の仕事の疲れが残っているのか、身体が命令を拒絶するのだ。


 そのまま非生産的な時が過ぎ、廊下から足音が聞こえてきた。翳はそれが誰の足音なのかわかる。二人暮らしなのだから当然ではあるが。


「翳さん、あと一時間ほどで迎えの車が到着するようですが……支度は順調ですか?」


 隔てるものとしての役割を忠実に守っていた障子が開かれ、右顧左眄の空気と入れ代わるようにして入り込んで来たのは、落ち着いていて優しい声。今でも翳にとっては音楽と言えるほどに心地良いものだ。過去が剥落になっても、この声だけは忘れないと自負しているほどに。


「ん〜、あと二時間欲しい〜。メールが届いたのはいつ〜?」


「五分ほど前です」


「ということは……奇襲の可能性があるな〜。あと三十分ぐらいかな……」


「だからですよ。急いで支度を終わらせてください」


「だって〜、クーラーを全力にしても暑いんだも〜ん……」


 顔だけ上げて話した翳だが、すぐに力尽きて畳に伏せてしまう。


「そう言っても締め切りは延びませんし、引っ越しも約束も時間は延ばせません。塀華市へいけしに三日も滞在するんですから、着替えと自分に必要なものをしっかり用意してくださいね。夫婦とはいえ、女性用の荷造りを私に任せることはやめてください。女性用フロアをうろついて商品を探すのはいくら身にこたえます」


 遠ざかる足音。起こしてくれることを望んでいたが、叱られただけだった。


「優しくしてほしいな〜」


 翳はようやく畳に別れを告げて、咳をしながら立ち上がった。煙霧で煙たいが、窓を開けようとは思わない。翳は暑さが何よりも苦手なのだ。夏になるとクーラーが悲鳴をあげるほど酷使する。その所為で、電気料金は二人暮らしとは思えないほど高く、毎年叱られている。


 それに加え、外の交響曲が耳に付く。止むことのない演奏にうんざりしながら、押し入れを開け――ガラクタが我先にと飛び出して来た。それをひらりと躱し、取材用兼旅行用のくたびれたトランクを引っぱり出す。三年前に購入したものだが、見た目は骨董品のようになってしまった。不思議と彼女が買ったトランクは長生きしないのだ。十歳の時に購入した初代は初取材の時に交通事故で圧死。それを皮切りに、新しく購入したものは片っ端から事故や事件で紛失、破損、ろくなことがない。そんな中で唯一、三年も手元にいるのがこのトランクだ。お気に入りの彼岸花をモチーフにした装飾が各所に施された特注品で、今までの経験を糧に細心の注意を払っていたおかげか、紛失も破損も免れてきた。


「あたしと一緒でイケてるね〜」


 トランクの中身を紅い座布団の上にぶちまける。出てきたものをあえて調べずに放置。新たに詰め込むものを物色するために室内をうろつく。箪笥の引き出しに手を突っ込み、綺麗に畳んでもらった下着を取り出し、口を開けたままのトランクに向かって放り投げる。洋装も数着だけ選んで詰め込む。翳は街着も室内着も和装であるため、洋装の数は引き出しの半分にも満たない。夏服に至っては両手で数えられる分しか持っていない。そもそも夏に外をうろつくことをしないのだ。


 吟味の末に着替えの選定は終わり、翳は仕事机でもある文机へ向かう。


 食べかけの月印ビーフジャーキーが二袋、ひしゃげた辞書、散乱するちり紙に囲まれた老いたノートパソコン、それらが散乱する文机の前に座り、書きかけの原稿を保存してからパソコンをトランクに詰め込んだ。忘れてはならないのが、好物のビーフジャーキーだ。食べかけと未開封の袋を合わせて三つ、いつでも取り出せるように手前に配置し、荷造りは完了した。


 よく働いた自分を養い、畳と再会。そのまま障子を開けて廊下にトランクを押し出す。


「荷造りは終わりましたか?」


「終わったよ〜」


「では玄関に移動させますね。身だしなみも整えてくださいよ?」


「髪は旦那様に梳いてもらいたいな〜。お風呂上がりにはいつもしてくれるでしょ〜?」


「今は……いえ、梳けば身支度を素早く終わらせますか?」


「終わらせまっす!」


 畳から勢いよく顔を上げる翳。そのまま這って三面鏡に向かう。やれやれ、と溜め息が聞こえたが、甘えることができる、ということはうれしい。


「ラーナ(早く)、ラーナ(早く)!」


「今行きますから、落ち着いてください」


 翳は逸る気持ちを抑えず、三面鏡の前に置かれた座布団に飛び乗った。鏡に映るのは彼岸花の刺繍で彩られた深紅の和服を纏う自分。


「えっとね〜……この櫛を使って〜」


 取り出したのは、母親から渡された形見でもある古い櫛。苦と死で縁起は悪いが、それでも母親との縁が宿る大切な物だ。


「はいはい、かしこまりました」


 櫛を受け取り、翳の髪を梳く。


 翳は目を閉じ、櫛の動きに意識を集中する。映画や漫画で見るこの光景に対し、彼女は幼い頃から憧れていた。梳いてくれる相手は長らく存在しなかったが、十年前の縁が翳の世界を何もかも変えてくれたのだ。他者からすれば些細なことでもだ。今でも忘れていない十年前の出来事。今日の慌ただしい支度はそれに起因する。


「みんな来るんだよね?」


「今年もその予定です。凪凪なぎなぎの改装も終わったようですし」


「お〜終わったのか。あのどら息子はしっかり経営しておるね〜」


「どら息子は誤解ですが、連絡があった時に聞いた声は経営者のそれでしたよ」


「感心、感心〜」


 翳は笑いながら、梳かれる気持ち良さに目を閉じる。


「梳いてもらうのは気持ち良いね〜。このまま眠ってしまいそうだよ〜」


「普段ならいざ知らず、時間に追われている時はいけませんよ」


 その時、玄関でチャイムが鳴った。ちょうど梳き終わりだったため、翳は櫛を受け取って引き出しにしまう。


 肩が露出するほどはだけた姿を正して立ち上がる。梳いた髪は濡鴉、深紅の自分、翳は完璧です。


 クーラーを切り、愛用の扇子を帯に突き刺して支度は完了。パタパタと玄関に向かう。


「さてさて〜お客さんはどなたかな〜?」


「迎えが来てくれましたよ。それと、出版社からこれが届きました」


 渡された本は文庫サイズで黒い表紙。中央には紅と黒の曼荼羅模様を背負った校舎が威風堂々と鎮座している。その上には彼岸花で装飾されたタイトルと筆記体で書かれた著者名がある。筆記体をよく見ると、これにも文字の所々に彼岸花の装飾が鏤められている。おそらく著者の好みなのだろう。



 学校の怪談 逢魔の呼び聲

                 荒城翳あらじょうかげり

 本に巻かれた帯には謳い文句が書かれている。


 ホラー小説界の鬼才、荒城翳の渾身作!


「これは私の実体験をもとに書き下ろした作品です」


「学校の怪談」シリーズ3冊同時発売!


 速報! 「学校の怪談」新企画第5弾。月刊譚怪の海(毎月25日発売)で連載決定!


「そうか〜同時発売だったね」


 翳は本を裏返す。


 定価:本体750円(税込み)


 鉄筋コンクリート製の旧校舎を擁する高等学校「山上学園」

 数奇な運命によって集まった五人の男女が旧校舎に閉じ込められた時、襲いかかる異形の者たち。惨劇の禍時が始まる!

 五人の運命は一人の少女に託された。

 ホラー小説界の鬼才が十年前の実体験を遂に小説化。戦慄のサバイバルホラーが幕を開ける。君はこの世にあらざる存在を知る!


 翳は本を包むビニールを歯で噛み破り、中身を確認した。全員には後日新品を配送するとして、今日はこの本を持って行き、小説化を報告しよう。この出来事は一人でも欠けていたら、こうして生きていることも小説になることもなかった。


「まさか今日届くなんてね〜。これも……縁のなせることかねぇ」


「そうかもしれませんね……。ほかの荷物を取りに行くので先に車に乗っていてください」


 翳はそれに応えて玄関を出ようとして――カメラのシャッター音と同時に足を止めた。


「ちはーす! センセ、お迎えにあがりましたよー!」


 迎えに来てくれた相手は、カメラを下げてニヤリとした。その後ろには黒い乗用車が見える。一昨年と変わらない彼女の愛車だ。


「来たか〜不良アナウンサ〜。生で会うのは一年ぶりだね〜。ちゃんと生きてたか〜?」


「やっベー、あたしはまだ二十七だっつーの!」


「あたしは二十九だけど〜?」


「ついに三十歳に突入かー、時の流れは止まらねぇなー。 おお? なんか興味深い物を持ってるな」


「これ〜? もう見つかっちゃったか〜」


 翳は本を不良アナウンサーに手渡した。


「うぉっ……これってもしかして」


「小説にしちゃいました〜」


「本当に本にしよったぜ、こいつ」


「十年前だし、もう笑って話せるよね〜」


 翳は車の後部座席に乗り込んだ。


「塀華までかかるヴリェーミャ(時間)は〜?」


「ああ? その片言ロシアをいい加減にやめろって、わかんないよ」


「時間は〜?」


「最初からそう言えよ。こっからだと〜約二時間だな」


「じゃあその間〜本読んでいていいかな〜?」


「ああ、寝ていてもいいしなー」


「眠りはしないよ〜? 寝顔を撮られたりしたら嫌だからね〜。人妻なんだから〜」

 

 愛しい旦那様から賜った薬指の証を見せる。


「はいはい、いつまでも惚気てな」


 しばらくしてドアが閉まり、車はスピードを上げて発進する。相変わらず荒い運転だ。


 おしゃべりに興じるのも一興だが、それは塀華に着けばいくらでも満喫出来る。思い出の地に赴く前に、一足先に縁の追憶に浸るのも悪くないだろう。


 偲んでみても未だに苛立つ悪鬼たちもいたが、悪縁もまた縁。悪鬼のおかげで彼らに出会ったのだから、投げキッスぐらいはしてやろう。


 そんなことを思っていた時、街路樹を行く四人の学生に目が向いた。人と人の縁が薄まったといわれる現代だが、想い、想われる関係を築ける人たちがいる限り、受け継がれる縁もあるだろう。


 若人よ、人との縁は大切にしなさい。そして、同じ時間を生きられる奇跡と出会えた縁を噛み締めて、一秒を生きてみなさいな。


 翳はやおら本を開き、古典的なタイトルである学校の怪談を読み始める。


 そう……今の旦那様や今でも続く大切な縁を得たのは、今から十年前の暑い夏の日――。


                  第零幕 完

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